今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

阿育王山 石塔寺(滋賀県東近江市石塔町)

2013年09月06日 | 神社・仏閣
湖東三寺の長い長い石段を歩き、心身とも疲れていたが限られた時間の旅行なので、あと一つか二つの寺巡りを考え地図を見ると近くに石塔寺があった。
写真家土門拳氏の撮った写真を見た記憶があり、次の目的地に設定した。

追記 H25.12.3-4には紅葉の石塔寺のようすを40枚の写真で詳細に紹介している

受付所にて拝観料を納める。真っ直ぐ先には長い石段、右手には山門が見えた。迷うことなく体は階段の方へ進み出した。
この階段は疲れがあったのもあるが途中休みをとらなければならないほど急な感じがした。




石塔寺の歴史
滋賀県東近江市にある天台宗の寺院。山号は阿育王山(あしょかおうざん)、本尊は聖観世音菩薩(秘仏)。
「石塔寺」の名のとおり、境内には、阿育王塔と呼ばれる石造三重塔を中心に、数万基の石塔や石仏が並ぶ。
毎年8月末には、「石塔フェスティバル(石塔寺万燈祭)」が開かれ、石塔と石仏に献灯が行われる。
近西国三十三所観音霊場第二十二番札所。




石塔寺は、聖徳太子創建の伝承をもつ寺院である。
伝承によれば、聖徳太子は近江に48か寺を建立し、石塔寺は48番目の満願の寺院で、本願成就寺と称したという。




石塔寺境内にある数万基の石塔群の中で、ひときわ高くそびえる三重石塔については、次のような伝承がある。



長保3年(1003年)に唐に留学した比叡山の僧・寂照法師は、五台山に滞在中、五台山の僧から、「昔インドの阿育王が仏教隆盛を願って三千世界に撒布した8万4千基の仏舎利塔のうち、2基が日本に飛来しており、1基は琵琶湖の湖中に沈み、1基は近江国渡来山(わたらいやま)の土中にある」と聞いた。



寂照は日本に手紙を送ってこのことを知らせた。
3年後の寛弘3年(1006年)、播州明石(兵庫県明石市)の僧・義観僧都がこの手紙を入手し、一条天皇に上奏した。




一条天皇の勅命により、塔の探索を行ったところ、武士の野谷光盛なる者が、石塔寺の裏山に大きな塚を発見した。



野谷光盛と天皇の勅使平恒昌が掘ってみたところ、阿育王塔が出土した。
一条天皇は大変喜び、七堂伽藍を新たに建立し、寺号を阿育王山石塔寺と改号した。
寺は一条天皇の勅願寺となり、隆盛を極め、八十余坊の大伽藍を築いたという。 写真左は鐘楼。




鐘楼から見た石造三重塔。



三重石塔(伝・阿育王塔)の周りの境内に、五輪塔や石仏が多数奉納された。






化野念仏寺の石仏群はある空間にまとめられていたが、石塔寺の石仏は果てしなく続く海のように広がっていく。
海が苦手な私は遠くまで歩いて行きたいという気持ちにはなることはなかった。







この写真に写っている茶の土色が石塔寺の雰囲気だと私は感じている。



石造三重塔(重要文化財)
奈良時代前期建立。石造層塔としては日本最古であり、石造三重塔としては日本最大。
高さ7.6m。石材は花崗岩。




この石塔は、日本各地にある中世以前の石塔とは全く異なった様式をもつものであり、朝鮮半島の古代の石造物に類似している。



『日本書紀』に天智天皇8年(669年)、百済からの渡来人700名余を移住させた旨の記述があることからも、石塔寺の三重石塔も百済系の渡来人によって建立されたものであるとの見方が一般的である。



私の感想だが。
この空間に足を踏み入れ、三重塔や石仏を最初に見たときに異様な感じがした。
驚きで言葉を失い、違う世界に来ているような違和感があった。強烈な印象が頭に残り今でも当時のことを思い出す。




著名人の感想を紹介する。
司馬 遼太郎 「最後の石段をのぼりきったとき、眼前にひろがった風景のあやしさについては、わたしは生涯忘れることができないだろう」
瀬戸内 寂聴 「思わず声をあげた自分に気がつき、雨の降りかかるのも忘れて、塔の方へ駆けよらずにはいられなかった」




不思議な感覚を引きずりながら159段の石段を下りる。



寺門には阿育王山の山号が掲げられている。






本堂
織田信長の焼き討ちにより、七堂伽藍、木造建築物、寺宝が全て焼失し、寺は荒廃した。
明治時代に再建された本堂だけが残る。




撮影 平成22年7月24日
コメント
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