生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

Bechtel (2006) 2.5 編制と還元の諸水準 Levels of Organization and Reduction 訳[中断]と生気論者ビシャの事項

2016年08月22日 00時12分32秒 | システム学の基礎
2016年8月22日-1
Bechtel (2006) 2.5 編制と還元の諸水準 Levels of Organization and Reduction 訳[中断]と生気論者ビシャの事項



   2.5 編制と還元の諸水準 Levels of Organization and Reduction [p.40]

 或る機構の構成部分とその構造の間の部分ー全体関係性は、様々な水準での存在者たちの諸型へ規律性 orderliness を持ち込むために、体系学的生物学者たちやその他の者たちが長く使ってきた階層的、部分学的枠組みの型のうちに分類されるものとして理解され得る。或る機構の構成要素的働きと全体の機能は、おおざっぱには同一の特徴を持っている。しかし、この類いの関係性を体系化することには、それほど注目は払われてこなかった。ここで重要なことは、両方の類の構成要素(諸部分とそれらの働き)が、その機構自身(或る機能を持つ或る構造)よりも下位の水準を占めていると見なされ得るということである。水準でのこの違いのゆえに、機構的説明は_還元主義的 reductionistic_であると、特徴づけられているのが通例である。[^14]しかし、機構的説明とともに生じた還元という概念は、一般的な議論において現われてきた還元とも、最近の科学哲学において現われてきた還元とも、大変異なっている。それの帰結は〔それ=最初の方の還元、の帰結も〕、かなり違うのである。これらの議論において、より低位の水準への訴え〔要請〕は、より高位の水準の効力を否定すると考えられている。或る機構の機能は、それの構成 constitution に依存する一方で、それが編制のより高い水準でのシステムのうちに組み込まれていることを含めて、それはまたそれの脈絡に依存する。機構的還元主義は、脈絡、またはより高い水準の編制の重要性を否定しないし、機構が行なうものを説明する際の或る機構の諸構成要素だけにもっぱら訴えるということもしない。諸構成要素への訴えは、いかにしてその機構が或る与えられた脈絡のなかで特定の現象を生成するのかを説明するという、大変限定された目的に、事実、かなうものである。

[20170821、訳を休止。p.45のビシャーについての箇所へ]

   2.6 編制;デカルト流機構から生物学的機構へ

 〔略〕

[p.45の第2段落]
 生物学的機構にとっての編制の意義は、19世紀に、機械論ども mechanisms[機械的仕組み]は生命という現象を説明できるということを否定する生物学者たちからの挑戦によって、思い知らされた。これらの生物学者たちは、_生気論者 vitalists_として知られ、生物学的システムが、非生物学的システムとは異なって機能する方法を強調した。クサヴィエ ビシャ Xavier Bichat (1805) は、重要な一例である。多くの点で、ビシャは機械論的説明 mechanistic explanationの企画を追求していた。彼は、身体の様々な器官の振る舞いを、組織(これらから器官は作られる)によって解明しようとした。これらの器官を様々な型の組織へと分解した。組織は、働きにおいて変異があり、彼は、どんな違いを器官が行なうのかを説明するために、様々な型の組織の働きに訴えた。しかし、組織の水準に到達したとき、ビシャは機械論の企画を棄てた。これは、彼が機械論的説明を否定すると思った二つの特徴を、組織が示したからである。第一に、組織は、外的刺激に対する反応が予見不可能〔非決定論的 indeterministic〕である。対照的に、機械ども machines は、彼が考えるところでは、つねに同一の刺激が与えられたら同一の反応をする。第二に、諸組織は、それらを脅かす環境の諸力に抵抗するように思われる。機械をばらばらにしたり中断したりして、その働きを止めることは、比較的容易である。しかし、生きている組織は、阻止したり殺したりすることが、しばしば難しい。これらの違いは、ビシャの考えるところでは、生きている組織についての十分な機械論的説明を提供するどんな希望も弱めるものである。
 数十年後、クロード ベルナール Claude Bernard (1865) は、ビシャへの機械論的回答の概略を述べた。それは、ビシャが指し示した諸特徴を説明できるであろう、生きているシステムでの編制の諸原理を同定することを含んでいた。ベルナールは、



マリオ ブーンゲ(2013)『医学哲学』、システム的接近〔取り組み〕(完b)

2016年08月21日 21時46分14秒 | システム学の基礎
2016年8月21日-3
マリオ ブーンゲ(2013)『医学哲学』、システム的接近〔取り組み〕(完b)
[2016年8月11日-2 =2016年8月11日-1を一部改訂し、追加]
[2016年8月12日-1 =2016年8月11日-2を一部改訂し、追加。
            訳出完了、機構についての覚え書きを追加。]
[さらに、誤植などを訂正して、2016年8月21日-3として掲載した。]

 以下は、マリオ ブーンゲ(2013)『医学哲学』の、システム的取り組みの部分の訳出である。

  「
2.3 システム的接近〔取り組み〕[p.43]

 現代医学に特有なことの一つは、外傷学から精神医学までと、数十もの専門分野から成っていることである。すなわち、医学は多くの学問領域にわたる学である。しかしながら、その各分野はすべて、多少とも他の分野に強く関連している。たとえば、近代外傷学は、骨接ぎと切断の昔の技巧とは違って、解剖学と生理学を集中的に用いる。対照的に、原始的医学と古代の医学は、いわゆる代替医学も同様だが、信念と実践の孤立した集まりである。とりわけ、それらは科学に基づかず、それら自身の哲学的前提を検討しないのである。
 人体は一つのシステムであるというのは、比較的最近の発見である。二つ以上の器官が一つのシステムの部分であるかどうかをどうやって見つけ出すのか?。それらの間の結合を探し求めることによって、そしてひとたび見つけたら、そのような連結を切断することによってである。糖尿病に集中した、その類いの斬新で実りのあった一対の実験を思い出そう。糖尿病は、深刻で不治のシステム的(身体全体の)病気で、世界中で増加している。1887年、Oskar Minkowski は、膵臓がインシュリンを作ることを発見した。また、膵臓を取り除くと、身体の燃料である糖を代謝するのに必要なインシュリンが生産されないので、動物は重い糖尿病になり死ぬことを発見した。はるか後に、下垂体または脳下垂体腺が、支配的な内的腺であることが見つけられた。それは、恒常性、代謝、成長、などを制御する9つのホルモンを分泌するのである。
 ほぼ1世紀前に、アルゼンチンの生理学者である Bernardo A. Houssay は、ブエノスアイレスから遠くはなれたところで、驚くべき発見をした。すなわち、脳下垂体腺を取り除くと、少量のインシュリンを注入したら、動物は低血糖症になるのである。インシュリンは膵臓から分泌されるから、脳下垂体と膵臓の間に密接な繋がりがあるに違いなかった。この繋がりが切断されたならば、何が起きるだろうかと問うのは、自然なことであった。それで1929年、Houssayとその同僚は、膵臓を取り除かれていた犬から、その脳下垂体腺を切除するという実験を遂行した。確かに、このような二つの過激な外科手術の後で、なにか劇的なことが起きた。そして、そうなった。すなわち、犬は意外なことに、糖尿病から回復したのである。もっとも、その犬は長くは生存しなかった。一度きりだが、二つ間違えば、一つの正しいことが生じたのだ。
 膵臓と脳下垂体は、互いに遠く離れているが、単一のシステムである内分泌システムの構成要素であるという、重要な発見が行なわれたのである。その結果、内分泌学は一夜にして〔またたく間に〕、個々の内腺の研究から、内分泌系についての多数の専門分野にわたる科学へと、一変したのである。これは、システム主義のもう一つの勝利である。ほぼ同じ頃、モリトリオールでハンス セリエ Hans Selye は、別の総合を手作業的に作った。すなわち、内分泌学と免疫学の総合である。基礎科学におけるその二つの発見が、医学に大きな影響を与えた。内分泌学では糖尿病の管理であり、免疫学ではストレス〔負担となる刺激〕の管理である。
 科学的な諸専門分野または医学的な諸専門分野の連合は、単なる並列ではなく、整合的な総合であって、《有機的全体》または_システム_である。そして、このようなどんなシステムでも、構成要素を繋ぎ合わせる接合剤は、物質的な橋とそれらの概念的対応物、たとえば精神病は脳の異常であるという仮説(ここで、生物学は精神医学に大いに関連するし、精神患者は他の者たちから隔離されるべきではない)によって構成される。
 言い換えれば、近代医学は、専門分野の集合体ではなくてシステムである。そして実践者たちは、互いに相互作用する。なぜなら、各々はその同じ全体の一部分だと知っているからである。同様に、この認識的統一は、すべての医学的専門は同一の物を扱っているという事実によっている。これが、ルネ デュボワ Rene' Dubois (1959) が影響力のある本で、患者は一つの全体性として、またその人の社会的環境に入れられているものとして、扱われるべきだと強調した理由である。」
(Bunge, Mario. 2013. Medical Philosophy: Conceptual Issues in Medicine. pp. 43-44.)[20160811 零試訳]。



 「他の分野と同様に、医学においては、分子から細胞、器官、全体の有機体、自然、そして社会まで、ずっとシステムたちである。これは、_システム的生物学_(たとえば、Regoutsos & Stephanopoulos 2007; Loscalzo & Barabasi 2011)への言及がますます頻繁に見られる理由である。そして、現代医学が探し求めるように奨励するものとは、
  _生物システムたち_(たとえば、神経の、内分泌の、そして神経−内分泌−免疫のシステム)、
  _認識的システムたち_(たとえば、生物学、医学、そして医学の人文学)、そして、
  _社会システムたち_(たとえば、病院、医学的共同体、市場、そして国)。
 様々な種類のシステムたちを識別できる。すなわち、広義の_具体的_または物質的なシステム(たとえば、細胞と社会)、_概念的_または架空のシステム(たとえば、分類と理論)、_記号論の_または意味深いシステム(たとえば、本文と線図)、そして_科学技術的_システム(たとえば、血圧計と救急車)。
 順に、或る具体的システムσは、次の特性によって特徴づけられる物体である。すなわち、
  σの構成=σのすべての部分の集合。
  σの直接的環境=σとは異なる、σと相互作用する可能性のあるすべての存在者の集合。
  σの構造=σの部分間の諸関係(内部環境)と、これら諸部分とδの環境(外部環境)との間の諸関係、の集合。
  δの機構=δに特有の(諸)プロセス〔工程〕、またはδを動かすもの〔機能させるもの makes δ tick〕。

 システムをそのモデルから識別していることに、ご注意あれ。或るシステムは様々な模型〔モデル〕によって表わされる〔表象される、再現前される represented〕かもしれないことだけからでも、そのように識別すべきである。上記のモデルは、自然的であれ社会的であれ、具体的(物質的)システムに対して成り立つ。システムが概念的か記号論的かのどちらかならば、上記の順序四つ組の最後の構成要素は、削除されなければならない。なぜなら、そのようなシステムは、それ自身で変化することは無く、したがって機構を持つことは無いからである。
 個体主義者には、システムは不要である。彼らは構成要素だけに興味があり、したがって、生きているまたは死んでいるとか、良好なまたは悪い健康状態にあるといった、システム的または創発的な諸性質を見逃す。全体論者は対照的に、分析を拒絶し、個体の役割を最小にするか、拒否しさえする。システム主義は、個体主義と全体論の両方の代替となるもので、それぞれの妥当なテーゼ〔定立命題〕を保持する。部分無くして全体は無いというテーゼ、そしていくつかの全体(《有機的》全体またはシステム)は、部分が欠く、全体的な諸性質を持つというテーゼである。システム主義はこうして、個体主義と全体論の総合である。
 とりわけ、良き医者はシステム主義者である。すなわち、彼女は孤立した症状 isolated symptomes よりも、症候群 syndromes を選び、身体をその環境に置き、そして物理的から社会的という、その物事が関連するすべての組織化水準の〔編制水準〕を考慮する。実際、彼女は次の諸原理を暗黙に受け入れているのである。すなわち、
  1)_人は、下位システムたちの〔から成る〕一つのシステムである_。医学的教訓:合理的に完全なあらゆる医学的検査は、全体の身体とその環境を見て、欠陥のある諸機構を修理するという見方とともに、その身体の重大な諸機構に焦点を当てるだろう。
  2)_人体のすべての下位システムたちは_、直接的に(組織 tissues によって)あるいは間接的に(血液とホルモンを通じて)のどちらかであれ、_相互に連繋されている_。例:耳鼻咽頭システム oto-rhyno-laringeal〔-laringeal→-laryngealの誤植だろう〕。医学的教訓:あらゆる処置は、局所的であれ、遠位に効果を持つ。それらのいくつかは、害のある効果の可能性が高い。それは、すべての処置が完全にできても perfectible、どれも決して完璧 perfect ではないであろう理由である。
  3)_あらゆる疾病は、一つ以上の器官の機能不全から成る_。そして、あらゆる慢性疾患は、他の異常 disorder(共存症〔余病〕comorbities)が付きものである。医学的教訓:あらゆる医学的処置は、影響された部分の正常な機能を回復することだけでなく、他の部分の保護も求めなければならない。
  4)_精神的健康は、脳の健康である_。よって、全体の健康の一部である。医学的教訓:慢性疾患と抜本的処置のあり得る精神的効果(たとえば、心配と抑鬱〔鬱病〕)を無視しないこと。
 5)個人の福利 well-being と社会的条件は、密接に連結している_。とりわけ、貧困と圧制は、〔心の〕病的状態を引き起こす。医学的教訓:個人の福利の追求は、環境の制御を含む。とりわけ、環境汚染や密集だけでなく、労働の安全 safety と安心〔安全保障、危機管理 security〕といった環境要因の制御である(Bunge 2012b を見よ)。
 6)人々と彼らの社会環境の複雑さがあるとすれば、医者は、_部門別の sectoral (または切断的 sectorial)思考を避ける_べきである。そのような思考は、(a)事実は相伴う、諸物、諸性質、そして諸プロセスを切り離し、孤立させ、(b)最初の、印象、データ〔資料〕、または推測に《固定してしまう〔錨を下ろしてしまう "anchor" 〕》傾向がある(Kahneman 2011を見よ)、そして(c)学際的な橋を建設する代わりに、医学のバルカン化〔互いに敵対的な小地域に分けること〕を悪化させることになる。
 7)社会科学と同様、医学においても、_一つの大きさですべてを適合させる one-size-fits-all〔フリーサイズの、何にでも一つで合わせる〕という説明を、信用してはならない_。たとえば、或る人が太ることができる理由や、肥満が世界中で増えている理由を、いまだに確かには分かっていない。数個の説明が提起された。すなわち、先天的体質、過食、過剰な炭水化物の摂取、そして座ってばかりいること、である。正しい答えはおそらく、これらすべてである。
 
 近代の生物学と医学におけるシステム的接近〔取り組み〕の出現〔創発 emergence〕は、ポール-アンリ ティリ ドルバック男爵 Paul-Henri Thirty, Baron d'Holbach(1966)が導入した_システムの哲学 systemic philosophy_を確証するものである。この卓越し た多作な大学者にして反体制活動者は、当初はダランベール Jean le Rond d'Alembert が加わって、ディドローDenis Diderot が編纂した、有名な『百科全書』(1751-1772)の並外れて有能な共著者であった。ごく少数の例外を除くと、現代の哲学者たちは、システムという概念そのものを無視してきた。あるいは彼らは、システムという概念は近代の科学と科学技術に特徴的であったが、それを、アリストテレスからヘーゲルまでの全体論的哲学者たちによって用いられた、分析不可能な全体という概念と取り間違えたのだ。
 システム主義は、《あるゆる現存者は、システムであるかシステムの部分であるか〔のどちらか〕である Every existent is either a system or part of a system 》。この前提は、ヘーゲルの _Das Whare ist das Ganze_(《真理は全体である》 "The truth is the whole")と取り違えてはならない。この不可解な形而上学的公式は、全体論に典型的である。それは、個体主義にも、ドルバックのシステム的唯物論にも対立する。
 全体論は、繋ぎ合わせるが、混同する。個体主義は識別するが、切り離す。システム主義だけが、混同することなく、繋ぎ合わせる。たとえば、システム的見方からは、患者は、社会システムに浸された極めて複雑なシステムであり、医学は、他の分野の知識と行為(これまた、他の分野の知識と行為とに相互作用する)とに相互作用する一つの学際的専門分野である。そのうえ、この見方においては、医学は百貨店のようなものではなく、仕切りの無い広大な館のように見える。ルドルフ ウイルヒョウ Rudolf Virchow、クロード ベルナール Claude Bernard、William Osker、そしてLewis Thomas のように、この専門分野の偉大な知的指導者たちが見たやり方である。この、システム的接近は、過度の専門化に対する最良の処方箋である。過度の専門化は、人体の統一性とは異なっている。明きらかに、医学に好意的な哲学は、システム主義を支持するだろう。


しめくくり〔大団円〕 Coda
 近代医学は、1550年頃から生物諸科学にもとづいて発展し、1850年以降は、大学の近代化だけでなく生化学と薬理学の発展のおかげで、大変急速に進歩している。医学のこの驚嘆すべき進歩の原動力は、科学的研究である。それ無しには、医学はいまだに神話と常識のぬかるみに、はまりこんでいただろう。
 たとえば、座ってばかりいるのは心臓に悪いという信念を、考えてほしい。この信念はあまりにも明白に見えるので、ごく最近までは試験〔テスト〕にかけられることが無かった。18歳から65歳の間の男女、276人を巻き込んだ6年間の長期にわたる研究(Saunders et al. 2013)が見い出したことは、座りっぱなしの行動は、腰周りを増やしはするが、心血管代謝の危険〔リスク〕を増やしはしないということであった。十分に《狂って》(独創的な)いない提出物を最良の科学雑誌が規則どおりに却下する程度にまで、科学者だけが《狂った》考えだけで済ませられる。科学の全体の歴史は、獲得免疫の歴史のように《狂った》考えと、そして脳画像化装置のように《狂った》道具の連続である。」
(Bunge, Mario. 2013. Medical Philosophy: Conceptual Issues in Medicine. pp. 44-48.)[20160811 零試訳]。



 〔あと3段落分でおしまい。第3章は、疾病 Disease 〔病「気」とは訳さないことにする。〕〕

  「
 20世紀半ばまでに、細菌感染症の大部分は、とりわけ結核と性病は、治療できるものとなった。大部分の伝染病、特に筆者の年齢群の人々を襲った伝染病、を防ぐワクチンも作られるようになった。ただし、貧困国は除く。そこではいまだに、伝染病は繁盛している。これらの偉大な進展は、生化学的研究と見識ある公衆衛生政策との連繋の結果である。
 哲学者たちが注目すべきだった医学的進展の特徴は、科学主義の採用とそれに対応した反科学 antiscience と擬似科学 pseudoscience の拒否である。それは、医学がいわゆる硬い科学 hard science 〔自然科学を指すらしい〕と密接に連合したこと、、〔=「;」→「。、」にするも一興。〕実験的方法を採用したこと、とりわけ無作為化比較対照試行 randomized controlled trial〔対照試験と訳されるようだが、trialは試行とし、testに試験=経験に照らして試すこと、を当てる。〕を採用したこと、、作用の機構、とりわけ病因論 etiologies の機構を探索したこと、、そして創発的かつシステム的唯物論を、暗黙にも取り入れることを許容したこと、である。
 しかし、哲学者はまた、多くの馬鹿げた有害な医学的迷信、とりわけ《代替的で相補的な》医学(1.3節を思い出してもらいたい)が存続していることにも、注意すべきである。そしてもし哲学者が社会的な責任を負うならば、このような化石どもを分析し、専門的雑誌だけでなく大衆的媒体にも暴露することを手助けするだろう。

(Bunge, Mario. 2013. Medical Philosophy: Conceptual Issues in Medicine. p.48.)[20160812 零試訳]。


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訳者註記 20160812。

ホメオパシー

 Bunge 2013 "Medical Philosophy"の〈1.3節 現代の医学的いんちき療法〉で挙げられているのは、一つはホメオパシーである(p.18の第2段落〜p.19の第一段落まで)。わたしのいわば実践的見解は、もし偽薬効果であるのなら、副作用は無いだろうから、効果の種類と程度に関する限りで、最良の薬ということになる。効くならば副作用はあり得ると仮定して、副作用は無いかほぼ無いという説明とそのための理論が必要である。(少し離れた問題として、二重盲検法の問題がある。さらには、ベイズ推論の問題。)さて、ホメオパシーは、考え方と用いる道具の狂い方が、まだまだ少なすぎるのであろうか?。→暗黒物質またはエーテル体の問題。鍼灸の理論。

機構

 システム主義またはシステム的取り組みを標榜するマリオ ブーンゲ Mario Bunge(2013)は、システムを、四つの側面から分析する。
 構成とは、〜の集合で、構造とは〜の集合である。そして機構とは、

  mechanism = process(es) that maintain(s) the system as such (cell division, metabolism, circulation of the blood, etc.)

と、なんらかの集合ではなくて、システムをそのように維持するプロセスと定義している。
 processは、Oxford Paperback Dictionary(1979: 507)によれば、

  1. a series of actions or operations used in making or manufacturing or achieving something. 何かを作ったり製造したり達成することに使われる、一連の作用または操作。
  2. a series of changes, a natural operaion, 〔使用例〕the digestive process.
  3. a course of events or time.
  〔4以降は略〕

 〈一連の作用または操作〉と〈一連の変化〉とは、前者は作動的であり、後者は静止的に出来事を並べたもののように取れて、大きく異なる
。一連の変化は、日本語での過程に対応し、過程がなんらかの状態の変化やなにか物事を産出するということは無い。しかし、英語でのprocessのもう一つの意味の〈一連の作用または操作〉は、まさに何事かを産むまたは生じることになる。進化学や生態学の英語の本で使われるprocessは、〈一連の作用または操作〉である場合が多いように思う。
 さて、話をBunge(2013)またはシステム的分析に戻すと、問題は機構をどう定義するかである。
 構成と構造を組み合わたら、機構を記述することになるのか?、である。なにかの(数学的)集合と(数学的)集合を組み合わせても、そのシステムが
 システムまたはその一部(つまり或る下位システム)が作動すると、なんらかの一定の(=われわれの言語で特定できる)機能が生じる、と考えてみよう。ここで、〈システムが作動する〉と述べたが、或る作動(たとえば、蛋白体をなんらかの材料(=前駆物体)から集成するまたは組み立てる assemble こと、を含む)をもたらすものが機構だと定義すると、
  1. 力 force (=方向づけられたエネルギー)または作用 action の種類と程度の同定(もちろん分類、つまり部類作り category making が先立つ)
  2. 諸力の時空的分布。空間とは脳の虚構であるが、記述枠でもある。実際には、作用するまたは相互作用する物体の種類と量を特定し記述することになる。
  3.


 さて、問題は、とりわけ「唯物論的」創発である。創発はおそらく、自己組織化または自己編成 self-organization を例として(よく挙げられるのは、ベロウソフ-ジャポチンスキー反応。→或る種類と量の物体の一つの空間的分布模様を特別視しているにすぎない。これは創発とは言わないことにしよう。→創発の様々な定義。認識論的定義や存在論的定義。→Blitz, D. 1992 "Emergent Evolution" 、などを参照せよ。)、また自己組織化で説明するのであろう。では、化学式では、
  2H2+O2→2H2O
と表示される、水素と酸素の化合で水が生成されるという出来事を考えてみよう。
 
 結論。「自己」組織化なんぞ、あり得ない。
 そのシステムに作用するなんらかの力があるはずである。たとえば重力、とりわけ暗黒物質でのエネルギーと力。また、→ポテンシャルエネルギーなるものの正体。

追加:Bunge氏の下記の論への異議。
  「システムが概念的か記号論的かのどちらかならば、上記の順序四つ組の最後の構成要素は、削除されなければならない。なぜなら、そのようなシステムは、それ自身で変化することは無く、したがって機構を持つことは無いからである。」

とあるが、概念のシステムの場合でも、一人の人または人々がその同一性を、たとえば数個の文章や一冊の本のシステムにおいて、維持しているのである。少なくとも、変化するかしないかは、システムが機構を持つこととは関わりが無い。有機体は、環境からの破壊的力(たとえばウイルス)に対して、免疫システムなどが備える機構によって、自己同一性を維持するわけである。[20160821記]



Bechtel (2006) 2.4 機構についての表象と推論 Representing and Reasoning about Mechanisms 訳完

2016年08月21日 21時30分51秒 | システム学の基礎
2016年8月21日-2
Bechtel (2006) 2.4 機構についての表象と推論 Representing and Reasoning about Mechanisms 訳完
[2016年8月21日-2は、2016年8月21日-1を改訂追加したもの。]

・訳註。representは表わすと訳し、representationは再現前がその意味だと思うが、(わけのわからない語だが、文系業界で定着しているらしい)表象、と訳した。

William Bechtel (2006) 『細胞の諸機構を発見する Discovering Cell Mechanisms』

  2.4. 機構についての表象〔表示〕と推論 Representing and Reasoning about Mechanisms [p.33]

 機構は、自然界における実在のシステムである。そのことによって、サモン Salmom(1984)は説明への自身の因果的機構的接近〔取り組み〕を_存在的 ontic_と同定させることになった。それは自然界での実際の機構に訴えるからである。彼はそれを、法則と法則からの逸脱に訴えるという、説明に対する認識的 epistemic_な捉え方に、対照させた。認識的捉え方は明瞭に、心的活動の産物である。サモンの洞察は重要である。しかし、存在的/認識的という区別は、その洞察を適切には捉えていない。彼が正しいのは、機構的説明において、科学者は因果的諸関係と自然界で働いている諸機構に訴える点である。それは、説明されるべき現象を生成する、あるいは産出すると取られる。しかしながら、一つの説明を提示することは、それでも認識的活動であること、そして自然界での機構は、いかなる説明の仕事も直接に遂行しないということに、注意することが重要なのである[^8]。
 機構的説明の認識  的特徴がわかる道はいくつかある。第一に、われわれの細胞で働いている機構は、細胞生物学者たちが発見し、細胞現象を説明するのに機構を呼び入れるずっと前から、働いていた。機構はそれ自身では、説明ではない。それは科学者たちの発明であり、機構の諸側面を、説明だと見なされるものを産むものとしたことである。第二に、機構と機構的説明との差異は、間違った機構的説明を考えれば特に明白である。このような場合、科学者はそれでもなお機構に訴えたが、自然界で働いている機構ではない。このような機構は、科学者によって提示された表象にのみ存在する。このように、説明において役割を担うのは表象された機構であって、機構それ自身ではない。(科学者たちが説明を求めるのもまた、表象された現象である。)こうして、科学者たちは、一つの機構的説明を、その現象を生じさせるのに主要なものと見なされた諸部分と諸働きを同定することによって、そして適切に編制されればどのようにしてそれらがそのように行なうことができるのかを示すことによって、提示する。[^9]
 機構は、言語的記述かあるいは線図 diagrams のどちらかによって表わし be represented 得る。科学についての哲学的説明では、言語的表象に特権を与え、線図はせいぜいのところ言語的論証をたどるための助けと見なされがちであった。科学者たちが論文を読む際の実際の行ないを考えれば、これらの席は入れ替わるように思える。読者たちは、摘要をざっと見て、それから鍵となる図へと跳ぶのが、普通である。助けとなるものが含まれる程度に、図についての解説を提供する図説明文は、この役割を演じる。機構的説明が提案されている論文を考えてみよう。線図は、諸働きの間の複雑な相互作用を表象するための乗り物を提供する。他方、解説はこれらを一度に一つ、特徴づけることができるにすぎない。論文の本文はしたがって、さらなる解説を提供する。それらはすなわち、機構はいかにして働くと期待されるか(序)、その働きについての証拠はいかにして入手されたか(方法)、どの証拠が進展したか(結果)、そしてどのようにこれらの結果が提案された機構に導いたのかの解釈(議論)である。詳しい解説は重要であるが、機構を表象するのは線図である。線図の際立った特徴を示す一例として、クリスチャン ド デューヴ Christian de Duveは、彼によるリソソームの発見は、肝臓酵素の生化学的研究中に予期しない失敗によってひらめいたことを思い出す(リソソーム発見の際の彼の役割については、第5章で詳しく論じる)。「或る幸運な偶然の一致によって、わたしの最近の読み物は、[Claudeとわたしによる二つの論文を]含むことになった[し、そして]わたしはただちにClaudeの線図を思い出した。その線図は、大小両方の顆粒を水素イオン指数が5で凝集反応を起こすことを示すもので、われわれの酵素は或る類いの細胞水準よりも下位の構造〔細胞小器官構造〕にしっかりと貼りついていそうであると、わたしは結論した」(de Duve, 1969, p.5)。
 科学者たちが線図に寄せる重要性から、線図は余分なものなのかどうかという疑問が導かれるのは当然である。科学者が一定の情報を、命題的によりは線図的に表わす represent ことを選ぶ理由はあるのだろうか?。もっと重要なことは、線図を用いた推論と命題を用いた推論とで異なる過程があるのかである。命題を用いた推論という、論理的推論だけに焦点を絞っての科学についての説明は、説明的推論の重要側面を捉えるのに失敗しているのではなかろうか?、である。
 機構を表象するのに線図を使う動機は、明白である。(身振り言語に見られる表象を除いた)言語的表象とは違って、線図は、情報を伝えるのに空間を活用する。心臓の事例が明らかにしたように、空間的な配置と編制は、機構され自身の働きにとって、しばしば決定的である。製造所でのように、異なる働きは、異なる位置で生じる。ときおり、これは働きを互いから分離しておくのに役立つし、またときおり、働きを互いに関連させておくのに役立つ。これらの空間的諸関係は、線図に難なく示すことができる。特異的な空間的配置に関する情報を欠くか有意義ではない場合でさえ、線図における空間を諸働きを概念的に関係させたり分離させたりするのに使える。そのうえ線図は、空間以外に視覚的処理が利用できる、色と形を含んだ諸次元の利点を活かすことができる。[^10]
 
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[^10]これらは、(或る機構の諸部分の実際の色と形を表象する)図像的 iconic であり得るし、あるいは記号的 symbolic であり得る。脳活動のfMRI線図は、色の記号的使用のよく知られた例である。そこでは、熱いから冷たいへと尺度づけられた色は、強いから弱い活性、または或る基準線を越える活性化の増加の高いから低い統計的有意義性といったことを表わすために使われる。
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 時間は、機構の働きにとって、少なくとも空間と同様に重要である。一つの働きは、別の働きを進めたり、その後を追ったり、それと重複したり、あるいはそれと同時であったりする。このことは、線図における空間的次元の一つを時間的秩序を伝達するのに使うことで、表現し得る。これは、もちろん、問題を引き起こす。すなわち、たいていの線図は二次元であり、時間以外のあらゆるものに対して一つの次元だけが残ることになる。一つの解決は、心臓の線図に例示されたように、機構の空間的関係または類似性関係を自由に表わすために二つの次元を残しておき、矢印は時間的関係を表わすという、戦略的活用である。もう一つの解決は、三次元を二次元面に投影するための技術を使うことである。
 働きの時間的秩序を、空間的次元によって表わすか、矢印によって表わすか、いずれにしろ、線図は言語的記述に対して明瞭な利点を持っている。すべての部分と働きが同時に閲覧に利用可能であるという、最も明白な利点は、たぶん最も弱い点でもある。処理上の制限から、人々は一度には線図の一つか少数の部分しか取り込めない。それでもやはり、文を読むよりももっと多くが取り込める。人々には、数多くの仕方で文のまわりを動く自由があるのだ。そして線図がもっとなじみのうるものになれば、それのもっと多くが一度に取り込むことができる。もっと強力な利点は、線図が、計り知れず価値のあり得る表象のための比較的直接的で図像的な資源を提供することである。たとえば、心臓の線図では、血液が二つの心房腔から二つの心室へと同時に送り出されること、そしてこれら二つの並行的働きは、他の二つの並行的働き(二つの心室腔からの送り出し)に対して逐次的関係性にあることが、即座にわかる。
 このようにして線図を調べる価値は、フィードバックの環を持つ機構において、さらに明きらかである。フィードバックを通じて、概念的に下流にある(機構の生産物として受け取られるものを生産することに、より近い)或る働きは、後に続く時間的諸段階で流れのより前にある働きを実施することを変更する効果を持つ。多数の事例を、細胞の呼吸内で見つけることができる。1930年代に生化学者が発見したように、それは、三つの繋がった下位機構から構成されている(図3.16〔→図3.15が正しい〕で次章に例解した通りである)。それらをさらに取り出すと、それらは、フィードバック的働きをも含めて、同調した生化学的働きを伴うと見られる。図2.3は、最初の二つの下位機構(解糖とクエン酸回路)の間の接面 interface で働く、重要なフィードバック環〔帰還回路 feedback loop〕を示す。この線図は、システムの諸部分(ピルビン酸といった化合物)を空間的に配置することによって、そして垂直の次元だけでなく、働きの順序を指し示すために矢印(反応のための実線の矢印とフィートバック環のための点線の矢印)をも使うことによって、理解を助けるのである。
 
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図2.3.解糖とピルビン酸回路の間にある連鎖におけるフィートバック環〔帰還回路〕。解糖の最終反応において、ホスホエノールピルビン酸はピルビン酸を産生する。ピルビン酸は、それからアセチル補酵素Aをを産生し、そのうちの或る量はクエン酸回路(図には示されていない)を連続的に補給するのに必要である。クエン酸回路で使われ得るよりも多くのアセチル補酵素Aが産生されれば、それはピルビン酸キナーゼを抑制するように蓄積されてフィードバック〔帰還〕する(点線の矢印)。ピルビン酸キナーゼという酵素は、反応の最初の段階を招くものである。これは順に、ブドウ糖が解糖経路の入るのを止めるだろう。
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 推論することを計算機でのモデル作りに従事する認知科学者たちによって認識された重要な原理は、表象の諸様式と推測の諸手順を同調させることが本質的だということである。線図が機構を表わすのに重要な乗り物であるならば、人々が線図についてどのように推論するかを考慮する必要である。アリストテレス以来の哲学者たちはしばしば、論理の手順は、特に自然推論〔自然演繹法 natural deduction〕は、われわれの推理 reasoning を記述することは、当然だと思ってきた。しかし、論理は言語的表象に対してだけ働く。そうなら、科学者たちが線図でもって推理する場合、その推理の働きは異なっているに違いない。科学者たちが線図でどのように推理するのかを理解するには、或る事実に焦点を保つことが助けとなるだろう。その事実とは、諸機構は、諸構成部分がそれらの働きを一つの調整された方式で遂行するおかげで、現象を生成する、である。必要とされる推理の種類は、機構の実際の働きを捕らえる推理であって、諸構成要素が遂行している諸働きとこれらの働きが互いに関係している仕方の両方を含むものである。
 機構を理解するようになった場合の線図の一つの制限は、静的である static ことである。線図が、機構の動態〔動力学〕dynamics を特徴づけるとめに矢印を組み込んでいる場合でさえ、線図自身はなにごともしない。こうして、線図は、諸部分の働きの、全体機構の振る舞いへの関係を捕捉できない。ゆえに、互いの連結は、認知的作用者 cognitive agent によって与えられ〔提供され〕なければならない。認知者は、遂行されている様々な働きを想像しなければならない。そしてそれによって静的な表象を何か動態的なものへと転じるのである。[^11]

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 [^11]動画化した線図 animated diagrams は、人々をこの困難な仕事から解放するし、初心者にはしばしばはるかに啓発的である。コネクチカット大学のThomas M. Terry は、細胞代謝での数多くの働きがどのように関係しているかを明瞭にした、いくつかの素晴らしい線図動画を製作した。http://www.sp.ucon.edu/~terry/images/anim/ETS.html。このような線図のもう一つの良い電網所〔(ウェッブ)サイト〕は、【p.37/p.38】Terryの線図へのリンクも提供しているが、http://www.people.virginia.edu/~rjh9u/atpyield/html である。
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Mary Hegarty (1992) は、〈他のシステム構成要素たちの状態についての情報が与えられているシステムの一構成要素の状態と、諸構成要素間の諸関係〉を推察する活動を、_心的動画製作 mental animation_と名づけた。また、機械装置を設計し、故障修理し、そして操作するという諸活動への、心的動画製作の重要性を強調した(p.1084)。比較的簡単な滑車システムについての問題を人々が解く間の反応時間と眼球運動のデータを得て、推理過程がどの程度に物理的システムの働きと同形 isomorphic であるかを、彼女は調査した。それらが同形でなかったという一つの仕方は、その構成要素が同時に働いている物理的システム〔物理的系〕においてさえ、参加者たちはシステム〔系〕の様々な構成要素(つまり、個々の滑車)について、ばらばらにまた逐次的に separately and sequentially 推理を行なったことである。しかし、参加者たちは、推理を行なうことはかなり難しいことを見いだした。システムを通じて前方へではなくて後方へと推理することが彼らに求められたのである。これが示唆するのは、彼らは、最初の働きとして彼らが表象したものから、逐次的にシステムを動かしたことである。この点では、実際のシステムとの同形性は保たれている。
 科学者たちも含めて人々は、機構の線図を動画化することによって理解するという主張を受け入れると、関連する問いは、いかにして人々はこれをするのか、に関わる。一つのもっともらしい最初の提案は、彼らは機構の像 image を創造し変形して、様々な構成要素がそれぞれが働きを実施しているように表象する、である。知覚において、われわれはシステムの諸部分が時間的に変化するという経験を持つ。それで、この提案は、想像のなかで、まるで動画化された線図を視るようなことが生じるのと同じ過程を呼び起こすことによって、これらの構成要素を動かすということである。この提案は、誤解を招く可能性がぼんやりと見えるので、注意深く解釈する必要がある。心的像への参照は、頭のなかでの画像〔図、絵画 picture〕といった心的対象への参照〔指示〕だと解釈されてはならない。最近の認知神経科学の研究によれば、人々が像を形成するとき、彼らは知覚において行なうのと同一の神経資源の多くを使用していることを示している(Farah, 1988; Kosslyn, 1994)。[^12]ゆえに、頭の中で像を形成しているときに生じていることは、実際の像を見ているときに生じるであろうものと比較可能な活動なのである。Barsalou (1999) は、この神経活動のことを、_知覚的記号 perceptual symbol_として語っている。【p.38/p.39】
 知覚的記号で考えることは、すると特定の方式で振る舞っている視覚的対象からの実際の入力に直面した場合に受けるであろうものに対応する、一連の働きを開始する脳と関与している。Barsalouは、これを_模擬〔擬似体験、シミュレーション〕simulation_と呼ぶ。そのうえ、模擬は、前の経験で起きた、これらの一連の神経プロセスを繰り返すことに限定されるわけではない。われわれは決して見たことのない対象を、これまでに見た物の構成要素を組み合わせることによって、想像することができるように、実際に出会ったものから離れた、変化系列を想像できる。
 人は、単純なシステムよりも、像を形成して操作することが比較的上手である。しかし、想像していることが、互いに相互作用し変化する多数の構成要素を持つ、かなり複雑なシステムが作動していることの場合は、しばしば道に迷ってしまう。〔略。長たらしい記述が続くので、これ以降はあちこちはしょることにする。〕しかし科学者たちと技術者たちは、活動中のシステムを想像するという人の能力を補う道具を創造した。一つの道具は、縮尺模型 scale model 〔略〕を立てて、実際のシステムがどのように振る舞うのかを決定することに使うことである。縮尺模型の振る舞いは、実際のシステムの振る舞いを_模擬 simulate_する。たとえば、風洞における物体の振る舞いは、自然環境での乱気流を伴う現象を模擬するのに使用できる。もし代わりに、或る研究者が、時間を通じての或るシステムの変化を正確に特徴づける方程式を工夫できるならば、縮尺模型を実際に作ることなく、その方程式を解くことでそのシステムがどのように振る舞うのかを、その研究者はしばしば決定できる。この場合では、模擬は、物理模型ではなく、数理模型によってなされる。計算機の出現は、数理模型の方程式を解く手段を提供し、システムを模擬する手段をも加えたのである。より高い水準の計算機言語は、複雑な諸構造とそれらの相互作用を表わすように設計されており、これらの資源を使うことによって、複雑なシステムにおける相互作用の計算機模擬をしばしば創造できる(Jonker, Treur, & Wijngaards, 2002)。
 システムを模擬するこれらの様々な様式はすべて、機構が複雑で多数の働きが同時に起きているときに、重要な利点を提供する。人が機構の働きを想像するときは、相互作用のいくつかをしばしば見失ってしまうが、模擬ではそのようなことはないのである。しかし、想像を行なっているのが人であるときでさえ、彼または彼女が行なっていることもまた、機構を模擬していると特徴づけできる。
 機構は線図でもって表象できるが、言語的にも記述し得る。言語的表象と線図的表象との間に、なんらかの基礎的差異はあるのだろうか?。Larkin and Simon (1987) は、情報的に等価な線図と言語的表象を考察し、探索、パターン認識、そしてそれらの適用できる推論の手順、の容易さの点について、どのようにそれらは異なり得るのかを分析した。一部には、これらの差異は、言語的表象においては暗黙的なだけかもしれない情報が、線図においては明示的にされるかもしれず、それゆえ推理において呼び起こすのがより容易であるという事実に由来する(Larkin & Simon, 1987, p.65)。[^13]もっと最近では、Stenning and Lemon (2001) は、線図は、諸命題〔陳述〕よりも表現力が制約されていて、それゆえより扱いやすいと言った。彼らはまた、これらの諸制約によって与えられる利点は、諸制約を利用可能にする一つの説明を提供している主題に依存すると主張した。
 

   2.5 編制と還元の諸水準 Levels of Organization and Reduction [p.40]



Bechtel (2006) 機構についての表示と推論 Representing and Reasoning about Mechanisms 訳

2016年08月21日 00時31分56秒 | システム学の基礎
2016年8月21日-1
Bechtel (2006) 機構についての表示と推論 Representing and Reasoning about Mechanisms 訳
2016年8月21日-1は、2016年8月20日-4を包含する。


William Bechtel (2006) 『細胞の諸機構を発見する Discovering Cell Mechanisms』

  2.4. 機構についての表示〔表象〕と推論 Representing and Reasoning about Mechanisms [p.33]

 機構は、自然界における実在のシステムである。そのことによって、サモン Salmom(1984)は説明への自身の因果的機構的接近〔取り組み〕を_存在的 ontic_と同定させることになった。それは自然界での実際の機構に訴えるからである。彼はそれを、法則と法則からの逸脱に訴えるという、説明に対する認識的 epistemic_な捉え方に、対照させた。認識的捉え方は明瞭に、心的活動の産物である。サモンの洞察は重要である。しかし、存在的/認識的という区別は、その洞察を適切には捉えていない。彼が正しいのは、機構的説明において、科学者は因果的諸関係と自然界で働いている諸機構に訴える点である。それは、説明されるべき現象を生成する、あるいは産出すると取られる。しかしながら、一つの説明を提示することは、それでも認識的活動であること、そして自然界での機構は、いかなる説明の仕事も直接に遂行しないということに、注意することが重要なのである[^8]。
 機構的説明の認識  的特徴がわかる道はいくつかある。第一に、われわれの細胞で働いている機構は、細胞生物学者たちが発見し、細胞現象を説明するのに機構を呼び入れるずっと前から、働いていた。機構はそれ自身では、説明ではない。それは科学者たちの発明であり、機構の諸側面を、説明だと見なされるものを産むものとしたことである。第二に、機構と機構的説明との差異は、間違った機構的説明を考えれば特に明白である。このような場合、科学者はそれでもなお機構に訴えたが、自然界で働いている機構ではない。このような機構は、科学者によって提示された表象にのみ存在する。このように、説明において役割を担うのは表象された機構であって、機構それ自身ではない。(科学者たちが説明を求めるのもまた、表象された現象である。)こうして、科学者たちは、一つの機構的説明を、その現象を生じさせるのに主要なものと見なされた諸部分と諸働きを同定することによって、そして適切に編制されればどのようにしてそれらがそのように行なうことができるのかを示すことによって、提示する。[^9]
 機構は、言語的記述かあるいは線図 diagrams のどちらかによって表わし be represented 得る。科学についての哲学的説明では、言語的表象に特権を与え、線図はせいぜいのところ言語的論証をたどるための助けと見なされがちであった。科学者たちが論文を読む際の実際の行ないを考えれば、これらの席は入れ替わるように思える。読者たちは、摘要をざっと見て、それから鍵となる図へと跳ぶのが、普通である。助けとなるものが含まれる程度に、図についての解説を提供する図説明文は、この役割を演じる。機構的説明が提案されている論文を考えてみよう。線図は、諸働きの間の複雑な相互作用を表象するための乗り物を提供する。他方、解説はこれらを一度に一つ、特徴づけることができるにすぎない。論文の本文はしたがって、さらなる解説を提供する。それらはすなわち、機構はいかにして働くと期待されるか(序)、その働きについての証拠はいかにして入手されたか(方法)、どの証拠が進展したか(結果)、そしてどのようにこれらの結果が提案された機構に導いたのかの解釈(議論)である。詳しい解説は重要であるが、機構を表象するのは線図である。線図の際立った特徴を示す一例として、クリスチャン ド デューヴ Christian de Duveは、彼によるリソソームの発見は、肝臓酵素の生化学的研究中に予期しない失敗によってひらめいたことを思い出す(リソソーム発見の際の彼の役割については、第5章で詳しく論じる)。「或る幸運な偶然の一致によって、わたしの最近の読み物は、[Claudeとわたしによる二つの論文を]含むことになった[し、そして]わたしはただちにClaudeの線図を思い出した。その線図は、大小両方の顆粒を水素イオン指数が5で凝集反応を起こすことを示すもので、われわれの酵素は或る類いの細胞水準よりも下位の構造〔細胞小器官構造〕にしっかりと貼りついていそうであると、わたしは結論した」(de Duve, 1969, p.5)。
 科学者たちが線図に寄せる重要性から、線図は余分なものなのかどうかという疑問が導かれるのは当然である。科学者が一定の情報を、命題的によりは線図的に表わす represent ことを選ぶ理由はあるのだろうか?。もっと重要なことは、線図を用いた推論と命題を用いた推論とで異なる過程があるのかである。命題を用いた推論という、論理的推論だけに焦点を絞っての科学についての説明は、説明的推論の重要側面を捉えるのに失敗しているのではなかろうか?、である。
 機構を表象するのに線図を使う動機は、明白である。(身振り言語に見られる表象を除いた)言語的表象とは違って、線図は、情報を伝えるのに空間を活用する。心臓の事例が明らかにしたように、空間的な配置と編制は、機構され自身の働きにとって、しばしば決定的である。製造所でのように、異なる働きは、異なる位置で生じる。ときおり、これは働きを互いから分離しておくのに役立つし、またときおり、働きを互いに関連させておくのに役立つ。これらの空間的諸関係は、線図に難なく示すことができる。特異的な空間的配置に関する情報を欠くか有意義ではない場合でさえ、線図における空間を諸働きを概念的に関係させたり分離させたりするのに使える。そのうえ線図は、空間以外に視覚的処理が利用できる、色と形を含んだ諸次元の利点を活かすことができる。[^10]
 
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[^10]これらは、(或る機構の諸部分の実際の色と形を表象する)図像的 iconic であり得るし、あるいは記号的 symbolic であり得る。脳活動のfMRI線図は、色の記号的使用のよく知られた例である。そこでは、熱いから冷たいへと尺度づけられた色は、強いから弱い活性、または或る基準線を越える活性化の増加の高いから低い統計的有意義性といったことを表わすために使われる。
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 時間は、機構の働きにとって、少なくとも空間と同様に重要である。一つの働きは、別の働きを進めたり、その後を追ったり、それと重複したり、あるいはそれと同時であったりする。このことは、線図における空間的次元の一つを時間的秩序を伝達するのに使うことで、表現し得る。これは、もちろん、問題を引き起こす。すなわち、たいていの線図は二次元であり、時間以外のあらゆるものに対して一つの次元だけが残ることになる。一つの解決は、心臓の線図に例示されたように、機構の空間的関係または類似性関係を自由に表わすために二つの次元を残しておき、矢印は時間的関係を表わすという、戦略的活用である。もう一つの解決は、三次元を二次元面に投影するための技術を使うことである。
 働きの時間的秩序を、空間的次元によって表わすか、矢印によって表わすか、いずれにしろ、線図は言語的記述に対して明瞭な利点を持っている。すべての部分と働きが同時に閲覧に利用可能であるという、最も明白な利点は、たぶん最も弱い点でもある。処理上の制限から、人々は一度には線図の一つか少数の部分しか取り込めない。それでもやはり、文を読むよりももっと多くが取り込める。人々には、数多くの仕方で文のまわりを動く自由があるのだ。そして線図がもっとなじみのうるものになれば、それのもっと多くが一度に取り込むことができる。もっと強力な利点は、線図が、計り知れず価値のあり得る表象のための比較的直接的で図像的な資源を提供することである。たとえば、心臓の線図では、血液が二つの心房腔から二つの心室へと同時に送り出されること、そしてこれら二つの並行的働きは、他の二つの並行的働き(二つの心室腔からの送り出し)に対して逐次的関係性にあることが、即座にわかる。
 このようにして線図を調べる価値は、フィードバックの環を持つ機構において、さらに明きらかである。フィードバックを通じて、概念的に下流にある(機構の生産物として受け取られるものを生産することに、より近い)或る働きは、後に続く時間的諸段階で流れのより前にある働きを実施することを変更する効果を持つ。多数の事例を、細胞の呼吸内で見つけることができる。1930年代に生化学者が発見したように、それは、三つの繋がった下位機構から構成されている(図3.16〔→図3.15が正しい〕で次章に例解した通りである)。それらをさらに取り出すと、それらは、フィードバック的働きをも含めて、同調した生化学的働きを伴うと見られる。図2.3は、最初の二つの下位機構(解糖とクエン酸回路)の間の接面 interface で働く、重要なフィードバック環〔帰還回路 feedback loop〕を示す。この線図は、システムの諸部分(ピルビン酸といった化合物)を空間的に配置することによって、そして垂直の次元だけでなく、働きの順序を指し示すために矢印(反応のための実線の矢印とフィートバック環のための点線の矢印)をも使うことによって、理解を助けるのである。
 
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図2.3.解糖とピルビン酸回路の間にある連鎖におけるフィートバック環〔帰還回路〕。解糖の最終反応において、ホスホエノールピルビン酸はピルビン酸を産生する。ピルビン酸は、それからアセチル補酵素Aをを産生し、そのうちの或る量はクエン酸回路(図には示されていない)を連続的に補給するのに必要である。クエン酸回路で使われ得るよりも多くのアセチル補酵素Aが産生されれば、それはピルビン酸キナーゼを抑制するように蓄積されてフィードバック〔帰還〕する(点線の矢印)。ピルビン酸キナーゼという酵素は、反応の最初の段階を招くものである。これは順に、ブドウ糖が解糖経路の入るのを止めるだろう。
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 推論することを計算機でのモデル作りに従事する認知科学者たちによって認識された重要な原理は、表象の諸様式と推測の諸手順を同調させることが本質的だということである。線図が機構を表わすのに重要な乗り物であるならば、人々が線図についてどのように推論するかを考慮する必要である。







Bechtel (2006) 機構についての表示と推論 Representing and Reasoning about Mechanisms 訳

2016年08月20日 20時28分17秒 | システム学の基礎
2016年8月20日-4
Bechtel (2006) 機構についての表示と推論 Representing and Reasoning about Mechanisms 訳



William Bechtel (2006) 『細胞の諸機構を発見する Discovering Cell Mechanisms』

  2.4. 機構についての表示〔表象〕と推論 Representing and Reasoning about Mechanisms [p.33]

 機構は、自然界における実在のシステムである。そのことによって、サモン Salmom(1984)は説明への自身の因果的機構的接近〔取り組み〕を_存在的 ontic_と同定させることになった。それは自然界での実際の機構に訴えるからである。彼はそれを、法則と法則からの逸脱に訴えるという、説明に対する認識的 epistemic_な捉え方に、対照させた。認識的捉え方は明瞭に、心的活動の産物である。サモンの洞察は重要である。しかし、存在的/認識的という区別は、その洞察を適切には捉えていない。彼が正しいのは、機構的説明において、科学者は因果的諸関係と自然界で働いている諸機構に訴える点である。それは、説明されるべき現象を生成する、あるいは産出すると取られる。しかしながら、一つの説明を提示することは、それでも認識的活動であること、そして自然界での機構は、いかなる説明の仕事も直接に遂行しないということに、注意することが重要なのである[^8]。
 機構的説明の認識  的特徴がわかる道はいくつかある。第一に、われわれの細胞で働いている機構は、細胞生物学者たちが発見し、細胞現象を説明するのに機構を呼び入れるずっと前から、働いていた。機構はそれ自身では、説明ではない。それは科学者たちの発明であり、機構の諸側面を、説明だと見なされるものを産むものとしたことである。第二に、機構と機構的説明との差異は、間違った機構的説明を考えれば特に明白である。このような場合、科学者はそれでもなお機構に訴えたが、自然界で働いている機構ではない。このような機構は、科学者によって提示された表象にのみ存在する。このように、説明において役割を担うのは表象された機構であって、機構それ自身ではない。(科学者たちが説明を求めるのもまた、表象された現象である。)こうして、科学者たちは、一つの機構的説明を、その現象を生じさせるのに主要なものと見なされた諸部分と諸働きを同定することによって、そして適切に編制されればどのようにしてそれらがそのように行なうことができるのかを示すことによって、提示する。[^9]
 機構は、言語的記述かあるいは線図 diagrams のどちらかによって表わし be represented 得る。科学についての哲学的説明では、言語的表象に特権を与え、線図はせいぜいのところ言語的論証をたどるための助けと見なされがちであった。科学者たちが論文を読む際の実際の行ないを考えれば、これらの席は入れ替わるように思える。読者たちは、摘要をざっと見て、それから鍵となる図へと跳ぶのが、普通である。助けとなるものが含まれる程度に、図についての解説を提供する図説明文は、この役割を演じる。機構的説明が提案されている論文を考えてみよう。線図は、諸働きの間の複雑な相互作用を表象するための乗り物を提供する。他方、解説はこれらを一度に一つ、特徴づけることができるにすぎない。論文の本文はしたがって、さらなる解説を提供する。それらはすなわち、機構はいかにして働くと期待されるか(序)、その働きについての証拠はいかにして入手されたか(方法)、どの証拠が進展したか(結果)、そしてどのようにこれらの結果が提案された機構に導いたのかの解釈(議論)である。詳しい解説は重要であるが、機構を表象するのは線図である。線図の際立った特徴を示す一例として、クリスチャン ド デューヴ Christian de Duveは、彼によるリソソームの発見は、肝臓酵素の生化学的研究中に予期しない失敗によってひらめいたことを思い出す(リソソーム発見の際の彼の役割については、第5章で詳しく論じる)。「或る幸運な偶然の一致によって、わたしの最近の読み物は、[Claudeとわたしによる二つの論文を]含むことになった[し、そして]わたしはただちにClaudeの線図を思い出した。その線図は、大小両方の顆粒を水素イオン指数が5で凝集反応を起こすことを示すもので、われわれの酵素は或る類いの細胞水準よりも下位の構造〔細胞小器官構造〕にしっかりと貼りついていそうであると、わたしは結論した」(de Duve, 1969, p.5)。
 科学者たちが線図に寄せる重要性から、線図は余分なものなのかどうかという疑問が導かれるのは当然である。科学者が一定の情報を、命題的によりは線図的に表わす represent ことを選ぶ理由はあるのだろうか?。もっと重要なことは、線図を用いた推論と命題を用いた推論とで異なる過程があるのかである。命題を用いた推論という、論理的推論だけに焦点を絞っての科学についての説明は、説明的推論の重要側面を捉えるのに失敗しているのではなかろうか?、である。
 機構を表象するのに線図を使う動機は、明白である。(身振り言語に見られる表象を除いた)言語的表象とは違って、線図は、情報を伝えるのに空間を活用する。心臓の事例が明らかにしたように、空間的な配置と編制は、機構され自身の働きにとって、しばしば決定的である。製造所でのように、異なる働きは、異なる位置で生じる。ときおり、



Bechtel (2006) 2.3 機構と、2.4 表示 MechanismとRepresentation の訳[改訂と追加:第3版]

2016年08月20日 16時29分13秒 | システム学の基礎
2016年8月20日-3
Bechtel (2006) 2.3 機構と、2.4 表示 MechanismとRepresentation の訳[改訂と追加:第3版]
2016年8月20日-3は、2016年8月20日-2を含む。-2は、2016年8月20日-1、を含む。


William Bechtel (2006) 『細胞の諸機構を発見する Discovering Cell Mechanisms』

2.3. 機構の現代的捉え方 Current Conceptions of Mechanism [p.26]

 最近の20年間に生物諸科学への注目がますます増すにつれて、数多くの科学哲学者たちが機構的〔機械論的〕説明 mechanistic explanation 〔訳註1〕に関心を向け始めた。彼らは適当な枠組みが存在しないことを、初期の提案で述べた。その提案は、いくつかの重要な事項で、また用語、〔論議の〕範囲 scope〔視界〕、そして強調点において、重複していた。(たとえば、Bechtel & Richardson, 1993; Glennan, 1996; Machamer, Darden, & Craver, 2000)[〔原註〕^2]。まず、自然界に見られる機構の基本的特徴づけを与え、次にそれを機構的説明のための枠組みへと仕上げよう。すなわち、
 
  一つの機構とは、その構成部分 component parts、構成要素の働き component operations、そしてそれらの編制〔組織化〕 organization によって、一つの機能を遂行する一つの構造である。その機構が調整されて機能すること orchaesrated functioning が、一つ以上の現象を招く responsible for one or more phenomena。

 さらに、

・ 機構の構成部分とは、注目した現象を生じること producing に関わりのある構成部分である。【p.26/p.27】
____________________
  訳註1。mechanistic explanation は機械論的考えを引き継いでいるので、機械論的説明と訳した方が良いだろうと思う。マーナとブーンゲ(2008: ??)が主張する「mechanismic」という語に、機構的と訳して、機械論的な文脈での「mechanism」を「機関」と訳すのも選択肢の一つだろう。機械論的機構は、「machinery」という語を用いて、「からくり」または「機関」と訳す手もあるだろう。しかし残念ながら、「mechanism」という語では区別できないので、とりあえずは「mechanistic」も「機構的」としておく。きちんと論じて訳語を定めるには、機械類比論 などとの区別点を踏まえる必要がある。
____________________


・ 各々の構成要素の働きは、少なくとも一つの構成部分と関与する。典型的には、その働きを開始するか維持する一つの活動的部分があり、その働きによって変化する少なくとも一つの受動的部分がある。その変化は、一つの部分の場所または他の諸性質へ向けられるかもしれないし、あるいはそれを別の種類の部分へと変形するかもしれない。
・ 機構は編制〔組織化〕の多数の水準に関与するかもしれない。
・ 働きは、単純に時間的順序によって編制されることができる。しかし、生物学的機構での働きは、もっと複雑な形態の編制を示す傾向がある。
・ 機構は、動力学的 dynamic であり得るし、個体発生的と系統発生的の両方に変化し得る。

 機構のこのような特徴づけのいくつかの特徴は、洗練が必要である。

   _機構は現象を説明する_ _Mechanisms Explain Phenomena_ [p.27]

 機構の捉え方は最初は、説明の文脈と結ばれている。すなわち、機構は、説明が探し求められる現象によって同定される。論理経験主義的な科学哲学においては、説明を、観察〔観測〕言明を説明するものとして説明を解釈する傾向があった。観察言明は、事象を理論中立的に特徴づけるものと取られたのである。この見解は、Hanson (1948) とKuhn (1962/1970)に由来する論争、観察は理論負荷的であり、科学者たちが観察するものはかれらが従う理論によって影響されるという論争とともに疑わしいものとなった。これは、理論が、試験されるべき理論によってすでに形づくられた観察によって試験される、という循環性を招く恐れがあると思われた。この循環性は不公理だと示す、より簡単なやり方があるけれども[^3]、BogenとWoodward は、観察は科学者たちが説明するものであるという考えそのものに挑戦した。彼らは、観察と現象を対比させた。観察はデータ〔資料〕を提供するが(ただしデータが期待されるものと判明せず、調査者がなぜかを求める場合を除いて)、科学者たちが説明するのはデータではない。むしろ、彼らは_現象_を説明するのである。現象とはつまり、この世界における出来事 occurences であり、その出来事についてデータを入手することができるのである。特異的な〔唯一無二の singular〕現象(ビッグバンや特定の有機体の誕生)はあり得るけれども【p.27/p.28】、科学で注目する現象は、一般化において捕えられるものである。一般化とは、たとえば、変数間の関数関係とか、あるいは一定の種類の事象が他の一定の型の事象が生起したときにだけ規則的に生起するという事実とかに、関与するものである。データは、現象を同定し証拠を提供する際に重要な役割を演じるが、説明の対象であると同定されるのは現象である。
 BogenとWoodward は、現象の事例として、「弱い中性電流、陽子の崩壊、そして人の記憶における新近性効果」(1988, p.306)を提示した。生物学では、DNA〔デオキシリボ核酸〕の複製、またはアルコール発酵は、この事例に相当するだろう。現象を定量的に特徴づけることはしばしば可能である。BogenとWoodward は、鉛が摂氏327度で溶けるという事例を考察している。ガレリオは、地球表面の近くで自由落下する物体が動く距離は、それが落下するときの秒数の二乗〔平方〕の16倍だということを確立した。定量的現象の生物学的事例は、正常の細胞で形成されるアデノシン三燐酸(ATP)の分子の最大数は、費やされる一酸素分子当たりの酸化的燐酸化反応によって、3であるというものである。現象はまた、様々な程度の特異性 specificity によって特徴づけることができる。個々の科学者は、彼女の研究にとっての現象とは、たとえば特定の諸条件下で生きる特定種に存在する特異的な型の細胞における特定の蛋白の合成なのだと同定するかもしれない。或る総説論文の著者は、様々な細胞型と種におけるその蛋白の合成という現象を扱うかもしれない。最も一般的な水準では、教科書の著者は、単に「蛋白合成」について少しばかりの頁を書くかもしれない。
 現象を同定し特徴づけることは挑戦的な科学的活動であり、それは時間、金銭、そして創意工夫のかなりの資源を消費する。主張される現象は、本物であると示されなければならないし、その一般性が同定されなければならない。主張される現象のうち、精査されると成立せず、捨てられなければならないものもある。機構的説明の発展のためには、現象を特定化することの重要性をわたしは強調するであろうが、その現象を招くと取られる機構の研究の過程で、科学者が現象の特徴づけをしばしば改訂することを、最初から注意しておくことは重要である。『複雑性を発見する Discovering Complexity』においてRichardsonとわたしは、このような改訂を現象の再構成_reconstituting the phenomenon_と呼び、事例を提供した。それは、研究者たちは、遺伝子発現の機構を研究する途上で、何に対して遺伝子は符号化するのかという捉え方を繰り返し改訂したという事例である。1860年代にグレゴール メンデルは、 特徴 traitsに対する因子 factorsについて語った。1910年代にトーマス ハント モルガンと彼の恊働者たちは、眼の色といった特徴に対する遺伝子の場所を突き止めようと探し求めた。しかし1940年代に Beadle とTatum のアカパンカビにおける突然変異の探求は、彼ら自身をして、遺伝子を特徴ではなく個々の酵素へと結びつけることとなった。【p.28/p.29】
 もし現象の捉え方の改訂がそんなにも大きいのならば、その機構が何を行なっているかが、いまだに存在すると認められるものは少ししかない。当初に特徴づけられた現象に対する機構を分節するように向かってなされた仕事は、無駄に終わったと証明されたと言えるかもしれない。もっとも、きわめてしばしば、現象の特徴づけにおける変化は、旧来の捉え方の大規模な置換ではなくて、改訂という形態を取り、したがって機構の説明における変化は、より限定されたものである。たとえば、初期の研究者は発酵を、糖を分解して(熱を副産物とするとともに)アルコールを産する異化活動として解釈した。解放されたエネルギーが、他の細胞活動のためのエネルギー資源として使われる高エネルギーの燐酸結合に捕えられると、研究者たちはひとたび認識すると、説明されるべき現象の捉え方は改訂されたのである。それは今や、食料のエネルギーを細胞分裂といった他の活動に役立つ形態へと転換する機構なのである。しかし、糖のアルコールへの異化的分解は、この過程の一部として留まっている。ゆえに、発酵の機構について知られたことの多くは、その現象が再概念化された後もなお、応用されたのである。
 そのことから生じたのは、機構的〔機械論的〕説明を含めて、説明を提供するという企画は、現象を同定することから始まることを強調することである。ここが、機能する構造が決定され、関連する部分と働きとそれらの組織化として何が同定されれば成功であると認めるのかを制約するところである(Kauffman, 1971)〔訳し方がよくわからん〕。もしなんらかの存在者が働きが、当該の現象の生産に寄与していないのならば、それはその現象を招く機構の一部ではない。この解釈にもとづけば、異なる機構は、同一の時空的領域での同一の実体 substance において例示されるかもしれないし、多くの構成部分と働きを共有するかもしれない。一組の部分と働きを当該の機構へと統一するものは、特定の現象を産むにあたっての、それらの編制〔組織化〕とそれらの恊働的な機能である。
 現象についてのこの議論を、機構を様々に特徴づけることに使い続けるであろう、一つの実例を紹介して締めくくろう。ハーヴェイ Harveyの研究の後、循環系を通じた血液の汲み上げは、うまく述べられた現象であった。今ではその現象は明白だと受け取られているが、ハーヴェイが血液の循環についてもっと一般的な現象を確立するまでは、血液汲み上げの現象は認められなかった。研究者たちは、循環のことを考慮するよりも、動脈と静脈の両方が物質を体組織へ運んだと、またこの現象はより新しい物質が古い物質を押し出すことの結果としてたやすく説明されたと思ったのである。ひとたびハーヴェイが血液は循環することを確立すると、血液を動かす汲み上げ器の必要が認識されたし、機能する心臓はこの現象を招くものとして同定された。説明されるべき現象を特定することの重要性は、この例で示されている。心臓が血液汲み上げの機能を遂行するものとして認識されるまでは、これが生じる方法を理解することに興味は持たれなかった。そのうえ、心臓は他のことも行なっていた。心臓は音を作ったし、この現象を説明したいという人もいたかもしれない。しかしながらそれは異なる機構に関与する異なる現象である。いくつかの構成要素を、血液を汲み上げるための機構と共有する、音を立てるという諸部分と諸々の働きからなる一つのシステムは、しかしそれ〔=血液汲み上げ機構〕とは同一ではない。


    _構成部分と構成要素の働き_ _Component Parts and Component Operations_ [p.30]

 機構についての強調すべき次の側面は、機構は構成部分と構成要素の働きから成るということである[^6]。図2.2は、血液を送り出す〔汲み上げる〕ための機構として見たときの心臓の鍵となる構成要素を解説するものである。

図2.2 機構の一例。心臓は血液を送り出す。名称をつけた部分は、RA:右心房、LA:左心房、RV:右心室、LV:左心室、T:三尖弁、M:僧帽弁、P:肺動脈弁、A:大動脈弁。
〔図2.2では、心臓の断面図と心臓外部の部位に、各部位の名称の略語が記入され、血液の進行方向を示す矢印が記入されている。大動脈→組織→大静脈→心臓[右心房→三尖弁→右心室→肺動脈弁]→肺動脈→肺→肺静脈→心臓[左心房→僧帽弁→左心室→大動脈弁]→大動脈。管や器官を移動するのは血液で、肺は、血液中の血色素に結合した二酸化炭素を酸素に交換する。弁は、血液が流れる方向を、その形態によって制御する装置である。血液が流れるようにしているのは、心臓部位の収縮と弛緩が時間的に制御された運動である。この図は血液循環の経路を示しているだけである。収縮と弛緩といった物理的運動、さらにはそのような物理的運動を引き起こす力または作用を書き込まないことには、機構を表示したとは言えない。〕

心臓の構成部分として、心房と心室、心房と心室の間の弁、心室と動脈の間の弁、そして血液自体を含んでいる。構成要素の働きとしては、心房と心室の収縮と弛緩、そして弁の開閉である。心房と心室が収縮すると血液はそれらから追い出され、その後に弁が閉じることで血液の逆流が防がれる[^7]。ここでの血液は機構の一部であるが、それ自身が(この現象の文脈において)働きを遂行するというよりも、働きかけられる部分である。この事例では、働きを遂行する部分は働きかけられる部分と分離しているけれども、他の事例では、働きを遂行する部分は、働きかけられる部分にも影響されるかもしれない(第6節で論じるように、このようなフィードバックは、機構が自己制御できる主要なやり方を提供している)。
 一つの機構を構成する部分と働きは、科学者がすっきりと識別して教科書にあるように名称がつけられているようには、存在していない。研究が機構を理解する結果となるには、それを物理的にではないにしても概念的に_分解し decomposing_(それをばらばらにする)必要がある。部分と働きという分割に対応して、二つの型の分解がある。_構造的分解 structural decomposition_とわたしが呼ぶものは、一つの構造を諸構成部分へと分解する。他方、_機能的分解 functional decoposition_は、その機能を構成要素の働きへと分解する。ときには調整されることはあるが、これらの二つの型の分解が、異なる分野にいて異なる道具を用いる科学者たちによって互いに独立に追求されることは、稀ではない。しばしば一つの分解が他の分解よりも速くにまた成功裡に進む。遅い方の探求が追いつくまでには、かなりの時間が経過しているのである。
 構造的分解の一事例は、解剖的分割による発見である。すなわち、(1)身体は一つの心臓を持つ、そして(2)心臓は4つの部屋〔小室〕(RA、LA、RV、そしてLV)を持ち、少なくとも4つの弁(T、M、P、そしてA)を持つという発見である。もう一つの事例は、顕微鏡使用による発見で、それは、(1)組織は細胞から成る、(2)細胞は、原形質膜、核、そして細胞質を含む、(3)細胞質は、細胞内可溶質 cytosolとミトコンドリアやゴルジ装置といった様々な細胞小器官を含む、(4)各々の細胞小器官は、内的構造を持っている(その記述とさらなる水準は、細胞小器官によって異なる)、である。機能的分解の一つの事例は、生理学的研究による発見で、血液の送り出しの全体的機能は、(様々な時刻と様々な小室での)収縮と弛緩、そして(弁の)開閉の、多数の構成要素の働きを含む。括弧中のものは、関与する部分のなんらかの指摘〔指示〕がなければ、働きを特定することは一般的に難しいことを示している。しかし、機能的分解という分離した概念を持つことは、有用である。なぜなら、働きを同定するうえでの進歩は、関与する部分のいくつかまたはすべてについての最小限の知識があるときに、しばしば前進できるからである。たとえば、20世紀初期の生化学者たちは、細胞呼吸の全体的機能を、数多くの生化学的反応(働き)へと分解した。他方、構造的には、彼らは基質と産物(受動的部分)についての基本的知識を持っていたが、諸反応を触媒すると想定される酵素(活動的部分)に対して名称を発明する程度のことしかしなかったのである。
 究極のところ、機構の完全な特徴づけは、その構造が分解される諸部分のうえに、その機構の全体的機能が分解される諸働きへと、写像することを必要とする。わたしは、_局在化 localization_という用語を、このような写像に対して使う。これについては、もっと後で議論する。或る水準での部分と働きを同定するだけではなく、部分と働きの編制を暴露することもまた、きわめて重要である。機構がその振る舞いをいかにして生み出すのかを十分に理解するには、このような組み合わされた観点がしばしば必要とされる。なぜなら、諸部分の空間的配置が、それらの働きの時間的編制を可能にするか容易にしているのが頻繁だからである。そのうえ実践的問題として、構造と機能は他方への重要な洞察を、しばしばもたらす。或る部分の構造的特徴を知ることは、それがどのようにその働きを成し遂げるのかへと洞察を提供できるのである。遂行されている働きを理解することは、どの種類の部分が招いているのかについての手懸かりをしばしば提供する。生細胞のなかで見られる現象を招く機構を理解するための、近代細胞生物学の主要な貢献は、後に見るように、様々な細胞小器官をそれらが遂行する生理的働きと、特定の生化学的働きを持つ細胞小器官のより下位の水準での一定の構成要素とに、関係づける能力を必要としたのである。


   _編制と調整Organization and Orchestration_ [p.32]

 さきほど述べた点、つまり、諸部分と諸働きがどのように編制されているのかを決定することについて、洗練する価値がある。一つの機構は典型的には、各々が孤立してその働きを成し遂げているという、独立な部分の集まり〔収集体〕 collection ではない。むしろ、諸部分と諸働きは概して一つの凝集的な、機能するシステムへと統合されている。心臓においては、静脈、心房、心室、そして動脈は、互いに空間的に適切に関係していなければならない。さらに、弁は、正しい場所に位置して、そのシステムを通して血液が逆流することを防ぐように方向づけなければならない。これは、機構の諸部分は編制されているという事実を例証している。その働きもまた編制されている。各々は、順番に生起する(単純な時間的秩序づけである)かもしれないし、あるいは沢山の重複、相互依存性、あるいは他の複雑性がある可能性がある。時間調整 timing が、特に多くの部分を持つ機構において、より複雑になるにつれて、働きは注目する現象を産み出すように調整されると、さらに言える。たとえば、血液を送り出す心臓の現象は、構成諸部分の空間的編制〔組織化〕、構成要素の働き(運動)の時間的編制、そして即時に動いている諸部分のきめの細かい時空的調整 fine-grained spatiotemporal orchestration〔orchestrationは、各部分への割り当ておよび統合的編成〕に依存する。
 編制がそんなにも重要なのは、いくつかの理由がある。一部分が他の一部分の働きによって産出される生産物に働きかけるべきならば、それは生産物への確かな接近手段を持つ必要がある。これを確かなものとする一つの方法は、その二つの部分が空間的に隣接していることである。もう一つの方法は、それらの間に或る様式の輸送を提供することである。人によって製造において使われている組み立てライン〔線列〕は、この様式の編制を採用している。つまり、諸構成要素は、ライン〔線列〕に持ち込まれ、出現する生産物に順に加えられる。しかし、生物的システムにおける編制は、組み立てラインに使われる逐次的な配列ほどに単純であることはめったに無い。生物的機構における編制の鍵となる特徴の一つは、フィードバックと、その機構のいくつかの構成要素の振る舞いが、その機構の他の諸構成要素によって調整 regulate されることを可能にする、他の類いの制御システムたちの組み入れである。より複雑な様式の編制の役割は、機構の生物学的捉え方を、非生物学的な機構に十分な捉え方とは異なるものとする一つの主要な特徴である。



  2.4. 機構についての表示〔表象〕と推論 Representing and Reasoning about Mechanisms [p.33]

 機構は、自然界における実在のシステムである。そのことによって、サモン Salmom(1984)は説明への自身の因果的機構的接近〔取り組み〕を_存在的 ontic_と同定させることになった。それは自然界での実際の機構に訴えるからである。彼はそれを、法則と法則からの逸脱に訴えるという、説明に対する認識的 epistemic_な捉え方に、対照させた。認識的捉え方は明瞭に、心的活動の産物である。サモンの洞察は重要である。しかし、存在的/認識的という区別は、その洞察を適切には捉えていない。彼が正しいのは、機構的説明において、科学者は因果的諸関係と自然界で働いている諸機構に訴える点である。それは、説明されるべき現象を生成する、あるいは産出すると取られる。しかしながら、一つの説明を提示することは、それでも認識的活動あること、そして自然界での機構は、いかなる説明の仕事も直接に遂行しないということに、注意することが重要なのである[^8]。
 


Bechtel (2006) 機構と表示 MechanismとRepresentation の訳[改訂と追加]

2016年08月20日 12時41分38秒 | システム学の基礎
2016年8月20日-2
Bechtel (2006) 機構と表示 MechanismとRepresentation の訳[改訂と追加]

2016年8月20日-1
Bechtel (2006) 機構と表示 MechanismとRepresentation の訳(改訂増補)
を含む

William Bechtel (2006) "細胞の諸機構を発見する Discovering Cell Mechanisms"

2.3. 機構の現代的捉え方 Current Conceptions of Mechanism [p.26]

 最近の20年間に生物諸科学への注目がますます増すにつれて、数多くの科学哲学者たちが機構的〔機械論的〕説明 mechanistic explanation 〔訳註1〕に関心を向け始めた。彼らは適当な枠組みが存在しないことを、初期の提案で述べた。その提案は、いくつかの重要な事項で、また用語、〔論議の〕範囲 scope〔視界〕、そして強調点において、重複していた。(たとえば、Bechtel & Richardson, 1993; Glennan, 1996; Machamer, Darden, & Craver, 2000)[〔原註〕^2]。まず、自然界に見られる機構の基本的特徴づけを与え、次にそれを機構的説明のための枠組みへと仕上げよう。すなわち、
 
  一つの機構とは、その構成部分 component parts、構成要素の働き component operations、そしてそれらの編制〔組織化〕 organization によって、一つの機能を遂行する一つの構造である。その機構が調整されて機能すること orchaesrated functioning が、一つ以上の現象を招く responsible for one or more phenomena。

 さらに、

・ 機構の構成部分とは、注目した現象を生じること producing に関わりのある構成部分である。【p.26/p.27】
____________________
  訳註1。mechanistic explanation は機械論的考えを引き継いでいるので、機械論的説明と訳した方が良いだろうと思う。マーナとブーンゲ(2008: ??)が主張する「mechanismic」という語に、機構的と訳して、機械論的な文脈での「mechanism」を「機関」と訳すのも選択肢の一つだろう。機械論的機構は、「machinery」という語を用いて、「からくり」または「機関」と訳す手もあるだろう。しかし残念ながら、「mechanism」という語では区別できないので、とりあえずは「mechanistic」も「機構的」としておく。きちんと論じて訳語を定めるには、機械類比論 などとの区別点を踏まえる必要がある。
____________________


・ 各々の構成要素の働きは、少なくとも一つの構成部分と関与する。典型的には、その働きを開始するか維持する一つの活動的部分があり、その働きによって変化する少なくとも一つの受動的部分がある。その変化は、一つの部分の場所または他の諸性質へ向けられるかもしれないし、あるいはそれを別の種類の部分へと変形するかもしれない。
・ 機構は編制〔組織化〕の多数の水準に関与するかもしれない。
・ 働きは、単純に時間的順序によって編制されることができる。しかし、生物学的機構での働きは、もっと複雑な形態の編制を示す傾向がある。
・ 機構は、動力学的 dynamic であり得るし、個体発生的と系統発生的の両方に変化し得る。

 機構のこのような特徴づけのいくつかの特徴は、洗練が必要である。

   _機構は現象を説明する_ _Mechanisms Explain Phenomena_ [p.27]

 機構の捉え方は最初は、説明の文脈と結ばれている。すなわち、機構は、説明が探し求められる現象によって同定される。論理経験主義的な科学哲学においては、説明を、観察〔観測〕言明を説明するものとして説明を解釈する傾向があった。観察言明は、事象を理論中立的に特徴づけるものと取られたのである。この見解は、Hanson (1948) とKuhn (1962/1970)に由来する論争、観察は理論負荷的であり、科学者たちが観察するものはかれらが従う理論によって影響されるという論争とともに疑わしいものとなった。これは、理論が、試験されるべき理論によってすでに形づくられた観察によって試験される、という循環性を招く恐れがあると思われた。この循環性は不公理だと示す、より簡単なやり方があるけれども[^3]、BogenとWoodward は、観察は科学者たちが説明するものであるという考えそのものに挑戦した。彼らは、観察と現象を対比させた。観察はデータ〔資料〕を提供するが(ただしデータが期待されるものと判明せず、調査者がなぜかを求める場合を除いて)、科学者たちが説明するのはデータではない。むしろ、彼らは_現象_を説明するのである。現象とはつまり、この世界における出来事 occurences であり、その出来事についてデータを入手することができるのである。特異的な〔唯一無二の singular〕現象(ビッグバンや特定の有機体の誕生)はあり得るけれども【p.27/p.28】、科学で注目する現象は、一般化において捕えられるものである。一般化とは、たとえば、変数間の関数関係とか、あるいは一定の種類の事象が他の一定の型の事象が生起したときにだけ規則的に生起するという事実とかに、関与するものである。データは、現象を同定し証拠を提供する際に重要な役割を演じるが、説明の対象であると同定されるのは現象である。
 BogenとWoodward は、現象の事例として、「弱い中性電流、陽子の崩壊、そして人の記憶における新近性効果」(1988, p.306)を提示した。生物学では、DNA〔デオキシリボ核酸〕の複製、またはアルコール発酵は、この事例に相当するだろう。現象を定量的に特徴づけることはしばしば可能である。BogenとWoodward は、鉛が摂氏327度で溶けるという事例を考察している。ガレリオは、地球表面の近くで自由落下する物体が動く距離は、それが落下するときの秒数の二乗〔平方〕の16倍だということを確立した。定量的現象の生物学的事例は、正常の細胞で形成されるアデノシン三燐酸(ATP)の分子の最大数は、費やされる一酸素分子当たりの酸化的燐酸化反応によって、3であるというものである。現象はまた、様々な程度の特異性 specificity によって特徴づけることができる。個々の科学者は、彼女の研究にとっての現象とは、たとえば特定の諸条件下で生きる特定種に存在する特異的な型の細胞における特定の蛋白の合成なのだと同定するかもしれない。或る総説論文の著者は、様々な細胞型と種におけるその蛋白の合成という現象を扱うかもしれない。最も一般的な水準では、教科書の著者は、単に「蛋白合成」について少しばかりの頁を書くかもしれない。
 現象を同定し特徴づけることは挑戦的な科学的活動であり、それは時間、金銭、そして創意工夫のかなりの資源を消費する。主張される現象は、本物であると示されなければならないし、その一般性が同定されなければならない。主張される現象のうち、精査されると成立せず、捨てられなければならないものもある。機構的説明の発展のためには、現象を特定化することの重要性をわたしは強調するであろうが、その現象を招くと取られる機構の研究の過程で、科学者が現象の特徴づけをしばしば改訂することを、最初から注意しておくことは重要である。『複雑性を発見する Discovering Complexity』においてRichardsonとわたしは、このような改訂を現象の再構成_reconstituting the phenomenon_と呼び、事例を提供した。それは、研究者たちは、遺伝子発現の機構を研究する途上で、何に対して遺伝子は符号化するのかという捉え方を繰り返し改訂したという事例である。1860年代にグレゴール メンデルは、 特徴 traitsに対する因子 factorsについて語った。1910年代にトーマス ハント モルガンと彼の恊働者たちは、眼の色といった特徴に対する遺伝子の場所を突き止めようと探し求めた。しかし1940年代に Beadle とTatum のアカパンカビにおける突然変異の探求は、彼ら自身をして、遺伝子を特徴ではなく個々の酵素へと結びつけることとなった。【p.28/p.29】
 もし現象の捉え方の改訂がそんなにも大きいのならば、その機構が何を行なっているかが、いまだに存在すると認められるものは少ししかない。当初に特徴づけられた現象に対する機構を分節するように向かってなされた仕事は、無駄に終わったと証明されたと言えるかもしれない。もっとも、きわめてしばしば、現象の特徴づけにおける変化は、旧来の捉え方の大規模な置換ではなくて、改訂という形態を取り、したがって機構の説明における変化は、より限定されたものである。たとえば、初期の研究者は発酵を、糖を分解して(熱を副産物とするとともに)アルコールを産する異化活動として解釈した。解放されたエネルギーが、他の細胞活動のためのエネルギー資源として使われる高エネルギーの燐酸結合に捕えられると、研究者たちはひとたび認識すると、説明されるべき現象の捉え方は改訂されたのである。それは今や、食料のエネルギーを細胞分裂といった他の活動に役立つ形態へと転換する機構なのである。しかし、糖のアルコールへの異化的分解は、この過程の一部として留まっている。ゆえに、発酵の機構について知られたことの多くは、その現象が再概念化された後もなお、応用されたのである。
 そのことから生じたのは、機構的〔機械論的〕説明を含めて、説明を提供するという企画は、現象を同定することから始まることを強調することである。ここが、機能する構造が決定され、関連する部分と働きとそれらの組織化として何が同定されれば成功であると認めるのかを制約するところである(Kauffman, 1971)〔訳し方がよくわからん〕。もしなんらかの存在者が働きが、当該の現象の生産に寄与していないのならば、それはその現象を招く機構の一部ではない。この解釈にもとづけば、異なる機構は、同一の時空的領域での同一の実体 substance において例示されるかもしれないし、多くの構成部分と働きを共有するかもしれない。一組の部分と働きを当該の機構へと統一するものは、特定の現象を産むにあたっての、それらの編制〔組織化〕とそれらの恊働的な機能である。
 現象についてのこの議論を、機構を様々に特徴づけることに使い続けるであろう、一つの実例を紹介して締めくくろう。ハーヴェイ Harveyの研究の後、循環系を通じた血液の汲み上げは、うまく述べられた現象であった。今ではその現象は明白だと受け取られているが、ハーヴェイが血液の循環についてもっと一般的な現象を確立するまでは、血液汲み上げの現象は認められなかった。研究者たちは、循環のことを考慮するよりも、動脈と静脈の両方が物質を体組織へ運んだと、またこの現象はより新しい物質が古い物質を押し出すことの結果としてたやすく説明されたと思ったのである。ひとたびハーヴェイが血液は循環することを確立すると、血液を動かす汲み上げ器の必要が認識されたし、機能する心臓はこの現象を招くものとして同定された。説明されるべき現象を特定することの重要性は、この例で示されている。心臓が血液汲み上げの機能を遂行するものとして認識されるまでは、これが生じる方法を理解することに興味は持たれなかった。そのうえ、心臓は他のことも行なっていた。心臓は音を作ったし、この現象を説明したいという人もいたかもしれない。しかしながらそれは異なる機構に関与する異なる現象である。いくつかの構成要素を、血液を汲み上げるための機構と共有する、音を立てるという諸部分と諸々の働きからなる一つのシステムは、しかしそれ〔=血液汲み上げ機構〕とは同一ではない。


    _構成部分と構成要素の働き_ _Component Parts and Component Operations_ [p.30]

 機構についての強調すべき次の側面は、機構は構成部分と構成要素の働きから成るということである[^6]。図2.2は、血液を送り出す〔汲み上げる〕ための機構として見たときの心臓の鍵となる構成要素を解説するものである。

図2.2 機構の一例。心臓は血液を送り出す。名称をつけた部分は、RA:右心房、LA:左心房、RV:右心室、LV:左心室、T:三尖弁、M:僧帽弁、P:肺動脈弁、A:大動脈弁。
〔図2.2では、心臓の断面図と心臓外部の部位に、各部位の名称の略語が記入され、血液の進行方向を示す矢印が記入されている。大動脈→組織→大静脈→心臓[右心房→三尖弁→右心室→肺動脈弁]→肺動脈→肺→肺静脈→心臓[左心房→僧帽弁→左心室→大動脈弁]→大動脈。管や器官を移動するのは血液で、肺は、血液中の血色素に結合した二酸化炭素を酸素に交換する。弁は、血液が流れる方向を、その形態によって制御する装置である。血液が流れるようにしているのは、心臓部位の収縮と弛緩が時間的に制御された運動である。この図は血液循環の経路を示しているだけである。収縮と弛緩といった物理的運動、さらにはそのような物理的運動を引き起こす力または作用を書き込まないことには、機構を表示したとは言えない。〕

心臓の構成部分として、心房と心室、心房と心室の間の弁、心室と動脈の間の弁、そして血液自体を含んでいる。構成要素の働きとしては、心房と心室の収縮と弛緩、そして弁の開閉である。心房と心室が収縮すると血液はそれらから追い出され、その後に弁が閉じることで血液の逆流が防がれる[^7]。ここでの血液は機構の一部であるが、それ自身が(この現象の文脈において)働きを遂行するというよりも、働きかけられる部分である。この事例では、働きを遂行する部分は働きかけられる部分と分離しているけれども、他の事例では、働きを遂行する部分は、働きかけられる部分にも影響されるかもしれない(第6節で論じるように、このようなフィードバックは、機構が自己制御できる主要なやり方を提供している)。
 一つの機構を構成する部分と働きは、科学者がすっきりと識別して教科書にあるように名称がつけられているようには、存在していない。研究が機構を理解する結果となるには、それを物理的にではないにしても概念的に_分解し decomposing_(それをばらばらにする)必要がある。部分と働きという分割に対応して、二つの型の分解がある。_構造的分解 structural decomposition_とわたしが呼ぶものは、一つの構造を諸構成部分へと分解する。他方、_機能的分解 functional decoposition_は、その機能を構成要素の働きへと分解する。ときには調整されることはあるが、これらの二つの型の分解が、異なる分野にいて異なる道具を用いる科学者たちによって互いに独立に追求されることは、稀ではない。しばしば一つの分解が他の分解よりも速くにまた成功裡に進む。遅い方の探求が追いつくまでには、かなりの時間が経過しているのである。
 構造的分解の一事例は、解剖的分割による発見である。すなわち、(1)身体は一つの心臓を持つ、そして(2)心臓は4つの部屋〔小室〕(RA、LA、RV、そしてLV)を持ち、少なくとも4つの弁(T、M、P、そしてA)を持つという発見である。もう一つの事例は、顕微鏡使用による発見で、それは、(1)組織は細胞から成る、(2)細胞は、原形質膜、核、そして細胞質を含む、(3)細胞質は、細胞内可溶質 cytosolとミトコンドリアやゴルジ装置といった様々な細胞小器官を含む、(4)各々の細胞小器官は、内的構造を持っている(その記述とさらなる水準は、細胞小器官によって異なる)、である。機能的分解の一つの事例は、生理学的研究による発見で、血液の送り出しの全体的機能は、(様々な時刻と様々な小室での)収縮と弛緩、そして(弁の)開閉の、多数の構成要素の働きを含む。括弧中のものは、関与する部分のなんらかの指摘〔指示〕がなければ、働きを特定することは一般的に難しいことを示している。しかし、機能的分解という分離した概念を持つことは、有用である。なぜなら、働きを同定するうえでの進歩は、関与する部分のいくつかまたはすべてについての最小限の知識があるときに、しばしば前進できるからである。たとえば、20世紀初期の生化学者たちは、細胞呼吸の全体的機能を、数多くの生化学的反応(働き)へと分解した。他方、構造的には、彼らは基質と産物(受動的部分)についての基本的知識を持っていたが、諸反応を触媒すると想定される酵素(活動的部分)に対して名称を発明する程度のことしかしなかったのである。
 究極のところ、機構の完全な特徴づけは、その構造が分解される諸部分のうえに、その機構の全体的機能が分解される諸働きへと、写像することを必要とする。わたしは、_局在化 localization_という用語を、このような写像に対して使う。これについては、もっと後で議論する。或る水準での部分と働きを同定するだけではなく、部分と働きの編制を暴露することもまた、きわめて重要である。機構がその振る舞いをいかにして生み出すのかを十分に理解するには、このような組み合わされた観点がしばしば必要とされる。なぜなら、諸部分の空間的配置が、それらの働きの時間的編制を可能にするか容易にしているのが頻繁だからである。そのうえ実践的問題として、構造と機能は他方への重要な洞察を、しばしばもたらす。或る部分の構造的特徴を知ることは、それがどのようにその働きを成し遂げるのかへと洞察を提供できるのである。遂行されている働きを理解することは、どの種類の部分が招いているのかについての手懸かりをしばしば提供する。生細胞のなかで見られる現象を招く機構を理解するための、近代細胞生物学の主要な貢献は、後に見るように、様々な細胞小器官をそれらが遂行する生理的働きと、特定の生化学的働きを持つ細胞小器官のより下位の水準での一定の構成要素とに、関係づける能力を必要としたのである。


   _編制と調整Organization and Orchestration_ [p.32]




   2.4. Representing and Reasoning about Mechanisms p.33

Bechtel (2006) 機構と表示 MechanismとRepresentation の訳

2016年08月19日 16時39分42秒 | システム学の基礎
2016年8月19日-1
Bechtel (2006) 機構と表示 MechanismとRepresentation の訳

William Bechtel (2006) "Discovering Cell Mechanisms"

2.3. 機構の現代的捉え方 Current Conceptions of Mechanism [p.26]

 最近の20年間に生物諸科学への注目がますます増すにつれて、数多くの科学哲学者たちが機械論的〔機構的〕説明 mechanistic explanation 〔訳註1]mechanisticは、「機構的」とは訳さないことにする。機構的はmechanismicの訳に当てることにする。しかし、mechanismは機構と訳す。〕に関心を向け始めた。彼らは適当な枠組みが存在しないことを、初期の提案で述べた。その提案は、いくつかの重要な事項で、また用語、〔論議の〕範囲 scope〔視界〕、そして強調点において、重複していた。(たとえば。bechtel & Richardson, 1993; Glennan, 1996; Machamer, Darden, & Craver, 2000)[^2]。まず、自然界に見られる機構の基本的特徴づけを与え、次にそれを機構的説明のための枠組みへと仕上げよう。すなわち、
 
  一つの機構とは、その構成部分 component parts、構成要素の働き component operations、そしてそれらの編制〔組織化〕 organization によって、一つの機能を遂行する一つの構造である。その機構が調整されて機能すること orchaesrated functioning が、一つ以上の現象を招く responsible for one or more phenomena。

 さらに、

・ 機構の構成部分とは、注目した現象を生じること producing に関わりのある構成部分である。【p.26/p.27】
____________________
  訳註1。mechanistic explanation は機械論的考えを引き継いでいるので、機械論的説明と訳した方が良いだろうと思う。マーナとブーンゲ(2008: ??)が主張する「mechanismic」という語に、機構的と訳して、機械論的な文脈での「mechanism」を「機関」と訳すのも選択肢の一つだろう。機械論的機構は、「machinery」という語を用いて、「からくり」または「機関」と訳す手もあるだろう。しかし残念ながら、「mechanism」という語では区別できないので、とりあえずは「mechanistic」も「機構的」としておく。きちんと論じて訳語を定めるには、機械類比論 などとの区別点を踏まえる必要がある。
____________________


・ 各々の構成要素の働きは、少なくとも一つの構成部分と関与する。典型的には、その働きを開始するか維持する一つの活動的部分があり、その働きによって変化する少なくとも一つの受動的部分がある。その変化は、一つの部分の場所または他の諸性質へ向けられるかもしれないし、あるいはそれを別の種類の部分へと変形するかもしれない。
・ 機構は編制〔組織化〕の多数の水準に関与するかもしれない。
・ 働きは、単純に時間的順序によって編制されることができる。しかし、生物学的機構での働きは、もっと複雑な形態の編制を示す傾向がある。
・ 機構は、動力学的 dynamic であり得るし、個体発生的と系統発生的の両方に変化し得る。

 機構のこのような特徴づけのいくつかの特徴は、洗練が必要である。

   _機構は現象を説明する_ _Mechanisms Explain Phenomena_ [p.27]

 機構の捉え方は最初は、説明の文脈と結ばれている。すなわち、機構は、説明が探し求められる現象によって同定される。論理経験主義的な科学哲学においては、説明を、観察〔観測〕言明を説明するものとして説明を解釈する傾向があった。観察言明は、事象を理論中立的に特徴づけるものと取られたのである。この見解は、Hanson (1948) とKuhn (1962/1970)に由来する論争、観察は理論負荷的であり、科学者たちが観察するものはかれらが従う理論によって影響されるという論争とともに疑わしいものとなった。これは、理論が、試験されるべき理論によってすでに形づくられた観察によって試験される、という循環性を招く恐れがあると思われた。この循環性は不公理だと示す、より簡単なやり方があるけれども[^3]、BogenとWoodward は、観察は科学者たちが説明するものであるという考えそのものに挑戦した。彼らは、観察と現象を対比させた。観察はデータ〔資料〕を提供するが(ただしデータが期待されるものと判明せず、調査者がなぜかを求める場合を除いて)、科学者たちが説明するのはデータではない。むしろ、彼らは_現象_を説明するのである。現象とはつまり、この世界における出来事 occurences であり、その出来事についてデータを入手することができるのである。特異的な〔唯一無二の singular〕現象(ビッグバンや特定の有機体の誕生)はあり得るけれども【p.27/p.28】、科学で注目する現象は、一般化において捕えられるものである。一般化とは、たとえば、変数間の関数関係とか、あるいは一定の種類の事象が他の一定の型の事象が生起したときにだけ規則的に生起するという事実とかに、関与するものである。データは、現象を同定し証拠を提供する際に重要な役割を演じるが、説明の対照でると同定されるのは現象である。
 BogenとWoodward は、現象の事例として、「弱い中性電流、陽子の崩壊、そして人の記憶における新近性効果」(1988, p.306)を提示した。生物学では、DNA〔デオキシリボ核酸〕の複製、またはアルコール発酵は、この事例に相当するだろう。現象を定量的に特徴づけることはしばしば可能である。BogenとWoodward は、鉛が摂氏327度で溶けるという事例を考察している。ガレリオは、地球表面の近くで自由落下する物体が動く距離は、それが落下するときの秒数の二乗〔平方〕の16倍だということを確立した。定量的現象の生物学的事例は、正常の細胞で形成されるアデノシン三燐酸(ATP)の分子の最大数は、費やされる一酸素分子当たりの酸化的燐酸化反応によって、3であるというものである。現象はまた、様々な程度の特異性 specificity によって特徴づけることができる。個々の科学者は、彼女の研究にとっての現象とは、たとえば特定の諸条件下で生きる特定種に存在する特異的な型の細胞における特定の蛋白の合成なのだと同定するかもしれない。或る総説論文の著者は、様々な細胞型と種におけるその蛋白の合成という現象を扱うかもしれない。最も一般的な水準では、教科書の著者は、単に「蛋白合成」について少しばかりの頁を書くかもしれない。
 現象を同定し特徴づけることは挑戦的な科学的活動であり、それは時間、金銭、そして創意工夫のかなりの資源を消費する。主張される現象は、本物であると示されなければならないし、その一般性が同定されなければならない。主張される現象のうち、精査されると成立せず、捨てられなければならないものもある。機構的説明の発展のためには、現象を特定化することの重要性をわたしは強調するであろうが、その現象を招くと取られる機構の研究の過程で、科学者が現象の特徴づけをしばしば改訂することを、最初から注意しておくことは重要である。『複雑性を発見する Discovering Complexity』においてRichardsonとわたしは、このような改訂を現象の再構成_reconstituting the phenomenon_と呼び、事例を提供した。それは、研究者たちは、遺伝子発現の機構を研究する途上で、何に対して遺伝子は符号化するのかという捉え方を繰り返し改訂したという事例である。1860年代にグレゴール メンデルは、 特徴 traitsに対する因子 factorsについて語った。1910年代にトーマス ハント モルガンと彼の恊働者たちは、眼の色といった特徴に対する遺伝子の場所を突き止めようと探し求めた。しかし1940年代に Beadle とTatum のアカパンカビにおける突然変異の探求は、彼ら自身をして、遺伝子を特徴ではなく個々の酵素へと結びつけることとなった。【p.28/p.29】
 もし現象の捉え方の改訂がそんなにも大きいのならば、その機構が何を行なっているかが、いまだに存在すると認められるものは少ししかない。当初に特徴づけられた現象に対する機構を分節するように向かってなされた仕事は、無駄に終わったと証明されたと言えるかもしれない。もっとも、きわめてしばしば、現象の特徴づけにおける変化は、旧来の捉え方の大規模な置換ではなくて、改訂という形態を取り、したがって機構の説明における変化は、より限定されたものである。たとえば、初期の研究者は発酵を、糖を分解して(熱を副産物とするとともに)アルコールを産する異化活動として解釈した。解放されたエネルギーが、他の細胞活動のためのエネルギー資源として使われる高エネルギーの燐酸結合に捕えられると、研究者たちはひとたび認識すると、説明されるべき現象の捉え方は改訂されたのである。それは今や、食料のエネルギーを細胞分裂といった他の活動に役立つ形態へと転換する機構なのである。しかし、糖のアルコールへの異化的分解は、この過程の一部として留まっている。ゆえに、発酵の機構について知られたことの多くは、その現象が再概念化された後もなお、応用されたのである。
 




      Component Parts and Component Operations p.30
      Organization and Orchestration p.32
   2.4. Representing and Reasoning about Mechanisms p.33


美術修行2016年8月18日(木):八田豊展 音で描く/ラッズギャラリー

2016年08月18日 22時14分43秒 | 美術修行
2016年8月18日-2
美術修行2016年8月18日(木):八田豊展 音で描く/ラッズギャラリー


 第5回芝田町画廊公募展/芝田町画廊/梅田駅/入場無料。



 すべて具象だった。






 朝日新聞社が近くにあるのかも。








 八田豊展 音で描く/ラッズギャラリー/福島駅/入場無料。



 ほとんど眼が見えなくなった頃の作品で、絵具が流れる音を聴いて製作されたとのこと。
















美術修行2016年8月17日(水):アンフォルメルと日本の美術/京都国立近代美術館、小畑亮平展/芦屋画廊

2016年08月18日 15時00分31秒 | 美術/絵画
2016年8月18日-1
美術修行2016年8月17日(水):アンフォルメルと日本の美術/京都国立近代美術館、小畑亮平展/芦屋画廊


 あの時みんな熱かった!アンフォルメルと日本の美術/京都国立近代美術館/地下鉄東山、京阪三条/前売り 700円。





 先に、図録(1900円)を買った。後で気がついたが、背表紙は無い。本の上着紙 book jacket も無い。糸で綴じたところが剝き出しで、面白い。わたしが買った個体だけが、落丁ならぬ、落背表紙ではあるまい。表紙には「アンフォルメル」の文字は無いので、わからず、販売係にどこにあるか、訊ねたのだった。高さ150mmの腰巻きには、橙色の地に黄緑色の字で、表題が印刷されているが、対象を手に取って見ないことにはわからない。ざっと眺める browse だけでは引っかからなかった。
 さて、図録を携帯しつつ、観覧した。

 (わたしにとっての)一番の収穫は、村井正誠 1963〈人びと〉(図録109頁)だった。村井正誠の作品は、たとえば神奈川県立近代美術館(葉山館)や和歌山県立美術館やモダンアート展などで見た。その当時は斬新的だったのだろうが、いまいちピンと来なかった。この作品は、見えとしての味わいがある。筆痕が残るような絵具の硬さで、多くは垂直方向にややくねっている帯となっている。この同様の模様が、いろいろな厚さで、ざっと言えば三段階の絵具の厚みであちこち配置されている。主要な効果をもたらすものは、幅が2cm強(測定せず。記憶による。図録から計算して割り出せるだろうが、面倒なので止め。図録109頁に、空間次元の記載は無い。)の長い立体的な線状のもの、10本である(左からに番目に位置する5本は、ほほぼ垂直上にあるので、5つの部分からなる一本の破線とみなすこともできる)。これは、三角錐をその底面で貼りつけたようなものになっている。この不分も面白いが、これらの間に位置する多くの筆痕が背景の黒に浮かび上がり、双方の呼応関係が全体の表面(つまりこの作品の絵画表面。→絵画は「平面」ではない。ただし、垂直的に観るもの、という特徴づけは残してもよい。)として絶大な効果を生んでいる。もちろん、その効果を感受するには、立ち位置での正面、斜め後ろ上方からの照明下での反射具合の変異で、様々な方向から観る場合の見え、を味わうべきである。少なくとも、座り込んで、右方へ左方へ数段階で静止して、見えを(むろんあなた自身の感受性で)鑑賞したい。そうすれば、発見があるだろう。あなたの感性体に棲むデーヴァたち(小さな神々または天使たちの分類については、後の課題とする)が恊働して、あなたの感性が豊かになるかもしれない。筆痕を明示するというやり方は、絵画技法として特に取り上げるものではないと言う人もいるだろうが、少なくともその数段階の厚さによる効果なのか、ことによると別の考え方からのやり方も適用されているかもしれないので、技法として定式化したいところである。基本は、黒色といういわば特別の色の背景に対しての対照物体の種類(ここでは同様に黒い(この混色割合)油絵具の筆触のつけ方など)と程度である。

 二番目の収穫は、正延正俊〈作品〉(図録90頁)である。エナメルを垂らしたのであろうか?。ところどころかすれているので、筆で置いたのか、不明。どうであれ、少し離れれば、垂らしていったように見える。見えからは、長い線がくるくるとくねっている同時的配置である。赤いくるくる線が間に挟まれているので、白黄色線(図録は白色に近いが、現物のその照明下での見えはもっと黄色い)は、10数個の塊を形成しているように見える。眼目は、踊る赤線の背景での、白黄色線のくるくる踊りが心地良い。形跡によって作られた躍動的効果ということになるだろう。説明紙に、「茶系統の画面全体を無数の細かな円環状の線が覆う抽象絵画で知られる。」とあった(説明文は収録されていないと思ってメモした(書きとめた)が、図録の五十音順に並んでいる作家略歴の158頁にあった)。しかし、何度も眺めると、飽きるかもしれない。もしそうなら、くるくる線は職人技的だが、構成としては単純だということに求められるだろう。面白くて、なかなか飽きない、あわよくば観れば観るほど(文章ならば、(時を置いたりして)読めば読むほど味わいがある、前とは違った読みができる)味わえるという作品は、いかにしたら製作できるのか?。

 参考になった作品を、図録の順に述べることにする。

 アンス アルトゥング Hans Hartung 〈T1948-16〉(図録22頁)。もちろんながら、現物は、図録の印刷像よりも良いが、まさに浅い。ブリヂストン美術館にあるアルトゥングの(晩期の?)深い2つの作品とは(少し落ちるもう一つの作品とも)、比べものにならない。

 サム フランシス〈Circular Blue〉(図録26頁)。現物はもっと明るい。佳作ではある。もっと何か、ほしいところ。サム フランシスのあちこちで見た数点では、まあまあ、であって、これは傑作というのにはいまだ出会っていない。一見、水彩かと思うが、その浅い?見えのせいで、(わたしの判断、たとえば問題意識からは)イマイチなのだと思う。透明水彩的な良さ、つまり透明性が一部出ているところもあると思うが、もし、この方向での傑作を当今絵画として as a comtemporary picture 製作するならば、なんらかの絵具技法または配置方法の開発が必要だと思う。→わたしが重視する〈透明性〉を〈重ねる〉ことについては、別の主題として取り上げたい。

 ルーチョ フォンタナ〈空間概念 期待〉(図録2頁)。図録での印刷は紺色だが、美術館での照明下での見えは全体がフタロブルーである。切り裂きの間に見える色(これを空間色だと、布施英利 2013『色彩がわかれば絵画がわかる』は述べたが、間違いだろう。)は、切り裂きのある基本表面の画布の影で灰色的だが、布そのものは黒ではなく白っぽかった(と思う)。この同一物を、所蔵する国立国際美術館で上のほうら掲げられているのを見て衝撃的だったのだが、今回はそれほどでもなかった。これの面白さは、青くぬっぺりと塗り込められた表面に4つの鋭利な切り裂き線が垂直方向に平行して並ぶという、潔い単純さによって見えとして衝撃力があると分析できよう。つまり、衝撃性に寄与しているシステムの構成は、{ぬっぺりとした面状の青色、それに対しての少数の切り裂き線=凹みという虚構的な存在}であろう。これに加えて、両者の相互作用、ここでは両者の(個数と)位置関係による個々の色と大きさの効果である。
 軽井沢のセゾン美術館に多数のフォンタナ作品が展示されていたのを見た。そのうちには、二段に10数本の切れ込み線があるのもあったが、平凡に観えた。垂直に一個の切れ込みという作品もあるが、すぐ飽きるだろう。その一個の切り込みが、たとえばやや斜めに美しい曲線となっていれば、すぐには飽きないかもしれない。
 この辺りを例示とともに原理的に論じた本または論文は無いのだろうか?。

 ジャン-ポール リオペル〈絵画〉(図録28頁)。原題(は仏語?)かその英語訳は、Paintingとなっている。塗り絵である。(線描絵画と面単位構成的絵画 painted picture も含めて、絵画はpictureである。)大原美術館所蔵なので、見たことがあったかもしれない。説明文の「ペインティングナイフの方形の色面で埋め尽くすモザイク的」を、図録に書きとめた。現物はどちらかと言えば、汚い。個々での興味は、1955年までには、方形状(円状でもよい)色面で面を構築するという(考え方とその)具体的方法があり、それを適用した作品が製作された(ということを例証する作品がある)ということである。現代作者なら、このやり方でもっと美しい絵画を作ることはいくらでも可能であろう。しかし、この同じ方法で作った作品は、その方向での優れた作品とはなっても、一つの流儀内での変異の作品であるに留まる。

 水谷勇夫〈狂宴 No.44〉(図録65頁)。ちよっと変わった質感のする佳作である。上部の白っぽい並びなどが、まったりと。説明文に、「80年代には真冬に雪の中に入り、紙に胡粉と墨を流して自然の冷気で凍結させる「凍結絵画」を制作した。」とあった。うーむ、→冷凍庫で凍結させる手順を使って、数打ちゃ、面白いのができるかもしれない。

 松谷武判〈繁殖 63〉(図録69頁)。ビニール系接着剤を使った作品は、あちこちで数回見た。某氏が言ったように、女性器に見える。某氏によると、(製作中を見たのか)うまく作れない場合もあったとのこと。上から、左右に一個ずつ、左下が崩れたように開いている3個と4個の二段構えの7個(口開きは横方向)、口が9個は横方向、1つが縦方向、1つが右下に傾く斜め方向の、計11個、その下にやや大きな縦方向の口開きでゆがんだ楕円形状のが1個、左下方に4個の横方向の口開きで、そのうちの一個は二重で、つまり3つ分の口開きの真ん中に一つが大きく開いた口、という構成配置である。色は濃い赤、桃色、黄色、白に近い薄い桃色。これらが、やや複雑な背景のうえに突出している。などなどと記述しても、画像を見たほうが早い。現物を観るのが一番である。口の表面(したがって表情みたい感じ)も様々である。中央部分に配置されたしわしわ状の口、つるつるとした表面の口とか、分類もできよう。
 繁殖器が繁殖しているのだ。

 伊藤隆康〈無限空間8-64〉(図録98頁)。頭が少し凹んでいる場合が多い、石膏で作った半球状のものを全面に隙間はほとんど無いように貼りつけた作品である。壁掛けの浮き彫り作品。やはり色をつけたいところ。白と黒の2色でも、その配置によって相当変わってくることだろう。

 猪原大華〈水〉(図録104頁)。わたしは具象として観ないのを方針としているので、水の表面を描いた、さらにはそれを変形したものとしては見ていない。純粋に(様々な形と色と表面の質感の)絵具の空間位置(が絵画個体として様々な種類と程度で統一されたものである[したがってバラバラでも混沌としたものでも、なんでも良い。結局は、作者が(基本はなんらかの支持体を使ってあるいは使わず、絵具で製作した)絵画として提示したものである])。そうう見地で観て、左右に揺れる(水面が揺れていると観ない)模様が質感と相まって、面白い。

 工藤哲巳〈増殖〉1956-1957(図録104頁)。木の根に大中小の釘を打ち込んだものである。釘を打ち込んだ作品というのは、誰が最初に始めたのだろうか?。工藤哲巳の前にはあるだろうか?。色もあちこち異なえて塗っている。釘はもちろん多くが錆色つまり茶色となっている。
 たとえば丸太の全面にとか、壁掛けの表面全面に釘を打ちつけた作品は、楢原武正氏のものを、宮の森美術館(立体表現展 '10、2010年、http://sapporo-chokoku.jp/kaihou/36.pdf)とギャラリー大通美術館(おそらく2010年)で数年前に観た。一番最初に観たのは、絵画として全面に釘を打ちつけた小作品で、北海道中札内村での北の大地ビエンナーレ展だった。優秀賞となっていたと記憶するが、数年前にネット検索してその展覧会の記事を見たが、受賞作品のなかには掲載されていなかった。

 
□ 文献 □
平井章一・小倉実子.2016/7/27.A Feverish Era: Art Informel and the Expansion of Japanese Artistic Expression in the 1950s and ’60s.〔奥付での表題は、「あの時みんな熱かった!アンフォルメルと日本の美術」。〕171pp.



 小畑亮平展/芦屋画廊/京阪三条/入場無料。



 場所は、「芦屋画廊→」の表示のある細い路地を入って突き当たり左側である。
 2階はブックカフェになっている。1階が画廊である。
 さて、小畑亮平氏名の作品群は、壁掛け作品10数点と床置き作品が一点だった。(以下も翌日の記憶を想起しての記述です。)いずれも、油絵具の油効果をきかせた表面に艶のある作品である。
 構成部分は、平坦な油絵具の光る面、(おそらく乾燥過程でできる)皺の部分(その上になにかをかけて平坦にしているようだ)、作品によっては盛り上がる部分、である。
 数点は盛り上がる部分が中央に大きく花弁状に、たとえれば薔薇を正面から見た形状で前方の1cm程度で切り取って貼りつけたように立体的に、より細かい分類では浮き彫り relief 状に、配置していた作品であった。
 入口から見て突き当たりの大きな作品では、大部分の画面が一つの輪郭を持つものだった。
 床置き作品〈いかなる共棲みであるのかは(椹)」〉は、
http://www.ashiya-garo.com/work/20160811_RyoheiObata.html
の画像の元になった、中央が大きく一段階へ凹んでいてそこに絵画を配置した机状の作品である。なかなか味わい深い。(裏側を覗き込むことを忘れた。)
 絵画職人的立場からすれば、いわば机面と凹み絵画との間を接続する垂直面はそのままの木地となっているところを、彫刻したいところである。さらには、そこも油絵具を載せて、もっとさらには机面にまでたとえばあちこち油絵具で侵入していくとか、。
 







人の死の過程

2016年08月15日 00時41分30秒 | 生気論
2016年8月15日-1
人の死の過程

1. 人の死の過程

 鍵語:濃密物質体、エーテル体、生命の糸、意識の糸、意識の三状態(覚醒、レム(夢見)睡眠、深い睡眠)、

1.1. 人は日々死んでいる:意識の焦点と睡眠

 人は、〈わたしは、わたし(というなんらかの存在者の、なんらかの種類と程度での存在性)を意識している〉という、自己意識を持っている(錯覚であるにしろ、そう思っている、と思っている)。この自己意識の同一性の仮定のもとに、意識の三状態が観測される。すなわち、(物質的な)日常世界に暮らしていると意識している覚醒状態と、急速眼球運動 rapid eye movement が見られて覚醒させると夢を見ていたと言うことの多いレム睡眠(REM sleep、逆説睡眠)状態と、脳が活動していないように見えるノンレム的な深い睡眠状態である。
 脳が活動していないときは、自己意識は「死んでいる」と言いなすことができよう。意識の同一性から言えば、日々の眠りのなかの深い睡眠状態では、「死んでいる」わけで、わたしたちは日々「死んでいる」状態で眠っている状態を繰り返しているのである。
 Alice A. Bailey (1934)の『A Treatise on White Magic 白魔術に関する論文』からの、死と意識との関係を述べた箇所は次の通りである。

  「死は、本質的に意識の問題である。われわれは、或る時には物質界で意識し、後の或る時には別の界へと引き揚げて〔撤退して〕そこで活発に意識している。われわれの意識が形態的側面〔様相〕と同一視される限りは、死はわれわれにその古代からの恐怖を抱かせるであろう。
 人々は、毎夜、睡眠時に、物質界に対して死に、どこか他のところで生きていて機能していることを忘れがちである。彼らは、物質体から離れる才をすでに達成したことを忘れている。なぜなら、物質脳の意識のなかへ、意識を失ったことについてとそのすぐ後の活動的な生活の間隔についての記憶を引き戻すことが未だにできないからであり、死と睡眠を関係づけられないのである。死は結局、生命が物質界で働く〔機能する〕なかでの、より長い休止期間にすぎない。 人は、より長い間『外国に行ってしまった』だけである。しかし、毎日の睡眠の過程と時折り死ぬことの過程は同じであるが、一つ違いがある。睡眠では、エネルギーの磁気的糸または流れ(それに沿って生命力 life forceは流れる)は、もとのままに保護されるのである。死においては、生命の糸は破壊されるか折られる。これが起きると、意識的存在者は濃密物質体に復帰することはできず、その身体 body は凝集原理を欠くので、その後に崩壊する。
 魂の目的と意志は、つまり霊的な存在と行ないの決定は、糸の魂 the thread soul、ストラートマ the sutratma,、生命の流れ the life current を、形態におけるそれの表現手段として用いる。この生命の流れは、身体に到達すると二つの流れまたは二つの糸へと分化し、その身体の二つの位置に『錨を降ろす』(このように表現してもよいだろう)。これは、アートマつまり霊の、その二つの反映である魂と身体への分化の象徴である。人を理性的で思考する存在者とする魂つまり意識様相〔側面〕は、この糸の魂の一様相〔側面〕によって脳のなかの『座席』に『錨が降ろされる』。身体のあらゆる原子を活気づけて凝集または統合の原理を設置する生命の他の様相は、心臓に辿り着き〔道を探り〕、そこに焦点が合わせられる、または『錨が降ろされる』。これら二つの点から、霊的人間は装置〔機構 mechanism〕を制御しようと努める。こうして、物質界で機能することが可能になる。そして客観的存在は一時的な表現様態になる。脳に座った魂は、人を自己意識的で自己を指揮する知的な理性的な存在者とする。彼は、自分の生きる世界を様々な程度に知っているが、その程度は、進化地点と結果として装置〔機構〕の発展に依存する。その機構〔装置〕は三重の表現である。まず、ナーディがあり七つの力中心がある。それからそれの3つの区分における神経系がある。すなわち、脳脊髄〔中枢〕神経系、交感神経系、そして末梢神経系である。それから内分泌系があり、それは他の二つの最も濃密な様相または外在化とみなされよう。」
(Alice A. Bailey 1934. A Treatise on White Magic, pp. 494-495)[零試訳20160814]


1.2. 人の死の過程

  「
〔人の〕死の過程は、オカルト的〔隠秘的〕に次の通りである。
 a. 第一段階は、エーテル的乗り物における生命力の、濃密物質体からの退出〔撤退〕と、その結果としての《腐敗への落ち込み》と、そして《その要素たちへ分散される》ことになることである。客観人は次第に消え去り、もはや肉眼によっては見られない。しかし、自分のエーテル体のなかに留まっている。エーテル視力が発達するとき、死についての考えは、大変異なったものに取られるだろう。人がエーテル的物質体のなかで機能していることを、その種族の大部分によって見ることができるとき、濃密体の落下はたんなる《解放》だと考えられるだろう。
 b. 次の段階は、エーテル体または渦巻きからの生命力の退出と、エーテル体の非活性化である。エーテル的渦巻きは、ステラートマまたは織り糸 thread の一面の延長にすぎず、この織り糸は、蜘蛛が織り糸を紡ぐように、原因体 causal body 内のエゴによって紡がれる。その織り糸は、意のままに短くされたり伸ばされたりできる。そしてプララヤ〔非活動〕の時期が決定されたときには、この光の、または太陽の火の(《太陽の》という言葉に注意しなさい)、織り糸は引っ込められ、原子亜界へと戻って集められる。その亜界では、縫い糸は永久原子を活性化して、原因体内に縫い糸を結びつけられた状態を保つだろう。生命衝撃はそれから、物質界に関する限り、原子球内部に集中される。
 c.


( Alice A. Bailey 1934. A Treatice on White Magic, pp. 735-737.)[零試訳20160814]

死の過程("A TREATISE ON COSMIC FIRE", pp.734-737)

2016年08月13日 01時14分14秒 | 秘教/オカルト科学
2016年8月13日-1
死の過程("A TREATISE ON COSMIC FIRE", pp.734-737)

Bailey, Alice A. 1925. A Treatise on Cosmic Fire. xxvi+1367pp. Lucis Publishing Company. [B20000901, $60.00+39.00/20]

 「
"To the God Who is in the FIRE and Who is in the waters;
To the God Who has suffused Himself through all the world;
To the God Who is in summer plants and in the lords of the forest;
To that God be adoration, adoration." —Sh’vet Upanishad, II.17.

火の中にいる神と水の中にいる神に、、
全世界を通して自身をいっぱいにした神に、、
夏の植物たちにいる神と森の主たちにいる神に、、
その神に尊崇をたてまつります、尊崇をたてまつります。

[20160813零試訳]]

 上記は、Alice A. Bailey (1925)が、『Shvetashvatara Upanishad シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』
(https://en.wikipedia.org/wiki/Shvetashvatara_Upanishad[受信:2016年8月13日。])という、古ウパニシャッド文献からの引用を行なったものである(らしい)。日本語版ウィキペディアでは、英語版はほとんど訳されていない。
  「黒ヤジュル・ヴェーダに付属し、古ウパニシャッドの中では、中期の「韻文ウパニシャッド」に分類される[1]。
梵我一如思想が述べられる。「シュヴェーターシュヴァタラ」とは、文中で言及される聖者の名」
(ウィキペディア。https://ja.wikipedia.org/wiki/シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド[受信:2016年8月13日。])
とある。
 自然世界には八百万の神々が棲むとともに、それらはGodという単数形で、一つであるという主張と取れる。

 Alice A. Bailey (1925) の『A Treatise on Cosmic Fire 宇宙の火に関する論文』に、人の死の過程の段階が述べられている。その部分を訳出することにする。
 なお、『宇宙の火に関する論文』の英語原文のPDFは、電網上で供せられている。

  「
【/p.734】
 (b.) The Nature of Pralaya. We can view pralaya as the work of "abstraction," and as the method which brings the form under the Destroyer aspect of Spirit, working ever under the Law of Attraction, of which the Law of Synthesis is but a branch. The basic law of the system is that which governs the relation of all atoms to the aggregate of atoms, and of the Self to the Not-self. It is (from the occult standpoint) the most powerful force-demonstration in the system, and should the law inconceivably cease to work, instantaneously the system and all forms therein, planetary, human and other would cease to be. By an act of will the planetary schemes persist, by an act of will the system IS; by an act of the egoic will man appears. When the Will of the Logos, of the Heavenly Man, and of the human divine Ego is turned to other ends, the substance of Their vehicles is affected, and disintegration sets in. The five types of pralaya which concern the human unit are as follows:
 (1) The period of pralaya between two incarnations. This is of a triple nature and affects the substance of the three vehicles, physical, astral and mental, reducing the form to its primitive substance, and dissipating its atomic structure. The energy of the second aspect (that of the form-builder) is withdrawn by the will of the Ego, and the atoms composing the form become dissociated from each other, and are resolved into the reservoir of essence to be re-collected again when the hour strikes. This condition is brought about gradually by stages of which we are aware:
 二つの転生の間のプララヤの期間。これは三重の本性のものであり、物質的、アストラル的〔星幽的〕、そして精神的〔心的〕という、3つの乗り物の質料〔構成実質〕に影響し、形態をその原始的質料へと分解し reduce、その原子構造を散らす。第二様相のエネルギー(形態建設のエネルギー)はエゴ〔我〕の意志によって退出され【p.734/p.735】、形態を構成する原子たちは互いに引き離された状態となる。そして、本質の貯蔵庫のなかへと分解される。時が来たら、原子たちは再度、再び集められる。

 The first stage is the withdrawal of the life force in the etheric vehicle from the threefold (dense, liquid and gaseous) dense physical body and the consequent "falling into corruption," and becoming "scattered to the elements." Objective man fades out, and is no more seen by the physical eye, though still in his etheric body. When etheric vision is developed, the thought of death will assume very different proportions. When a man can be seen functioning in his etheric physical body by the majority of the race, the dropping of the dense body will be considered just a "release."
 第一段階は、エーテル的乗り物における生命力の、三重の〔3つの部分が折り重なった〕(濃密の、液体の、そして気体の)濃密物質体からの退出と、結果としての《腐敗への落ち込み》と、そして《要素〔構成分子〕へ消散される》ことになることである。客観的人間は次第に消えていき、もはや肉眼によっては見られない。しかし、自分のエーテル体のなかに留まっている。エーテル視力が発達するとき、死についての考えは、大変異なったものと取られるだろう。人がエーテル的物質体のなかで機能することを、その種族の大部分によって見ることができると、濃密体の落下はたんなる《解放》だと考えられるだろう。

 The next stage is the withdrawal of the life force from the etheric body or coil, and its devitalisation. The etheric coil is but an extension of one aspect of the sutratma or thread, and this thread is spun by the Ego from within the causal body much as a spider spins a thread. It can be shortened or extended at will, and when the period of pralaya has been decided upon, this thread of light, or of solar fire (note the word "solar") is withdrawn, and gathered back to the atomic subplane where it will still vitalise the permanent atom and hold it connected within the causal body. The life impulses are then—as far as the physical plane is concerned—centralised within the atomic sphere.
 次の段階は、エーテル体または渦巻きからの生命力の退出と、エーテル体の非活性化である。エーテル的渦巻きは、ステラートマまたは織り糸 thread の一面の延長にすぎず、この織り糸は、蜘蛛が織り糸を紡ぐように、原因体 causal body 内のエゴによって紡がれる。その織り糸は、意のままに短くされたり伸ばされたりできる。そしてプララヤ〔非活動〕の時期が決定されたときには、この光の、または太陽の火の(《太陽の》という言葉に注意しなさい)、織り糸は引っ込められ、原子亜界へと戻って集められる。その亜界では、縫い糸は永久原子を活性化して、原因体内に縫い糸を結びつけられた状態を保つだろう。生命衝撃はそれから、物質界に関する限り、原子球内部に集中される。

 The third stage is the withdrawal of the life force from the astral form so that it disintegrates in a similar manner and the life is centralised within the astral permanent atom. It has gained an increase of vitality through physical plane existence, and added colour through astral experience.
 第三段階は、アストラル形態からの生命力の退出で、そうして同様の仕方でアストラル形態は崩壊し、生命はアストラル永久原子内に集中される。それは、物質界での存在を通して活力の増加を得たのであり、またアストラル的経験を通して色彩を加えたのである。

 The final stage for the human atom is its withdrawal from the mental vehicle. The life forces after this fourfold abstraction are centralised entirely within the egoic sphere; contact with the three lower planes is still inherently possible by means of the permanent atoms, the force centres of the three personality aspects.
 人原子の最終段階は【p.735/p.736】、精神的〔心的〕乗り物からの人原子の退出である。四重の抽出の後の生命諸力は、まったくエゴの球内に集中される。3つの低位の界との接触はそれでも、3つの個人の側面〔様相〕の力の諸中心である永久原子たちによって、本来的に inherently 可能である。

 In each incarnation the life forces have gained through the utilisation of the vehicles,
  a. An increased activity, which is stored in the physical permanent atom.
  b. An added colouring, which is stored in the astral permanent atom.
  c. A developed quality of strength, or purpose in action, which is stored in the mental unit.
 各々の転生で、生命力は乗り物を使うことによって得たものとは、
  a. 増加した活動、それは物質的永久原子に蓄えられる。
  b. 加えられた色づけ、それはアストラル永久原子に蓄えられる。
  c. 強さが発展した特質、または作用する目的、それは心的〔精神的〕単位に蓄えられる。

These are wrought into faculty in devachan.
 Devachan [45, 46] is a state of consciousness, reflecting, in 【p.736/p.737】

-------
the Law of Retribution is the only law that never errs. Hence all those who have not slipped down into the mire of unredeemable sin and bestiality—go to the Deva-Chan. They will have to pay for their sins, voluntary and involuntary, later on. Meanwhile they are rewarded; receive the effects of the causes produced by them. "Of course it is a state, one, so to say, of intense selfishness during which an Ego reaps the reward of his unselfishness on earth. He is completely engrossed in the bliss of all his personal earthly affections, preferences, thoughts, and gathers in the fruit of his meritorious actions. No pain, no grief nor even the shadow of a sorrow comes to darken the bright horizon of his unalloyed happiness; for, it is a state of perpetual 'Maya.'...Since the conscious perception of one's personality on earth is but an evanescent dream that sense will be equally that of a dream in the Deva-Chan—only a hundredfold intensified." ....... "'Bardo' is the period between death and rebirth—and may last from a few years to a kalpa. It is divided into three sub-periods (1) when the Ego delivered of its mortal coil enters into Kama-Loka (the abode of Elementaries); (2) when it enters into 'Gestation State'; (3) when it is reborn in the Rupa-Loka of Deva-Chan. Sub-period (1) may last from a few minutes to a number of years—the phrase 'a few years' becoming puzzling and utterly worthless without a more complete explanation; Sub-period 2nd is 'very long'; as you say, longer sometimes than you may even imagine, yet proportionate to the Ego's spiritual stamina; Sub-period 3rd lasts in proportion to the good Karma, after which the monad is again reincarnated." ....... ..."Every effect must be proportionate to the cause. And, as man's terms of incarnate existence bear but a small proportion to his periods of inter-natal existence in the manvantaric cycle, so the good thoughts, words, and deeds of any one of these 'lives' on a globe are causative of effects, the working out of which requires far more time than the evolution of the causes occupied."—From Mahatma Letters to A. P. Sinnett, pp. 100, 105-106., 245Devachan. A state intermediate between two earth lives into which the Ego enters after its separation from its lower aspects or sheaths.
-------

【p.736/p.737】
the life of the Personality, that higher state which we call nirvanic consciousness, and which is brought about by egoic action. It is but a dim reflection in the separated units (and therefore tinged with selfishness and separative pleasure) of the group condition called nirvanic. In this high state of consciousness each separate identity, though self-realising, shares in the group realisation, and therein lies bliss for the unit. Separation is no longer felt, only unity and essential oneness is known. Therefore, as might be naturally deduced, there is no devachan for the savage or little evolved man, as they merit it not, and have not the mentality to realise it; hence, therefore, the rapidity of their incarnations, and the brevity of the pralayic period. There is little in their case for the Ego, on its own plane, to assimilate in the residue of incarnations, and hence the life principle withdraws rapidly from out of the mental form, with the resulting impulse of the Ego to reincarnate almost immediately.
 When the life of the personality has been full and rich, yet has not reached the stage wherein the personal self can consciously co-operate with the ego, periods of personality nirvana are undergone, their length depending upon the interest of the life, and the ability of the man to meditate upon experience. Later, when the Ego dominates the personality life, the interest of the man is raised to higher levels, and the nirvana of the soul be-
【p.737/p.738】
comes his goal. He has no interest in devachan. Therefore, those upon the Path (either the probationary Path, or the Path of Initiation) do not, as a rule, go to devachan, but immediate incarnation becomes the rule in the turning of the wheel of life; this time it is brought about by the conscious co-operation of the personal Self with the divine Self or Ego.
 (2) _The period between egoic Cycles_. Herein is hid the mystery of the 777 incarnations and concerns the relation of the unit to his group on the egoic plane, prior to the unfoldment of the fifth petal. It concerns man in the period between the savage stage and that of the disciple, when he is an average man but still in the two Halls. The mystery of all root races lies here, and the egoic cycles coincide with the building of racial forms, and civilisations. A man will reincarnate again and again in the various subraces of a root race until a certain cycle has been covered; then he may undergo a pralayic condition until in a later (and sometimes much later) root race he will respond to its vibratory call, and the egoic impulse to incarnate will again be felt. In illustration of this, we should bear in mind that the more advanced humanity of today did not incarnate until the fourth root race. These cycles are one of the mysteries of initiation, though one of the earlier mysteries, and are revealed at the second initiation as they enable the initiate to comprehend his position, to see somewhat the nature of the karmic impulse, and to read his own record in the astral light.
These might be considered the two lesser pralayic periods and concern primarily life in the three worlds.
(3) Next comes the period wherein the man has attained freedom. A man has at this stage succeeded, under law, in "abstracting" himself, the freed soul, from out of the matter of the three worlds. He has used and worked with deva substance and has gained all the vibratory contact possible, and has secured all the intended "realisations" and "revelations"; he can no longer be held imprisoned by the devas. He is free until, consciously and willingly, and in another round, he can return as a member of a Hierarchy to continue His work of service for the little evolved humanity of that distant time. As this concerns the seven paths of opportunity for a Master we will not deal with it here. 24647 This is the great human pralaya.

(A TREATISE ON COSMIC FIRE: pp.735-737)




死の際の出来事の順序("ESOTERIC HEALING: A TREATISE ON THE SEVEN RAYS VOLUME IV", pp.472-478)

 〈Sequence of Events at Death 死の際の出来事の順序〉

  「
Sequence of Events at Death
I feel that the best that I can do, in order to clarify this subject more completely, is to describe the sequence of events which happens at a death bed, reminding you that the points of final abstraction are three in number: the head for disciples and initiates and also for advanced mental types; the heart for aspirants, for men of goodwill, and for all those who have achieved a measure of personality integrity and are attempting to fulfill, as far as in them lies, the law of love; and the solar plexus for the undeveloped and emotionally polarised persons. All I can do is to tabulate the stages of the process, leaving you to accept them as an interesting and possible hypothesis awaiting verification; to believe them unquestioningly because you have confidence in my knowledge, or to reject them as fantastic, unverifiable and of no moment anyway. I recommend the first of the three, for it will enable you to preserve your mental integrity, it will indicate an open mind, and at the same time it will protect you from gullibility and from narrow-mindedness. These stages, therefore, are:

1. The soul sounds forth a "word of withdrawal" from its own plane, and immediately an interior process and reaction is evoked within the man upon the physical plane.

a. Certain physiological events take place at the seat of the disease, in connection with the heart, and affecting also the three great systems which so potently condition the physical man: the blood stream, the nervous system in its various expressions, and the endocrine system. With these effects I shall not deal. The pathology of death is well known and has received much study exoterically; much still remains to be discovered and will later be discovered. I am concerned, first of all, with the subjective reactions which (in the last analysis) bring about the pathological predisposition to death.

b. A vibration runs along the nadis. The nadis are, as you well know, the etheric counterpart of the entire nervous system, and they underlie every single nerve in the entire physical body. They are the agents par excellence of the directing impulses of the soul, reacting to the vibratory activity which emanates from the etheric counterpart of the brain. They respond to the directing Word, react to the "pull" of the soul, and then organise themselves for abstraction.

c. The blood stream becomes affected in a peculiarly occult manner. The "blood is the life," we are told; it is interiorly changed as a result of the two previous stages, but primarily as the result of an activity hitherto undiscovered by modern science, for which the glandular system is responsible. The glands, in response to the call of death, inject into the blood stream a substance which in turn affects the heart. There the life thread is anchored, and the substance in the blood is regarded as "death dealing" and is one of the basic causes of coma and of loss of consciousness. It evokes a reflex action in the brain. This substance and its effect will be questioned as yet by orthodox medicine, but its presence will later be recognised.
d. A psychic tremor is established which has the effect of loosening or breaking the connection between the nadis and the nervous system; the etheric body is thereby detached from its dense sheath, though still interpenetrating every part of it.
2. There is frequently a pause at this point of a shorter or longer period of time. This is allowed in order to carry forward the loosening process as smoothly and as painlessly as possible. This loosening of the nadis starts in the eyes. This process of detachment often shows itself in the relaxation and lack of fear which dying persons so often show; they evidence a condition of peace, and a willingness to go, plus an inability to make a mental effort. It is as if the dying person, still preserving his consciousness, gathers his resources together for the final abstraction. This is the stage in which—the fear of death once and for all removed from the racial mind—the friends and relatives of the departing person will "make a festival" for him and will rejoice with him because he is relinquishing the body. At present this is not possible. Distress rules, and the stage passes unrecognised and is not utilised, as it will some day be.
3. Next, the organised etheric body, loosened from all nervous relationship through the action of the nadis, begins to gather itself together for the final departure. It withdraws from the extremities towards the required "door of exit" and focusses itself in the area around that door for the final "pull" of the directing soul. All has been proceeding under the Law of Attraction up to this point—the magnetic, attractive will of the soul. Now another "pull" or attractive impulse makes itself felt. The dense physical body, the sumtotal of organs, cells and atoms, is steadily being released from the integrating potency of the vital body by the action of the nadis; it begins to respond to the attractive pull of matter itself. This has been called the "earth" pull and is exerted by that mysterious entity whom we call the "spirit of the earth"; this entity is on the involutionary arc, and is to our planet what the physical elemental is to the physical body of man. This physical plane life force is essentially the life and light of atomic substance—the matter of which all forms are made. It is to this reservoir of involutionary and material life that the substance of all forms is restored. Restitution of the commandeered matter of the form occupied by the soul during a life cycle consists in returning to this "Caesar" the involutionary world what is his, whilst the soul returns to the God Who sent it forth.
It will therefore be apparent that a dual attractive process is at this stage going on:
a. The vital body is being prepared for exit. b. The physical body is responding to dissolution.
It might be added that a third activity is also present. It is that of the conscious man, withdrawing his consciousness, steadily and gradually, into the astral and mental vehicles, preparatory to the complete abstraction of the etheric body when the right time comes. The man is becoming less and less attached

to the physical plane and more withdrawn within himself. In the case of an advanced person, this process is consciously undertaken, and the man retains his vital interests and his awareness of relationship to others even whilst losing his grip on physical existence. In old age this detachment can be more easily noted than in death through disease, and frequently the soul or the living, interested, inner man can be seen losing his grip on physical and, therefore, illusory reality.
4. Again a pause ensues. This is the point where the physical elemental can at times regain its hold upon the etheric body, if that is deemed desirable by the soul, if death is not part of the inner plan, or if the physical elemental is so powerful that it can prolong the process of dying. This elemental life will sometimes fight a battle lasting for days and weeks. When, however, death is inevitable, the pause at this point will be exceedingly brief, sometimes only for a matter of seconds. The physical elemental has lost its hold, and the etheric body awaits the final "tug" from the soul, acting under the Law of Attraction.
5. The etheric body emerges from the dense physical body in gradual stages and at the chosen point of exit. When this emergence is complete, the vital body then assumes the vague outline of the form that it energised, and this under the influence of the thoughtform of himself which the man has built up over the years. This thoughtform exists in the case of every human being, and must be destroyed before the second stage of elimination is finally complete. We will touch upon this later. Though freed from the prison of the physical body, the etheric body is not yet freed from its influence. There is still a slight rapport between the two, and this keeps the spiritual man still close to the body just vacated. That is why clairvoyants often claim to see the etheric body hovering around the death bed or the coffin. Still interpenetrating the etheric body are the integrated energies which we call the astral body and the mental vehicle, and at the centre there is a point of light which indicates the presence of the soul.
6. The etheric body is gradually dispersed as the energies of which it is composed are reorganised and withdrawn, leaving only the pranic substance which is identified with the etheric vehicle of the planet itself. This process of dispersal is, as I have earlier said, greatly aided by cremation. In the case of the undeveloped person, the etheric body can linger for a long time in the neighbourhood of its outer disintegrating shell because the pull of the soul is not potent and the material aspect is. Where the person is advanced, and therefore detached in his thinking from the physical plane, the dissolution of the vital body can be exceedingly rapid. Once it is accomplished, the process of restitution is over; the man is freed, temporarily at least, from all reaction to the attractive pull of physical matter; he stands in his subtle bodies, ready for the great act to which I have given the name "The Art of Elimination."
One thought emerges as we conclude this inadequate consideration of the death of the physical body in its two aspects: that thought is the integrity of the inner man. He remains himself. He is untouched and untrammelled: he is a free agent as far as the physical plane is concerned, and is responsive now to only three predisposing factors:
1. The quality of his astral-emotional equipment. 2. The mental condition in which he habitually lives. 3. The voice of the soul, often unfamiliar but sometimes well known and loved.
Individuality is not lost; the same person is still present upon the planet. Only that has disappeared which was an integral part of the tangible appearance of our planet. That which has been loved or hated, which has been useful to humanity or a liability, which has served the race or been an ineffectual member of it, still persists, is still in touch with the qualitative and mental processes of existence, and

will forever remain—individual, qualified by ray type, part of the kingdom of souls, and a high initiate in his own right.


□ 文献 □
Bailey, A.A. 1922. Letters on Occult Meditation. 375pp. Lucis Publishing Company. [B20000901, $26.00+39.00/20]

Bailey, A.A. 1925. A Treatise on Cosmic Fire. xxvi+1367pp. Lucis Publishing Company. [B20000901, $60.00+39.00/20]

Bailey, A.A. 1927. The Light of The Soul: A Paraphrase of The Yoga Sutras of Patanjali: with Commentary by Alice A. Bailey. xvii+458pp. Lucis Publishing Company. [B20000901, $35.00+39.00/20]

Bailey, A.A. 1932. From Intellect to Intuition. vii+275pp. Lucis Publishing Company. [B20000901, $21.00+39.00/20]

Bailey, A.A. 1934. A Treatise on White Magic. xiv+705pp. Lucis Publishing Company. [B20000901, $33.00+39.00/20]

Bailey, A.A. 1936. Esoteric Psychology I. xxv+460pp. Lucis Publishing Company. [B20000901, $27.00+39.00/20]

Bailey, A.A. 1950. Telepathy and The Etheric Vehicle. xi+219pp. Lucis Publishing Company. [B20000901, $21.00+39.00/20]

Bailey, A.A. 1951. Autobiography. xi+316pp. Lucis Publishing Company. [B20000901, $26.00+39.00/20]

Bailey, A.A. 1951. Esoteric Astrology. viii+742pp. Lucis Publishing Company. [B20000901, $33.00+39.00/20]

Bailey, A.A. 1953. Esoteric Healing. ix+771pp. Lucis Publishing Company. [B20000901, $33.00+39.00/20]

Bailey, A.A. 1954. Education in The New Age. xv+174pp. Lucis Publishing Company. [B20000901, $18.00+39.00/20]

Bailey, A.A. 1957. The Externalisation of The Hierarchy. vii+744pp. Lucis Publishing Company. [B20000901, $33.00+39.00/20]

Bailey, A.A. 1960. The Rays and the Initiations. xii+820pp. Lucis Publishing Company. [B20000901, $35.00+39.00/20]

Bailey, A.A. 1968. From Bethlehem to Calvary. ix+292pp. Lucis Publishing Company. [B20000901, $21.00+39.00/20]

Bailey, A.A. 1982. The Labours of Hercules : An Astrological Interpretation. 230pp. Lucis Publishing Company. [B20000901, $12.00+39.00/20]

Bailey, A.A. 1998. Twenty-four Books of Esoteric Philosophy. CD. [B20001205, $180.00]

Bailey, A.A. & Khul, D. 1974. Ponder on This: A Compilation. 431pp. Lucis Publishing Company. [B20000901, $14.00+39.00/20]


線図 diagram と機構 mechanism

2016年08月12日 22時13分20秒 | 生命論
2016年8月12日-1
線図 diagram と機構 mechanism

 The Oxford Paperback Dictionary(Hawkins, Joyce M. compiled 1979. )によれば、diagramとは、「a drawing that shows the parts of something or how it works」(p.170)とある。「何かの部分、または何かが働く仕方を示す線絵画」である。drawingは狭義の、つまりdrawingとは区別される絵画 pictureに、たとえば線を重ねれば絵画になねのだろうか?。
 同じ辞書によれば、drawingは「a picture etc drawn but not coloured」(p.189)とある。そして、drawの9番目の意味は「to produce a picture or diagram by making marks on a surface」(p.189)とある。で、markは「1. something that visibly breaks the uniformity of a surface, especially one that spoils its appearance. 〔略〕5. a written or printed symbol」(p.389)とある。
 paintとは、「n. colouring-matter for applying in liquid form to a surface. v. 1. to coat or decorate with paint. 2. to make a picture or portray by using paint(s). 」(p.455)とある。paintingは、「a painted picture」(p.455)である。
 symbolとは、「1. a thing regarded as suggesting something or embodying certain characteristics, _the cross is the symbol of christianity; the lion is the symbol of courage. 2. mark or sign with a special meaning, such as mathematical signs (e.g. + and − for addition and subtraction), puntuation marks, written or printed forms of notes in music.」(p.666)である。

 「technique n. the method of doing or performing something (especially in an art or science9, skill in this.」(p.675)。
 「technology n. 1. the scientific study of mechanical arts and applied sciences (e.g. engineering). 2. these subjects, their practical application in industry etc.」(p.675)。


 William Bechtel (2006) "Discovering Cell Mechanisms" のIndex によると、
  diagrams of mechanisms 34-38, 40, 62
とある。したがって、2.4節の〈機構の再現前〔表象〕と推論〔理由づけ〕〉を訳出することにしよう。
 なお、Bechtel(2006: vii)の目次では第2章は次の通り。
  2. Explaning Cellular Phenomena through Mecganisms p.19
   2.1. Histroical Conceptions of Mechanism p.20
   2.2. Twentieth-Century Conceptions of Mechanism p.24
   2.3. Current Conceptions of Mechanism p.26
      Mechanisms Explain Phenomena p.27
      Component Parts and Component Operations p.30
      Organization and Orchestration p.32
   2.4. Representing and Reasoning about Mechanisms p.33
   2.5. Levels of Organization and Reduction p.40
   2.6. Organization: From Cartesian to Biological Mechanisms p.44
   2.7. Discovering and Testing Models of Mechanisms p.54
      Identifying Working Parts p.55
      Identifying Component Operations p.57
      Localizing Operations in Parts p.60
      Testing Models of Mechanisms p.61
   2.8. Conclusion p.62

   





□ 文献 □
池田清彦.2013/12/15.生きているとはどういうことか.222pp.筑摩書房[選書].[本体価格1,400円+税][B20140115][Rh20140129]

Bechtel, W. 2006. Discovering Cell Mechanisms: the Creation of Modern Cell Biology. xii+323pp. Cambridge University Press. [B20081105]

Hawkins, Joyce M. compiled 1979. The Oxford Paperback Dictionary. viii+770pp. Oxford University Press. [B19790817]


マリオ ブーンゲ(2013)『医学哲学』、システム的接近[改訂増補版]

2016年08月11日 15時09分09秒 | システム学の基礎
2016年8月11日-2
マリオ ブーンゲ(2013)『医学哲学』、システム的接近[改訂増補版]
[2016年8月11日-1を一部改訂し、追加]

 以下は、マリオ ブーンゲ(2013)『医学哲学』の、システム的取り組みの部分の訳出である。

  「
2.3 システム的接近〔取り組み〕[p.43]

 現代医学に特有なことの一つは、外傷学から精神医学までと、数十もの専門分野から成っていることである。すなわち、医学は多くの学問領域にわたる学である。しかしながら、その各分野はすべて、多少とも他の分野に強く関連している。たとえば、近代外傷学は、骨接ぎと切断の昔の技巧とは違って、解剖学と生理学を集中的に用いる。対照的に、原始的医学と古代の医学は、いわゆる代替医学も同様だが、信念と実践の孤立した集まりである。とりわけ、それらは科学に基づかず、それら自身の哲学的前提を検討しないのである。
 人体は一つのシステムであるというのは、比較的最近の発見である。二つ以上の器官が一つのシステムの部分であるかどうかをどうやって見つけ出すのか?。それらの間の結合を探し求めることによって、そしてひとたび見つけたら、そのような連結を切断することによってである。糖尿病に集中した、その類いの斬新で実りのあった一対の実験を思い出そう。糖尿病は、深刻で不治のシステム的(身体全体の)病気で、世界中で増加している。1887年、Oskar Minkowski は、膵臓がインシュリンを作ることを発見した。また、膵臓を取り除くと、身体の燃料である糖を代謝するのに必要なインシュリンが生産されないので、動物は重い糖尿病になり死ぬことを発見した。はるか後に、下垂体または脳下垂体腺が、支配的な内的腺であることが見つけられた。それは、恒常性、代謝、成長、などを制御する9つのホルモンを分泌するのである。
 ほぼ1世紀前に、アルゼンチンの生理学者である Bernardo A. Houssay は、ブエノスアイレスから遠くはなれたところで、驚くべき発見をした。すなわち、脳下垂体腺を取り除くと、少量のインシュリンを注入したら、動物は低血糖症になるのである。インシュリンは膵臓から分泌されるから、脳下垂体と膵臓の間に密接な繋がりがあるに違いなかった。この繋がりが切断されたならば、何が起きるだろうかと問うのは、自然なことであった。それで1929年、Houssayとその同僚は、膵臓を取り除かれていた犬から、その脳下垂体腺を切除するという実験を遂行した。確かに、このような二つの過激な外科手術の後で、なにか劇的なことが起きた。そして、そうなった。すなわち、犬は意外なことに、糖尿病から回復したのである。もっとも、その犬は長くは生存しなかった。一度きりだが、二つ間違えば、一つの正しいことが生じたのだ。
 膵臓と脳下垂体は、互いに遠く離れているが、単一のシステムである内分泌システムの構成要素であるという、重要な発見が行なわれたのである。その結果、内分泌学は一夜にして〔またたく間に〕、個々の内腺の研究から、内分泌系についての多数の専門分野にわたる科学へと、一変したのである。これは、システム主義のもう一つの勝利である。ほぼ同じ頃、モリトリオールでハンス セリエ Hans Selye は、別の総合を手作業的に作った。すなわち、内分泌学と免疫学の総合である。基礎科学におけるその二つの発見が、医学に大きな影響を与えた。内分泌学では糖尿病の管理であり、免疫学ではストレス〔負担となる刺激〕の管理である。
 科学的な諸専門分野または医学的な諸専門分野の連合は、単なる並列ではなく、整合的な総合であって、《有機的全体》または_システム_である。そして、このようなどんなシステムでも、構成要素を繋ぎ合わせる接合剤は、物質的な橋とそれらの概念的対応物、たとえば精神病は脳の異常であるという仮説(ここで、生物学は精神医学に大いに関連するし、精神患者は他の者たちから隔離されるべきではない)によって構成される。
 言い換えれば、近代医学は、専門分野の集合体ではなくてシステムである。そして実践者たちは、互いに相互作用する。なぜなら、各々はその同じ全体の一部分だと知っているからである。同様に、この認識的統一は、すべての医学的専門は同一の物を扱っているという事実によっている。これが、ルネ デュボワ Rene' Dubois (1959) が影響力のある本で、患者は一つの全体性として、またその人の社会的環境に入れられているものとして、扱われるべきだと強調した理由である。」
(Bunge, Mario. 2013. Medical Philosophy: Conceptual Issues in Medicine. pp. 43-44.)[20160811 零試訳]。



 「他の分野と同様に、医学においては、分子から細胞、器官、全体の有機体、自然、そして社会まで、ずっとシステムたちである。これは、_システム的生物学_(たとえば、Regoutsos & Stephanopoulos 2007; Loscalzo & Barabasi 2011)への言及がますます頻繁に見られる理由である。そして、現代医学が探し求めるように奨励するものとは、
  _生物システムたち_(たとえば、神経の、内分泌の、そして神経−内分泌−免疫のシステム)、
  _認識的システムたち_(たとえば、生物学、医学、そして医学の人文学)、そして、
  _社会システムたち_(たとえば、病院、医学的共同体、市場、そして国)。
 様々な種類のシステムたちを識別できる。すなわち、広義の_具体的_または物質的なシステム(たとえば、細胞と社会)、_概念的_または架空のシステム(たとえば、分類と理論)、_記号論の_または意味深いシステム(たとえば、本文と線図)、そして_科学技術的_システム(たとえば、血圧計と救急車)。
 順に、或る具体的システムσは、次の特性によって特徴づけられる物体である。すなわち、
  σの構成=σのすべての部分の集合。
  σの直接的環境=σとは異なる、σと相互作用する可能性のあるすべての存在者の集合。
  σの構造=σの部分間の諸関係(内部環境)と、これら諸部分とδの環境(外部環境)との間の諸関係、の集合。
  δの機構=δに特有の(諸)プロセス〔工程〕、またはδを動かすもの〔機能させるもの makes δ tick〕。

 システムをそのモデルから識別していることに、ご注意あれ。或るシステムは様々な模型〔モデル〕によって表わされる〔表象される、再現前される represented〕かもしれないことだけからでも、そのように識別すべきである。上記のモデルは、自然的であれ社会的であれ、具体的(物質的)システムに対して成り立つ。システムが概念的か記号論的かのどちらかならば、上記の順序四つ組の最後の構成要素は、削除されなければならない。なぜなら、そのようなシステムは、それ自身で変化することは無く、したがって機構を持つことは無いからである。
 個体主義者には、システムは不要である。彼らは構成要素だけに興味があり、したがって、生きているまたは死んでいるとか、良好なまたは悪い健康状態にあるといった、システム的または創発的な諸性質を見逃す。全体論者は対照的に、分析を拒絶し、個体の役割を最小にするか、拒否しさえする。システム主義は、個体主義と全体論の両方の代替となるもので、それぞれの妥当なテーゼ〔定立命題〕を保持する。部分無くして全体は無いというテーゼ、そしていくつかの全体(《有機的》全体またはシステム)は、部分が欠く、全体的な諸性質を持つというテーゼである。システム主義はこうして、個体主義と全体論の総合である。
 とりわけ、良き医者はシステム主義者である。すなわち、彼女は孤立した症状 isolated symptomes よりも、症候群 syndromes を選び、身体をその環境に置き、そして物理的から社会的という、その物事が関連するすべての組織化水準の〔編制水準〕を考慮する。実際、彼女は次の諸原理を暗黙に受け入れているのである。すなわち、
  1)_人は、下位システムたちの〔から成る〕一つのシステムである_。医学的教訓:合理的に完全なあらゆる医学的検査は、全体の身体とその環境を見て、欠陥のある諸機構を修理するという見方とともに、その身体の重大な諸機構に焦点を当てるだろう。
  2)_人体のすべての下位システムたちは_、直接的に(組織 tissues によって)あるいは間接的に(血液とホルモンを通じて)のどちらかであれ、_相互に連繋されている_。例:耳鼻咽頭システム oto-rhyno-laringeal〔-laringeal→-laryngealの誤植だろう〕。医学的教訓:あらゆる処置は、局所的であれ、遠位に効果を持つ。それらのいくつかは、害のある効果の可能性が高い。それは、すべての処置が完全にできても perfectible、どれも決して完璧 perfect ではないであろう理由である。
  3)_あらゆる疾病は、一つ以上の器官の機能不全から成る_。そして、あらゆる慢性疾患は、他の異常 disorder(共存症〔余病〕comorbities)が付きものである。医学的教訓:あらゆる医学的処置は、影響された部分の正常な機能を回復することだけでなく、他の部分の保護も求めなければならない。
  4)_精神的健康は、脳の健康である_。よって、全体の健康の一部である。医学的教訓:慢性疾患と抜本的処置のあり得る精神的効果(たとえば、心配と抑鬱〔鬱病〕)を無視しないこと。
 5)個人の福利 well-being と社会的条件は、密接に連結している_。とりわけ、貧困と圧制は、〔心の〕病的状態を引き起こす。医学的教訓:個人の福利の追求は、環境の制御を含む。とりわけ、環境汚染や密集だけでなく、労働の安全 safety と安心〔安全保障、危機管理 security〕といった環境要因の制御である(Bunge 2012b を見よ)。
 6)人々と彼らの社会環境の複雑さがあるとすれば、医者は、_部門別の sctoral (または切断的 sectorial)思考を避ける_べきである。そのような思考は、(a)事実は相伴う、諸物、諸性質、そして諸プロセスを切り離し、孤立させ、(b)最初の、印象、データ〔資料〕、または推測に《固定してしまう〔錨を下ろしてしまう "anchor" 〕》傾向がある(Kahneman 2011を見よ)、そして(c)学際的な橋を建設する代わりに、医学のバルカン化〔互いに敵対的な小地域に分けること〕を悪化させることになる。
 7)社会科学と同様、医学においても、_一つの大きさですべてを適合させる one-size-fits-all〔フリーサイズの、何にでも一つで合わせる〕という説明を、信用してはならない_。たとえば、或る人が太ることができる理由や、肥満が世界中で増えている理由を、いまだに確かには分かっていない。数個の説明が提起された。すなわち、先天的体質、過食、過剰な炭水化物の摂取、そして座ってばかりいること、である。正しい答えはおそらく、これらすべてである。
 
 近代の生物学と医学におけるシステム的接近〔取り組み〕の出現〔創発 emergence〕は、ポール-アンリ ティリ ドルバック男爵 Paul-Henri Thirty, Baron d'Holbach(1966)が導入した_システムの哲学 systemic philosophy_を確証するものである。この卓越し た多作な大学者にして反体制活動者は、当初はダランベール Jean le Rond d'Alembert が加わって、ディドローDenis Diderot が編纂した、有名な『百科全書』(1751-1772)の並外れて有能な共著者であった。ごく少数の例外を除くと、現代の哲学者たちは、システムという概念そのものを無視してきた。あるいは彼らは、システムという概念は近代の科学と科学技術に特徴的であったが、それを、アリストテレスからヘーゲルまでの全体論的哲学者たちによって用いられた、分析不可能な全体という概念と取り間違えたのだ。
 システム主義は、《あるゆる現存者は、システムであるかシステムの部分であるか〔のどちらか〕である Every existent is either a system or part of a system 》。この前提は、ヘーゲルの _Das Whare ist das Ganze_(《真理は全体である》 "The truth is the whole")と取り違えてはならない。この不可解な形而上学的公式は、全体論に典型的である。それは、個体主義にも、ドルバックのシステム的唯物論にも対立する。
 全体論は、繋ぎ合わせるが、混同する。個体主義は識別するが、切り離す。システム主義だけが、混同することなく、繋ぎ合わせる。たとえば、システム的見方からは、患者は、社会システムに浸された極めて複雑なシステムであり、医学は、他の分野の知識と行為(これまた、他の分野の知識と行為とに相互作用する)とに相互作用する一つの学際的専門分野である。そのうえ、この見方においては、医学は百貨店のようなものではなく、仕切りの無い広大な館のように見える。ルドルフ ウイルヒョウ Rudolf Virchow、クロード ベルナール Claude Bernard、William Osker、そしてLewis Thomas のように、この専門分野の偉大な知的指導者たちが見たやり方である。この、システム的接近は、過度の専門化に対する最良の処方箋である。過度の専門化は、人体の統一性とは異なっている。明きらかに、医学に好意的な哲学は、システム主義を支持するだろう。


しめくくり〔大団円〕 Coda
 近代医学は、1550年頃から生物諸科学にもとづいて発展し、1850年以降は、大学の近代化だけでなく生化学と薬理学の発展のおかげで、大変急速に進歩している。医学のこの驚嘆すべき進歩の原動力は、科学的研究である。それ無しには、医学はいまだに神話と常識のぬかるみに、はまりこんでいただろう。
 たとえば、座ってばかりいるのは心臓に悪いという信念を、考えてほしい。この信念はあまりにも明白に見えるので、ごく最近までは試験〔テスト〕にかけられることが無かった。18歳から65歳の間の男女、276人を巻き込んだ6年間の長期にわたる研究(Saunders et al. 2013)が見い出したことは、座りっぱなしの行動は、腰部周りを増やしはするが、心血管代謝の危険〔リスク〕を増やしはしないということであった。十分に《狂って》(独創的な)いない提出物を最良の科学雑誌が規則どおりに却下する程度にまで、科学者だけが《狂った》考えだけで済ませられる。科学の全体の歴史は、獲得免疫の歴史のように《狂った》考えと、そして脳画像化装置のように《狂った》道具の連続である。」
(Bunge, Mario. 2013. Medical Philosophy: Conceptual Issues in Medicine. pp. 44-48.)[20160811 零試訳]。


 〔あと3段落分でおしまい。第3章は、疾病 Disease 〔病「気」とは訳さないことにする。〕〕






マリオ ブーンゲ(2013)『医学哲学』、システム的接近

2016年08月11日 00時27分40秒 | システム学の基礎
2016年8月11日-1
マリオ ブーンゲ(2013)『医学哲学』、システム的接近


 以下は、マリオ ブーンゲ(2013)『医学哲学』の、システム的取り組みの部分の訳出である。

  「
2.3 システム的接近〔取り組み〕The Systemic Approach[p.43]

 現代医学に特有なことの一つは、外傷学から精神医学までと、数十もの専門分野から成っていることである。すなわち、医学は多くの学問領域にわたる学である。しかしながら、その各分野はすべて、多少とも他の分野に強く関連している。たとえば、近代外傷学は、骨接ぎと切断の昔の技巧とは違って、解剖学と生理学を集中的に使う。対照的に、原始的医学と古代の医学は、いわゆる代替医学も同様に、信念と実践の孤立した集まりである。とりわけ、それらは科学に基づかず、それら自身の哲学的前提を検討しないのである。
 人体は一つのシステムであるというのは、比較的最近の発見である。二つ以上の器官が一つのシステムの部分であるかどうかをどうやって見つけ出すのか?。それらの間の結合を探し求めることによって、そしてひとたび見つけたら、そのような連結を切断することによってである。糖尿病に集中した、その類いの斬新で実りのあった一対の実験を思い出そう。糖尿病は、深刻で不治のシステム的(身体全体の)病気で、世界中で増加している。1887年、Oskar Minkowski は、膵臓がインシュリンを作ることを発見した。また、膵臓を取り除くと、身体の燃料である糖を代謝するのに必要なインシュリンが生産されないので、動物は重い糖尿病になり死ぬことを発見した。はるかに後で、下垂体または脳下垂体腺が、支配的な内的腺であることが見つけられた。それは、恒常性、代謝、成長、などを制御する9つのホルモンを分泌するのである。
 ほぼ1世紀前に、アルゼンチンの生理学者である Bernardo A. Houssary は、ブエノスアイレスから遠くはなれたところで、驚くべき発見をした。すなわち、脳下垂体腺を取り除くと、少量のインシュリンを注入したら、動物は低血糖症になるのである。インシュリンは膵臓から分泌されるから、脳下垂体と膵臓の間に密接な繋がりがあるに違いなかった。この繋がりが切断されたならば、何が起きるだろうかと問うのは、自然なことであった。それで1929年、Houssayとその同僚は、膵臓を取り除かれていた犬から、その脳下垂体腺を切除するという実験を遂行した。確かに、このような二つの過激な外科手術の後で、なにか劇的なことが起きた。そして、そうなったのである。すなわち、犬は意外なことに、糖尿病から回復したのである。もっとも、その犬は長くは生存しなかった。一度きりだが、二つ間違えば、一つの正しいことが生じたのだ。
 膵臓と脳下垂体は、互いに遠く離れているが、一つの単一システムである内分泌システムの構成要素であるという、重要な発見が行なわれたのである。その結果、内分泌学は一夜にして、個々の内腺の研究から、内分泌系についての多数の専門分野にわたる科学へと、一変したのである。これは、システム主義のもう一つの勝利である。ほぼ同じ頃、モリトリオールでハンス セリエ Hans Selye は、別の総合を手作業的に作った。すなわち、内分泌学と免疫学の総合である。基礎科学におけるその二つの発見が、医学に衝撃を与えた。内分泌学では、糖尿病の管理であり、免疫学ではストレス〔負担となる刺激〕の管理である。
 科学的な諸専門分野または医学的な諸専門分野の連合は、単なる並列ではなく、整合的な総合であって、《有機的全体》またはシステムである。そして、このようなどんなシステムでも、構成要素を繋ぎ合わせる接合剤は、物質的な橋とそれらの概念的対応物、たとえば精神病は脳の以上であるという仮説(ここで、生物学は精神医学に大いに関連するし、精神患者は他の者たちから隔離されるべきではない)によって構成される。
 言い換えれば、近代医学は、専門分野の集合体ではなくてシステムである。そして実践者たちは、互いに相互作用する。なぜなら、各々はその同じ全体の一部分だと知っているからである。同様に、この認識的統一は、すべての医学的専門は同一の物を扱っているという事実によっている。これが、ルネ デュボワ Rene' Dubois (1959) が、影響力のある本で、患者は一つの全体性として、またその人の社会的環境に入れられているものとして扱われるべきだと強調した理由である。」
(Bunge, Mario. 2013. Medical Philosophy: Conceptual Issues in Medicine. pp. 43-44.)[20160811 零試訳]。

 この後に、システム的分析が掲載される。