生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

成長または生成

2010年12月30日 22時37分41秒 | 生命生物生活哲学
2010年12月30日-5
成長または生成



2008. 2. 5. 08:46 撮影

 タクソン H2Oなどに属する物体または生物体は、このとき、或る環境条件下で、当然のごとく、上の画像のような形態となった。つまり、ほとんどがタクソン H2Oに属する物体の集合体は、そのほとんどがタクソン H2Oに属し、それゆえ(=タクソン的推論)その本質に因って、水の結晶様のものが生成された。(水・物体=生物体が、自ら生成したのではない。)


水、滴り落ちようと、天井と戯る。

2010年12月30日 22時17分54秒 | 生命生物生活哲学
2010年12月30日-5
水、滴り落ちようと、天井と戯る。



 
  水が落下しようとするのは、重力などという隠秘的なものによるのではありません。
  滴という形態になると、水はひたすら、落ちたいと祈るのです。
  それが、本性なのです。

  汝の希望ぞ、叶えられん。

  しかるゆえ、
        水滴は落ちようとし、
                 (希みは叶い、)
        落ちるのだ。

                  [q.e.d.]


論文よりも、総説を、さらには(結局は世界観を表明した?)体系的な本を

2010年12月30日 21時14分28秒 | 生命生物生活哲学
2010年12月30日-1
論文よりも、総説を、さらには(結局は世界観を表明した?)体系的な本を

 査読論文とは、多くの場合、一人以上(二人というのが最頻値かもしれない。二桁台になった場合については、Hull (1988) Science As a Processを見よ)の匿名査読者または記名しての査読者が査読し、それらの査読報告をもとに編集委員会が、場合によっては見識ある?編集長が独断的に採用したりして(George Evelyn Hutchinson (1903-1991)が編集長だったときの例)、掲載される論文である。
 投稿された論文の評価は、そのときの査読者に大きく依存すると思う。ということは、その限りでの評価であり、その分野をよく理解していない人が査読することもある。
 いくつかの学術雑誌の査読に通らないが、自分または関連する者たちの発想や考え方が、却下された学会の思想とか学会体制派の考え方と異なるだけであり、自分たちの考え方は妥当で価値があると考えた場合、新しい学会組織を作る場合がある。

 新しい思想は、開かれた考え方をする者に受け入れやすいだろう。たとえば、通説とは異なっていても、考えの筋道の論理性と実際のデータにもとづいた妥当性があれば、暫定的にでも承認するという人に、である。
 突破口を開く考えは、それまでの理論とそれらが基づいた(とされる)データを再吟味する論文によることがある。ときには大きく間違っていると、良い議論になることがある。
 (実験分野や工学分野では、いわゆる偶然的な発見が、突破口を開くことがけっこうの頻度であるようである。ただし、理論的再構築が行なわれないこともある。)

 (論理的飛躍によって。)

 みなさん。査読論文よりも、総説論文を、それよりも、概念的整理がよくできていてそれゆえに読みやすく、そして体系立っていて、かつ質の高い内容の(できれば300頁未満の)一冊の本を書いてほしい。

 われわれの生活は、つねに全面的である。
 (認識は片手落ちだったり、一面的だったりすることが、きわめて多い。)

Hull, D.L. 1988 (pb1990). Science As a Process: an Evolutionary Account of the Social and Conceptual Development of Science. xiii+586pp. University of Chicago Press.

現代の演奏

2010年12月24日 14時11分41秒 | 音楽
2010年12月24日-1
現代の演奏

 AERA 2010.12.27号の5頁に、ピアノ奏者またはピアノ演奏家 pianistのマウリツィオ・ポリーニ Maurizio Polliniが話した言葉。

  「大事なのは、曲を正確に演奏することより、曲を正しく解釈するということだ」。

 「正しく」(correctlyの訳だろうか)解釈するとはどういうことか。たとえばかなり前に作曲されたモーツァルトのピアノ・ソナタを、当時弾かれていたようにではなくて、現在の聴衆に対して「正しく」というのは、どういう考え方で解釈し、また具体的にどう弾くのか?
 
 ともあれ、現代曲のポリーニによる演奏を聴きたくなった。


形式や内容あるいはイデア性や質料性(合わせて設計の種類と程度)の模倣、借用、盗用など

2010年12月23日 11時50分57秒 | 美術/絵画
2010年12月23日-1
形式や内容あるいはイデア性や質料性(合わせて設計の種類と程度)の模倣、借用、盗用など


 昨日、某所の*イ・*ィ**の商品を見た。昔、きたならしい鞄が眼につくなと思ったのは、この「ブランド」(ブランドってなんだろう?)のものだった。模様が似たもので色がついたものは、より良かったけれど。


画壇と現代美術

 暮沢(2008)のはじめのほう(「アートと盗作??模写が盗作になる時  6-12頁」、「アートと盗用  13-20頁」)で、アートと盗作または盗用といったことが論じられ、或る美術公募団体の会員であった人の盗作事件や村上隆氏の言動が引き合いに出されている(具体例)。
 
  贋作 ←→ 盗作

といった軸が立てることができるようである。
 
  公募展中心の画壇に対応する雑誌として、『月刊美術』と『美術の窓』が、
  「より、現代的な問題意識や技法によって政策や発表を行」〔な〕う「現代美術/現代アート」に対応する雑誌として、『美術手帖』があげられている。

 
  a. (キュビスムといった)考えの借用(または盗用)
  b. 構図の借用(または盗用)
  c. 絵肌(見えとしての、とりわけ質感生成)の借用(または盗用)

 これらを合わせて真似れば、特にいわゆる写実的に似せれば、模写。つまり、究極的には、質料性(素材の種類と量)と形相性(単位物体の配置と異種物体の混合ないしは化合といった空間配置、つまり設計)が同一であること。しかしどういうわけか、われわれが生きている(ひょっとして自由意思を持つというのは錯覚で、自分とはいわばゾンビ人間かもしれず、「生きている」というのも錯覚かもしれないが、そうだとしてもその錯覚の世界で生きているつもりであるほかないわけで)この現実世界では、まったくの同一物というものは、解像度または測定精度を高くすると、かんがえにくいので、或る点では似ていて、他の点では似ていませんね、といった類似性の種類と程度で判断する仕儀となる。
 類似性については、推移性が成り立たない場合がある、というか、これも解像度または測定精度の問題。

   A -- B -- C

  AとBは互いに似ている。
  BとCは互いに似ている。
  結論。AとCは似ているか、似ていないかのどちらである。
    →具体的にどの点で同一なのかまたは似ているのか、似ていないのかを述べよ。

 互いに似ているとは、或るいくつかの点(形質)で同一だと(なんらかの主観で)「見なす」ことである。
 どの点を真似たのか、がだれしもが認めるとした場合、その点を<重要視するかどうか>は、その時点でのたとえば裁判官の主観である。もとより、或る裁判官の判断上の主観に影響を(意識していないことも多いと思うが)与えているのは、諸々である。

 
 14頁あたりでは、法人著作権が論じられている。著作権法第15条1項には、法人著作権の成立要件として、
  1. 法人の発意によって創作されたものであること
  2. 法人名義で発表されたものであること
などの5つの条件が記されているらしい。

  ミッキーマウス ? DOB君 ? マウスくん

といった系列をつなぐのは、類似性を見て取る人間である(人間による作用力または構築)。

  生産物:  ミッキーマウス   ?   DOB君    ?    マウスくん
  創作者?: アブ・アイワークス?    村上隆?         ?
  変形者?:
  模倣源?: クレージー・キャット? ミッキーマウスとドラえもん? DOB君?
  企業 :  Walt Disney社?     カイカイキキ?       ナルミヤ

 ミッキーマウス「自身」(同一性とは?)が、変形していった(「自己」模倣?)わけだが。

 
[K]
暮沢剛巳.2008.7.現代アートナナメ読み:今日から使える入門書.239pp.東京書籍.[Ab702]

カイカイキキ.2006?.現代美術家 村上隆が訴訟提起した著作権侵害事件の和解による終了について.
http://www.kaikaikiki.co.jp/news/list/murakamis_lawsuit/

[M]
*村上隆.2010.11.芸術闘争論.292pp.幻冬舎.

[S]
*佐々木豊.2008.4.プロ美術家になる! 泥棒美術学校《実践編》.芸術新聞社.[y2,100]


岩成達也『みどり、その日々を過ぎて。』

2010年12月22日 14時02分28秒 | 詩 poetry
2010年12月22日-1
岩成達也『みどり、その日々を過ぎて。』

 『レオナルドの船に関する断片補足』に、「A M」とあるのは、Ave Mariaと、a M[idori](緑に、という献辞)の両方なのかな、とかつて思った。
 『みどり、その日々を過ぎて。』の63頁に、「マリア・セシリア ミドリ」とあるから、マリア=緑。もっとも、そうなると「Ave」は意味していないほうに傾くかも。

 あとがきの106頁に、「感慨表出、感情吐露ということに心からの嫌悪を覚えていた」とある。たしかに、「感情吐露」ではないにせよ、『レオナルドの船に関する断片補足』では、情緒的なものを喚起するまたは呼び入れる invokeような道具立てがあると思う。
 それは、非現実的な言語空間を構築して、独特の筋書きまたは物語を、これまた独特の語り口で語るとともに(発話者の仮構)、(小道具的といってよいのだろうか、)「ふにゃふにゃ」といった二回繰り返した擬態語を散りばめていることである。そしてそれらの効果として、独特の情緒的(感情emotionではなく、情緒feeling)なものを喚起して、なおかつ、その他の諸々とともに、屹立した世界が構築されているのだと思う。

 あたしが想い出に浸るとき、それは退避かつ癒しであるのか、あるいは?
 ピタゴラス教団。数としての(あるいは数へと回収される)想い出、あるいは(時間は実在ではないが、出来事の生起について周期性を仮定して)日付けの問題。
 変換を(自由回)重ね、制約条件も或る程度の自由度があるならば(下記の場合は「九」を発見している)、なんでも起こり得る。
 ゆえに、人は、(能力に応じて)なんでも起こすことができる。われわれは質料を組み合わせたり変換できる。ただし、質料そのものは、(現在のところ)創造できない。<無>から、何かを作ったとしても、それは変換であり、元の<無>もまた(現在のところ)創造できない。

 
 
***********

 (前略)

 …… 数ほど神秘的なものはこの世にない
 …… 僕は表を作ってみた
 一月八日
 二月七日
 三月六日
 ……
 五月四日
 ……

 …… 君はやっぱり神秘の少女 僕にはね
 
 
 (後略)
 
***********
   (「(神秘の少女)」より。『みどり、その日々を過ぎて。』16頁、17頁、18頁)


 小林弘明氏による、岩成達也論の電脳場所があった。
  岩成達也論補遺:悪癖からくる下降を特徴とする妄想
http://www.asahi-net.or.jp/~ae7h-kbys/F-cri_.html

 
岩成達也.2009.8.みどり、その日々を過ぎて。112pp.書肆山田.[活版] [y2,500+]

学問修行 2010年12月20日(月)

2010年12月21日 12時19分17秒 | 生命生物生活哲学
2010年12月21日-2
学問修行 2010年12月20日(月)

 京都大学北部構内の門の左(味噌汁かお茶だったかの選択)と右(味噌汁つき)に500円の弁当が売られていた。しかし、初志貫徹、北部生協食堂へ。20数人の列に並ぶ。取ったのが味噌汁ではなく豚汁だったので、組みとなっている急ぎのランチおかずと最小量のごはんとともに、500円弱。
 文房具を見ようと、2階にあがる。その入口手前に本が並べられていて、結局、

岡村定矩(編).2010.11.宇宙はどこまでわかったか?[数学セミナー別冊].95pp.日本評論社.[y1,600+]

を買った。生協組合員証を見せたら、本は10%引きになったとのことだった。

 13:02から始まった、某研究室の演習seminarに出た。終わった後、教授がいれてくれたコーヒーを飲む。直(ストレート)も、うまい。演習には(職務上)博物館の准教授がいたので、教授に紹介してもらい、その人に博物館へと案内してもらい、話を伺った。月曜は休館なので、突然行っても入れなかっただろう。さらに、別の教員の方に紹介してもらい、データベースについて教えてもらい、また、収蔵庫などを案内してもらった。地下の標本庫は2層になっており、液浸のところには、今西錦司の模式標本も有った。

 現在の日本産アリ類画像データベース
http://ant.edb.miyakyo-u.ac.jp/J/
は、初心者用として絵合わせで同定できるようになっているところがあるが、改善点として、

  たとえば画像に矢印をつけて、どこが判別点となるかの説明文をつけること。

 そのようにして、(小学生高学年以上を含む)初心者が、容易に同定できるようにすること。

 教えてもらった、わかりやすい点で見本となる電脳場所は、わくわく昆虫ずかん:
http://rikanet2.jst.go.jp/contents/cp0140d/contents/top.html

である。しかし、
 http://rikanet2.jst.go.jp/contents/cp0140d/contents/hakase/main.html
でダウンロードをしても、(当方がMacintoshだからだろうか)プラグインが見つからなかった。

 で、京橋で降りた。某画廊を覗く。ヒマラヤ岩塩。「瞑想さん」。