2016年11月24日-1
学問修行2016年11月24日:東洋医学文献20161124
大塚恭男.1980/8/15.東洋医学の歴史と論理.北里メディカルニュース (315): 1-14.[Rh2016124]
[引用](「,」は「、」に変換した。)
「伝統医学再評価乃至は現代医学批判の理由として筆者は次の三点を指摘したい。第一には、現代医学の臨床における過度の分科現象と、次には化学薬品によっておこされた一連の重篤な副作用、そして第三には、客観的に把握し難い患者の愁訴に対する意志の無理解である。」(大塚恭男 1980: 7頁)。
「現代医学が分析的、機械的、抽象的、普遍的、客観的であるのに対し、漢方医学は綜合的、人間的、具象的、個人的、主観的傾向の強い医学である〔略〕。また、これを病理観の立場から見れば、現代医学においては疾病局在論につながる固体病理説的思考が優勢であるのに対し、漢方医学では終始一貫して、生体有機論につながる液体病理説的思考をとってきた。」(大塚恭男 1980: 9頁)。
「『ヒボクラテス全集』は、「気は生命の根元であり、また疾病の原因である」とか、「熱病には二種ある。一つは伝染性で悪疫とよばれるもので、いま一つは食餌の不節制な人々のおこる散発的なものである。しかし、これらはいずれも気が原因でおこるのであるけなどと述べており、気を最高の生理因子とする中国医学のそれと酷似している。」(大塚恭男 1980: 9頁)。
「検査中心の医療が進んでいくにつけて医師と患者との対話は次第に失われていった。臨床とは畢竟医師と患者が胸襟を開きあって行なう協同作業でなければならず、ここに医学に自然科学以外の要素が大きく介入する余地が残されているのである。ゆきすぎた物質文明社会の弊害がさまざまに問いかけられつつある今日、精神文明を基調とした伝統医学が新しい評価を得るに至ったのは当然のことと云えよう。」(大塚恭男 1980: 14頁)。
矢数道明.1980/9/15.東洋医学の基礎概念.北里メディカルニュース (316): 1-16.[Rh2016124]
[引用](「,」は「、」に変換した。)
「西洋人の思考法と東洋人の思考法の相違について、福永光司氏は中国文化叢書(2)思想概論で次のように述べている。
「〔略〕思考の明晰さと計量の明確さが、西洋の文明文化を極限にまで、押しあげ、対立と闘争を繰り返してゆく、そして驚異的な自然科学の発達と工業技術のの進歩を来たらしめた。
これに対して東洋の思考は、明晰なものよりも、体験的、全一的な把握を好む。理論的、分析的な思考を排除し、主観的な情緒主義、ときに独善的な陶酔が幅をきかしやすい危険がある。ここからは科学き発達しないが、哲学的な真理認識のある分野ではヨーロッパ人の持っていない独自性を持っている。生命あるものに対する直覚的
直観的な把握である」といっているが、医学の面でもまさにこの通りである。
東洋では一応陰と陽と対立した概念としてとりあげているが、陰中に陽があり、陽中に陰があるといい、陰陽は太極と無極に環【ママ】元され、且つ五行の相生相剋によって、その相互間に絶えざる往来と循環がなされていると説くのである。
西洋と東洋の根本的相違としてよく引合いに出されることであるが、「旧約聖書では、人間と自然の対立について、人間はあらゆる自然の動植物に優先して、およそ生きとし生ける動物はすべて汝らの食となるべしといわれ、ここに自然との対立と征服が始まった」といわれている。
しかし東洋では、生命あるものすべての衆生は、人間と同類であるという。無生物に対しても親和性をもつ自然観に立ち、山川草木悉皆成仏の境地にまで到ろうとしているた。」(矢数道明 1980: 10頁)。
学問修行2016年11月24日:東洋医学文献20161124
大塚恭男.1980/8/15.東洋医学の歴史と論理.北里メディカルニュース (315): 1-14.[Rh2016124]
[引用](「,」は「、」に変換した。)
「伝統医学再評価乃至は現代医学批判の理由として筆者は次の三点を指摘したい。第一には、現代医学の臨床における過度の分科現象と、次には化学薬品によっておこされた一連の重篤な副作用、そして第三には、客観的に把握し難い患者の愁訴に対する意志の無理解である。」(大塚恭男 1980: 7頁)。
「現代医学が分析的、機械的、抽象的、普遍的、客観的であるのに対し、漢方医学は綜合的、人間的、具象的、個人的、主観的傾向の強い医学である〔略〕。また、これを病理観の立場から見れば、現代医学においては疾病局在論につながる固体病理説的思考が優勢であるのに対し、漢方医学では終始一貫して、生体有機論につながる液体病理説的思考をとってきた。」(大塚恭男 1980: 9頁)。
「『ヒボクラテス全集』は、「気は生命の根元であり、また疾病の原因である」とか、「熱病には二種ある。一つは伝染性で悪疫とよばれるもので、いま一つは食餌の不節制な人々のおこる散発的なものである。しかし、これらはいずれも気が原因でおこるのであるけなどと述べており、気を最高の生理因子とする中国医学のそれと酷似している。」(大塚恭男 1980: 9頁)。
「検査中心の医療が進んでいくにつけて医師と患者との対話は次第に失われていった。臨床とは畢竟医師と患者が胸襟を開きあって行なう協同作業でなければならず、ここに医学に自然科学以外の要素が大きく介入する余地が残されているのである。ゆきすぎた物質文明社会の弊害がさまざまに問いかけられつつある今日、精神文明を基調とした伝統医学が新しい評価を得るに至ったのは当然のことと云えよう。」(大塚恭男 1980: 14頁)。
矢数道明.1980/9/15.東洋医学の基礎概念.北里メディカルニュース (316): 1-16.[Rh2016124]
[引用](「,」は「、」に変換した。)
「西洋人の思考法と東洋人の思考法の相違について、福永光司氏は中国文化叢書(2)思想概論で次のように述べている。
「〔略〕思考の明晰さと計量の明確さが、西洋の文明文化を極限にまで、押しあげ、対立と闘争を繰り返してゆく、そして驚異的な自然科学の発達と工業技術のの進歩を来たらしめた。
これに対して東洋の思考は、明晰なものよりも、体験的、全一的な把握を好む。理論的、分析的な思考を排除し、主観的な情緒主義、ときに独善的な陶酔が幅をきかしやすい危険がある。ここからは科学き発達しないが、哲学的な真理認識のある分野ではヨーロッパ人の持っていない独自性を持っている。生命あるものに対する直覚的
直観的な把握である」といっているが、医学の面でもまさにこの通りである。
東洋では一応陰と陽と対立した概念としてとりあげているが、陰中に陽があり、陽中に陰があるといい、陰陽は太極と無極に環【ママ】元され、且つ五行の相生相剋によって、その相互間に絶えざる往来と循環がなされていると説くのである。
西洋と東洋の根本的相違としてよく引合いに出されることであるが、「旧約聖書では、人間と自然の対立について、人間はあらゆる自然の動植物に優先して、およそ生きとし生ける動物はすべて汝らの食となるべしといわれ、ここに自然との対立と征服が始まった」といわれている。
しかし東洋では、生命あるものすべての衆生は、人間と同類であるという。無生物に対しても親和性をもつ自然観に立ち、山川草木悉皆成仏の境地にまで到ろうとしているた。」(矢数道明 1980: 10頁)。