訪問日 令和3年6月11日
太平山 長勝寺
津軽家の先祖大浦光信の死後、その子盛信(大浦城主)が亡き父のため享禄元年(1528年)種里(現在の鯵ヶ沢町)に創建
慶長15年(1610年)二代信枚公が弘前城築城とともに現在地に移した
種里の太平城から「太平山」の山号、光信の法名から「長勝寺」と号した
三門(重要文化財)
寛永6年(1629年)二代藩主信枚により建立
文化6年(1809年)の大修理で、下層に花頭窓を設け仁王像を置く
扁額には山号の「太平山」
仁王像
鐘楼
銅鐘<嘉元鐘>(重要文化財)
嘉元4年(1306年)の紀年銘が切られているところから嘉元の鐘と呼ばれる
この鐘は、長勝寺の創建より200年程前の銅鐘で、満蔵寺(現万蔵寺)から寄進されたものと伝えられる
庫裏(重要文化財)
文亀2年(1502) 津軽の祖 大浦光信が岩木山麓賀田に建築した大浦城の台所
以前訪れた時は有料で本堂・霊廟含め境内全域を案内してもらえた
庫裏内で声をかけ、しばらく待ったがだれも来なかったので拝観することにした
庫裏から本堂へ
本尊の釈迦如来か
これも初めて見たが何だろう
よく見ると菊花紋章のようなものが入っている
本堂(重要文化財)
慶長16年(1610年) 二代藩主 信枚造営の書院造り建造物
僧堂
扁額の「蒼龍窟」
「蒼龍窟」の意味を調べてみると
龍の持つ霊玉を取るには、蒼龍の棲む窟中に乗り込まなくてはならず
洞窟の中に入れば、一瞬にして襲われ命を落とすかもしれない
悟りをひらこうと志を立てたなら、文字通り命をかけて修行をする
ということらしい
神仏分離令により「百澤寺(現岩木山神社)」から移し安置したとの説明
今回の旅で回った弘前八幡宮・弘前城・革秀寺・岩木山神社・最勝寺と長勝寺が線でつながった
三尊仏及びその厨子堂(青森県指定文化財)
十六羅漢
五百羅漢
厨子の彫刻
長勝寺とミイラ
昭和29年(1954年)8月3日菩提寺長勝寺の墓地移転で、地下7mの場所に座棺に土葬されており自然ミイラ化(死蝋)した状態で発見された
板に描かれているような状況で発見されたようだ
12代藩主になることを嘱望されていた津軽承祐が18歳で病没
副装品とともにこの柩に
津軽家霊屋(重要文化財)
撮影 令和3年6月11日
太平山 長勝寺
津軽家の先祖大浦光信の死後、その子盛信(大浦城主)が亡き父のため享禄元年(1528年)種里(現在の鯵ヶ沢町)に創建
慶長15年(1610年)二代信枚公が弘前城築城とともに現在地に移した
種里の太平城から「太平山」の山号、光信の法名から「長勝寺」と号した
三門(重要文化財)
寛永6年(1629年)二代藩主信枚により建立
文化6年(1809年)の大修理で、下層に花頭窓を設け仁王像を置く
扁額には山号の「太平山」
仁王像
鐘楼
銅鐘<嘉元鐘>(重要文化財)
嘉元4年(1306年)の紀年銘が切られているところから嘉元の鐘と呼ばれる
この鐘は、長勝寺の創建より200年程前の銅鐘で、満蔵寺(現万蔵寺)から寄進されたものと伝えられる
庫裏(重要文化財)
文亀2年(1502) 津軽の祖 大浦光信が岩木山麓賀田に建築した大浦城の台所
以前訪れた時は有料で本堂・霊廟含め境内全域を案内してもらえた
庫裏内で声をかけ、しばらく待ったがだれも来なかったので拝観することにした
庫裏から本堂へ
本尊の釈迦如来か
これも初めて見たが何だろう
よく見ると菊花紋章のようなものが入っている
本堂(重要文化財)
慶長16年(1610年) 二代藩主 信枚造営の書院造り建造物
僧堂
扁額の「蒼龍窟」
「蒼龍窟」の意味を調べてみると
龍の持つ霊玉を取るには、蒼龍の棲む窟中に乗り込まなくてはならず
洞窟の中に入れば、一瞬にして襲われ命を落とすかもしれない
悟りをひらこうと志を立てたなら、文字通り命をかけて修行をする
ということらしい
神仏分離令により「百澤寺(現岩木山神社)」から移し安置したとの説明
今回の旅で回った弘前八幡宮・弘前城・革秀寺・岩木山神社・最勝寺と長勝寺が線でつながった
三尊仏及びその厨子堂(青森県指定文化財)
十六羅漢
五百羅漢
厨子の彫刻
長勝寺とミイラ
昭和29年(1954年)8月3日菩提寺長勝寺の墓地移転で、地下7mの場所に座棺に土葬されており自然ミイラ化(死蝋)した状態で発見された
板に描かれているような状況で発見されたようだ
12代藩主になることを嘱望されていた津軽承祐が18歳で病没
副装品とともにこの柩に
津軽家霊屋(重要文化財)
撮影 令和3年6月11日
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