生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

科学性なき科学(的営為)

2010年01月30日 00時28分16秒 | 生命生物生活哲学
 鳩山演説。「人間性なき科学」?、確かに。しかし、「科学性なき科学」、あるいはその応用技術、これが問題である。
 たとえば温暖化論者の主張である。先日の報道によれば、ヒマラヤの氷床は2035年までに消滅するうんぬんというインド人学者の主張は根拠薄弱あるいはむしろ偽装だということである。朝日新聞では(同じ情報源にもとづいているとすると他の新聞でも同様だろう)、しかしこのことはIPCC報告の地球温暖化論の全体的主張に影響を及ぼすことはないと述べている。むろんそのように断じるのは早計である。
 まず、IPCCの報告書を書く者が科学者ばかりからなっているとしても、各国政府の利害関係を背負っていないとは言えない。たとえば、少なくとも初期に関わったシュナイダーは原発推進論者である。結果から見れば、二酸化炭素削減と方向は国際的に原子力発電の復活や新規建設に向かっている。科学は空想だけではなく、理論とともに結果を見なければならない。リスク論は現時点ではいかようにも立論できるから、逃げに利用できる。ここでは確率についての考え方が関わる。単純に言えば、温暖化予測が当たらないなかったならば、その予算を直近の飢餓死亡への対応に使うほうがよかったということが考えられる。
 それにしても、中西準子のリスク評価によれば、タバコ喫煙と副流煙被曝はリスクの高い筆頭である。原発事故、したがって原発運転することのリスク評価はないのだろうか? 昔、ムラサキツユクサの突然変異によって、原発をモニター(検知)するというのがあった(市川定夫氏)。その後も測定は続けられているのだろうか?
 根本的には、放射線検知器の感度改良が急務であろう。

読書用電子紙または電子本

2010年01月30日 00時27分22秒 | 生命生物生活哲学
読書用電子紙または電子本
 厚さ2mm程度以下、重さ300g以下の電子ペーパー。昔,東芝が電子ペーパーを開発していた。
 iPod、iPhone、そしてiPad(タブレット型コンピュータ)である。ま、iPhone同様も、第2~3世代に期待しよう。初代iPhoneは、たとえばネットが遅い、コピペができない、日本語入力速度が遅いなど、使う気にならなかった。しかし、第2世代のiPhone3GSは十分使える。
 スティーブ・ジョブズによれば、iPadはノートパソコンと高機能携帯電話(スマートフォン)の中間に位置づけられるとのこと。とにかく、便利さと視認しやすさの程度に依存するが、電子技術は進歩するのが相場だから、有力な表示媒体になることは違いない。ソーラーパネルをつけてエネルギーは時給自足的であれば、もっとよいだろう。入力鍵盤をつけれ携帯パソコンになるだろう。そのうちiPadはUSB端子をつけるだろう。
 なんにせよ、MacOSまたはLinuxマシンを皆さんが使うことを願う。数年前、東京大学はMacを500台だったか、導入した。最近では九州大学が、2010年3月までに1000台超を導入するとのこと。

デッサン、立体感、量感、質感

2010年01月29日 12時08分31秒 | 美術/絵画
 デッサンという語の元はデザインである。(→分析の視点のためのメモ)
 さて、吉田敦彦1999『市民のための美術入門 I デッサンのすすめ』の145頁に、彫刻家ムーアの裸婦のデッサンが掲載されている。画家と彫刻家の対象のつかみ方したがって表現の仕方が異なることを説明している。「彫刻家は、ものを輪郭で見ないで、手で摑める塊として感じる訓練を積んでいます。ですから平面的な形としてよりも、奥行きのある深みの中でこちらに迫り出してくるものとして量感を表現する傾向があります。その場合光の方向にかかわらず、凸部は明るく凹部は暗く描かれる傾向になります。」(吉田敦彦 1999: 144)。立体作品をつくるための制作仕様書だからであろう。
 立体作品を作る際、素材を削っていって作品を作るという場合(たとえば木彫)と、ペタペタと粘土を張りつけていって作品を作るという場合とでは、作り方の方向性が反対という関係にある。実際は、付加したり(素材の加算)削ったり(素材の減算)を繰り返して作品を作っていくこともあるだろうが、基本的な作り方の違い、それによる発想の違いがあるように思う。
 たとえば、平面的に白いガーゼを2枚、少しずらして張り重ねた作品があるとする。ふつうは、それは平面作品であり、色を塗っていなくても(すでに白い色をしていることだし)、絵画と見なされよう。しかし、彫刻家あるいは立体作品を作る人からは、それは立体作品であるらしい。
 版画と絵画の違いは、複製的か否かではなく、型があるかどうかであろう。モノタイプは、型があるから、版画である。しかし、印鑑を押すだけで画面を作ったキャンバスは絵画であろう。ここでも境界を引くことはできない。筆で描いたのか、型を使って押したのか刷ったのか、できあがった作品を見ているだけでは、区別ができない。筆もまた、型の一種だとも言える。要するに、どのような形態の要素を画面に固定するかというやり方の様々な様式があり、具体的に実現するために用いる道具が伝統的に継承されて、分野となっている。
 では、平面作品と立体作品の仕分けはどうする? 壁に掛けるか張り付けるか、あるいは床に置くかの違いによればよい。たとえば川村記念美術館にあるフランク・ステラの壁掛け作品は、前方の空間に最大で70cm突出していても平面作品であることになる。1km突出していても、作品を支えているのが壁であれば、平面作品であることになる。(では、地球表面から45度に出ている平面に釘でうちつけた作品は、壁掛け作品か床置き作品かとたずねたいね。結局、境界はどちらかに入れるか、どちらにもいれないで中間作品という部門をもうけるかである。→排他的分類とカテゴリー精度の問題)
 てなわけで、もう一つ天井から吊るす方式というカテゴリーをもうけなければならない。したがって、天井吊るし、壁掛け、そして床置き、の3つである。これは展示方式による分類であり、ほとんどのすべての作品が(作ろうと思えば中間的なものを作れるが)これらの分類カテゴリーで排他的に分類できる。
 むろん、、〔「、、」は意図的〕これらとは異なる(超える?)展示方式がある。つまり、《天井吊るし、壁掛け、床置き》という分類項目は、作品(もしくは作品の支持体)をどこかに結びつけることに方向に着目した分類である。そこで、これらとは異なることを考えたい(これまでに存在した事物とは異なることを考えたり作るのが創造であり、新奇性の創出である)ならば、どこにも結びつけず、空中に置くか浮遊させる、あるいは空中を巡回するといった展示方式が考えられる。

 という具合に、思考が関係的に発散してしまい、次の文が空中に投げ出されてしまった(という主張による表現作品)。
 ついでに言えば、立体作品の表面(むろん、穴が開いていたり、複雑に入り組んでいてもよい)を塗れば、立体絵画とみなし得る。

 記事の拡張(追加の記事、ポッドキャスト)とはなんだろう? 実際にやってみて理解することにする。
 ガーゼ2枚という作品は見たことがなくて、或る人から聞いた話である。
 先日、たまたま北海道新聞を見て、楢原武正展が札幌のギャラリー大通美術館で開催されていることを知り、90点ほどの平面作品が展示されているのを見に行った。そのとき、Mさんが話してくれたことである。発想の違いがあることを知った。感謝。
 さて、楢原武正の特に最近の作品は、彫刻絵画の範例(渡辺慧の用法でのparadigma)である。筆ではなく、釘や平たくした空き缶やトタン板で描いている(と見なし得る)。つるつるに磨いた場合の金属表面(の美しさ)をどう配置するか。
 ところで、美術史はどう書かれるのか。→Authur Dantoアーサー・ダント(ダントウ?)。歴史記述の不可能性。勝てば官軍。
 ダナ・アーノルド『美術史』(7頁付近)。美術の様式を主題とするのか、作家または傑作を主題とするのか。様式の進歩なるものはあるのか。

 なるほど、さきほど誤字を訂正したが、簡単にできて便利。



口ごもってみれば、なにかが始まる(かもしれない……)

2010年01月25日 09時45分32秒 | 生命生物生活哲学
あたし、あたしたち、と口ごもる。そのようなとき、探求は始まる。……、てな具合。
 すると(論理分析せよ)、いかなる関心と方法論を採用するのか、それが問題だ。
 いずれにせよ、「抽象絵画の基礎」という題名のポスター発表をする申し込みをした。審査に通過するかどうか、果たして宇宙論の射程はいずこ?……。