「けがれのない神のみ子は、その肉体はむち打ちで裂け、しばしば祝福のうちにさし出されたその手は横木に釘づけられ、愛の奉仕に疲れを知らなかったその足は木にうちつけられ、王の頭はいばらの冠で刺され、ふるえる唇は苦悩の叫びにかたどられて、十字架にかかっておられた。しかもイエスがしのばれたすべてのこと―その頭と手と足から流れた血のしたたり、その肉体を苦しめた苦痛、天父のみ顔がかくされた時にその魂を満たした言いようのない苦悩、―それらは人類の子らの1人1人に向かって、神のみ子がこの不義の重荷を負うのを承諾されるのはあなたのためであり、死の支配をたちきって、パラダイスの門を開かれるのはあなたのためであると語っている」(キリストの偉大な生涯790p)
誰のためですか? あの人のため?違います。私のためだと言われています。そしてあなたのために、私は除外されていますか? いいえ。私のため、あなたのために!
「神のみ子がこの不義の重荷を負うのを承諾されるのはあなたのためであり、死の支配を断ち切って、パラダイスの門を開かれるのはあなたのためであると語っている」のです。
はい、私たちは罪人です。そうです。しかし、キリストは私たちの救い主です。私たちの目を自分から転じてイエス様を眺めましょう。イエス様は義人を呼びに来られたのではなく、罪人を呼んで悔い改めさせるために来られました。私たちを落胆させて勇気をくじくために、サタンが否定的な暗示を心に与えるかもしれません。「お前はダメだよ。お前は資格がないよ。真理を知っていると言いながら、罪を犯したじゃないか。とても厚かましいよ。そんなお前が神の子なの?」そのような思いに屈服しないでください。疑いという悪い客を歓迎しないでください。そんなとき、神様がどれほどの犠牲を払われたのか、すべて私を救うためだったという、その方の犠牲と愛を覚え、心の中からそのような思いを追い払ってください。
イエスは罪人を招いて悔い改めさせるために来られました。今は義人を集めに来ておられるのではありません。今はまだ恩恵の期間です、救いの日です。イエス様は審判台から、「あなたは滅亡、あなたは救い」、このように言っておられません。皆さん、子どもを育ててみてご存じですよね。親は劣っている子ほどもっと愛情を注ぎます。神様も罪人にもっと関心を持たれます。ですから罪の増し加わったところには恵みも増し加わるのです。今はまだ恩恵の時です。大胆に神様の恵みの御座に行かれることを望みます。