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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

赦し忘れてくださる神様 ソン・ケムン 第20回

2018年01月21日 | 日記

「けがれのない神のみ子は、その肉体はむち打ちで裂け、しばしば祝福のうちにさし出されたその手は横木に釘づけられ、愛の奉仕に疲れを知らなかったその足は木にうちつけられ、王の頭はいばらの冠で刺され、ふるえる唇は苦悩の叫びにかたどられて、十字架にかかっておられた。しかもイエスがしのばれたすべてのこと―その頭と手と足から流れた血のしたたり、その肉体を苦しめた苦痛、天父のみ顔がかくされた時にその魂を満たした言いようのない苦悩、―それらは人類の子らの1人1人に向かって、神のみ子がこの不義の重荷を負うのを承諾されるのはあなたのためであり、死の支配をたちきって、パラダイスの門を開かれるのはあなたのためであると語っている」(キリストの偉大な生涯790p)

 誰のためですか? あの人のため?違います。私のためだと言われています。そしてあなたのために、私は除外されていますか? いいえ。私のため、あなたのために!

「神のみ子がこの不義の重荷を負うのを承諾されるのはあなたのためであり、死の支配を断ち切って、パラダイスの門を開かれるのはあなたのためであると語っている」のです。

はい、私たちは罪人です。そうです。しかし、キリストは私たちの救い主です。私たちの目を自分から転じてイエス様を眺めましょう。イエス様は義人を呼びに来られたのではなく、罪人を呼んで悔い改めさせるために来られました。私たちを落胆させて勇気をくじくために、サタンが否定的な暗示を心に与えるかもしれません。「お前はダメだよ。お前は資格がないよ。真理を知っていると言いながら、罪を犯したじゃないか。とても厚かましいよ。そんなお前が神の子なの?」そのような思いに屈服しないでください。疑いという悪い客を歓迎しないでください。そんなとき、神様がどれほどの犠牲を払われたのか、すべて私を救うためだったという、その方の犠牲と愛を覚え、心の中からそのような思いを追い払ってください。

イエスは罪人を招いて悔い改めさせるために来られました。今は義人を集めに来ておられるのではありません。今はまだ恩恵の期間です、救いの日です。イエス様は審判台から、「あなたは滅亡、あなたは救い」、このように言っておられません。皆さん、子どもを育ててみてご存じですよね。親は劣っている子ほどもっと愛情を注ぎます。神様も罪人にもっと関心を持たれます。ですから罪の増し加わったところには恵みも増し加わるのです。今はまだ恩恵の時です。大胆に神様の恵みの御座に行かれることを望みます。


赦し忘れてくださる神様 ソン・ケムン 第19回

2018年01月20日 | 日記

心配しながら、人生を生きることはやめましょう。また、こんな言葉があります。

「憂鬱で不満な思想や感情を追い払うことは、祈ることと同じく、私たちの義務です」。このように教えられています。

 皆さんは避雷針をご存知でしょう。雷が落ちる時の数万ボルトの電圧を全身で受け止めます。それでその下に避ける人たちは安全になります。イエス様が人類の贖いのための避雷針になって、罪の結果である死をその身で代わりに受けて、十字架の下に避けるすべての人に永遠の救いを与えられました。

 皆さん、私たちはこのような話をたくさん聞いてきました。とても慣れてしまったせいなのか分かりませんが、私たちのために十字架が立てられたという事実を日々覚えなければなりません。「信じます。不信仰な私を助けてください」と叫びながら、その方の前に出られることを願います。

次を読んでみます。

「その方は、あなたを受け入れるために待っておられ、あなたが悔い改めて罪から離れたとき赦そうとして待ち構えておられる。あなたは失敗し、また失敗するかもしれない。しかし、神様はあなたが本当に悔い改めるなら赦してくださり、また赦してくださる。そして、ついにあなたを愛して血を流されたイエス様によって、あなたを勝利者以上の者にしてくださるのである」(説教と対話1、402-405)。

神様は私たちを受け入れるためにいつも準備完了しておられる方です。私たちが御前に行くだけで、いつでも私たちを受けいれてくださる方です。十字架は最も凶悪な罪人を殺すために使われた処刑法でした。そしてイエス様はその十字架で亡くなられ、最も凶悪な罪人さえも赦されることを証明されたのです。自分を殺す者たちでさえ赦そうとしておられるのに、赦せない人が誰かいるでしょうか? そして、ついに、私たちが勝利者以上になることを約束されました。しかし、勝利者になるためには、まず赦される経験をしなければなりません。赦されることを恥ずかしがらないでください。


赦し忘れてくださる神様 ソン・ケムン 第18回

2018年01月19日 | 日記

もし皆さんの所に過ちを犯した人が来て「私を赦してください」と言ったとしたら、「何を厚かましくやって来たの?あっちへ行きなさい」。そんなふうに話す人はここにいないと思います。皆さんにも、それぞれ苦しめる人がいるかもしれません。私もいます。私たちを苦しめる人たちがいます。しかしその人が赦しを求めるなら、皆さんはいつでもその人を赦し受け入れる準備ができているのではないでしょうか? 「私がこんなに痛かったのだからあなたも痛い目に会ってみなさい」。そう言いますか? いや、むしろその人が赦しを求める前に先に赦すべきなんですね。それがクリスチャンの精神ではありませんか? 人間でさえそのようにするのに、まして神様はそうされないでしょうか? 私たちは時々、神様を自分達より劣る存在にしてしまっています。「たとい、女がその乳のみ子を忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない!」

 

「私たちの救い主の事を考えましょう。あなたの罪を負われる方に重荷を下ろしなさい。あなたは、あなたが神様を愛していることを知っています。それなら心配しながら生きることはやめなさい。・・・イエス様があなたの罪を赦されたこと、赦されるということを信じなさい。その方は弱くて困り果てた魂がその方の前に来て、その方に頼ることをお望みになられる方です。単純な信仰をもって、神様の前に出て、『信じます。不信仰な私を助けてください』と言いましょう」(3SM 325p)。


赦し忘れてくださる神様 ソン・ケムン 第17回

2018年01月18日 | 日記

放蕩息子は父が死ぬ前に遺産をくださいと言いました。放蕩息子の話は何度も聞きましたね。テーマは何ですか? 父親の愛、神様の赦し、放蕩息子の悔い改め、全部合ってます。間違っていません。ところでもう一つ追加するなら「大胆さ」です。どういう大胆さでしょうか?

私たちは「ああ、私はもっときよくなるべきだ。もっと善良になるなら神様が受け入れてくださる」と思いがちです。それは、現在の状態ではとても神様の前に出られない、誰が見ても出てはいけないような姿で、「そんなあなたがどうして天のお父様の前に行けるの?」。たとえそう言われたとしても、神様の御前に出て行く大胆さ、その方の恵みを必死に求める大胆さを持たれることを願います。

 「『まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した』(ルカ15:18-20)。これは実に優しく、人の心を動かさずにはおかない物語ですが、これだけでは、まだ天の父の限りないあわれみを十分にあらわしてはいません。・・・罪人がまだ父の家から遠く離れた異国で財産を浪費しているとき、父の心はその子の身の上を案じているのです。(新生への道61p)

 皆さん、神様は罪を犯した私たちを愛されます。放蕩息子が父のもとに戻らず、豚を飼って結局は病気になって死ぬようになったと仮定します。その時彼は「自分がお父さんの言うこと聞かないで、家出したから神様の罰を受けてこのように死ぬんだ」。違います。神様を誤解しています。神様は、父は、依然として、涙を流しながら待っていてくださいます。神様を誤解しないでください。皆さん! 心に聖霊の訴えがあれば、聖霊の感動があれば、今立って「お父さん、私は神様に帰ります。悔い改めの心を持って御前に行けばいいのです。そうすればいいのです。

「哀れな罪人が帰りたいと思い、罪を捨てたいと願っているのに、主は彼が罪を悔いて主の足もとに来るのを拒むなどと考えられるでしょうか。決してそのようなことを考えてはなりません。天の父がそのような方であると考えることほど、魂を傷つけるものはありません。神は罪を憎まれますが罪人をお愛しになります。

 神がキリストをお与えになったことは、ご自分をお与えになったことでした。そして望む者はだれでも救われ、栄光のみ国で限りない祝福にあずかることができるようにしてくださったのです。神が私たちに対する愛をあらわすためにお用いになった次の言葉ほど、強く優しい言葉はありません。「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子をあわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない(イザヤ49:15)(新生への道63p)。


赦し忘れてくださる神様 ソン・ケムン 第16回

2018年01月17日 | 日記

皆さん罪悪感を捨ててください。神様は大きい方です。自分の考えに閉じ込められないでください。それを捨ててください、それこそ信仰で、信仰はすべてに勝利します。イザヤ46:3、4を見ると「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」(イザヤ46:3、4)。

 

ここには6ヶ月の子供を持つ夫婦もいて、こちらは2ヶ月ですか。皆さんの多くは子供を育てましたね。このお言葉には、神様は私たちが生まれた時から負ってくださり、持ち運び、飲ませて、寝かせ、ゲップをさせてくれ、お風呂に入れ、おむつを取り替えて・・・私もたくさんしました。寝かしつける歌も歌ってくださり、私たちが老いて白髪が混じっても私はあなたの父なので、依然として私たちを負って、持ち運び、面倒を見てくださるというのです!

皆さんの子供がいくら歳をとっても、親には依然として世話をしなければならない存在に見えますね。ここを見ると神様が私たちをそのように世話されると言われています。

このことについて書かれた言葉を読みます。

「過ちを犯している私の兄弟よ、・・・あなたが帰って来さえすれば、神様は喜んであなたを受け入れ、あなたのすべての罪を赦してくださいます。たとえあなたがさまよい、また神様から離れ、長い間、彼から遠ざかって暮らしていたとしても、神様はあなたを今も喜んで受け入れてくださいます」。

 私たちはこのような言葉を見ると、クリスチャンではない人、世界中の神様を知らずにさ迷っている人たちのことだと思うかもしれません。違います。私の罪も皆さんの罪も、私たちすべての罪を神様は赦されます。私たちはあまりにも信仰がないのです。もっと読んでみます。

 「神は、人間がお互いを取り扱うように私たちを扱われるようなことはありません。彼は、愛とあわれみといつくしみ豊かな神です。・・・悪魔は、この尊い神様からの保証を奪い去り、人の心から希望と光を消し去ろうとしていますが、そうさせてななりません。試みる者に耳を貸してはなりません。彼は人々から一筋の希望さえも無くそうとしています。しかし、あなたがたはこれを許してはなりません。誘惑する者に耳を傾けないで、こう言いましょう。『イエス様は私が活きるために死んでくださったのです』と言いましょう。彼は私を愛し、私が滅びるのを喜ばれません。私にはまた愛にあふれる天の父があります。私は、天の父の愛をないがしろにし、せっかく与えられた祝福を無駄にしましたが、立って天の父のみもとに行き、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同樣にしてください』(ルカ15:17,18)と言わなければなりません」(新生への道60p)。