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《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

美術修行2017年8月21日(月):読書録=森村泰昌 2014/7 『美術、応答せよ!』、抽象絵画原論覚書20170821

2017年08月21日 12時33分30秒 | 美術修行
2017年8月21日-1
美術修行2017年8月21日(月):読書録=森村泰昌 2014/7 『美術、応答せよ!』、抽象絵画原論覚書20170821


森村泰昌.2014/7/30.美術、応答せよ! 小学生から大人まで、芸術と美の問答集.252pp.筑摩書房.[本体価格1800円+税][大市図阿704][Rh20170817]

 質問してもらって、答えるという、問答形式を取っている。概して、真剣勝負的である。だから、面白い。文章もわかりやすく、上手い。人生相談的でもある。

 絵を観るときの二つの捉え方として、

  ・うまい
  ・おもしろい

がある。
 〈うまい〉は、デッサンがしっかりしている、色彩感覚が良い、筆さばきに停滞が無い、などの物差しをあてがえば、うまいかどうかは判断できる。
 〈おもしろい〉は、人によってまちまちになる。数人だと一致しないときは、決定困難。
(森村泰昌 2014/7、44-45頁)。

 →もっと他に、評価基準があるはず。


 さて、とりわけ興味深かったのは、

  ・抽象画ってどうやって描くのでしょうか?
  ・作品の値段が上下するのをどう思いますか?

という質問の項目だった。


・ 抽象画ってどうやって描くのでしょうか? (77-85頁)

  「レオナルドは、〔略〕「目に見える世界を摑みとろう」としていますが、他の画家たちはたいていの場合「なぞろう」とする。なぞるから輪郭線ができます。」
(森村泰昌 2014/7、81頁)。

 確かに。ただし、輪郭線とは個体的システムの境界を図示しているとも捉えられる。
 → 抽象絵画での輪郭の問題。線的表現、あるいは背景色とそれとは異なる色線または色面。



  「日本美術とは「図柄の視座」であったと私はとらえてみました。日本美術にとって、目に見える世界は「図柄」としてとらえられている。〔略〕
 〔略〕
日本美術史における視覚表現が「図柄」として現れるのであるとすれば、〔略〕西洋美術史とは根本的に話が違ってきます。たとえば、福田平八郎作『漣』にしても、これを日本画における抽象画の現れととらえてしまっては理解が遠のきます。そうではなく、「これは斬新な図柄だ」と感心すべきなのです。図柄なら、はじめから具象と抽象は地続きです。菊(具象)も唐草(半抽象)も市松(抽象)も、すべては「図柄」のバリエーションです。日本美術の「目と精神」において。「具象画vs.抽象画」という対立概念自体は当初から存在しません。〔略〕すべてが「図柄」の問題であるなら、それが具象であろうと抽象であろうと、人々は、絵の「図柄」を着物の「図柄」のように品定めしたり、着物の「図柄」を絵のようにながめたりすることができる。日本画の展覧会に多くの人々が関心を寄せるのも、「図柄」という誰にでもわかる尺度で鑑賞が可能だからではないでしょうか。」
(森村泰昌 2014/7、82-84頁)。

 日本美術史から考えると、西洋美術史とは異なった美的感受性として、図柄として見るという点があるとしている。あるいは、日本美術では、
  
  「目に見える世界は「図柄」としてとらえられている」(森村泰昌 2014/7、83頁)。

 定義はされていないので、「図柄」とは模様 pattern、つまり、なんらかの表面への色の配置の結果を指すことと解釈しよう。おそらく平面的表面を想定しているだろう。

  絵画の構成={色模様、(?その他)}

 町の衆に浮世絵は、版画であり、きわめて平面的であった。そこでは、人物や道具とか風景とかとともに、色と配置を味わっていたのだろう。
 →というよりは、色付きの個体的対象(人物、着物、橋、雨筋、)とその振る舞いや表情や、見る者が投影した叙情を、そして全体の配置から醸し出されるものまたは見て取ったことを、味わっていたのだろう。
 →具象絵画における個別的対象の種類同定の問題については、別に述べる。

 西洋油絵の影響を受けて、日本画では厚塗りが現れた(室町時代かの大和絵では、たとえば花弁のところに胡粉をえらく盛り上げていることは稀ではない)。いまでは、薄いのから厚いのまで、いろいろである。図柄の視座だけではなくなっている。これは、洋画でマチエールが問題にされたことが関係しているだろう。こんにちでは、絵肌も絵画の構成者として考えなければならない。

  絵画の構成={色模様、表面の肌あい、その他}

 福田平八郎『漣』[1932年。大阪市立近代美術館建設準備室蔵]が、少なくともその当時に出品されたとき、「斬新な図柄」だったのはそうだろう。森村泰昌氏の言う「図柄」には色も入っているとしよう。確かに、『漣』は的である。しかし、水面という背景に、漣を構成する

  「下地であるプラチナ箔の下に、さらに金箔が重ねて押されていたことが分かりました。作者自身はこのことを「どう勘違いしたのか、表具屋が金箔を張り付けてきた。出品まで、もうやり直す時間もないし、ままよと窮余の一策に、その上に銀を張ったのが、却ってよい効果を生んでくれました」と後に語」
 《漣》箔の秘密 [大阪新美術館建設準備室]
http://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu120/artrip/gallery_pickup_05.html

ったように、プラチナ箔とその下に金箔という二層に貼られたことと、その上の岩絵具の群青(など)の大きさとその個体密度分布が醸す視覚効果である。
 模様だけにならば、漣が立つ程度の風が吹いている川や池で斜め上から写真を撮ると、色抜きでの模様は、《漣》同様になる。福田平八郎《漣》は写実的である。
 絵画として《漣》の良さは、構え(ここでは斜め上から見たように、漣を構成する波表面を表す閉面個体たちが上方へと小さく密になる。これは写実または対象の模倣または擬え[なぞらえ])だけでなく、極めて微妙な色合いとその分布である。つまり、
  
  絵画の評価事項={(色を捨象した場合の、個体的要素の絵画全体の)構え[分布様式、または格好]、
           色分布または配置]、その他}

とすると、

  構えが良く
   (ただし模写的であって、外界で目新しい模様ではない。ただし、その当時、漣だけを描くという画面は、目新しかっただろう。)、
  色合いとその変異が良い、
   (大きくは二重の箔貼りによる。しかも、事故的な偶然による。)

ところが、双方あいまって、つまりは全体として(および触覚的成分も視覚的に合成されて?)、見映えがするのだと思う[視覚的評価]。
 [→別項目で、抽象絵画原論へ持って行く。]

 なおここで、絵画表面の、または立体絵画の、「構え」とは、〈造り〉とか〈姿勢〉や〈態度〉といった語で言い換え得るような、意味であるが、感性的な評価を含まないように定義すると、次の通りであり。ここでは、概念的あるいは解釈的なことは含まない、つまり純粋絵画的なことに制限している。

 定義[構え]=
        或る人が、絵画体全体の個体的構成要素を観て、捉えられる動的ないし静的な感じ、つまり(動的および方向的に性質を含む)配置的な感性上の効果。

 福田平八郎『漣』の場合には、図柄としてとらえることで、半分くらいは説明できるかもしれない。
 若冲や蕭白の作品から、空気感や、勢いが、感じ取られたとしよう。図柄というよりは、筆跡からのものだろう。
 また、横山大観らの言う〈気韻生動〉は、図柄の問題だろうか?。〈生々流転〉は、叙述的または物語的形式とともに、描き方で和紙と墨の性質を生かしたところが良い。


92頁。
 美術作品を作るときは制作で、映画の場合は「製作」と呼び、後者は興行として行なわれるからだという。
 この区別は、成立しない。

 ウィキペディアによれば、
  「興行(こうぎょう)とは、人間が表現する芸術の基盤を形成し、同時に大衆へ娯楽を提供する行為である。具体的には見物人から入場料をとる代わりに演芸やスポーツを見せる事である。」
という。
  「こうぎょう【興行】
   《名・ス他》演芸やスポーツを行い、入場料をとって客に見物させること。 「相撲(すもう)の―」」
  (https://www.google.co.jp/search?source=hp&q=%E8%88%88%E8%A1%8C&oq=%E8%88%88%E8%A1%8C&gs_l=psy-ab.3..0l8.701.701.0.887.1.1.0.0.0.0.151.151.0j1.1.0....0...1.2.64.psy-ab..0.1.151.qLJBoze0R0g)[受信:2017年8月20日。]
ともあるから、入場料を取るかどうかの違いらしい。

 確かに、映画を作る produce ときは、映画館で上映して入場料を取るのが前提であることが多いだろうが、興行されない場合もある。
 美術作品は、ムットーニのからくり人形

http://www.muttoni.net
[受信:2017年8月21日。]

のように[劇場型。数年前に札幌で見た。いちぞやのアートフェア東京では箱の中を覗くという趣向だった。]、音楽を奏でるとともに動かして(つまり上映になるだろう)、それをいくつか見せることで、入場料を取っていた。
 根本的な違いは無い。公立または私立ま美術館も、入場料を取るので、興行であろう。
 また、絵画作品を個別に売ることがあるし、ギャラリーなどで多くの客に売ることがある。工業製品も個別にまたは集団的に売ることがある。ここでも違いは無い。


100頁。
 ヴィンチ村のレオナルドも、フェルメールも、(ヨハン ゼバスティアン バッハも)一度忘れ去られた。
 (しかし、メンデルスゾーンはバッハを発掘した。)


  「近代において、芸術は、「失敗」という割の合わないリスクを背負うことこそが価値であるという、まことにいびつな事業となっていきました。」
(森村泰昌 2014/7、101頁)。

  「「判断するな」、これが芸術におけるまことに逆説的な判断基準である。〔略〕芸術とは、理性、理論、数値を重要視する近代の裏面としての狂気です。」
(森村泰昌 2014/7、102頁)。

  「二十世紀になりますと、芸術という事業に異なった様相が現れます。マルセル・デュシャンは「観念の事業化」を計画し、ヨーゼフ・ボイスは「芸術の事業化」ではなく「事業の芸術化」を構想するといった具合に。」
(森村泰昌 2014/7、102頁)。


139頁。
  「「ネガは楽譜である」という発想に、絵画とは異なる写真特有の表現の在り方が示されている。」

 グレン グールドは、バッハのゴルトベルク変奏曲を2回レコーディングした。
 さて、版画という部類からは除かれることもあるが、モノタイプという製作方法がある。
 たとえば、金属板にインクをおいて、へらなどで模様をつけて、それを紙などに転写する方法である。
 (故)一原有徳さんは、なかなか迫力あるモノタイプ作品を作っている。
 ついでに言えば、一原有徳さんがやったように、バーナーで鉄板を焼いて、虹色模様をつけて絵画とすることができる。

 写真は photography の意訳的訳語である。本来ならば、光図と訳すべきところである。
 写真の出現で、絵画は変貌せざるを得なかった。模写ならば、写真のほうが精密な写しであるし、後年の技術的発達によって簡単に色彩写真もできるようになった。
 写真は、ネガまたはポジフィルムが版となって、複製品ができる。明瞭に、版画の部類になる。
 絵画においても、縮小または等倍の下絵や、あるいは頭の中の心像によって、絵画を製作したのならば、それが元の版である。
 版があって、それをもとに筆に絵具をつけて同様の絵画を作ることができる。また、紙または画布を置いて、薄い和紙や厚いダンボール紙をくり抜いて、凹部分に絵具を充填する、穴を通して紙へ押し出す squeegee こともできる[孔版画]。
 版または元のものを、なんからのやり方でなぞれば、版画である。
 頭のなかで構図にしたがって、絵具を滴下したり dropping 振り出したり swinging out、ジャクソン ポロック流に垂れ落とし dripping または 注ぐ落とし pouring したりすることもできる。この場合も、版画と言いなすことができるが、もとより、画面での自由度は大きい。偶然的な、というより人手で制御できない割合が大きいのである。
 結局のところ、

   固定された指図芸術品として楽譜
   →演奏者を介して、一定範囲内で様々な変異作品が製作される、または上演、または演奏される。

 贋作や盗作とは、異なる製造者や色の絵具で変奏された、または変装された作品である。元になった絵画は、元の版画または楽譜である。
 贋作で、たとえばゴッホという署名は、元となった絵画の作者名(音楽作品ならば、作曲者名)である。
 ま、アプロプリエーション appropriation っては、元材料を定めれば、創造性をあまり発揮しなくて良いので、楽であり、堕落でもある。
 脱線した。


164頁。解説すると作品を限定してしまう、という主張。

  「自作解説なんて真正直にしてはいけない。〔略〕「私の作品はこれこれしかじかのものだ」なんて決めつけてしまったら、〔略〕作品のなかのもっと他にもあるに違いない多様性が見えなくなってしまいます。作品は明快に解説されたとたん、その範囲内の小さな世界にやせ細ってしまうのです。」
(森村泰昌 2014/7、164頁)。

 それは、そのような作品の場合であろう。また、そもそも、言語で伝わるのなら、言語で伝えるとか表現すればよいので、作品を作る必要は無い。
 しかし、新しい種類のものならば、観方や作り方を語って、感性を引き出すとか植えつけるといったことは、むしろ本質的なことである。とりわけ、二次元ないし三次元の抽象絵画の場合には。


170頁。
美術とアートを分けている。
 「私はこうとらえます。「美術」とは「こだわることが美であるような世界」である。これに対し、「アート」とは「こだわらないことが美であるような世界」である、と。」
(森村泰昌 2014/7、170頁)。


 カラヴァッジョの『ロレートの聖母』を例に、森村泰昌は、
  「「聖と俗」の共存によってカラヴァッジョが人々にもたらしたもの、それは、きれいな絵空事としての信仰ではなく、泥やひび割れや俗悪や野卑といった生活感覚を伴ったリアルな信仰。これは自分自身の問題なんだという当事者意識が感じられる信仰のあり方だったのではないか。
 本来は唯一無二の真理を求めるキリスト教世界なのでしょうけれど、胸に手をあて自問すれば、誰もが感じ取れる美的価値の多様性。〔略〕「聖」も「俗」も、「美」も「醜」も共存させうる汎神論的美の視点。美は世界にあまねく存在するという「美のアニミズム」。私の美術への興味の拠り所となっているのも、そういう拡散し偏在する「美」のありようにほかなりません。」
(森村泰昌 2014/7、224頁)。

 美と醜という感性的判断としては反対極のものを共存させれば汎神論的、というのは「汎神論的」の意味がわからない。たとえば、玉石混交していたら、汎神論的なのか?。
 なにかが世界にあまねく存在すると考えれば、アニミズムなのか?。
 「拡散し偏在する「美」のありよう」と、汎神論的とかアニミズムとがどう接続するのか、あるいは何を指摘または特徴抽出したのか、わからない。

 →八百万神[やおよろずのかみ]とは、「森羅万象に神の発現を認める古代日本の神観念を表す言葉」とある。
 
  「日本の記紀神話にあらわれる八百万神(やおよろずのかみ)の世界も多神教の一種であるが,その神々は古代ギリシアの宗教やインドのヒンドゥー教における多神教とは異なって,肉体的な特徴や個性をもたず,目にみえない存在であった。」
(世界大百科事典の【多神教】より。
https://kotobank.jp/word/八百万神-874603[受信:2017年8月21日。])

 日本での「肉体的な特徴や個性をもたず,目にみえない存在」とは、西洋では天使とか妖精とか自然霊に相当するものだろう。ただ、日本では概括して捉えていて、特徴づけまたは分類はしなかったのではないか?。時代が下ると、座敷わらしだとか、一つ目小僧だとか、様々に想像豊かに、物語られた。
 また、脱線した。

  「野生の動物は野生に放つべきです。同様に「美」の世界も「お芸術」として美術館に隔離するのではなく、「見世物」として猥雑かついきいきと生きていた世俗に戻すべきである。」
(森村泰昌 2014/7、[あちこち探したが]頁不明)。

 上記の文は、問いへの答えとして「野生の美学」の精神という文脈で考えられている。
 野に生きる美術作品はあるだろう。けれど、ホームレスではなくて住居のある人には、雨露を気にしなくてよい場所で観てもらってもよい。
 絵空事や綺麗事を目指す者には、まずは屋内作品で考えたい。その中で、水をぶっかけることで美しく見える作品もありだろう。



◆ 「作品の値段が上下するのをどう思いますか 小山登美夫」(150-159頁)

 小山登美夫さんからの大人しい質問に対して、森村が挑発して、面白くなった。
「美術関係者」の金銭経済の問題。商業性。

  「現代美術と呼ばれるジャンルは、時代の最先端を行く内容でありながら、日本では「わけのわからないものけとして、なかなか世に広く認知されないという現実が長らくありました。
〔略〕
 コレクターのパイを増やすこと。〔略〕アートフェアを開催すること。〔略〕作品が流通し、美術家が自活できるような環境を整備すること。経済の自立をともなわない美術の自立はありえないという視点に立ち、この美術の自立の拠点としてギャラリーを機能させること。」
(森村泰昌 2014/7、154頁)。

155頁。
 有名になるにつれて、作家はギャラリーを必要としなくなる。

  「日本にいながら絵画の大コレクターに売っていけるようなことが必要です。アートフェアやシンガポールの支店はその窓口になればと思っています」
(小山登美夫、於:森村泰昌 2014/7、157頁)。

 ギャラリー経営の安定には、顧客に売れ筋の美術品を揃えることは、一つの手だろう。
 しかし、「市場」の規模は、まだ大きくない。
 けれど、

  「売れるものにみんなが貪欲に群がっていくのが凄く強く感じられて、これは大手ギャラリーやオークションハウスが、マーケットで売れるものを意図的に作り上げることが頻繁になったせいなのかもしれませんが、まったく太刀打ちできない無力感があります。でも、麻薬になったとたん、自分にとっては作品がつまらなくなってくるように思えます。〔略〕でも確実に「売れて行く」ということは興味深いことです。」
(小山登美夫、於:森村泰昌 2014/7、158頁)。

 日本の商業ギャラリー〔画廊〕の苦労の多いことは、やはり長い歴史のある欧米の芸術環境によるだろう。美術作品の評価基準は、彼らが持っているからである。
 美術の中心地が、経済的興隆と関わって、

 パリ→ニューヨーク(とパリ)→香港や上海(あるいは北京)といった中国の都市(とニューヨーク(とパリ))

となるかもしれない。
 しかし世界は、縮こまっていく。人口もまた縮小すべきであろう。
 簡素な生活をするにしても、人の文化的生活水準を考えれば、地球の収容環境からして、人口は減らすべきであろう。「先進」国の日本は、この点で世界に先駆けている。
 
 では、どうする?。
 地域社会の各分野または小地域ごとに無理の無いゆるい連携であろう。
 協力、したがって資源の分かち合いである。
 「貨幣」とは何か、「経済」に貨幣は必要なのか、必要または便利だとしても、一部のものだけが「富む」とか、社会において支配的になる、といっことを防ぐ、または地球住民全員に健全な経済と文化的生活を取り戻すことが、肝心である。
 美術が、文化的生活に必要だとすれば、日本での

  文化的生活のできる資材と金銭の全員への支給
  [基本収入全員支給制]

が、考えられ実施されるのが良いかもしれない。
 すでに、外国では実験的実施が行なわれている[要検討]。



生活の経済的側面(覚書)

 美的作品製作者としての、生活の経済的側面。
 現在は、中央銀行がほぼ無からお金を振り出す貨幣経済。

 地域的、または仕事や趣味の分野的交流社会の経済的側面
 広域的社会、県やたとえば京阪神とか近畿圏
 日本社会、アジア社会、北半球、南半球、地球規模社会

学問修行2017年8月20日(日):読書録 野村泰紀 2017/7 マルチバース宇宙論入門

2017年08月20日 17時57分01秒 | 学問修行
2017年8月20日(日)-1
学問修行2017年8月20日(日):読書録 野村泰紀 2017/7 マルチバース宇宙論入門

野村泰紀.2017/7/25.マルチバース宇宙論入門 私たちはなぜ〈この宇宙〉にいるのか.190pp.[本体920円(税別)][B20170818、993円][Rh20170820]


  インフレーション
  ↓
  ビッグバン
  (膨張宇宙)

 多宇宙[マルチバース]宇宙論で、「人間原理」を説明する。
 誤解を解く。
 数式は使わないが、専門家にも検討できるように()で述べている。
 素粒子の標準模型と量子力学を接合した。
 無限発散を、解決する。かつて、繰り込みで解決した。



90頁に、カラビ−ヤウ多様体の図あり。

 
引用1。174頁。
  「インフレーションが全く起こらなかったり、その期間が短すぎるような宇宙(正確には曲率が大きすぎるような宇宙)では、銀河や星、ひいては生命などの構造が生まれないことを示すことができる。つまり、もしある雨中に生じた知的生命体がその宇宙を観測したとすると、常にインフレーションが起こったようなおうちを見ることになる。しかし、そのインフレーションの期間は生命が生じるのに必要な以上には長くなかったと考えるのが自然である。なぜなら、そのような長いインフレーションが起こる確率は小さいと考えられるからである。そしてこれは、将来雨中の曲率を観測する可能性があることを意味する。」
(野村泰紀 2017/7。マルチバース宇宙論入門、174頁)。

問題点。
 ・「ひいては生命などの構造」とは、銀河や星ができたから、生命も出現したという意味だろうか?。この本では、生命を定義していない。
 ・「生命体」または有機体という語で、生きている物質体を指すとすると、それは生命がまとうまたは構築する物質体の構造()のことである。生命そのものではない。
 ・生命体が暗黒物質だけから成る場合は無いのだろうか?
 ・生命体が暗黒エネルギーだけから成る場合は無いのだろうか?
 ・生命体が暗黒エネルギーと暗黒物質だけから成る場合は無いのだろうか?
 ・われわれが観察できる生命体、たとえば有機体 organism が、通常物質と暗黒物質から成る場合も、考えてみようではないか?
   →生物にみられる機能の機構的説明へ。


引用2。176頁。
  「将来の観測で宇宙の曲率が見つかったならば、それは量子的マルチバースの描像〔略〕を示唆することがわかる。(〔略〕曲率が見つからなかった場合は、その結果だけからはどちらの描像が示唆されると言うことはできない)。」
(野村泰紀 2017/7。マルチバース宇宙論入門、174頁)。


引用3。177頁。
  「時間とは何か、そしてそれはどのようにして生じるのだろうか? 量子的マルチバースの描像は、〔略〕それを探求する枠組みは与えてくれる。
〔略〕
私自身はマルチバース全体の状態がある数学的条件〔略〕で一意的に決まる可能性を議論した。そこでは、マルチバースの状態は実は時間発展などしておらず、我々マルチバースの一部である観測者が時間と感じるものは異なる物体〔略〕の間の相関として、我々の宇宙(や他の多くの宇宙)の中の性質として「近似的に」現れるという描像が得られた。」
(野村泰紀 2017/7。マルチバース宇宙論入門、177頁)。


学問修行2017年8月19日(土):日本の政治問題

2017年08月19日 02時06分02秒 | 学問修行
017年8月19日-1
学問修行2017年8月19日(土):日本の政治問題


 今後の総選挙でも地方選挙でも、自民党は惨敗するだろう。


  「10月22日の衆院補選に合わせて総選挙を行うスケジュールが濃厚だとされる。秋の臨時国会冒頭で解散ということになるが、その根拠のひとつとして挙げられているのが、加計学園の獣医学部新設の可否を判断する大学設置・学校法人審議会の動向だ。当初は今月下旬に答申を出すはずだったのが、「2カ月程度」延期されることになった。
〔略〕
 加計問題をいったんリセットする意味でも、総選挙を仕掛ける可能性が高まっています」(政治部デスク=前出)

 安倍首相が今秋の解散に踏み切れば、加計学園のためということになる。そんな党の私物化を自民党は本当に許すのか。

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/211630/3
[受信:2017年8月19日。]


美術修行2017年8月14日-1:暮沢剛巳 2008/7『現代アートナナメ読み』読書録、中サワヒデキ 1989 近代美術史テキスト

2017年08月14日 23時38分54秒 | 美術修行
2017年8月14日-1
美術修行2017年8月14日-1:暮沢剛巳 2008/7『現代アートナナメ読み』読書録、中サワヒデキ 1989 近代美術史テキスト

[く]
暮沢剛巳.2008/7/4.現代アートナナメ読み 今日から使える入門書.237pp.東京書籍.[本体1700円(税別)][Rh20170804][大市図阿702]


 2017年6月23日、読み始めた。 その後、中断した。
 2017年7月24日頃に、「第2部 アートの見方ナナメヨミ」(127-162頁)の部分を読んだ。10人の美術評論家を2頁の見開きで解説している。平易な文章で本質的なところを判断して書いている。大変参考になる。
 2017年8月4日、読了。


  「アートと政治——「美しい国」とはなんだったのか?
〔略〕
 2006年7月に出版された『美しい国へ』(文春新書)は、小泉純一郎首相の退陣を間近に控え、後継が確実視されていた安倍晋三官房長官(いずれも当時)の初の著書で、彼の政見表明という側面をもっていました。国家の自立、北朝鮮への強硬姿勢、日米安保体制の重視、教育や年金制度の改革意欲などからなる内容は賛否両論を呼び、多くの書評が出ました。〔略〕
私か本書を手に取ったのは、『美しい国へ』というタイトルへの関心からでした。ひょっとしたら、国土や景観について突っ込んだ政策を語っているのではと思ったのです。しかし本書では最後の方で《私たちの国日本は、美しい自然に恵まれた、長い歴史と独自の文化を持つ国だ》(228ページ)と書いてあるきり、「美しい国」の具体的なビジョンはほとんど語られていません。」
(暮沢剛巳 2008/7、21頁)。


  「家族愛に満たされ、ある種のノスタルジアに彩られた「古き良き日本」が理想像であることは間違いありません。」
(暮沢剛巳 2008/7、22頁)。

  「アート作品に登場する景観のイメージは実に多種多様です。そこにはおよそ統一的な美の基準など存在しない〔略〕
志賀重昴によって『日本風景論』という本が書かれました。日本の風景の特質を火山や松やリアス式海岸に見たこの本は、日清戦争の勝利の余韻もあってか大ベストセラーとなりました。この逸話は、景観の美醜の判断がナショナリズムと結びつきやすいことを示しています。「美しい国」を目指すことと画一的な景観を押し付けることのの境界線はどこに引かれるべきか、再考したいところです。」
(暮沢剛巳 2008/7、27頁)。

 言い方は穏やかだが、安倍晋三氏の聞こえがいいだけの空疎な言葉の口先だけという無内容無責任性は、昔からだったということだ。その本の執筆が代筆だとしたら、その人は忠実ということになる。
 

 第2部のアートの見方ナナメヨミは、10人の批評家を取り上げていて、その視点を簡潔に解説し、わかりやすい見取り図にもなっている。
 芸術批評の「トポグラフィ〔地勢図〕」と題した図があるが、
   アート     ←→非アート
   ポストモダニズム←→モダニズム
   ジャーナル   ←→アカデミズム
の3軸上に10人を位置づけている。

 暮沢剛巳氏の対談相手である小西信之氏は、
  『オリジナリティと反復―ロザリンド・クラウス美術評論集』(1994/11 訳)【未読】
の翻訳者でもあった。


 さて、ネットしていると、

中サワヒデキ.1989.近代美術史テキスト 印象派からポストへたうまイラストレーションまで.44pp.トムズボックス.[500円+税]

というのが、面白そう。
 
  「フォンタナの制作風景を描いた3コマ漫画があるのですが、最終コマでは何と実際にカッターの切れ目が入っています。〔略〕
当然ですが、ページをめくった裏面、第9章イブ・クラインの箇所にも切れ目はありますね。〔略〕
驚くなかれ、さらにめくっていっても切れ目は続き、ハイレッドセンターの頭を切り裂き(写真)、この本では10章の「現在美術(1)」まで6ページ分も切れていました。」
http://artdiver.moo.jp/?p=648[受信:2017年8月14日。]

とあった。副題に「へたうま」とあるし、第8章は、フォンタナ「空間概念」。

  「
目次:

第1章 印象派
第2章 野獣主義と立体主義
第3章 ピカソ「ゲルニカ」とマチス「ナスターチウムの花と≪ダンス≫」
第4章 戦前期20世紀美術
第5章 「ダダ」とは お馬ドウドウの意味
第6章 戦後アメリカ美術の誕生
第7章 ジョーンズとジョーンズ以後
第8章 フォンタナ「空間概念」
第9章 イヴ・クラインと三木富雄の時代
第10章 現在美術(その1)
第11章 現在美術(その2)
第12章 ネオ・ジオの真意
第13章 シミュレーション100%:ジェフ・クーンの「芸術?」
第14章 ヘタうま・パルコ・反イラスト
第15章 スージィー甘金とイラストの心
アーティスト名索引」
http://lilmag.org/?pid=33428707[受信:2017年8月14日。]

 注文した。

学問修行2017年8月8日(火):Charles R. Kelly 1962/9「オルゴン エネルギーとは何か」のProperties of Orgon -Energyの節の訳出

2017年08月08日 16時00分49秒 | 学問修行
2017年8月8日(火)-1
学問修行2017年8月8日(火):Charles R. Kelly 1962/9「オルゴン エネルギーとは何か」のProperties of Orgon -Energyの節の訳出

[これは、2017年8月7日(月)-1
学問修行2017年8月7日(月):Charles R. Kelly 1962/9「オルゴン エネルギーとは何か」の訳出
、に追加したもので、もとのそれは削除した]


Kelly, Charles R. 1962/9. What is orgone energy?. The Creative Process 2(2&3): ??-??. [reprinted 1999/7. Figure 2 substituted]
[https://www.bibliotecapleyades.net/ciencia/ciencia_reich06.htm、で2017年7月9日に入手した]

の、Properties of Orgon -Energyの節を訳した。


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   オルゴン エネルギーとは何か?
     Charles R. Kelly 著
     from Orgone Website


「オルゴン エネルギーとは何か?」への序 Introduction to "What is Orgone Energy?"
〔略〕


オルゴン エネルギーとは何か? What Is Orgone Energy?
〔略〕


ライヒによるオルゴン エネルギーの発見 Reich’s Discovery of Orgone Energy
〔略〕


オルゴン エネルギーの諸性質 Properties of Orgone -Energy

 オルゴン エネルギーは、自然における創造的な力であるが、電磁気の一形態ではなく、物質の一形態でもない。しかし、それはどちらにとっても基礎となるものである。オルゴン エネルギーは、特異的な生命エネルギーであるが、生命はそれの一つの特定の顕れにすぎない。それについての知識は、主要な点で部分的で断片的であり、疑いもなく幾らかは間違っている。にもかかわらず、ライヒの仕事からは、オルゴン エネルギーは何なのか、それはどのように機能するのかについての、明瞭で一貫した描像が浮かび上がる。

 オルゴン エネルギーの次の10個の性質が、ライヒによって導かれた。

 1. それは、質量から自由である。オルゴン エネルギー自体は、慣性または重さを持たない。つまり、質量から自由である〔質量が無い〕。これが、常套的技術を用いた測定が難しい理由の一つである。質量はしかし、質量の無いオルゴン エネルギー場に密接に依存する。すべての物質は、オルゴンエネルギー場で囲まれているのである。重さまたは慣性の測定は、それ〔オルゴン エネルギー?〕に含まれる物体の特徴だけでなく、この場の特徴も反映する。

 2. それは、あらゆるところにある。オルゴン エネルギーは、すべての空間を満たす。それは、様々な程度または濃度(または「電荷」)で存在するが、不在の〔欠けている〕ところは無い。それは、大気中であれ外宇宙であれ、真空にもある。この点で、20世紀の物理学のエーテルに似ている。

 3. それは、電磁気現象と重力現象のための媒体である。エーテルと同様に、オルゴン エネルギーは、最も基本的な自然現象の基層である。それは、光が運動し電磁場と重力場が力を働かせる媒体である。オルゴン学の主な課題は、オルゴン エネルギーについての知識を、正統派物理学に既知の諸現象についての事実と統合することである。

 4.それは、常に運動している。オルゴン エネルギーの絶え間ない運動は、適切な条件下で観察できる。少なくとも二つの特徴的な運動の型がある。脈動、または交互する膨張と収縮と、そして正常には曲がり道に沿った流れである。

 5. それは、エントロピーの法則とは矛盾する。オルゴン エネルギーは、オルゴン エネルギーの集結へと引きつけられる。熱や電気は、より高きからより低きへと向かう方向をつねに示すが、それとは違ってオルゴン エネルギーは、より低きからより高きへと流れる。外部エネルギーが加えられもせず減らされたりもしない熱的系では、系内のあらゆるものが同じ温度になるまで、熱は熱い物体または資材から失なわれ、冷たいものによって吸収される。より均一に熱が分布するにつれて、「エントロピーは増加する」。熱は、結局、太陽から去って、宇宙へと出て行く。熱は、宇宙から集められて、太陽へと流入することはない。同様にして、発熱器は熱を部屋に中に放射するが、部屋から発熱器へと流れることはない。これらの過程は、エントロピーの法則と一致している。オルゴン的過程は、それとは反対の方向に働く。オルゴン エネルギーの高い集結は、より少なく集結した周囲からのオルゴン エネルギーを引きつける。オルゴン エネルギーがどんどん不均一に分布するほど、「エントロピーは減少する」。
 オルゴン エネルギーが低い位置から高い位置へと流れることは、エントロピーの法則の逆に過ぎないとか、これらの過程を時間パラメータの符号を逆にすることで熱力学方程式によって表わすことを考えるのは、誤りであろう。エントロピー的ではないオルゴン的過程は、機械的に成り行きをたどるものではない。オルゴン的過程は、エントロピー的過程とは質的にまったく異なっている。実際、その過程は、生き物の成長、学習過程、そして単純な種から複雑な種への進化の原因である過程である。生きていない自然においては、オルゴン的過程は、大気中の雲と嵐の成長の原因である。そして、宇宙的規模では、銀河と銀河内での星々の成長の原因である。このことは、オルゴン エネルギーの次の性質へと導く。

 6. それは、創造的活動の焦点である諸単位を形成する。オルゴン エネルギーの諸単位は、生きているか生きていないか、である。たとえば、
  ・バイオン 雲
  ・細胞 嵐
  ・植物 惑星
  ・動物 恒星
  ・銀河
 
  〔訳註。上記は、「・バイオン 雲」と、生命体と非生命体の二つを組み合わせているのか?。最後の銀河は一つだけである。ひょっとして、9個が一つずつ列挙すべきところが、誤植なのか?。〕

これらのオルゴン エネルギーの諸単位のすべては、共通する特徴を持っている。すべては、上記で議論した意味で「負のエントロピー的」であり、そうしてそれらの環境からエネルギーを得るのである。すべてはそのうえ、誕生、成長、成熟、そして衰えまでを通過する「生活環」を持つ。

 7. 物質はそれから創られた。適切な条件下では、物質は、質量の無いオルゴン エネルギーから生じる。これらの諸条件は、稀あるいは珍しくはない。ライヒは、新しい物質はこの惑星上で絶え間なく創られていると信じた。

 8. それは、生命の原因である。オルゴン エネルギーは、唯一の生命エネルギーである。そしてそのようなものとして、生きていることを生きていないことから区別する特別の特徴の原因である。これは次のように表現できる。すなわち、或るオルゴン エネルギーの一団は、生命(それは、創造的過程の連鎖反応の一種である)と関連する特別の質を発達させる。生きていないオルゴン的単位に対照的に、生きているオルゴン的単位〔一団〕を類型化すると思われる質とは、すちわち、

  a. 一個以上の親からの類似的単位の再生産
  b. より高い発展方向への、単位の進化
  c. 意識の存在、少なくともある程度に感じを経験し、そして環境を知覚する能力
  d. 意欲の存在、個体のそれ自身の運動を統制する能力

 最初の二つの性質は、すべての生き物に当てはまるように思われる。最後の性質は、知る限りでは、動物にだけ当てはまる。

 オルゴン エネルギーと生命について、はるかに多くのことが言えるだろうし、この主題はたっぷりと研究されてきた。ここでの概要的見解の目的としては、しかし、上記で十分であろう。ライヒはオルゴン エネルギーの生命現象における役割を大いに詳しく述べたことを、注記しておこう。

 9. オルゴン エネルギーの分離した流れは、互いに引きつけられ、そして重なるかもしれない。重なる機能は、創造的過程の基礎的形式である。自由空間では、重なっているオルゴン エネルギーの流れは、典型的には、螺旋状にまとまる〔収束する〕ふたつの流れのエネルギーの形態を示す。この形態は、渦巻銀河で最も明白に見られる。また、ハリケーンや他の大竜巻の形態でも明白に見られる。大きさの尺度の反対端では、エネルギーの二つの小さな流れが重なることによって、質量粒子が創造される。同じ過程が、生きている有機体で起きている。もちろん、そのときの形態はその関係個体の構造によって制約されている。交配は、生きている自然における重ね機能の第一の表現である。オルガスム〔性的絶頂〕の間、分離した二つのエネルギーの流れは、一緒になり重なる。交配における感じの力と深さは、そのとき生じたオルゴン エネルギーの流れの強度を反映する。

 10. それは、オルゴン エネルギー装置によって、操作できるし統制できる。おそらく、最初のオルゴン エネルギー装置は、メスメルの「バケツ」であった。それは、ぞんざいなものだが明らかに効果のある形態の、オルゴン エネルギー蓄積器であった。ライヒは、オルゴン エネルギーを統制するための数個の装置を開発した。これらのうちで最も知られているのは、オルゴン エネルギー蓄積器である。この蓄積器は、金属製材料と非金属製材料を層に配列するで形づくられた封入物〔enclosure 囲い物〕である。その結果は、封入物内にエネルギーの集結となる。同じ意義を持つものが、ライヒの気象制御器械である。一種の指向性のあるアンテナ〔空中線〕で、ある領域の大気から大量のオルゴン エネルギーを取り出す[withdraw 引っ込める]ことを可能にする。正しく使えば、この器械は気象に大きな変化を引き起こす。

 ライヒが記述した以上の10個の性質に、わたしは他の二つの性質を加えよう。

 11. オルゴン エネルギー単位は、創造の過程において、様々な種類の貯蔵されたエネルギーを「使う」。オルゴン エネルギーの諸単位は、様々な方法で蓄えられたエネルギーを使って、自身を作りあげたり、自身の大きさまたは強さを維持したり増加したりする。このことは、食物の化学エネルギーを代謝と成長に使っている動物について、最も明瞭である。嵐は、またオルゴン エネルギーのシステムであり、それは水蒸気の凝結の潜熱〔訳註。気体、液体、固体といった或る状態を別の状態に変えるために吸収または発生する熱〕を、貯蔵されたエネルギーの源として使用する。星々〔恒星たち〕は、自身の高温を維持するのに、原子核融合反応の熱を用いているかもしれない。ただし、今日の天文学者たちが信じているように核融合反応が恒星の過程で鍵となる役割を演じているかどうかについては、わたしは保留する。15年前、天文学者たちは、恒星の熱源についてまったく異なる説明を与えた。今から15年後には、また別の説明が流行っているかもしれない。いずれにせよ、オルゴン エネルギーの諸過程が、創造的過程に仕えることに様々に使われる貯蔵エネルギーに、典型的に関与していることは明白である。

 12. 「自然発生」や他のオルゴン的諸過程は、オルゴン エネルギーの流れとの接触が妨げられないことを必要とするかもしれない。生きている有機体の「自然発生」は、生物科学者たちが課した実験室条件下で稀に生じるが、このような条件はまったく異常であり自然とは相容れない。もっと自然な条件下では、生命は生きていない物質から、絶え間なく生じることができるし、生じている。この過程は、ライヒによって詳細に記述された。わたしが信じるところでは、これらの自然な条件の本質的特徴は、生命が宇宙的オルゴンの流れとともに発達するような物質、との直接の接触である。たとえば、原生生物は、封印された容器のなかに殺菌され、また囲い込まれた注入液において、稀に自然発生的に出現する。
殺菌され、混入されずに保たれ、しかし封印されない、これらと同じ溶液のなかで、原生生物は規則的に出現したのである。



オルゴン エネルギーを支持する証拠と反対する証拠 Evidence for and against Orgone Energy

 オルゴン エネルギーを支持する証拠、すなわち、ライヒが記述したような性質を備えた特別のエネルギーが自然界に存在するという証拠は、あまりにも広範囲にわたっていて、このような記事で十分に論評することはできない。

 英語による出版物のこれら主なものを考えてもらいたい。

 ライヒによる本:
   ・性格分析 CHARACTER ANALYSIS
   ・オルガスムの機能 THE FUNCTION OF THE ORGASM
   ・癌の生体療法 THE CANCER BIOPATHY
   ・エーテル、神と悪魔 ETHER,, GOD AND DEVIL
   ・宇宙的上重ね COSMIC SUPERIMPOSITION
   ・キリストの殺害 THE MURDER OF CHRIST
   ・宇宙との接触 CONTACT WITH SPACE

 オルゴン学における科学誌:

   ・性経済学とオルゴン研究の国際誌(全4巻)
   ・オルゴン エネルギー会報と眼目(全7巻)
   ・オルゴン研究所年報(全1巻)
   ・オルゴン的医学(全1巻)
   ・オルゴン的機能主義(全7巻)
   ・創造的過程(全1巻)

 技術報告:

   ・Kelley, C. R. 気象制御の新方法

 これらの29を越える巻は、主にオルゴン エネルギー自体に関わる観察的および実験的な仕事に専念した出版物についての目録の一部である。

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美術修行2017年8月4日(金):篠原滋生展 2017/ギャルリ・サンク/奈良

2017年08月04日 23時33分16秒 | 美術修行
2017年8月4日-1
美術修行2017年8月4日(金):篠原滋生展 2017/ギャルリ・サンク/奈良


 篠原滋生展 2017/ギャルリ・サンク/奈良/入場無料。

 大変独創的な作り方による、作品群。
 
 SHIGEO SHINOHARA OFFICIAL WEB SITE
http://www3.hp-ez.com/hp/shinoharabo/
にもあるように、
 麻布をほぐして切って、数cmの長さにすることから始めるとのこと。
 油絵具と晒し蜜蝋で色をつけ接着していくとのこと。

 絵画表面はかなりの凹凸があるので、視覚の方向で見えは様々に変わる。照明方法でも変わる。

 昨年のギャルリ・サンクでの個展では、2017年の全関西展出品作品のように、ドングロスを皺寄せて貼った上に、油絵具と晒し蜜蝋を施す連作もあった。