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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

最後の民の召命と使命 第2回 

2018年01月26日 | 日記

召命、召しを受けた人々を新約聖書では"エクレシア・教会"と呼びます。"呼びだされた人々の集まり"という意味です。 皆さんは召しを受けましたか? そしてその召しを受けた人たちの群れの中にいますか?

次に、"使命"は主の働きのために遣わされることです。バプテスマのヨハネは遣わされた人でした。 「ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った」(ヨハネ1:6)。

彼の使命はメシアが来られることを人々に知らせ、キリストを人々に知らせることでした。そして彼はキリストを伝えたために殺されました。イエス様はヨハネを最も偉大な預言者だと説明されました。 彼は主の道を整える預言者でした。もし、ヨハネが、その時代にいなかったなら、多くの人たちはイエス様が誰なのか分からなかったはずです。その当時も、多くの宗教家たちがおり、祭司たちがおり、たくさんの律法学者たちがいましたが、いずれも神様からの召しを受けていませんでした。使命を受けることができませんでした。

現代におけるバプテスマヨハネの使命は、キリスト再び来られることを人々に知らせ、キリストの品性を知らせ、キリストのために命までも捧げる人を整えることです。

そして特に、本書で研究するのは、"人の子・キリスト"という義の福音を通して"全地を明るくする(黙示録18:1)"最終時代の使命です。今の時代にこれ以上貴重な使命はありません。かつてヨハネが誕生する時、ヨハネの父ザカリヤに"わたしは神のみまえに立つガブリエルであって、この喜ばしい知らせをあなたに語り伝えるために、つかわされたものである"(ルカ1:19)と伝えられました。この最後の時代に神様はクリスチャンたちを召して、バプテスマのヨハネの使命を与えられたのです。

 


最後の民の召命と使命 第1回

2018年01月25日 | 日記

クリスチャンは二つの命を持って生きる人です。どんな命でしょうか?召命と使命という命です。 召命とは"召しだされる"ことであり、使命は"遣わされた"ということです。

召命を"呼ばれたこと・calling"とも言います。私たちはこの召命を「ある特別な人が神様に仕えるために召しを受けた」ことだと思いがちですが、それだけではありません。その第一の意味は、私たちがクリスチャンとして神様の召しを受けた者だということです。世の中には多くのcalling がありますが、クリスチャンとして召しを受けることほど価値のあることはありません。クリスチャンという呼び名よりも名誉ある名称はありません。

皆さんがクリスチャンとして召しを受けているという事実について、よく考えてみてください。それがどのような意味を持っているのか黙想してください。何のためにクリスチャンという名前を受けたのか、誰のためにクリスチャンとして生きているのか考えてみてください。

そしてさらに私たちは、もう一つの召しを受けています。これから研究するヨハネの黙示録18章の第四天使の使命への召しと、マタイによる福音書20章の5時労働者への召しです。それはほんとうに特別な召しです。

"神様はなぜ私を召してくださったのか?"この召命がはっきりされなければなりません。召命感がなければ自分がなぜ教会に通っているのか、なぜイエス樣を信じているのか、自分がどのように生きるべきかが不明になってしまいます。ただ、生きて行くだけになってしまいます。献金もよく捧げて、ボランティアも一生懸命にやって、教会の奉仕も忠実にやっているので、なんとなく救われるだろうと漠然とした期待を抱えて生きているだけかもしれません。

そこで神の民たちは明確な召命がなければなりません。召命感は今がどのような時代なのかをわきまえるようにします。神様が私に何を望んでおられるかが分かるようになります。

 


赦し忘れてくださる神様 ソン・ケムン 最終回

2018年01月24日 | 日記

ここにおられるご両親の皆さん、子どもを思う皆さんの心情も同じではないでしょうか? いくら心配をかけて、いくら反抗したとしても、自分の過ちを悔いて帰ってくる子供を見るなら、そんなことは忘れて、心が愛情であふれてくるのではないでしょうか。熱い心が湧きあがってくるのではないでしょうか。それが子どもに対する親の気持ちでしょう。

 皆さんは、罪と闘うために、傷ついて血を流して疲れていませんか? 自分にはできないと諦めていませんか? 神様にとって赦せない罪人はいません。十字架で亡くなられたイエス様が「早く帰って来なさい」と呼んでおられます。

罪悪感と罪の荷物を下ろして、ためらわずに神様のもとに帰って来ることを願います。神様は愛です!

 お祈りします。

愛である父なる神、 神様は、心が傷つけられた者を引き寄せて下さり、悔い改める者を救ってくださると言われました。

父なる神様、私たちが持っているのは、単に傷と痛悔する心だけです。主よ、私たちはありのままで神様の下に行きます。私たちの心を自分の過ちと傷と苦痛の暗さで振り返って、神様が私たちの周りにたくさん撒いてくださった恵みを眺めることができるようにしてください。私たちへの神様の大きな愛と赦しを、私たちが受け入れることができますように。私たちの心を貧しくしてくださり、罪を悲しむ心をくださって、 神様の慰めを経験できるようにしてください。私たちを赦されるその愛に支えられて、勝利の人生が毎日成し遂げられるようにしてください。私たちを愛してくださり、再び来ると約束されたイエス様のお名前によって、切にお祈りいたします。


赦し忘れてくださる神様 ソン・ケムン 第22回

2018年01月23日 | 日記

もう一度質問します。神様には何かを忘れることが可能でしょうか? もちろんです! 神様は全能ですから、忘れることを決心したらその方の記憶から消えてしまいます。神様が罪人を赦される時、その罪人の罪をゆるすとともに、忘れてくださるのです。「忘れてくださる神様!」。これが今日の説教のタイトルです。何でしたか? 「忘れてくださる神様」

私たちが急に怒りがこみ上げてきて、言ってはいけない言葉を出してしまうこともありえます。また、昨日、罪を犯し、今日誘惑に倒れるかもしれません。まだあの人を受け入れることができませんか? 何より自分自身が嫌で、神様に赦しを願うには自分があまりにも厚かましいような気持ちになっているかもしれません。

皆さん、そこにとどまっていないで、神様は私たちを赦すため、そして勝利者以上にしてくださるために、一日中立って待っておられます。その方の所に行くことをためらわないでください。

 

   ≪訴え≫

一つの詩を読んで終わりにします。これは家出した息子を思う親の心を描いたものです。

  

息子よ、戻っておくれ。昨夜は初霜が野菜畑を覆った。

息子よ、戻っておくれ。

お前が持って出た子牛を売ったお金は戻らなくてもいいが、

兵隊で兄を失って、お前は一人だけの大切な私の子。

 

日暮れ時、新道から帰ってくるのは、荷物を積んだ牛車だけ。

今日もお前の部屋を暖かくしておいたけど、

待っているだけの夕方はあまりにも短く、

夜はまた、なぜこんなに早く来るのか・・・

息子よ、戻っておくれ。

 お前が帰るのは森の向こうに三日月が出て、三ツ星が光る頃かもしれない

床下の黒スケが吠えて、お前が中に入らないかもしれないから

北町の新しい家にあげてしまった。

お前が家を出ていったその日から、玄関の戸はいつも開けてある。

息子よ、戻っておくれ。今夜こそ君が戻ってほしい、息子よ!

 

初霜が降って、もう寒くなり始めてきたが、家出した息子はどこで何をしているのだろうか? 子牛を売った金を全部持って出ていったが、お金は有っても無くてもいいから、心配しないで帰ってきなさい。戦争であなたの兄さんが死んで、もう君は一人息子だ。帰って来なさい。

日が暮れるまであの新道まで出て、君がかえってくるのを、今か、今かと待っているが、一日中待っても、見えるのは荷物を負った牛車だけで、君の姿は見えない。いつ帰ってきてもいいように、暖かい部屋で体を休めるように毎晩君の部屋を暖めている。君が家に帰る時、床下にいる黒スケが吠えて、入ってこないかと思って人にあげてしまった。心配しないで帰ってきなさい。君が家を出た日から、毎日玄関の戸は鍵をかけないままにしている。いつでも戻りなさい。今夜は戻りなさい。


赦し忘れてくださる神様 ソン・ケムン 第21回

2018年01月22日 | 日記

私がどんなにこのように声が枯れるほど話しても、「私が赦されるめにはこうしなければならない!」。このように考えている人がとても多いのです。「神様は私を赦されるかもしれないが、私は自分を赦せない」。そう思ったりします。これをどうしたらいいですか。私がこの話をする理由は、このような話をあまりにもたくさん聞いたからです。このような相談をたくさん受けました。

   ≪たとえ話≫

ある農夫がウズラの群れを市場に持ってきて、足に紐をつけて棒に縛っておきました。ウズラは、棒の回りを悲しそうにグルグル歩いていました。ある人がかわいそうに思って「私がウズラを全部買うから、さあその鳥たちを全部放してください」。「え?これを全部放すのですか?」。「はい、そうです」。それで農夫は紐を解きました。そして全部放しました。しかし、何が起こったでしょうか。そのウズラは飛んできて、ずっと円形で歩きました。再び放っても、またもとに戻って同じ場所を回っているのです。束縛から脱して自由の身になったのに、まだ縛られているように元の所をずっと回っているのです。

私たちはこの鳥の姿と同じではないでしょうか? 「自由に飛ぶには自分があまりにも厚かましいのではないだろうか?」。「あの人が私を解放してくれるはずがない」。「飛んでも、どうせまた罪を犯して堕落するから。どうせ飛んでもまた落ちるから、このままいた方がましだ」。そんなに思っていませんか?。

私たちが賛美歌を歌う時は「罪重荷をのぞくは血の力」と歌います。「肉の欲をのぞくは血の力」と賛美します。しかしそれは歌詞だけで、私には適用されないと思っていませんか。皆さんのそのような低い自尊心は、サタンが利用する致命的な心理的武器です。そのままだと、結局、審判に対する恐れと罪悪感に苦しめられそのような感情の悪循環を続けるだけです。いくら納得しても、またもとに戻ってぐるぐる回っているのです。クリスチャン生活がなぜそうなのでしょうか? 喜びはなく、満足もなく、平安もなく・・・。誰がそんな姿を見て、イエス様を信じたいと思うのでしょうか? サタンの心理戦に引きこまれてはいけません。皆さん自身についてもう少し寛大になっても大丈夫です。皆さんは、他人のことはすぐ赦してあげる立派なクリスチャンです。そのように、自分自身も赦してください。