今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

阿育王山 石塔寺(滋賀県東近江市石塔町860)

2022年07月19日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月22日

阿育王山(あしょかおうざん) 石塔寺(いしどうじ)
天台宗の寺院 聖徳太子創建の伝承をもつ寺院
伝承によれば、聖徳太子は近江に48か寺を建立し、石塔寺は48番目の満願の寺院で、本願成就寺と称したという

寺号石柱



石塔寺への参拝は、今回で3度目となる



年齢とともに長い階段の昇降が膝と心肺に負荷がかかり苦しくなってきた
苦しくなると呼吸を整えるため周辺にある魅力的なものを撮るようにしている



過去に上ったことのある階段は、精神的には楽だ



と言っても肉体的には辛い。また、休憩



この階段横には多くの石仏があり、休憩時も楽しむことができる






五輪塔と石仏が混在している






石造三重塔<伝・阿育王塔>(重要文化財)
奈良時代前期建立 高さ7.6m 石材は花崗岩
石造層塔としては日本最古であり、石造三重塔としては日本最大



長保3年(1003年)に唐に留学した比叡山の僧・寂照法師は、五台山に滞在
五台山の僧から、「昔インドの阿育王が仏教隆盛を願って三千世界に撒布した8万4千基の仏舎利塔のうち
2基が日本に飛来しており、1基は琵琶湖の湖中に沈み、1基は近江国渡来山の土中にある」と聞いた



寂照は日本に手紙を送ってこのことを知らせた
3年後の寛弘3年(1006年)、播州明石の僧・義観僧都がこの手紙を入手し、一条天皇に上奏
一条天皇の勅命により、塔の探索を行ったところ、石塔寺の裏山に大きな塚を発見し阿育王塔が出土した



伝承のうち、「インドの阿育王」云々が後世の仮託で
実際には奈良時代前期(7世紀)頃に、朝鮮半島系の渡来人によって建立されたとみるのが通説

写真家土門拳氏によると彼ら亡命者たちは、与えられた異境の山野で開拓に従事した
そして生活も安定したとき、敬虔な仏教徒であった彼らは石塔を造営したのであろうと述べている



五輪塔と宝塔






五輪塔(重要文化財)
右-嘉元2年(1304年)の建立
左-貞和5年(1349年)の建立



宝塔(重要文化財)
正安4年(1302年)の建立
「宝塔」は、円筒形の塔身に宝形造(四角錐形)の屋根を付した形式の塔を指す



鎌倉時代には、三重石塔(伝・阿育王塔)の周りの境内に、五輪塔や石仏が多数奉納された



石造三重塔の奥にある五輪塔






数万あるという五輪塔が川のように流れている



石造三重塔の奥にある像






参道横にも五輪塔が続く(途中で歩くのを止めた)



土門拳は、「丘の上に夕日をあびて立つ三重塔は、日本人のものではなかった
大陸的にのびのびしているけれども、いかにも朝鮮臭い
やはり異境に生きた古代亡命者たちの哀しい望郷の碑であった」と述べている



白州正子は「あの端正な白鳳の塔を見て、私ははじめて石の美しさを知った」
また「日本一の石塔だと信じている」と絶賛する辞を残している



鐘楼



階段の数を数えながら、一気に下りる
170段程度だったように記憶している



山門
扁額には山号の「阿育王山」



山門横に咲く白い花



境内の様子



本堂横の釈迦如来像(だと思うが)






本堂
安土桃山時代、織田信長の焼き討ちにより、七堂伽藍、木造建築物、寺宝が全て焼失し、寺は荒廃した



江戸時代初期、天海が弟子の行賢に指示し、一部復興されている



本堂内の様子(扉の隙間から撮る)
外陣にある扁額には寺号の「石塔寺」



本尊:聖観世音菩薩(秘仏)



前立:十一面観世音菩薩









山門(本堂側から)






撮影日 令和4年5月22日

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