生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

学問修行2011年6月29日

2011年06月29日 22時18分54秒 | 生命生物生活哲学
2011年6月29日-1
学問修行2011年6月29日

 没後100年 青木繁展―よみがえる神話と芸術/京都国立近代美術館/前売1,000円。
 「青木繁」再考という文章での「物質感」云々が何を指しているのか、わからなかった。
 コレクション展は、ルドンなど。森村泰昌《海の幸・戦場の頂上の旗》は、このような題の一つの映画ではないとのこと。「戦場の頂上の旗」は東京とどこかで二回見たもの。「海の幸」は時間がなくて見ることを断念。

 
 下記の原発講演会:
  小林圭二「原子炉の構造とメルトダウン」 と
  荻野晃也「地震と放射能汚染」 が、
USETREAMで視聴できる(2時間12分13秒)。
http://www.ustream.tv/recorded/15689147
http://www.ustream.tv/recorded/15688183[17:14、最初の13時頃]

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
原発講演会
 日時:2011年6月29日(水)13時~16時
 場所:京都大学吉田キャンパス,物理系校舎313室
   (時計台から東へ,1,2号館のさらに東にある8階建てのツインビル)

 1. 原子炉の構造とメルトダウン
  講師:小林圭二(元京都大学原子炉実験所教員)
 2. 地震と放射能汚染
  講師:荻野晃也(元京都大学工学研究科原子核工学教員)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


風間虹樹 <いのち。乱舞、、、>展:構成分析、集成方法

2011年06月28日 13時21分31秒 | 美術/絵画
2011年6月28日-3
風間虹樹 <いのち。乱舞、、、>展:構成分析、集成方法




↑:自然落下による面的(さらに塊的)要素(一部は線的要素)
 [形態変異は、作業単位での絵具の大きさ、絵具のを落下させるときの角度(傾けた画面に相対的)と速さ。塊的要素の表面の色彩濃度のちらばりは、液体性質と塊体との乾くときの相互作用によるものだろう。]
 
 


↑:塊的要素に線的要素が多い区画。上層は、塊的要素と線的要素があるが、一振りで製作している(一振りゆえの自然さと非人為的制御性)。中層はもっぱら塊的要素で、下層は太い線的要素。より下層は、塊的要素。そのより下層は、色が異なる塊的要素。最下層は平たい面で漸次的に変化して、だんだら。
 
 


↑:厚みのある線的要素の全面展開とその上への、叩きつけによる、撥ね散りと、気体泡の閉じ込め、の結果の立体的形態要素の偶発的生成。立体的になるのは、多くの絵具を瞬時に使うことにもよる。

 




↑:下層は、年度の異なる液体的(水的)性質を相互作用させて、模様を生成する。最下層はジェッソが生乾きのときに、鉄ワイヤーひもをつけた棒を振るって、らせん状刻印的線をジェッソ面に刻印する。墨とアクリルを交互作用させる。乾いてから、白墨汁を1mほど上から落下させ、周囲から跳ね散っているような形態を生成する。乾いてから、内部を削り、下層の線的要素を透明的に出す。
 


↑:下層にひびわれを生成し、そのうえに液体の性質を重ねる。その上に塊的要素を加える。




絵画の現実性2:ピエール・スーラージュの言を手がかりとして

2011年06月28日 12時22分14秒 | 美術/絵画
2011年6月28日-2
絵画の現実性2:ピエール・スーラージュの言を手がかりとして


 ピエール・スーラージュは、自分の絵は表現主義ではなく、「アンフォルメル」という言葉は、「抽象表現主義」よりずっと良い言葉であるという。
 次の言葉は、1948年にドイツの大きな美術館で開催された巡回展の図録に書いたという。

  「絵画は感動、感覚、感情を表〔わ〕したものではない」(「ピエール・スーラージュへの6つの質問」、『週刊読書人』2011年6月24日(第2894)号、6頁)。

 はたしてこれは、次のような言明 statementに定式化できるか?

  言明1.絵画は、何かを表現するものではない。
  [この言明は、『絵画は、何かを伝達するものではない』という言明と、どのような関係にあるのだろうか? 言い換えれば、表現と伝達(伝送。交達または交信 communicationではなく、一方向的な(物体ではなく、或る程度以上に非物質的なものの、たとえば『情報』の)伝送 transmission)。]

 これは、言い過ぎ(強い主張)かもしれない。少なくともスーラージュにとって、絵画は、『感動、感覚、または感情を』表現したものではないということである。では、人物画や風景画のように、感動、感覚、または感情を表わしたのではなく、人物または風景を表わしました、と作者が言った(解説?した)場合は、どうなのだろうか。
 さらには、たとえば「へのへほのもへじ」のような文字を人の顔だと認識されるように配置して、これは人の顔を表わしました、ってのはどうなるのだろう? 
 また、写真と絵画の一種ではないのか? [→ある種類(と程度の)現実性に関わって、『再現』または再現前 representationと表現 expressionの問題]
 そもそも、感動、感覚、あるいは感情を表わしていると受け取る(あるいは受け取らない)のは、絵画を前にして知覚し、諸々に受け取り、あれこれ考えたりする観者(観る)である。

 さて、ピエール・スーラージュの作品は、黒いものが多いようである。それは、光の反射を表わすための手段として採用しているという

  「黄色に反射する光と、青色に反射する光、緑色に反射する光は、黒に反射する光とはとても違います。光の反射の仕方によっても異ります。つまり、そういう反射を、どう組み立てていくかが私の絵画なのです。」(「ピエール・スーラージュへの6つの質問」、『週刊読書人』2011年6月24日(第2894)号、6頁)。

  「伝統的絵画では、表面を突き抜けていかにも奥行きがあるように描いています。遠近法が、ある種の幻視を〔、〕見る者に与えているのです。幻視は芸術ではありません。芸術は「存在」なのです。」(「ピエール・スーラージュへの6つの質問」、『週刊読書人』2011年6月24日(第2894)号、6頁)。

  「光の反射を表〔わ〕す手段として、黒を使っているのです。これはパラドクス(逆説)なのです。黒は最も光のない色で、私の作品ではその黒から「光」が生まれるのです。それはもちろん表面の構造によります。」(「ピエール・スーラージュへの6つの質問」、『週刊読書人』2011年6月24日(第2894)号、6頁)。

 おそらく、次の絵画についての定義 【実は、『なんらかの部類として』を明示していないので、定義とはほど遠い(あえて言えば、作業途上の「定義」)のだが、『表面』という言い方に注目してほしい。絵画とは平面に限らず、曲面でもでこぼこでも表面であれば絵画であるとして、領域を拡張しているのである。ともあれ、そのように拡張しておいて、絵画とはどういう部類なのか、を探求していこうというわけである。】 は、スーラージュの表面に注目する考え方と矛盾しない。

  定義1.絵画とは、表面に生じさせられた模様 patternを、なんらかの部類として見立てたものである。

  [模様を生じさせる手段は、絵具によるとは限らないし、立体物に光を当てて影という模様を生じさせたり、木に穴をあけて模様を生じさせることもできる。ただし、あくまで、『表面』についてのものである。しかし、われわれは視覚上、表面を見ることしかできない。たとえば、鶏の卵の表面は一つの滑らかに覆われた曲面に見えるが、たとえば走査電子顕微鏡で見れば、数多くの穴があいているように見える。人体の皮膚も穴を開閉している。
  というわけで、表面として認識されたものは、絵画であり得る。さらに、カメラのファインダーをのぞくようなつもりで、自然界の一区画を意識の上で切り取り、そのようにして得られた対象は、絵画であるかもしれない。この場合は、自然美ということになろうが、絵画に仕立てたのは、その人の(感性を働かせたという作用とともに)意識的作用(または力)である。]


  「視点が変わると光も変わります。同じ反射ではないのです。もちろん、もとは同じ作品なので、よく似た光の具合になるのですが。でも作品は見られる瞬間に存在するのです。その次の瞬間、見る人の位置が変わると、もう同じ作品ではなくなります。見ているその瞬間に絵画は存在します。伝統的な絵画と比べると、私の絵は時間との関係もことなるのです。伝統的な絵画は、どこに見る人が立っていても同じ絵画です。」(「ピエール・スーラージュへの6つの質問」、『週刊読書人』2011年6月24日(第2894)号、6頁)。

 ここでは、時間的変化についても触れている。作品が、見られる瞬間に存在するとすれば、見た回数分の作品が存在することになる。それは、或る同一物体から受け取られる変異だと考えよう。

 たとえば、ベートーヴェンの『田園』交響曲が、或る会場で演奏されるとする。或る客席で聞かれる交響曲の(時間変化する)音と、その隣で聞かれる交響曲の音は異なるに違いない。会場内のどこかでクシャミ音あるいは咳払い音が生じた場合は、その音に近い場所と遠い場所では、到達する音状態は異なる。会場内の聴者の数だけの交響曲があることになる。むろん、 或る近似でまたは或る範囲内では同一だとみなすことができる。それに、能動的に聴いている場合は、楽音以外は、「演奏される田園交響曲」という意識内容から除かれるかもしれない。様々な『雑音』を意識的に除いて、われわれは「このときに演奏された田園交響曲」という同一性を仮定するのである。
 絵画であっても、同一性の問題は同様である。結局それは、観る人または聴く人の感覚特性と感性に依存するが、まあ同じものを見ているあるいは聴いているとして、<差異が問題にならない限りにおいて>、話を通じさせるのである。ひょっとして互いに違うことを主張しているかもしれないが、そのことが判明しない限りは、めでたし?である。

 もう一つたとえば、ジョン・ケージ John Milton Cageの「4分33秒」と題された曲。『4分33秒』の内容は、演奏される都度、異なるが、作曲作品としては同一である(とみなされる)。『4分33秒』では、(まさにその環境によって異なるが、おそらく多くの場合で)違いが際立つが、この事情は、(何でもよいが)たとえばショパン F. Chopinの『バラード第二番』でも同じである。同一の楽譜にもとづいていても、演奏者によって、どのように実際に弾かれるかは異なるし、同じ演奏者であっても、演奏の都度異なるだろう。(最高の演奏を記録して再生するのは、一つの楽しみ方である。演奏会場で聴くことの良さは、また別にいろいろあるだろう。)

  設計的指示書(楽譜)→演奏者の解釈による構想(された演奏)→実際の演奏内容

 むろん、実際の演奏に影響するのは、これだけではない。演奏者や聴衆の体調にも依存して異なるかもしれない。

 で、伝統的絵画においても異なり方の事情は同様のはずだが、つまりは作者の製作意図が異なるということだろう。伝統的絵画においては、たとえばそれが展示される環境が異なっても、受け取られる内容が同一または同様であるという(暗黙的であれ)約束事の上に立って、絵画を観よ、ということだろう。
 ここには、どのように感性を変えて働かせるか、という創造に関わる問題に関わる。新しい芸術を目指すとすれば、新しい感性を開く、あるいは働かせることと関わるだろう。むろん、相互関係するが、まずは芸術者が新しい種類の絵画物体を作ることで、新しい感性が展開されるかもしれない。(この過程で、論評 comment、批評 critique、あるいは展望 reviewを発表することが役立つかもしれない。芸術者の宣言は、ゆえに貴重である。)

 また、

  「具象的絵画が、世界のひとつひとつの事項との関係を導き入れるものだとすれば、具象的でない絵画は、全体と全体との関係を導き入れる。画家にとって同様に鑑賞者にとっても、世界は見られるのではなく体験されるのである。世界は、彼らの経験のなかに移されるのだ。こうした経験自体は、キャンバスの上にその経験によって、生み出され壊される意味作用を通じて受け取られる。したがって、再現することを自らに禁じる絵画は、世界にとりまかれており、世界にその意味を負っているのだ」(ピエール・スーラージュ 「1960-1972年、フランス現代美術の12年」展カタログ、パリ、グラン・パレ、1972年)、「身体と表現 1920-1980 ポンビドゥーセンター所蔵作品から」 編集:東京国立近代美術館、市川政憲、千葉成夫、中村和雄 発行:NHK、NHKプロモーション 1996 p172」
http://www.b-sou.com/palw-Soulages.htm

と、スーラージュは、自分の絵画は、再現することを狙っているのではないということらしい。しかし、見ることは体験することの部類ではないのか? 

 
 ピエール・スーラージュの作品は、黒いものが多いとのことである。
 では、黒く見える表面を反射した光は、どのように変化または変容または変貌 transfiguration するのか?

 
[S]
Soulages, Pierre. 2011.3.22.(高野勢子訳 2011)ピエール・スーラージュへの6つの質問??2011年3月22日、画家のアトリエ(パリ)にて.『週刊読書人』2011年6月24日(第2894)号、6頁.


絵画と記号、グッドマン『世界制作の方法』

2011年06月28日 00時36分34秒 | 美術/絵画
2011年6月28日-1
絵画と記号、グッドマン『世界制作の方法』

 Nelson Goodman ネルソン・グッドマン(1906-1998)の妻は画家であるらしい。
 グッドマン『世界制作の方法』 【その名前のもとに同一視されているもの(それはいったい何だろう?)の或る複製物が積ん読状態のまま16年が経過した】 のはじめのほうに、

  「多くの世界があるというのは正確にはどういう意味でなのか。本物の世界をいつわりの世界から区別するものは何なのか。世界は何から作られているのか。世界はどのようにして作られるのか。その制作にさいして記号はどのような役割をはたしているのか。さらに、世界制作は知識とどのように関連しているのか。これらの問いを正面から取り上げなくてはならない。」(グッドマン『世界制作の方法』、2頁)。

とある。
 とりわけ、製作のときに記号がどのような役割をするのか、とは興味深い。
 なお、菅野盾樹『恣意性の神話』の第七章では、

  「藝術を記号機能の面から考察するにあたり、〔略〕理論枠組の一つの重要な柱として、グッドマンの記号理論を採り上げた。」
http://www33.ocn.ne.jp/~homosignificans/symbolnoumi/content/works/papers/semioticism.html

とのことである。

  「彼〔グッドマン〕によれば、唯名論とは何物でも個体として受け入れるが、何物をも集合とは見なさない学説、つまり、集合を個体と見なすことを拒否する主張である。たとえばごく常識的に、レンガ造りの家はレンガの壁から成り、壁は個々のレンガから成っている、とわれわれは言う。ところで、集合を存在者に数える実念論者は、ここに三つの別々の存在者、レンガ、レンガの集合としての壁、壁の集合としての家、すなわちレンガの集合の集合としての家を認めるのだ(ちなみに実念論者は、このやり方を続けてすきなだけ存在者を殖やすことができる)。これにひきかえ、唯名論者の眼には、その場にただひとつの同じ個体しか見えない。というのも彼にとり、どんな存在者も、いやしくも同じ要素へ分割されるならたがいに同一だからである*。唯名論とはグッドマンが額に汗しながら世界を構築するのに使用するクレーン、体系を構成する論理的装置にほかならない。それを形式化してとりだせば、いわゆる「個体計算」になる。」(菅野盾樹「グッドマンの記号主義」、『恣意性の神話』)
http://www33.ocn.ne.jp/~homosignificans/symbolnoumi/content/works/papers/semioticism.html

 壁は、レンガの集合なのか? 「壁は個々のレンガから成っている」とは、壁を構成する要素、あるいはなんらかの単位または個体は、レンガである、ということであろう。

  構成(壁)={レンガ1, レンガ2, ...} (「{}」は数学的集合であることを表わす)
  種類(構成(壁))=レンガ
 
 
 「唯名論者の眼には、その場にただひとつの同じ個体しか見えない」という、その個体とは何なのか? レンガだけなのか、壁だけなのか、家だけなのか? 壁の集合としてではない家は(個体として)在るのか? 
 「レンガの集合としての壁」とは、レンガ間の結合関係は何も無いとするということなのか。それとも、何らかの結合素関係がレンガ間にあっても、構成あるいは成分だけを問題にするということなのか。

  1. レンガを重力だけによって結合させて壁を作った場合
  2. レンガ面を水を使って(この場合の結合力は何?)壁を作った場合
  3. レンガをセメントを使って(この場合の結合力は何?)壁を作った場合

 「同じ要素へ分割される」とはどういう事態を指しているのか? 
 生物体の場合には、(人体の)一つの細胞、細胞を構成要素とする心臓、臓器や組織などを構成要素とする人体、これらもひとつの同じ個体なのか?
 唯名論、あるいはグッドマンの「集合を個体と見なすことを拒否する」唯名論は、システム主義とは相容れないのか? 

 
[G]
グッドマン,N.1978.(菅野盾樹・中村雅之訳,1987)世界制作の方法.xii+274+ixpp.みすず書房.[B950404, y2575]

[T]
菅野盾樹.1999.恣意性の神話.xii+278+13pp.勁草書房.[B990805, y3,200]



絵画の現実性1:ピエール・スーラージュの言を手がかりとして

2011年06月27日 13時23分42秒 | 美術/絵画
2011年6月27日-1
絵画の現実性1:ピエール・スーラージュの言を手がかりとして

 リアリティー realityは、
  「現実感。真実性。迫真性。レアリテ。「描写に?がない」」(大辞泉)。
とある。「リアリティー」とカタカナ語では、文脈によって様々な意味になる。すると人によって意味していることが異なると、議論は噛みあっていないかもしれない。

  1. It is real. それは実在する。
  2. It is realistic. それは現実的[または実在的]である。
  3. I feel it is real. それは実在する、とわたしは感じる。
  4. I feel it is realistic. それは現実的[または実在的]だ、とわたしは感じる。

 まず、『実在する』と『実在的である[または、現実的である]』を区別しよう。『実在的である』ことは、或る対象(言い換えれば、或る人が対象として注目した物または事)が実在することを必要とはしない。人が想像していること、あるいは過去に起きた光景の記憶は、現在では実在する物体(たち)ではないが、人がそれ(ら)を実在的または今まさに現実に存在すると感じることはある。

 感じるのは、或る(実在する、実在した、実在するであろう)人である。「実在的」または「現実的」と、言葉で表している人は、そのように感じたことまたは判断したことを、言葉で指示または表現しているのである。

 さて、絵画をどのように考えるのか、

  [作者(または、製作者)#絵画♭観者]([maker#picture♭viewer])
    ここで、#と♭は或る種の作用 actionを示す。本当は、三者間関係なので、三つ組み表示にすべきだが、観者が或る絵画を見ているあるいは鑑賞しているときに作者は不在であれば、作者の作用は絵画を媒介としてしか『伝達』されないので、作者自身の直接の作用を無視すれば、近似的にはこれでよいだろう。いっそのこと、

  [絵画♭観者]

でも十分である。むしろ、このほうが、いわば純粋であり、絵画を観ることの本質または本質的部分が明らかになるだろう(詳細は、抽象絵画論に照らして、後述)。

 
の三者の諸関係ないしは
  三者体(=def 三者が相互作用することによって形成される構築体。生成体であるので、動的に状態変化する。記述空間では、時間軸を含むことになる)
は、どのように分析され総合ないしは統合されるのか?

 ありがたいことに、「アンフォルメル展とは何か?」(ブリヂストン美術館。2011年7月6日まで)で見た、ピエール・スーラージュ氏へのインタヴュー内容の重要部分が抜粋され文字となって、『週刊読書人』の2011年6月24日(第2894)号に掲載されていた。

  「絵画のリアリティーとは3つのものの関係から成り立ちます。まず物(chose)。これは記号ではありません、記号はまた別物です。オブジェでもない、物なのです。その物に対しては意味を与えることも、またその意味を奪うこともできます。物が意味を伝達するのではなく、見る人がそこに意味を見いだすのです。絵画のリアリティーとは、3つのものの関係から成り立ちます。すなわち、画家と、絵画という物、そして見る人の3つのものの関係から成り立つのです。見る人がその物、すなわち絵画を変えるのです。それが作品の現実です。見る人の役割が、作品の現実の一部を成しているのです。」(「ピエール・スーラージュへの6つの質問」、『週刊読書人』2011年6月24日(第2894)号、6頁)。

 
 上記の文言を順次、分析や解釈をして、言明的な表現に変換してみよう。「オブジェ」と「物(chose)」がどう違うのか、わからないけれども、エイヤッと、絵画システム(絵画系)の構成 compositionについて、下記のように定式化することにする。

 1. 絵画の現実性[リアリティー]は、物、(製)作者、観者、の三者から構成される。
  構成(絵画の現実性)={絵画物体(物体しての絵画),(製)作者,観者}
  composition (reality of a picture) = {picture (as a chose ?= as a thing sensu stricto), a maker(s), a viewer}

 2. ここで、物とは、記号ではないし、オブジェでもない。(ただし、スーラージュの言語的分類体系は不明)
 3. 人は、物に対して、意味を与えたり奪うことができる。(意味は物体ではないから、絵画物体に観者がなんらかの物体をくっけるるわけではなく、あくまで、観者の脳内に構築された絵画像に対して、なんらかの状態変化を観者が(ほとんど「自動的」にでも)させたということである。)
 4. 物(絵画物体)が意味を伝達するのではない。(意味とは、われわれの解釈や判断体系に依存するような、われわれの脳神経系が作る構築体であるから、『物』は、光を反射することはあり得ても、意味を伝達するということはない。)
 5. 見る人(観者)が、絵画物体に意味を見いだす。(「見る人がその物、すなわち絵画を変えるのです」は、修辞的表現であり、文字通りのことを主張しているのではないと、解釈することにする。)

 「それが作品の現実です」の「それ」は何を指しているのか、「作品の現実」とは何を指しているのか、が不明だが、「見る人の役割」と「役割」という言葉が出てくるから、絵画の現実性 【realityをこう訳しておく。絵画の実相と訳すと、また異なる意味合いになるだろう。つまり、或る作者が作った一つの絵画を一つの生きている物体(生命体または生物体)とみなし、かつ、その本質を問う場合の実在する『相』である】 とは、絵画物体、(製)作者,観者、の三者から構成され、それらの関係(または相互作用)から生じる何か、である。

 絵画の現実性とは、絵画(物体)、作者、観者の構成者の相互作用からもたらされる、なんらかの事象(こと)である。ここで作用者は、通常言われる生物体としては、作者と観者である。観者が或る絵画を見ているときに、そばに作者がいてその絵についてなにかを言うと、それも作用者となる。しかし、作者がいなければ、その鑑賞の場では、作者自身は作用者ではない。ただし、たとえば、絵画に表題(あるいは題名)がつけられている場合は、内容は観者の解釈にも依存するが、表題は、観者が力を「与える」結果として、観者が受け取る内容に影響を及ぼすかもしれない。

 「無題」という表示があると、『作者は表題をつけていない untitled』ということではなく、作者は「無題」という題をつけたのだ、と解釈され得る。まぎれのないようにするには、「無題」という表示物を置かないことである。「(題無し)」と表示しても、(題無し)、という題(=「題無し」を左右に丸括弧をつけたもの)なのだ、と受け取られるかもしれない。
 ここでは、表題が与える影響、あるいは作用の観点から正しく言えば、観者が表題(記号の一種)を見て、意味を同定し、その意味を絵画を見たことへと投影するもしくは(いわばその観者の鑑賞空間で)相互作用させた結果のことも、射程にいれておく必要があることを書き留めておく。

 (例によって、システム的に厳密に議論しようとしてしまうと、(未熟ゆえに)脱線ばかりといった案配になる。)




風間虹樹 <いのち。乱舞、、、>展:世界2、世界7、世界[番外]

2011年06月25日 22時37分07秒 | 美術/絵画
2011年6月25日-1
風間虹樹 <いのち。乱舞、、、>展:世界2、世界7、世界[番外]




↑:入口付近

 


↑:風間虹樹 <いのち。乱舞、、、>展:世界[番外]

 











↑:風間虹樹 <いのち。乱舞、、、>展:世界7

 




↑:風間虹樹 <いのち。乱舞、、、>展:世界2





報道媒体(報道メディア)と報道および論評活動

2011年06月22日 23時06分45秒 | 生命生物生活哲学
2011年6月22日-7
報道媒体(報道メディア)と報道および論評活動


 自治体で、あるいは母親たちが、子供の健康を守るために、放射線測定器を購入していると、報じられている。政府も文部科学省もそして大手メディアも、国民が知りたいことや尋ねたいことを報じないからである。
 いろんな方面での根本的改革が必要である。それには、国民が個々に、また恊働して声を挙げ、助け合うことが肝要だろう。

 さて、週刊ポスト2011年7月1日号に、長谷川幸洋氏と上杉隆氏の対談が掲載されている。
 
  「長谷川 この大震災、原発事故からの3か月で、世の中の受けとめ方が実は相当、変わったと思う。〔略〕原発の放射能漏れなんかについて、政府のいっていること、東電のいっていることがウソじゃないかと、普通の人がみんな気がついちゃった。放射線量一つとっても、みんな疑いの目でマスコミを見始めたわけです。」(週刊ポスト 2011年7月1日号、34-35頁)。

 大手新聞などの記者から構成される記者クラブの弊害が言われて久しい。たとえば、『週刊読書人』に連載されて単行本になった、岩瀬達哉(2001)『新聞が面白くない理由』である。

  「長谷川 〔略〕経産省の広報室長が私の上司、論説主幹のところに電話で抗議してきた。で、今度はその抗議の経緯を書いた。そうしたら次は経産省記者クラブの東京新聞記者を懇談出入り禁止処分にしてきたから、それもまた書いちゃった。
   上杉 〔略〕海外のメディアは、圧力がかかっても全部書いちゃうんです。そしたら、圧力はかけられなくなりますよ。これを1970年代、1980年代からずうっとやってきてるから、海外の新聞は圧力に屈しない体質になった。」(週刊ポスト 2011年7月1日号、35頁)。



関西は脱原発へ

2011年06月22日 21時13分12秒 | 生命生物生活哲学
2011年6月22日-6
関西は脱原発へ

 2011年6月22日夜、テレビの報道によれば、山田啓二京都府知事は、原発の運転再開には、京都府の了解を得るようにする協定を結びたいと申し入れたらしい。関西電力は真摯に検討すると。

 4月27日の定例記者会見で脱原発を表明し、
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20110621mog00m040011000c.html

先日、関西電力に15%節電協力の根拠を問い、「15%の根拠も不明で『原発が必要』と言っているに過ぎない。こんなことに協力するつもりはない」
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20110621mog00m040011000c.html

と述べ、また、大阪市長に脱原発のために具体的にどうするのかと問うた、
橋本徹大阪府知事は、
テレビの報道によれば、本日、くそ暑いピークにエアコンを切るといったがまんをすれば、原発は運転せずに済む。それとも、原発のリスクをかかえたままでいるか、府県民のみなさんの判断だと述べた。

 ところで、毎日jp、2011年6月22日 20時00分によれば、

  「フランス・パリの空港で静岡産緑茶から欧州連合(EU)基準の2倍を超える1キロあたり1038ベクレルの放射性セシウムが検出された問題で、静岡県は22日、製造元の同県御前崎市にある製茶会社の同製品サンプルを検査し食品衛生法の暫定規制値(500ベクレル)を超える981ベクレルを検出したと発表した。
 〔略〕
  この農家が生産した荒茶は約1600キロで、フランスに輸出した製茶会社に1440キロを販売し、残りを自ら製茶にして約40の顧客に販売したという。」
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110623k0000m040052000c.html

とあるが、静岡県での検査に漏れたということなのか? あるいは、抜き取り検査もしていないということなのか?



風間虹樹 <いのち。乱舞、、、>展:世界5a

2011年06月22日 20時46分22秒 | 美術/絵画
2011年6月22日-5
風間虹樹 <いのち。乱舞、、、>展:世界5a











↑ すべて、<25 いのち。いざない。  S10正方形>の一部。
  構成要素は、白ジェッソの球状盛り上げ物、と、縦皺状の線。





↑ <25 いのち。いざない。  S10正方形>の、やや広い画布表面を、デジタルカメラの絵画仕様で撮った(画像処理)したもの。



風間虹樹 <いのち。乱舞、、、>展:世界4b

2011年06月22日 20時21分41秒 | 美術/絵画
2011年6月22日-4
風間虹樹 <いのち。乱舞、、、>展:世界4b

 


↑ 46 生命龍、龍龍龍、、、[5]  S0菱形

 


↑ 43 生命龍、龍龍龍、、、[2]  F3横

 
 主な構成要素は、球状泡粒つきの幅太線(龍)。
 構成要素は大きく変異する。ときには、(叩きつけた力による跳ね返りによって)分裂して、小さな異なる形状の、たとえば円状の構成要素を作る。

 
 <球状泡粒つきの幅太線(龍)>の製作例としては、風間虹樹:ざんぶらこっこ(2010年11月16日-4)
http://pub.ne.jp/1trinity7/?entry_id=3307574

や、風間虹樹:ずんぶらこっこ(2010年11月16日-5)
http://pub.ne.jp/1trinity7/?entry_id=3307585

が挙げられる。



風間虹樹 <いのち。乱舞、、、>展:世界6、モンドリアン装世界2

2011年06月22日 12時34分14秒 | 美術/絵画
2011年6月22日-3
風間虹樹 <いのち。乱舞、、、>展:世界6、モンドリアン装世界2







[世界6]
円テーブルの上にある絵画を、手に取って、観ませんか。
観る角度によって変化する、うずとひびを楽しむことができます。

 
 


[世界2]の一部を外から。
窓枠によって、絵画を後期モンドリアン風の装いに。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

芸術センター記念受賞作家展
風間虹樹 展 ~いのち。乱舞、、、~
2011年6月19日(日)~7月10日(日)10:00-17:00[会期中無休]
神戸芸術センター 2階 ミューズアーケード [入場無料]
神戸市中央区熊内橋通7-1-13
 山陽新幹線または地下鉄の新神戸駅から歩いて数分
 阪急または阪神の三宮駅から歩いて10数分
 JR三ノ宮駅から歩いて10数分
 電話:078-241-7477

作者在廊予定
 2011年6月23日(木)12:00~17:00
 2011年6月25日(土)12:00~17:00
 2011年6月26日(日)12:00~17:00
 2011年6月30日(木)12:00~17:00
 2011年7月 2日(土)12:00~17:00
 2011年7月 3日(日)12:00~17:00
 2011年7月 6日(水)12:00~17:00
 2011年7月 9日(土)12:00~17:00
 2011年7月10日(日)12:00~17:00

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 アーティストナビに掲載:
http://www.holbein-artistnavi.com/artnews/exhibition/kinki/10676.htm



風間虹樹 <いのち。乱舞、、、>展:世界3、世界4

2011年06月22日 12時11分12秒 | 美術/絵画
2011年6月22日-2
風間虹樹 <いのち。乱舞、、、>展:世界3、世界4


 
☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

芸術センター記念受賞作家展
風間虹樹 展 ~いのち。乱舞、、、~
2011年6月19日(日)~7月10日(日)10:00-17:00[会期中無休]
神戸芸術センター 2階 ミューズアーケード [入場無料]
神戸市中央区熊内橋通7-1-13
 山陽新幹線または地下鉄の新神戸駅から歩いて数分
 阪急または阪神の三宮駅から歩いて10数分
 JR三ノ宮駅から歩いて10数分
 電話:078-241-7477

作者在廊予定
 2011年6月23日(木)12:00~17:00
 2011年6月25日(土)12:00~17:00
 2011年6月26日(日)12:00~17:00
 2011年6月30日(木)12:00~17:00
 2011年7月 2日(土)12:00~17:00
 2011年7月 3日(日)12:00~17:00
 2011年7月 6日(水)12:00~17:00
 2011年7月 9日(土)12:00~17:00
 2011年7月10日(日)12:00~17:00

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↑[世界3](右方の世界1と呼応)


 




↑[世界4]


風間虹樹 <いのち。乱舞、、、>展:世界2

2011年06月22日 11時51分57秒 | 美術/絵画
2011年6月22日-1
風間虹樹 <いのち。乱舞、、、>展:世界2















☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

芸術センター記念受賞作家展
風間虹樹 展 ~いのち。乱舞、、、~
2011年6月19日(日)~7月10日(日)10:00-17:00[会期中無休]
神戸芸術センター 2階 ミューズアーケード [入場無料]
神戸市中央区熊内橋通7-1-13
 山陽新幹線または地下鉄の新神戸駅から歩いて数分
 阪急または阪神の三宮駅から歩いて10数分
 JR三ノ宮駅から歩いて10数分
 電話:078-241-7477

作者在廊予定
 2011年6月23日(木)12:00~17:00
 2011年6月25日(土)12:00~17:00
 2011年6月26日(日)12:00~17:00
 2011年6月30日(木)12:00~17:00
 2011年7月 2日(土)12:00~17:00
 2011年7月 3日(日)12:00~17:00
 2011年7月 6日(水)12:00~17:00
 2011年7月 9日(土)12:00~17:00
 2011年7月10日(日)12:00~17:00

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 アーティストナビに掲載:
http://www.holbein-artistnavi.com/artnews/exhibition/kinki/10676.htm




理念無き政治、人格無き学識、道徳無き商業

2011年06月22日 01時07分48秒 | 生命生物生活哲学
2011年6月22日-1
理念無き政治、人格無き学識、道徳無き商業

 2011年5月23日、参院行政監視委員会で小出裕章氏が参考人として述べた言葉(が文字起こしされたもの)である。最後に、ガンジーの言った7つの社会的罪を挙げている。

  「最後になりますが、ガンジーが7つの社会的罪という事を言っていて、彼のお墓にそれが碑文として残っています。
 一番初めは「理念無き政治」です。
 この場にお集まりの方々は政治に携わっている方々ですので十分にこの言葉をかみ締めていただきたい。
 そのほかたくさん「労働無き富」「良心無き快楽」「人格無き学識」「道徳無き商業」これは東京電力をはじめとする電力会社に当てはまると私は思います。
 そして「人間性無き科学」。これは私も含めたいわゆるアカデニズムの世界がこれまで原子力に丸ごと加担してきたということを私はこれで問いたいと思います。」
http://www.monipo.net/blog/nuclear-power-plant/gyouseikansi-110523/


http://hhashiguchi.jugem.jp/?eid=391

http://futakin.txt-nifty.com/blog/2011/05/post-a828.html
によれば、ガンジーが言った「7つの社会的罪」とは、

  1.理念なき政治 Politics without Principles
  2.労働なき富 Wealth without Work
  3.良心なき快楽 Pleasure without Conscience
  4.人格なき学識 Knowledge without Character
  5.道徳なき商業 Commerce without Morality
  6.人間性なき科学 Science without Humanity
  7.献身なき信仰  Worship without Sacrifice
  (7つの社会的罪~Seven Social Sins~マハトマ・ガンジー)

だそうである。
 worship without sacrificeは、犠牲なき崇拝だろうか。献身はdevotion、信仰はfaith。faithは信または信心と訳すべきか。


案内:原発講演会/原子炉の構造とメルトダウン、地震と放射能汚染

2011年06月21日 13時07分04秒 | 生命生物生活哲学
2011年6月21日-1
案内:原発講演会/原子炉の構造とメルトダウン、地震と放射能汚染

 2011年3月11日に起きた大地震をきっかけとした福島第一原発の事故にかかわって、
  原発の構造,地震との関係,事故の原因,事故の対策,原発の将来,などについて
また、
  日本のエネルギーなどの明日の姿について
考える原発講演会があります。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

原発講演会
 日時:2011年6月29日(水)13時~16時
 場所:京都大学吉田キャンパス,物理系校舎313室
   (時計台から東へ,1,2号館のさらに東にある8階建てのツインビル)

 1. 原子炉の構造とメルトダウン
  講師:小林圭二(元京都大学原子炉実験所教員)
 2. 地震と放射能汚染
  講師:荻野晃也(元京都大学工学研究科原子核工学教員)

 福島原発については,連日多くの報道が流され,多くの専門家の解説がなされています.しかし,世界中の多くの人々は、何を信じていいのか,何かが隠されているのではないかと疑心暗鬼に陥っています.福島原発はなぜ事故を起こしたのか? 他の原発は安全なのか? という問いは依然として疑問符がついたままです.また,「安全神話」,「想定外」,「メルトダウン」,「御用学者」などの言葉が現れました.これらの言葉も,大きな問題をはらんでいます.すなわち,神話はどのようにして作られたか? 想定は誰がしたのか? メルトダウンは電源喪失が原因とされているが,地震の振動で配管破損と冷却水喪失が生じたのではないか? 御用学者と京都大学の関係はどのようなものか? などがあげられます.これらの問題は科学,とくに工学の本質に根ざしており,この解明なくしては同じ誤りを繰り返します.
 このたび,1970年代から原発の危険性を一貫して警告されてきた小林圭二氏と荻野晃也氏を京都大学に招いて、原発の構造,地震との関係,事故の原因,事故の対策,原発の将来,などについて説明していただきます.そして,日本のエネルギーなどの明日の姿について考えましょう.

 主催:縮小社会研究会(http://vibration.jp/shrink/)
 共催:京都大学安全センター

 当日参加可ですが,予約(先着150名)は,松久(matsuhisa(at)me.kyoto-u.ac.jp)まで

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


以上(☆範囲内)、
http://vibration.jp/shrink/right0.html
から転載。

 また、原発に関する講演会のお知らせ:
http://blog.goo.ne.jp/bgfanclub/e/5728343081335edffdd53be1986d025e