生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

リスクの定義、危険、リスク、安全性、不確実性

2011年08月31日 23時57分09秒 | 放射能
2011年8月31日-1
リスクの定義、危険、リスク、安全性、不確実性
 
  「 益永 〔略〕
 科学技術関連のリスクでは,原子力,放射線のリスクがよく取り上げられます.放射線のリスクが問題になるまでのリスク管理は,安全か危険かの2通りで,「安全な状態で管理をしましょう」ということでした。〔略〕
 ところが,放射線はどんなに少量の暴露でもそれなりの影響がある.安全な範囲がないという認識が受け入れられ,原子力にしろ,放射線を使った医療にしろ,それで便益を得ようとすれば,必ず危険が伴うということになりました.これが,科学技術におけるリスク管理の考え方を大きく変えることになりました.便益を得るためには,ある程度のリスクを我慢し容認しなければならないということで,では容認すべき程度とはどの程度が妥当かを定量化する必要がでてきました.具体的には,自然放射能のレベルまでは我慢しましょうとかいった提案がなされたわけです.
 定量化していくことは大事なことですが,定量化して見せたところで,やはり人間には感情がありますから,その通り受け入れられるわけではない.」(『リスク学入門1: リスク学とは何か』: 9頁)。

 
  「 今田 原子力発電は99.999999……%と9が小数点以下十数桁あるくらい安全で事故が起きないと言われたりしますが,人々は原発事故に対してものすごく敏感で,ゼロリスク要求が高いですよね.こうしたリスクと,そうでないリスクは,科学技術の分野ではどう分けられているのですか. 益永 自動車事故は常時起こりうるので,保険による対応も容易です.原子
力や地震の場合も,何十年かの長期にわたっての被害者数を取れば,同じ程度になるかもしれないのですが,低頻度の大災害ですから,対策の立てやすさは格段に難しくなります.科学的には長年の間の平均リスクは同じという評価になりますが,後者の場合はよりリスクを低くすることが求められる場合と放置される場合に分かれるのではないでしょうか.
 橘木 経済学の立場からすると,被害を受ける人の数の違いだと思います.自動車はせいぜい1人から数人でしょう.ところが原子力発電は,何千人,あるいは何万人にのぼり,発生確率は非常に小さいけれど,被害を受ける人の数で掛け合わせると,膨大な数になりますから.自動車事故の場合は保険制度があるから,ある程度保護される可能性があります.〔略〕ところが,地震や原子力などの大事故は誰も保護してくれないし,保険もない.
 長谷部 原子力発電所の場合は非常に低リスクだけれども,カタストロフィックな結果をもたらす恐れはゼロではない.ただ,原子力発電所について,リスクをゼロにはできないのだからやめてしまうということになりますと,化石燃料等の代替エネルギー手段が必要になり,その使用が長期的にはさらに深刻でカタストロフィックな結果を引き起こすおそれがある.簡単に答えは出ないだろうと思います.
 今田 心理学で,人間の心理にはゼロリスク要求があって,いくら科学技術的な安全性を高めても,絶対に安心できない種類のリスクがあると言われています.ゼロリスクは無理なので,ある程度安心できるようにするにはどうしたらいいか,というのは大きな課題ですね.」(『リスク学入門1: リスク学とは何か』: 10-11頁)。

 本質的な分類をして、それらの関係を解明する必要がある。そしてリスクについての妥当な定義へ。というより、どうすれば役立つか、が先決か。
 危険、リスク、安全性、不確実性。安全と安心。
 99.9%超の安全性なんて、どこに原子力発電について、だれが、どのように算定したのだろうか? 

[T]
橘木俊詔・長谷部恭男・今田高俊・益永茂樹(編).2007.7.リスク学入門1: リスク学とは何か.岩波書店



美術展:ヨコハマ・ボルカン モダンアート7人展/画廊 楽(関内駅)

2011年08月31日 01時28分13秒 | 美術/絵画
2011年8月31日-1
美術展:ヨコハマ・ボルカン モダンアート7人展/画廊 楽(関内駅)

yokohama VOLCAN
ヨコハマ・ボルカン
モダンアート7人展
2011年9月5日(月)~9月11日(日)
11:00~18:00(9月11日は16:00まで)
画廊 楽
 ・JR関内駅南口より徒歩3分
  (京浜東北線・根岸線)
 ・市営地下鉄関内駅(出口1)より徒歩5分
 ・横浜市民ギャラリーより徒歩2分
 〒231-0028 横浜市中区翁町1-3小原ビル
 電話:045-681-7255

□ 出品者
 石川 忠一
 石河 靖子
 小澤 はるみ
 桜井 武人
 清水 忠
 鈴木 裕子
 福井 愛

http://modernart-kyokai.com/koten01.html


ぶらぶら病?

2011年08月30日 00時30分03秒 | 放射能
2011年8月30日-2
ぶらぶら病?

 岩上安見氏による一昨日の話では、放射線のせいか鼻血のでる子どもが多いというのはデマ(4月中旬あたり)ではなく、福島(県? 市?)では、実際に多くの子どもが、鼻血、発熱、下痢、体調不良になっているということだった。広島やチェルノブイリで起きた「ぶらぶら病」の症状なのか?

 さっき、「鼻血 放射能」で検索すると、6月16日に東京新聞が「子に体調異変じわり 大量の鼻血、下痢、倦怠感 「放射線と関係不明」 原発50キロ 福島・郡山は今」と題する記事が掲載されたようである。

 「上の子が一週間くらい毎日大量に鼻血が出続けていたので心配で…。下の子も、時期は違うけれど、やはり一週間くら鼻血が出て」。思い詰めた表情で母親(三九)が、医師に相談していた。
 NPO法人「チェルノブイリへのかけはし」が十二日、福島県郡山市で開いた医師による無料問診会。放射線被害を心配する親子連れ計五十組が参加した。同市は福島第一原発から約五十キロ。
 この親子の場合、震災後いったん埼玉県内に避難したが、三月下旬に郡山市に戻った。すると小学校一年の長女(六つ)が、四月上旬から三週間、鼻血が出た。このうち一週間は両方の鼻から大量に出血。耳鼻科で診察を受けたが、「花粉症では」と言われた。「花粉症なんて初めて言われたし、普段は滅多に鼻血を出さないんですけど…」と母親は言う。長男(二つ)も四月下旬から五月に鼻血を出し続けた。〔略〕
 問診会場近くの植え込みで、放射線測定器をかざすと、毎時二・三三マイクロシーベルトの値を示した。地面から離すと一マイクロシーベルト台に下がる。郡山市内の十二日の最大値は一・三八マイクロシーベルト。東京都内で計測された同日の最大値が〇・〇六三五マイクロシーベルト。約二十二倍だ。市内の最大値は三月十五日の八・二六マイクロシーベルトで、五月中旬からは一・三マイクロシーベルト前後で推移している。
 文部科学省では三・八マイクロシーベルトが計測された学校では屋外活動を制限するとしているが、一方で年間の積算線量の子どもの上限値を一ミリシーベルトから二〇ミリシーベルトとしている。これは毎時一・三マイクロシーベルトの場所で一年間暮らせば十分に到達してしまう値でもある。」(東京新聞2011年6月16日)。


「リスク」って何だろう?

2011年08月30日 00時28分12秒 | 放射能
2011年8月30日-1
「リスク」って何だろう?


  「安井至・国連大学副学長(環境持続学)が興味深いデータを持っていた。生命を脅かす「リスク」を客観的に測る物差しを作ろうと、日本人に身近な三五の死因について一〇万人当たりの死者数を試算したところ、トップはたばこ、最下位はBSE(牛海綿状脳症)だった。
 上位集団はがん、肥満、心臓病、自殺などおなじみの死因が占め、マスコミをにぎわす原子力事故や食品添加物、電磁波などは、低リスク集団に集中していた。この「安井指標」を使うと、BSEのリスクはたばこの三六億分の一に過ぎない。」(元村 2007: 82頁)。

 死因というのは、個人の死についてのことである。原子力事故が個人の死に結びつくことは、低いということだろう。実際、福島第一原発事故でも、放射能による直接の死亡者は報道されていない。

  「原子力事故はどうだろう。これも、現場の作業員から原子炉メーカーまで、核物質を安全に制御するあらゆる手を打ったという前提で、このリスクの低さが保たれていることを考慮する必要がある。
 喫煙を禁止されている高血圧患者が、医者に隠れて「いいや一本ぐらい……」と煙草を吸っても、それは彼(女)個人の余命を縮める程度で済む。しかし、発電所で核燃料の管理をしている作業員が「いいや一本ぐらい……」と燃料棒を所外に持ち出せば、地域の人々が被曝の危機にさらされる。」(元村 2007: 84-85頁)。

 確かに、「核物質を安全に制御するあらゆる手を打った」のではないから、事故は起きたのであろう。そして、多くの人が外部被曝したし、内部被曝した。

 
[M]
元村有希子.2007.10.理系思考:分からないから面白い.349pp.毎日新聞社.[y1,500+] [B20071120]


国土(人などの生物体・空・土・海(・森林・田畑・道路など))の放射能汚染の時代における美術

2011年08月29日 09時18分10秒 | 美術/絵画
2010年8月29日-1
国土(人などの生物体・空・土・海(・森林・田畑・道路など))の放射能汚染の時代における美術

 朝日新聞2011年8月29日14面に、「防護服の妄想 再生の祈りへ すべてなくなった 何でも作っていい 美術 アトムスーツ・プロジェクト「大地のアンテナ」(2000年) ヤノベケンジ」と題する記事があり、高橋治香記者による問いとそれに対するヤノベケンジ氏の答えが掲載されている。

  「??予言に追いついてしまった現実を前にしても、まだ「再生」と言えるのでしょうか。
 「今までは警告を発してきたつもりが、想定した最悪の状況になり、警告や批評はもう何の役にも立たなくなった。今こそ、人々の心を救う象徴的なものが必要です。元気や、がんばろうと思えるようなモニュメントを制作しています。もう一つ作っているのは、実際に除染ができる作品です」
 ??除染装置がアートなのでしょうか。
 「今自分に必要な、本当に機能するものを作るのが原点。アートでもサイエンスでも何でも、この状況を打破できるならいい。カテゴリーに収まる程度のことでは、対抗できない時代になっている」

 美術(作品製作)者がその製作を通して、その時代(の人々がかかえる困難や難問?)と向き合う、時代(の人々の期待?)に応える、あるいは時代(の精神??)を創ると考えた場合の考え方のための手掛かりがありそうだ。分析に値する。
 ここでのアートは、美術とは、概念または意味合いが異なるのか、あるいは同じなのか。


シンポジウム:原発災害をめぐる学者の社会的責任

2011年08月27日 00時40分59秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月27日-1
シンポジウム:原発災害をめぐる学者の社会的責任

 島薗進氏のTwitter
http://twitter.com/#!/Shimazono/status/104355935379656704
に、

  「日本学術会議哲学委員会主催シンポ 「原発災害をめぐる学者の社会的責任??科学と科学を超えるもの」。9/18、13~17時。東京大学法文2号館1番大教室。shimazono.spinavi.net/?p=247#more-247 科学の限界を自覚し科学では応じきれない領域につき、どう学術的に情報発信するのかを問う。」

とある。
 日本学術会議ではなく、日本学術会議哲学委員会の主催である。日本学術会議の家頁には掲載されていないようである。
 だれか、文字起こしして掲載してくれるといいのだが。
 
 また、
  「日本学術会議哲学委シンポ9/18「原発災害をめぐる学者の社会的責任」。挨拶、野家啓一(東北大副学長・哲学)、報告:唐木英明(学術会議副会長)、小林傳司(阪大・科学史)、押川正毅(東大・物理学)、鬼頭秀一(東大・環境倫理)、島薗進(東大・宗教学)、司会:金井淑子(立正大・倫理学)。」

とある。

 また、
  「HRN「国と東京電力…意見書」http://hrn.or.jp/activity/20110817houshasenn.pdf ロシアの「チェルノブイリ事故被害住民の社会的保護に関する法律」等を参照、「少なくとも自然放射線をのぞく年間被ばく量が1mSvを超える地域については、政府が住民・地域について積極的な対策を講ずる責務がある」と。」

 「福島第一原子力発電所事故に伴う住民の健康・環境・生活破壊
  に対して、国と東京電力がとるべき措置に関する意見書
  2011 年 8 月 17 日
  特定非営利活動法人ヒューマンライツ・ナウ震災プロジェクト」
http://hrn.or.jp/activity/20110817houshasenn.pdf



イデオロギーの定義

2011年08月26日 22時45分49秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月25日-1
イデオロギーの定義

  「啓蒙主義的な意味でいう「批評」criticisimは、外部の、おそらくは「超越的な」視点から、状況のどこに歪みがあるかを解きあかすことで成立する。いっぼう「批判」critiqueは、内側から主体の経験にもぐりこみ、主体の現在の状況をこえたところにある「有意義な」経験を引きだそうとする言説形式である。たとえば、いまいる無数の男女に、数学の知識を身につけることは、すぐれた文化的目標であると、たかみにたって教示するのが「批評」クリティシズムである。これに対し、もし数学の知識が給料袋の厚みにすぐにはねかえってくるようなら、誰もが数学の知識を競って身につけようとするだろうと認識するのが「批判」クリティックである。」(13頁)。

  「批評。物事の是非・善悪・正邪などを指摘して、自分の評価を述べること」(大辞泉)
  「批判。物事に検討を加えて、判定・評価すること。」(大辞泉)

 「批判的」という語感は良くないように思うが、「たかみにたって教示する」のは、「批判」よりは、「批評」という語が会うような気がする。critiqueに「論評」はどうだろうか? commentとはまた違うのだろうが。うーむ。

 
  「意味の多様性を示唆するために、近年、いろいろなところで見受けられるイデオロギー定義のいくつかを、思いつくかぎり、ざっと列挙してみよう??

 (a)社会生活における意味や記号や価値の生産過程。
 (b)特定の社会集団もしくは社会階級に固有の観念の総体。
 (c)支配的政治秩序を正当化するのに貢献する観念。
 (d)支配的政治秩序を正当化するのに貢献する偽りの観念。
 (e)体系的に歪曲されたコミュニケーション。
 (f)主体に立場をさしだすもの。
 (g)社会的利害に動機づけられた思考形式。
 (h)同一化思考。
 (i)社会的に必要なイリュージョン。
 (j)ディスクールと権力の結合体。
 (k)意識的社会行為者が、自分の世界を意味づけるときの媒体。
 (l)行為へと促す信念の集合。
 (m)言語的現実と現象的現実との混同。
 (n)記号の閉域。
 (0)個人が個人と社会構造との関係を生きるときに必要な媒体。
 (p)社会生活を自然な現実に変換する手続き。」(18-19頁)。

 (g)は、(c)と(d)とは、共存しない、と述べている。こんなにいろいろな意味があれば、あるいは使われ方をされているならば、「イデオロギー」の語は無意味であろう。少なくとも、しかじかの意味で使うとか言わなければならない。

 「社会政治的イデオロギー」として限定して、その特徴づけをするのがよいだろう。
 →Bungeの社会政治的イデオロギーの特徴づけを見よ。
http://pub.ne.jp/1trinity7/?entry_id=3507629


[E]
イーグルトン,テリー.〔Terry Eagleton〕1991.(大橋洋一訳 1996.3).イデオロギーとは何か.423pp.平凡社.[B990604]



東京電力の経済力による日本社会の支配、東電破綻処理

2011年08月25日 00時23分48秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月25日-1
東京電力の経済力による日本社会の支配、東電破綻処理

 「現職経産官僚が緊急提言
 古賀茂明(2011年05月11日)「東電破綻処理と日本の電力産業の再生のシナリオ」」

という記事が、『現代ビジネス』の
http://gendai.ismedia.jp/articles/print/4128

に掲載されている。
 これまでの問題点と具体的な処理策が書かれている。

 東京電力はその経済力によって、政・官・財・学・報道(マスコミ)の分野に支配力を発揮してきたし、今もしていると言う。



絵画の魅力、愛、美

2011年08月24日 20時00分16秒 | 美術/絵画
2011年8月24日-10
絵画の魅力、愛、美

 2008年11月15日~12月13日に北網圏北見文化センター美術館で開催された、「N.P.blood21 Vol.3 岡田卓也展」(600円)のA4版6頁の冊子の2頁目に、作者の岡田卓也氏による文章がある。
 
  「いくら斬新な料理でも不味ければ意味が無いように、作品も魅力的でなければ意味は無い。それを左右するのは、時代性とか社会性にもよるけれど、テクニックなどの初歩的問題を別にすれば最終的に人の主観的美意識だろう。
 魅力的であること、つまり愛されること。アートの本質とは、愛されるべきものを創造することだと僕は思う。愛するものは美しい。野に咲く花や抜けるような青空、恋人や家族のように。そして人生のように。」(岡田卓也 2008.11 〔文章の表題無し〕、「N.P.blood21 Vol.3 岡田卓也展」2頁)。

 端的に主張を述べている。最後の段落は詩的でさえある。
 或る対象を愛していなくても(上記引用文での「愛する」とはどういう意味なのだろう?)、「それは、魅力的ですね」と感じることはあると思う。「魅力的であることによって、愛されるようになること」が主張であろうか。なんらかの魅力があれば、愛されるようになる可能性は高いかもしれないが、魅力がなくても愛されることもあるかしれない。
 あるいは、美しい作品だから愛されるのか。
 あるいは、美しくなくとも、何らかの評価次元で秀でていれば、(供された絵画と観者との相互作用の結果、観者にとって)魅力を生じるのか。

 この文の前にほうには、

  「1913年はマルセル・デュシャンがレディーメイドという画期的な概念を発明した年である。以降、多くのアーティストが既成の概念を離れ、あらゆる材料、ジャンル、時代の先端テクノロジーなどを取り込みながら、新しい表現方法を追求することで、アートの本質を模索することになる。これが現代美術と呼ばれるものだ。〔略〕
 人間がその五感のいずれかで知覚することさえできれば、アートとして体験する作品や空間を作り出すのに十分だということを雄弁に物語っている。」

とあり、現代美術の一つの流れを概括している。

 或る概念(群)を提示することが概念芸術だとすれば、概念の提示や加工に便利な言語(広義。絵画的言語といったものが考えられるかもしれない。この場合は、『言語』の定義が問題になる)を用いて、作品を作ればよいだろう。(広義の)文芸作品になるだろう。
 では、概念的作品と物体としての美術作品とはどういう関係になるのか。


岩上安身トークカフェ in 帯広(8月28日)

2011年08月24日 11時35分23秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月24日-9
岩上安身トークカフェ in 帯広(8月28日)


 原子力資料情報室 西尾 漠氏による、「知らされない福島」 講演会を開催した、

  「北海道帯広市周辺の人が集まって、多様な情報をもとに、自覚的、批判的に判断していこうという基本的にゆるい会です。」
http://tokachinet.blogspot.com/

という、十勝ネット市民の会の網所は、

 十勝ネット市民の会
http://tokachinet.blogspot.com/

となっている。
 実はその講演会に申し込んで受け付けてもらったのに、8月23日は今日だと思っていたら、今朝感違いに気がついた。残念。また、会に迷惑をかけてしまった。で、「十勝ネット市民の会」を検索すると、その講演会は、

  「Ustreamで中継を予定しています。
   Youtubeにも録画をあげる予定です。」

とのことである。

 そして、フリー・ジャーナリスト(自由記者)の岩上安身氏が来て、

 岩上安身トークカフェ in 帯広(8月28日)
http://iwakamiyasumi.com/archives/11417
http://tokachinet.blogspot.com/

の案内によれば、

  「十勝ネット市民の会は、【岩上安身トークカフェ in 帯広 】をサポートしています。皆様の参加をお待ちしています。

【日 時】2011年8月28日(日)
  トークカフェ: 13時00分~15時00分(開場 12時30分)
  懇親会: 16時00分~18時00分
【場 所】
  北海道帯広市西22条南6丁目6-2
  帯広の森市民農園サラダ館
【内 容】
  「未曾有の原発震災、その後をどう生きるか」」
http://iwakamiyasumi.com/archives/11417

があることがわかった。
 参加申込みは、
http://iwakamiyasumi.com/archives/11417

からできる。

http://iwakamiyasumi.com/archives/2264
では、 トークカフェ参加費は2000円で、懇親会費は(2000円ではなく)3000円となっている。
 また、
  「【岩上安身トークカフェ in 帯広】このイベントは終了しました。」
となっているが、申込期限は8月26日となっていて、参加申込みの受付は可能のようである。

 ところがどうも、こちらはトークカフェは14:00からとかなっていたりして、古くて、

http://iwakamiyasumi.com/archives/11417
の方が、最新のようである。結局、上記の
http://iwakamiyasumi.com/archives/11417

の記載が、正しいようである。