キラキラヒカツテイマスカ
....whispers the words with wisdom, let it be ....
ビートルズが崩壊寸前にあったとき、男は未整理の録音テープの山から一つの曲をものにした。それがLet it be。
あるがままにあらしめよ。
だが、あるがままであることの難しさ。「汝自身を知れ」は、(というわけで)、永遠の課題となっている。わたしはだれ、ここはどこ? つまり、どういうことでもない。
もし、東洋の発想が中心のないことで、無たる中心が生き生きとしたものとなっており、西洋の発想があくまで中心からの、そして神=ヒトを中心に置いたものであるなら、両方が生物界には見られることになる。また、関係的と実体的の違いにも対応するだろう。例えば連結によって存在する代謝サイクル、例えば核という中心をもった細胞。
だが中心は中心ではないものによって支えられている。
というわけで。
知識とはすでに死んでいるものであり、叡知は今を生きているものである。
われわれは、今を生きるほかない。そうして、光はヒカリ、ヒカリカガヤク。
というわけで(どういうわけでもよい)、タテよこ斜めに読んでみよう。
キラキラヒカル
キラキラヒカルサイフヲダシテキ
ラキラヒカルサカナヲカツタキラ
キラヒカルオンナモカツタキラキ
ラヒカルサカナヲカツテキラキラ
ヒカルオナベニイレタキラキラヒ
カルオンナガモツタキラキラヒカ
ルオナベノサカナキラキラヒカル
〔中略〕
キラヒカルオンナハナイタ
(入沢康夫1955『倖せそれとも不倖せ』より)
も一つおまけで。
静物
夜の器の硬い面の内で
あざやかさを増してくる
秋のくだもの
りんごや梨やぶどうの類
それぞれはかさなつたままの姿勢で
眠りへ
ひとつの諧調へ
大いなる音楽へと沿うてゆく
〔後略〕
(吉岡実1955『静物』より)
[ つまり、
なるようになる。
なるようにしか、
ならん。
ならば、
なるように
ならしめよ。]