生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

Bunge哲学辞典:bond or link 結合または連結

2012年08月25日 20時44分01秒 | Mario Bunge哲学辞典
2012年8月25日-13
Bunge哲学辞典:bond or link 結合または連結


bond or link 結合または連結 [BungeDic1, p.32]
 二つの物が結合されている、連結されている、または対にされている coupledとは、それらにとって相違を生じる関係がそれらの間に在るとき、そしてそのときに限る。例:物理的力、化学結合、交友関係、取引関係。諸関係はさらに、_結合_と_非結合_に分割される。空間的時間的関係は、非結合的である。しかし、時空的関係は、結合を可能にさせたり、不可能にさせたりする。〔非結合の〕例:近接、間にあること、時間的遷移。


マスコミの使う検証、scrutability 検証可能性

2012年07月23日 23時36分46秒 | Mario Bunge哲学辞典
2012年7月23日-3
マスコミの使う「検証」、scrutability 検証可能性

 「scrutability 検証可能性」を再掲する。

scrutability 検証可能性 [BungeDic1, p.262。BungeDic2と照合すべし]
 検証されるscrutinizedまたは検討されるexamined可能性〔ことができること ability〕。↑【科学主義 scientism】は、知覚できる痕跡を残すこと無く消滅した物以外には、検証できない物の存在を否定する。同様にして、反啓蒙主義者は検証できない存在者(神々といったもの)と不可触の言明(教条 dogma)の存在を言い張る。これが、このようなまがいごと pseudothingと偽りの真理pseudotruthの多くの不思議な性質について、彼らは遠慮なく長々と書く理由である。〔20111102試訳。2011年11月2日-4〕

 
 辞書(失念)によれば、
scrutinize 細かに調べる、吟味する、詮索する。
scrutiny 精密(細密)な吟味[調査]、精査。
とあった。吟味という訳がよいかもしれない。
 日本の新聞やテレビで「検証」と言っているのは、一体どういうことを指しているのか、ながらく分からなかった。論理実証主義での検証 verification(立証と訳すべき)ではなさそうだし、と。
 一般的な言葉だから、おそらくscrutinyに当たるだろう。そう思ったのは、
  「例えばアメリカ人はアメリカ社会、欧米の基準で日本をスクルートナイズ(検証)します。」(高濱賛.2000.3.『新憂国論』,4頁.アスキ?.)。[このメモの日付は2004年7月12日。近辺に「情報のKullbacks測度」「ハートレイを見るとよい?」との走り書。]
という文に出くわしたからである。

 test と testabilityは訳したっけ?




Bunge哲学辞典:philosophy 哲学、philosophy of (何々)の哲学

2012年07月23日 22時22分39秒 | Mario Bunge哲学辞典
2012年7月23日-1
Bunge哲学辞典:philosophy 哲学、philosophy of (何々)の哲学

philosophy 哲学 [BungeDic1, p.210]
 【a】最も一般的な諸概念(たとえば、存在、生成、心、知識、規範 normといった概念)と最も一般的な諸仮説(たとえば、外的世界の自律的存在と認識可能性といった仮説)を研究する学問分野〔discipline〕。_基本的_諸分科〔諸分野 branches〕:↑【論理学】(数学と分かち持つ)、↑【意味論】(一部を言語学と数学と分かち持つ)、↑【存在論】、そして↑【認識論】。_応用的_諸分科:↑【方法論】、↑【実践論〔実践学〕 praxiology】、↑【倫理学】、そしてすべての↑【の哲学 philosophies of】。【反義語】↑【知識嫌い gnosophobia】。
 【b】↑【精密 exact】哲学は、論理学、集合論、そして抽象代数学といった形式的道具の助けによって建設された哲学である。精密哲学の利点は、明瞭さ、そして体系化および演繹の促進である。これらの特徴は、今度は、偏った本文解釈と果てしのない論争の危険を最小にする。しかし、精密性は、内容〔substance〕が無ければ無意味である。↑【小型問題 〔小問題〕miniproblems】と取り組むのに、形式の重砲隊を使うのは間尺に合わないことである。
 【c 科学的】哲学は、精密であることに加えて、今日の科学と科学技術の大部分と一致する哲学である。

 
philosophy of (何々)の哲学 [BungeDic1, p.211-212]
 ほぼあらゆることについて哲学的に考えたり、ほぼあらゆることから哲学的教訓を引き出すことは、哲学者の特権である。よって、Xに_ついての_数多くの_哲学_がある。ここでXには、芸術、法律、政治、宗教、科学、科学技術、など、なんでも入れることができる。理想的には、Xについてのあらゆる哲学は、哲学とXにおける多少の能力を持つ人々によってのみ育まれるべきである。残念ながら、どのXの哲学についても、哲学にもXにも無知な人々によって育まれていることが普通である。なんらXを知らずにXについて書く同僚哲学者を、たいていの哲学者は許容するし、好む哲学者もいる。つまり、あまりうるさく言わないのである。たとえば、直接の科学的知識は、公表されるのを望むどの科学哲学者にとってもかなりの障害である。他方、Xの専門家〔専門者 specialist〕は、Xについて知らない人々を許容しない。しかし、Xに精通している哲学者には無関心である。なぜなら、専門家〔専門者〕は哲学をXとは無関係で劣ったものとみなすからである。


Bunge哲学辞典:probability, subjective 主観的確率

2012年07月22日 10時06分42秒 | Mario Bunge哲学辞典
2012年7月22日-1
Bunge哲学辞典:probability, subjective 主観的確率

 
probability, subjective 主観的確率〔主観確率〕 [BungeDic1: 224-225]
 【a 一般的】主観的確率〔主観確率〕は、命題を信じる程度の、または命題の信頼性 〔信憑性〕credibility の程度の測度だと言われる。よってその【同義語】は、信用性 credenceである〔→信頼性、信憑性、信用性の日本語的差異を検討せよ〕。しばしば主観的確率に頼る場面とは、不確実性に面したときである。つまり、十分な情報が無いときである。主観的であるから、主体が異なれば同一の事象〔出来事〕に割り当てる確率は、同じ立場〔資格〕であっても、異なることになりそうである〔likely to be different〕。よって、将来の情報のもとで修正する余地があるだけである。言い換えれば、主観的確率の割当は直観的で任意であり、よって科学的ではない〔unscientific〕。結果として、賭け率を知らずに賭けをすることに等しい。同様の理由で、主観的確率で戯れることは、↑【うわべだけの精密性 hollow exactness】という部類〔カテゴリー category〕に陥る、果てしの無い哲学的遊戯〔哲学的勝負遊戯〕〔philosophical game〕を許すことである。ゆえに、主観的確率を命題に割り当てることは、『真実と賭けをする』と正しくも呼ばれてきた。同様に、事象〔出来事〕に対して主観的確率を割り当てることは、それは↑【意思決定理論 decision theory】と↑【ケーム理論 game theory】で行なわれていることなのだが、(もちろん、人が机上のお遊びをしているだけでなければ)生と死を賭けることになろう。
 〔【b】は無い。→増補版と照合せよ。〕


Bunge哲学辞典:probability paradoxes 確率の逆説

2012年07月21日 23時25分41秒 | Mario Bunge哲学辞典
2012年7月21日-4
Bunge哲学辞典:probability paradoxes 確率の逆説
 
probability paradoxes 確率の逆説 [BungeDic1: 223-224]
 【a 日常的知識に根ざすもの】次の逆説は、確率のついての↑【日常的 ordinary】知識の概念の背後に潜む危険〔リスク risk〕を浮き彫りにするはずである。世界には今、およそ60億人の人々がいるとしよう。或る一人の人がアメリカ大統領にでたらめに選ばれる確率は、たったの1 : 60億 = 0.0000000017である。よって、次の論証が成立すると思われるだろう。(1) 或る個体が人であるならば、その者はたぶんアメリカ大統領ではない。(2) ビル・クリントンはアメリカ大統領である。(3) したがって、ビル・クリントンは(たぶん)人ではない。しかしこれは、妥当な結論ではない。実際、その前提は、

  A あらゆるxについて、xが人であるならば、xがアメリカ大統領である確率 = 0.0000000017。
  B ビル・クリントンはアメリカ大統領である。

しかし、AとBの連言命題からは、何も出てこない。仮説によって、当該の全母集団(または標本空間)は、現時点での人類である。よって、この母集団からでたらめに選ばれた一個体は、残りの者と同様に必然的に人である。それで、このような個体がアメリカ大統領であるかないかは、無関係である。つまり、このような個体は、仮定によって、人である。教訓:日常言語にご注意、特に「確率」という語を使うときには。
 【b 主観的解釈に根ざすもの】驚くことではないが、↑【主観的】(またはベイズ流の)確率は、逆説に満ち満ちている。それらのうちの一つは次の通りで、伝説によれば、1966年の理論生物学会議をだいなしにしてしまった。マタイ、マルコ、そしてルカの三人の囚人のうち、二人が処刑されることになっている。しかしマタイは、そのことを知らない。自身が処刑される機会は2/3だとマタイは信じる。彼は、処刑される予定の一人の名前はマルコなのかルカなのか、教えてくれと看守に尋ねる。マルコが処刑されるだろうと、看守は答える。忠実な主観主義者であるマタイは、幾分か救われた気がする。つまり、この情報によって、彼が処刑される機会は2/3から1/2に減ったと信じるのである。マタイは正しいか? 否である。なぜなら、処刑されるべき個人は、すでに選ばれていたからである。つまり問題は、偶然とは無縁である。よって、確率について論じることは正当化されない。処刑される二人の囚人がでたらめに選ばれたのならば、マタイが選ばれる確率は2/3であっただろう。そして、看守たちがマルコに刑を宣告した後に、マタイとルカの間で籤引きをすると決めた場合にのみ、マタイの処刑の機会は実際に1/2に下がっただろう。しかしこれは、問題の基礎事実〔data〕の一つではない。教訓:主観確率にご注意。予感に数をくっつけたからといって、よりまともになるわけではない。


Bunge辞典:probability 確率、probability calculus 確率解析

2012年07月21日 21時56分06秒 | Mario Bunge哲学辞典
2012年7月21日-2
Bunge哲学辞典:probability 確率、probability calculus 確率解析
 
probability 確率 [BungeDic1: 222-223]
 でたらめさ randomness、無秩序 disorder、または乱雑さ messinessの測度。極値は、p=0 とp=1であり、それぞれ、完全な秩序と完全な無秩序に対応する。中間の値は、秩序の中間的程度を測る。たとえば、熱力学第二法則によれば、無秩序は秩序よりもありそうなことである。一日の仕事の後の人の机を見よ。

 
probability calculus 確率解析 [BungeDic1: 223]
 ↑【確率】についての数学的理論。ここには、基本的抽象理論の諸基礎がある。基礎となっている諸理論とは、通常の(古典的)論理、素朴な集合理論、初等代数学、そして解析学〔analysis〕である。原始概念:次の諸前提によって陰に定義された、集合から単位間隔の実数への、確率関数 Pr。公理1:Sは任意の空ではない集合で、FはSの部分集合の族〔集合 family〕とすると、Fの元〔要素 member〕の和集合と積集合〔共通部分〕は、すべてFにある。公理2:Prは、Fから実数の[0, 1]間隔への関数である。公理3:FにおけるいかなるAについても、0≦Pr(A)≦1。公理4:AとBが、Fの積集合ではないところの元であるならば、Pr(A∪B) = Pr(A) + Pr(A)。公理5:Pr(S)=1。この理論は半抽象的である。確率関数の独立変数は、特徴のない個体の集合だからである。これらの集合はしばじは「事象 events」と呼ばれるけれども、物理的事象を表わす〔represent〕とは限らない。相対的頻度または信頼性という概念も、公理に現われてはいない。この意味論的中立性によって、確率解析のすべての事実的科学と科学技術におけめ応用が可能となる。しかし、すべての正当な応用は、客観的機会 objective chance またはでたらめさ randomnessという概念を伴う。↑【蓋然論的哲学】、↑【確率の逆説】。


Bunge哲学辞典:principle 原理、probabilism 蓋然論、probabilistic philosophy 蓋然論的哲学

2012年07月20日 23時22分48秒 | Mario Bunge哲学辞典
2012年7月20日-7
Bunge哲学辞典:principle 原理、probabilism 蓋然論、probabilistic philosophy 蓋然論的哲学

principle 原理 [BungeDic1: 222]
 極度に一般的な仮定または規則。例:論理の無矛盾性原理;たとえばハミルトンの〔最小作用の〕原理のような、物理学の極値原理〔極度的原理〕 extremal principles;↑【定言命法〔定言的命令〕categorial imperative】。

 
probabilism 蓋然論 [BungeDic1: 222]
 【a 存在論】すべての事実は↑【偶発的〔偶然的〕 contingent】であり、すべての法則は蓋然的であるという教義。【同義語】↑【偶然主義 tychism】。
 【b 認識論】すべての事実的知識は、『蓋然的 probable』である、通俗的な意味でもっともらしい、あるいは不確かな、よって不確実だという教義。↑【懐疑論 skepticism】の一種。

 
probabilistic philosophy 蓋然論的哲学 [BungeDic1: 222]
 【a 一般的】哲学的諸概念の精密化のために、↑【確率解析〔確率解析学〕 probability calculus】を使うこと。因果連関 causation、真実、単純性、そして意味という概念を含んだ、ほぼ20の様々な哲学的概念が、確率の概念によって定義可能であると宣言されてきた。皮肉にも、混乱だけが、精密な概念をそれ固有の脈絡、つまり確率の理論と確率論的モデルの一群という脈絡、から追放することによって生じた〔ここは誤訳かも。whichが何にかかっているのかよくわからん〕。
 【b 存在論】一見したところでは、因果連関 causationは、蓋然的なつながりの大変特殊な場合である、つまり蓋然的つながりの値が一〔unity〕に等しい場合である。より精確には、次の定義が成立すると思われるだろう。つまり、『cはeの原因である =df cが与えられたもとでのeの条件確率は1に等しい。』。これは駄目である。循環が隠されているからである。実際、原因と結果という概念が、定義項に生じている。すなわち、言われていることのすべてとは、或る一定の場合には、原因がその結果を生み出す確率は最大であるということである。
 【c 意味論】幾人かの哲学者たちは、確率という概念を使って、真実という概念を解明することを、二者を同一視するか、あるいは真実を起こりそうもないこととして定義することによって、提案した。この試みは、確率を命題に割り当てることは、確率を面積に割り当てるのとほぼ同様に合理的であるということだけからでも、失敗するに決まっていた。実際、確率は集合の一測度である。そうであるから、確率についての高等理論は測度理論の特殊な場合である。測度理論は今度は、長さ、面積、そして体積という直観的観念を精密化し一般化したものである。命題は集合ではないので、測ることはできない。よって、命題は蓋然的でもないし、非蓋然的でもない。命題は、代わって、多かれ少なかれ、↑【もっともらしい plausible】ものであり得る。


Bunge哲学辞典:principle 原理、probabilism 蓋然論、、、

2012年07月20日 14時33分02秒 | Mario Bunge哲学辞典
2012年7月20日-5
Bunge哲学辞典:principle 原理、probabilism 蓋然論、、、

principle 原理 [BungeDic1: 222]
 極度に一般的な仮定または規則。例:論理の無矛盾性原理;たとえばハミルトンの〔最小作用の〕原理のような、物理学の極値原理〔極度的原理〕 extremal principles;↑【定言命法〔定言的命令〕categorial imperative】。

probabilism 蓋然論 [BungeDic1: 222]
 【a 存在論】

 【b 認識論】

 
probabilistic philosophy 蓋然論的哲学 [BungeDic1: 222]
 【a 一般的】

 【b 存在論】

 【c 意味論】


probability 確率 [BungeDic1: 222-223]

 
probability calculus 確率計算 [BungeDic1: 223]

 
probability, objective 客観的確率 [BungeDic1: 223]

 
probability, ordinary kowledge notion of 日常的知識概念での確率 [BungeDic1: 223]

probability paradoxes 確率の逆説 [BungeDic1: 223-224]

 
probability, subjective 主観的確率 [BungeDic1: 224-225]










Bunge哲学辞典:understanding 理解、Verstehen 了解、hermeneutics 解釈学

2012年07月20日 13時40分06秒 | Mario Bunge哲学辞典
2012年7月20日-3
Bunge哲学辞典:understanding 理解、Verstehen 了解、hermeneutics 解釈学

understanding 理解〔了解、会得、[基立:もとの意味に沿って、下に立つと解すれば、基立と訳すべきである。]〕 [BungeDic1: 302]
 事実、記号〔symbol〕、そして構築体に適用される心理学的カテゴリー〔部類 category[classはクラスとするか? kindは類。]〕。↑【解釈学的哲学 heumeneutic philosophy】においては、定義として欠点のある用語である。同義語:↑【了解 Verstehen】。

 
Verstehen 了解 [BungeDic1: 308-309]
 ↑【解釈学的哲学 hermeneutic philosophy】と社会的研究における、鍵用語だが、定義として欠点のある用語。ふつう、「interpretation」、「理解 understanding」、または「包握 comprehension〔全握 com全部-prehendつかむ、包括する〕」のどれかに訳される。W. ディルタイ Diltheyにおいては、了解 Verstehen = 感情移入〔共感〕empathy。M. ヴェーバー Weberにおいては、了解 Verstehen = 行為者 actorの意図、または行為者の行為 actionの目的 aims についての推測 conjecture。歴史文化的な、あるいは解釈学的学派の主要な信条は、社会科学者は社会的事実を、説明するのではなく、了解する verstehen(『理解する understand』、『包握する comprehend』、または『解釈する interpret』ことを探し求めなければならない、である。このような理解は understandingは主観的であるから、よって客観的で厳格な rigorousな諸標準からは自由なので、諸聖典〔sacred scriptures〕の解釈〔hermeneuticは聖書解釈学の、という意味あり〕よりも客観的な真実に到達していると主張することはできない。科学的社会研究において、了解 Verstehen は発見的役割を演じるかもしれない。つまり、仮説を思いつかせる可能性がある。しかし、仮説は、受け入れられる前に試験 test されなければならない。

hermeneutics 解釈学 [BungeDic1: 120]
 【a】神学、文献学、そして文芸批評における本文解釈〔text interpretation〕。
 【b 哲学】社会的事実は(またおそらく、自然的事実も)、客観的に記述され説明されるのではなくてむしろ、解釈されるべき記号または本文〔文書〕であるという、観念論的教義。↑【了解 Verstehen】。哲学的解釈学は、社会についての科学的研究とは対立する。それは、社会統計学と数理モデル構築を、特に軽視する。また、それは社会的なあらゆることを霊的とみなすから、環境的、生物学的、そして経済的な諸要因を過小評価し、貧困と戦争といった巨視社会的〔マクロ社会的〕事実に取り組むことを拒否する。こうして、解釈学は、社会についての真実の追求に対する、したがって社会的方策〔社会的政策〕の基礎〔基礎知識 grounding〕に対する、障害物となっている。


Bunge哲学辞典:level レヴェル〔準位〕、level structure レヴェル構造〔準位構造〕

2012年07月17日 00時20分21秒 | Mario Bunge哲学辞典
2012年7月17日-1
Bunge哲学辞典:level レヴェル〔準位〕、level structure レヴェル構造〔準位構造〕

level レヴェル〔準位、階位、水準〕 [BungeDic1: 158-159]
 多義的な用語であり、よって、なんらかの形容詞とともに用いられるべき用語である。存在論では、実在の一つの_統合的_レヴェル、または編制〔組織性〕のレヴェルは、一定の性質と法則を共有する物質的(具体的)存在者の一収集体である。統合的レヴェルについての最も単純な諸仮説は、(a) 実在(すべての実在する対象の収集体)は、五つの主要なレヴェル、つまり物理学的レヴェル、化学的レヴェル、生物学的レヴェル、社会的レヴェル、そして技術的レヴェルから構成される、(b) 物理学的レヴェルを越えるどのレヴェルの存在者も、より下位のレヴェルに属する存在者から構成される、そして (c) より高位のレヴェルは(むしろそれらのレヴェルに属する個体は)、より下位のレヴェルの個体が会合  するか〔associtaion〕発展するかのどちらかによって、やがて創発した、というものである。心的レヴェルを加えなかったのは、唯物論的存在論において、心は、物ではなくて、脳の過程の収集体だからである。どのレヴェルも、必要に応じて、多くの下位レヴェルに分析され得ることに、注意されたい。たとえば、物理的レヴェルと社会的レヴェルは、小レヴェル、中レヴェル、大レヴェル、そして巨大レヴェルに分割されるかもしれない。

level structure レヴェル構造 [BungeDic1: 159]
 レヴェル先行(またはそれの対となる、レヴェル創発)という順序関係を伴ったレヴェルの集合、つまり、L =〈L, nに対しても、Ln < L<font size="2">n+1=df ∀σ[σ∈Ln+1⇒ C(σ)∈Ln]。ここで、C(σ)はシステムσの構成を表わす。階層的な【↑存在の連鎖】とは区別されるべきである。なぜなら、レヴェルは、支配、ましてや創造主への近さによってではなく、先行によって順序づけられているからである。


Bunge哲学辞典:reductionism 還元主義

2012年07月16日 17時45分22秒 | Mario Bunge哲学辞典
2012年7月16日-1
Bunge哲学辞典:reductionism 還元主義

reductionism 還元主義 [BungeDic1, p.244]
 複合体は、その構成要素に還元することによって、最も良く説明されるという研究戦略。【同義語】でしかない主義 nothing-but-ism。例は、物理学と化学における【↑原子論】、生物学における【↑機械論 mechanism】、社会科学における【↑生物学主義】と【↑経済学主義 economicism】、そして認識論における社会学主義である。_極端な radical_還元主義は、【↑創発 emergence】を否定し、したがって還元はいかなる複雑な事項を説明するにも必要かつ十分であると主張する。例:人間社会生物学、また、ヒトゲノム事業〔ヒトゲノム企画 Human Genome Project〕の完了は人間本性の謎をきっぱりと解決するだろうという信念。中庸な還元主義は、可能な限り還元すべきであるが、創発に出くわせば
それを承認する(そして説明する)べきだと考える。存在論的に対をなすものは、【↑創発主義的唯物論 emergentist materialism】である。


Bunge哲学辞典:reduction 還元

2012年07月15日 23時27分04秒 | Mario Bunge哲学辞典
2012年7月15日-4
Bunge哲学辞典:reduction 還元

reduction 還元 [BungeDic1: 242-244]
 【a 概念】認識的操作の一つであり、より精確には、分析の一種類であって、それによって、還元される対象は、論理的または存在論的にそれに先立つ他のものに依存していると推測されるか示されるのである。もしAとBが両者ともに、構築体であるか具体的存在者のどちらかであるならば、AをBに還元することとは、AをBと同定することであるか、AをBに包含することであるか、あらゆるAは或る集合体 aggregate か、或る組合せか、あるいはBの平均であるか、そうでなければBの顕在化か像なのだと主張することである。そのことは、AとBは互いに大変異なっているように見えようとも実際は同一であると主張すること、あるいはAはBという属の一つの種であると主張すること、あるいはどういうわけかあらゆるAはBから結果すると、もっと漠然と言えばAはBに『煮詰まる』、または『つまるところ〔in the last analysis〕』すべてのAはBであると主張することである。_概念的還元_の例。整数は、素数であるか素数の積のどちらかである。静力学は、力学の一章〔一部分〕である。光学は、電磁気学理論の一章である。存在論的還元の例。熱は、分子のランダム〔乱雑、でたらめ〕運動である。心的過程は、脳の過程である。社会的事実は、個人的行為の結果である。
 【b 還元の論理】還元について、四つの場合を区別すべきである。すなわち、概念の還元、命題の還元、理論の還元、そして説明の還元である。
 概念Aを概念Bに還元するとは、AをBによって定義することである。ここでBは、Aの指示対象の【↑水準 level 】と同じか、より低い(または高い)水準にある或る物、性質、または過程を指示する。このような定義は、_還元的定義_と呼ばれよう。(哲学的文献においては、還元的定義は『架橋仮説〔橋渡し仮説〕』と通常呼ばれている。おそらくは、それらはしばしば当初は仮説として提案されたからである。分析の無い歴史は、誤解を招く可能性がある。)概念の還元的定義の三種類とは、(a) 『光 =df 電磁気的放射〔線〕』におけるような、_同一水準_のもの、(b) 『熱 =df〔→ =def〕 分子のランダム〔乱雑、でたらめ〕運動』におけるような、上から下への、または_微視還元的 microreductive_なもの、(c) 『自然淘汰 =df 環境圧による生物個体の除去』におけるような、下から上への、または_巨視還元的 macroreductive_なもの、である。
 _命題_の還元は、その命題に現われる少なくとも一つの述語を、還元的定義の
定義項によって置換することから起こる。たとえば、『言語的表現の形成 =df ウェルニッケ野の特異的活動』という還元的定義によって、『花子は言語的表現を形成していた』という心理学的命題は、『花子のウェルニッケ野は活動的だった』という神経科学的命題に還元される。
 或る_説明_が還元的だと言われるのは、その説明での説明項の前提の少なくとも一つが還元された命題であるとき、そしてそのときに限る。たとえば、システム〔系体 system〕の形成を、その〔システムの〕構成要素の自己集成 self-assembly によって説明することは、微視還元的な(または下から上への)類いの説明である。組み立て列〔組立作業工程 assembly line〕での作業、または生命の起源についての仕事は、この類いの説明を誘導している。対照的に、システムの構成要素をの振る舞いを、システムにおいてそれが保持する位置かまたはそれが演為する〔遂行する perform〕役割によって説明することは、巨視還元的な(または下から上への)型の説明である。自動車整備士と社会心理学者は典型的に、この型の説明に訴える。最後になるが、理論の還元についての分析は、次のように進めることができよう。二つの理論(仮説演繹的体系)をT1とT2と呼ぼう。両者はいくつかの指示対象を共有すると仮定し、還元的定義の集合をRと呼び、T1またはT2のどちらかには含まれない補助的仮説の集合をSと呼ぼう。すると、(1) T2は、T1に完全に(または強く)還元できる =df T2は、T1とRの和集合からの論理的結果である;そして (2) T2は、T1に部分的に(または弱く)還元できる =df T2は、T1とRとSの和集合からの論理的結果である、と規定される。
 【c 理論の還元についての制限】光線光学〔ray optics〕は、『光線〔light ray〕 =df 光波面と直角をなす』という還元的定義を介して、波動光学に強く還元できる。同様に、波動光学は、上記の(a)という還元的定義によって、電磁気学に強く還元できる。他方、気体の運動理論〔運動論〕は、質点力学〔particle mechanics〕に弱く還元できるだけである。というのは、気圧と温度の概念の還元的定義に加えて、気圧の概念は位置と速度のランダムな初期分布という補助的仮説を含むからである。同様に、量子化学、細胞生物学、心理学、そして社会科学は、それぞれの対応する下位の専門分野に弱く(部分的に)還元できるだけである。量子理論でさえ、いくつかの古典的概念(たとえば、質量と時間という概念)だけでなく、巨視物理学的境界についての諸仮説を含んでいる。そのため、完全な微視的還元とはならない。同様に、微視的経済活動は、現行の公定歩合と政治的状況といった巨視的特徴を特定すること無しには、適切に記述することはできない。新古典派の微視経済学によって企てられた微視的還元が不成功であるのはまさに、巨視的環境に対する余地が無いからである。他の多くの還元したという主張も、正当化されない。対照的に、生化学とか認知神経科学といったように、専門分野を学際的専門分野に併合することは、はるかにより一般的であり、また大変成功的であった。【↑還元主義 reductionism】。



Bunge哲学辞典:情報 information

2012年07月15日 13時25分01秒 | Mario Bunge哲学辞典
2012年7月15日-2
Bunge哲学辞典:情報 information

information 情報 [BungeDic1: 139-140]
 【a 工学】 情報理論は、電線に沿うかまたは空間を通じた電磁気的信号の伝送〔伝導〕を扱う。それは特に、伝送の忠実性に、よって伝送経路上の雑音(乱雑摂動)の効果を最小化する方法に、関わる。情報理論は、広く信じられているところとは反対に、意味とはまったく関わらない。たとえば、『わたし、あなたを愛してるわ』という伝言の情報量は、『わたし、あなたが嫌いよ』という伝言の情報量と厳密に同じである。その理由は、信号と意味の間の関係が約束事〔規約上のこと〕だからである。それで、異なる伝言で、異なる言語における同じ考えを伝送する。
 【b 科学】 概念としてではないにしろ、「情報」という語は、工学から、最初に生物学(とりわけ遺伝学)を汚染し、次いで生化学(そしてそれを通して分子生物学)、心理学、社会学、そして他にまで溢れ散らばった。このような急速な広がりの理由の一つは、それぞれの場合で、「情報」という語に、様々な語義が暗黙に割り当てられたことである。たとえば遺伝学では、『情報』はDNA『構造』(または、 構成要素であるヌクレオチドの順序)と同じである。神経科学では、『情報流』は、一神経に沿って伝播する信号にほかならない。しかしそれは、命令といった伝言を運ぶ信号では決してない。なぜなら、神経細胞は何事も理解できないからである。心理学では、「情報処理」という表現は、機構〔メカニズム〕の不明な心的過程を何であれ、指す。実際、情報処理の認知心理学全体は本質的に、あかぬけした情報風に翻訳された、古くからの心理主義的心理学だと主張できるだろう。情報処理心理学の計算主義版〔計算主義流の情報処理心理学〕に関して言えば、それは数理モデルを含むから、厳密であるということ以外の疑問は無い。問題は、(a) それは適切で生産的かどうか、(b) 計算という概念を運動行動と知覚にまで適用可能性の範囲を拡げることによって、それは事実をモデルと混同しないかどうか、そして (c) 認知を動機と感情 affect から分離することによって、それは心理学を貧しくし、ばらばらにしないのかどうか、である。ところが、まだまだ、これからである。社会学者のなかには、全ての社会的出来事〔事象〕は、結局のところ情報流になる、と主張してきた者もいる。もう一度言おう。厳密な考えは、脈絡(この場合には、遠距離通信工学)から取り出されると、奇怪な極端へと導いてしまう。
 【c 意味論】意味という概念を、情報という概念でもって解明しようといういくつかの試みがなされてきた。それらはすべて、二つの理由から、失敗するほかなかった。第一になぜなら、上記の【a】で注釈したように、情報量と情報の内容とは、無関係だからである。第二になぜなら、意味は、情報理論で現われる客観的確率の概念とは、無関係だからである。