訪問日 令和4年6月2日
栃社山(とちこそさん) 誕生寺 その1
法然上人生誕地に建立された浄土宗の寺院
浄土宗には総本山・大本山・本山・特別寺院があり誕生寺は特別寺院4寺のうちの1つ
山門(重要文化財)
正徳5年(1716年)の建造
付帯する筋塀は安政4年(1857年)伏見宮家より寄進された
今回が2度目の参拝になるが、「熊谷 直実」の名に目が止まった
毘沙門堂
山門右手にあり毘沙門天を祀る
公孫樹(岡山県指定天然記念物)
久安3年(1147年)15歳の勢至丸(法然上人)が比叡山に旅立つ際に杖とされた銀杏の枝をさしたところ正着繁茂したという
公孫樹の先に御影堂が見えてくる
御影堂(重要文化財)
過去に二度損壊し、現在のものは元禄8年(1695年)の建造
この寺の場所は法然上人が長承2年(1133年)4月7日に、父漆間時国、母秦氏の子として生れたところ
幼名を勢至丸といい、9才のとき父時国が、源内武者定明という武士によって、夜討ちをうけて亡くなったがその遺言によって、出家する決意する
建久4年(1193年)弟子の熊谷蓮生房が法然上人の等身像をこの地に移し、昔の館を仏閣として誕生寺と号したのが始まりである
額には「誕生律寺」
かつては誕生律寺と呼ばれていた
本尊:圓光大師(法然没後、朝廷から贈られた大師号)
さて、熊谷 直実(くまがい なおざね)の名に目が目が止まったと書いた
鎌倉殿の13人を視聴するにあたり「平家物語」を再読していた
最も有名な「祇園精舎の鐘の声……」も素晴らしいが、最も感動したのが
「熊谷 直実、息子ほどの敦盛を涙ならに討つ」場面である
寿永3年(1184年)2月の一ノ谷の戦い
この戦いで良き敵を探し求めていた直実は、波際を逃げようとしていた平家の公達らしき騎乗の若武者を
「卑怯にも敵に後ろをお見せになるのか」と呼び止めて一騎討ちを挑む
直実がむずと組んで若武者を馬から落とし、首を取ろうとすると、ちょうど我が子・直家ぐらいの年齢の少年だった
直実が「大した者ではないが、武蔵の国の住人、熊谷次郎直実だ」と名乗った後、
敦盛は「私が名乗らなくても、首を取って誰かに尋ねてみよ。きっと知っている者がいるであろう」と答えた
これを聞いて立派な武士だと感動した直実は一瞬この少年を逃がそうとしたが、背後に自分たちの味方の手勢が迫ってくる
たとえ自分が少年を逃がしたとしても、どのみち生き延びることはできないだろうと考えた直実は
「同じことなら直実の手におかけ申して、死後のご供養をいたしましょう」と言って、泣く泣くその首を斬った
その後、首実検をするとこの公達は清盛の甥・平敦盛と判明、齢十七だった
討ち死にの折に帯びていた笛「小枝」(さえだ)は、笛の名手として知られた敦盛の祖父・忠盛が鳥羽上皇から賜ったものだという
瑞應殿(旧阿弥陀堂)
敦盛を討った直実は出家の方法を知らず模索していた。 法然との面談を法然の弟子・聖覚に求めた
聖覚が法然に取り次ぐと、直実は「後生」について、真剣にたずねたという
法然は「罪の軽重をいはず、ただ、念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし」と応えたという
建久4年(1193年)頃、法然の弟子となり法力房 蓮生 (ほうりきぼう れんせい)と称した
平家物語の感動した場面に出てくる熊谷直実が法然の弟子になり誕生寺を建て
それを知らずに訪れていたとは驚きであった
鐘楼
観音堂(岡山県指定文化財)
初代津山城主・森 忠政公(森 蘭丸の弟)より寄進をうける
建立は寛永8年(1631年)頃と伝わる
堂内の様子
聖観音像を祀っている
次回に続く
撮影日 令和4年6月2日
栃社山(とちこそさん) 誕生寺 その1
法然上人生誕地に建立された浄土宗の寺院
浄土宗には総本山・大本山・本山・特別寺院があり誕生寺は特別寺院4寺のうちの1つ
山門(重要文化財)
正徳5年(1716年)の建造
付帯する筋塀は安政4年(1857年)伏見宮家より寄進された
今回が2度目の参拝になるが、「熊谷 直実」の名に目が止まった
毘沙門堂
山門右手にあり毘沙門天を祀る
公孫樹(岡山県指定天然記念物)
久安3年(1147年)15歳の勢至丸(法然上人)が比叡山に旅立つ際に杖とされた銀杏の枝をさしたところ正着繁茂したという
公孫樹の先に御影堂が見えてくる
御影堂(重要文化財)
過去に二度損壊し、現在のものは元禄8年(1695年)の建造
この寺の場所は法然上人が長承2年(1133年)4月7日に、父漆間時国、母秦氏の子として生れたところ
幼名を勢至丸といい、9才のとき父時国が、源内武者定明という武士によって、夜討ちをうけて亡くなったがその遺言によって、出家する決意する
建久4年(1193年)弟子の熊谷蓮生房が法然上人の等身像をこの地に移し、昔の館を仏閣として誕生寺と号したのが始まりである
額には「誕生律寺」
かつては誕生律寺と呼ばれていた
本尊:圓光大師(法然没後、朝廷から贈られた大師号)
さて、熊谷 直実(くまがい なおざね)の名に目が目が止まったと書いた
鎌倉殿の13人を視聴するにあたり「平家物語」を再読していた
最も有名な「祇園精舎の鐘の声……」も素晴らしいが、最も感動したのが
「熊谷 直実、息子ほどの敦盛を涙ならに討つ」場面である
寿永3年(1184年)2月の一ノ谷の戦い
この戦いで良き敵を探し求めていた直実は、波際を逃げようとしていた平家の公達らしき騎乗の若武者を
「卑怯にも敵に後ろをお見せになるのか」と呼び止めて一騎討ちを挑む
直実がむずと組んで若武者を馬から落とし、首を取ろうとすると、ちょうど我が子・直家ぐらいの年齢の少年だった
直実が「大した者ではないが、武蔵の国の住人、熊谷次郎直実だ」と名乗った後、
敦盛は「私が名乗らなくても、首を取って誰かに尋ねてみよ。きっと知っている者がいるであろう」と答えた
これを聞いて立派な武士だと感動した直実は一瞬この少年を逃がそうとしたが、背後に自分たちの味方の手勢が迫ってくる
たとえ自分が少年を逃がしたとしても、どのみち生き延びることはできないだろうと考えた直実は
「同じことなら直実の手におかけ申して、死後のご供養をいたしましょう」と言って、泣く泣くその首を斬った
その後、首実検をするとこの公達は清盛の甥・平敦盛と判明、齢十七だった
討ち死にの折に帯びていた笛「小枝」(さえだ)は、笛の名手として知られた敦盛の祖父・忠盛が鳥羽上皇から賜ったものだという
瑞應殿(旧阿弥陀堂)
敦盛を討った直実は出家の方法を知らず模索していた。 法然との面談を法然の弟子・聖覚に求めた
聖覚が法然に取り次ぐと、直実は「後生」について、真剣にたずねたという
法然は「罪の軽重をいはず、ただ、念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし」と応えたという
建久4年(1193年)頃、法然の弟子となり法力房 蓮生 (ほうりきぼう れんせい)と称した
平家物語の感動した場面に出てくる熊谷直実が法然の弟子になり誕生寺を建て
それを知らずに訪れていたとは驚きであった
鐘楼
観音堂(岡山県指定文化財)
初代津山城主・森 忠政公(森 蘭丸の弟)より寄進をうける
建立は寛永8年(1631年)頃と伝わる
堂内の様子
聖観音像を祀っている
次回に続く
撮影日 令和4年6月2日
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