訪問日 令和3年5月25日
日根神社
国宝の多宝塔のある慈眼院の隣にある神社
慈眼院は日根神社の神宮寺
鳥居
由緒を調べると驚くことに、紀元前663年4月9日 神武天皇が東征の途次で戦勝を祈願
後にこの地を「日根野」と名付け「日根神社」が祀られるとある
手水舎
神門
天武天皇2年(673年)には境内に隣接して神宮寺の無辺光院(現・慈眼院)が建立されている
鳥居が見えたので立ち寄った神社だが歴史的背景には驚く
神門の正面に見えるのは拝殿
拝殿
太陽の出る根の意から日根と云い、日の神と根の神をお祀りした野原から日根の野、日根野と呼ばれるようになった
公式サイトを見ると、冬至の日の出の写真がある
由緒の如く、日を背に受けるようにして本殿の真上から太陽が昇る
天正年間(1573年 - 1593年)に兵火によって焼失
天正13年(1585年)には羽柴秀吉により社領が没収
慶長7年(1602年)豊臣秀頼によって社殿が再建された
女性の参拝者が多いと感じたのは
ご利益に「縁結び・子授け」「安産・子育て」「美容・恋愛」があるためか
摂社の比売神社祭神「衣通姫(そとおりひめ)」は、本朝三美人の1人に数えられるほど大変美しい女性
その美貌が衣服を通して光り輝くほどであったという
美人で名高い小野小町のことを紀貫之は「衣通姫のようだ」と評したという
他の2人は光明皇后、蜻蛉日記の作者の藤原道綱母
本殿(大阪府指定文化財)
主祭神 彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)
玉依姫命(たまよりひめのみこと)
慶長7年(1602年)に豊臣秀頼によって再建
末社 新道宮(しんどうのみや)
菅原道真を祀る
目的が隣にある慈眼院だったこともあり、この神社では十数枚の写真を撮り駐車場に戻った
他の人のブログを見ると見逃している場所も多く悔いが残っている
撮影 令和3年5月25日
日根神社
国宝の多宝塔のある慈眼院の隣にある神社
慈眼院は日根神社の神宮寺
鳥居
由緒を調べると驚くことに、紀元前663年4月9日 神武天皇が東征の途次で戦勝を祈願
後にこの地を「日根野」と名付け「日根神社」が祀られるとある
手水舎
神門
天武天皇2年(673年)には境内に隣接して神宮寺の無辺光院(現・慈眼院)が建立されている
鳥居が見えたので立ち寄った神社だが歴史的背景には驚く
神門の正面に見えるのは拝殿
拝殿
太陽の出る根の意から日根と云い、日の神と根の神をお祀りした野原から日根の野、日根野と呼ばれるようになった
公式サイトを見ると、冬至の日の出の写真がある
由緒の如く、日を背に受けるようにして本殿の真上から太陽が昇る
天正年間(1573年 - 1593年)に兵火によって焼失
天正13年(1585年)には羽柴秀吉により社領が没収
慶長7年(1602年)豊臣秀頼によって社殿が再建された
女性の参拝者が多いと感じたのは
ご利益に「縁結び・子授け」「安産・子育て」「美容・恋愛」があるためか
摂社の比売神社祭神「衣通姫(そとおりひめ)」は、本朝三美人の1人に数えられるほど大変美しい女性
その美貌が衣服を通して光り輝くほどであったという
美人で名高い小野小町のことを紀貫之は「衣通姫のようだ」と評したという
他の2人は光明皇后、蜻蛉日記の作者の藤原道綱母
本殿(大阪府指定文化財)
主祭神 彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)
玉依姫命(たまよりひめのみこと)
慶長7年(1602年)に豊臣秀頼によって再建
末社 新道宮(しんどうのみや)
菅原道真を祀る
目的が隣にある慈眼院だったこともあり、この神社では十数枚の写真を撮り駐車場に戻った
他の人のブログを見ると見逃している場所も多く悔いが残っている
撮影 令和3年5月25日
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