今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

天音山 道成寺 (和歌山県日高郡日高川町大字鐘巻)

2013年09月13日 | 神社・仏閣
このブログでよく登場する五木寛之氏の百寺巡礼のビデオを視て、道成寺の住職が語る「安珍清姫」を是非聞きたいと思い訪れたが……。



道成寺の歴史 
和歌山県日高郡日高川町にある天台宗の寺院。新西国三十三箇所観音霊場の第五番札所である。
大宝元年(701年)、文武天皇の勅願により、義淵僧正を開山として、紀大臣道成なる者が建立したという。
別の伝承では、文武天皇の夫人・聖武天皇の母にあたる藤原宮子の願いにより文武天皇が創建したともいう。
道成寺創建にまつわる「髪長姫伝説」(「宮子姫伝記」)や、能、歌舞伎、浄瑠璃の演目として名高い、「安珍・清姫伝説」で知られる。この伝説は、平安時代中期に編纂された『大日本国法華験記』にすでに見える古い話である。


仁王門(重要文化財) 
 


江戸時代 元禄13年(1700年)再建



扁額「天音山 道成寺」



仁王像






本堂(重要文化財)
入母屋造、本瓦葺き。桁行(間口)7間、梁間(奥行)5間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する)。
壁板に南北朝時代 正平12年(1357年)の墨書があり、同年頃の竣工と推定される。
ただし、天授4年(1378年)銘の鬼瓦が残ることから、細部の造作の完了はその頃までかかったものとみられる。




三重塔(和歌山県指定文化財)



江戸時代 宝暦14年(1764年)再建



千手観音立像(重要文化財)
国宝の千手観音像の背後に北向きに安置されていた。秘仏の千手観音像とその胎内仏である。



閻魔の廰(十王堂)



安珍塚



絵説き説法
宝仏殿・縁起堂で仏像等を拝観していたが、参拝者は私一人、他に誰もいない。
絵説き説法を是非聞きたいが一人では無理かなと思いながら、仲間が来るまでと、繰り返し宝仏殿に行くが誰も来ない。
だが、ここまできてあきらめることはできない。
受付所にて、奥の手の「北海道からきたので何とかならないのか」と訳のわからないことをいい若い僧に交渉していると、背後からあのビデオに出演していた住職が「いいですよ」笑顔で応えてくれた。




「安珍清姫」の絵説き説法が始まる。

時は醍醐天皇の御代、延長6年(928年)夏の頃である。奥州白河より熊野に参詣に来た僧がいた。
この僧(安珍)は大変な美形であった。紀伊国牟婁郡真砂の庄司清次の娘(清姫)は宿を借りた安珍を見て一目惚れ、女だてらに夜這いをかけて迫る。
安珍は参拝中の身としてはそのように迫られても困る、帰りにはきっと立ち寄るからと騙して、参拝後は立ち寄ることなくさっさと行ってしまった。




騙されたことを知った清姫は怒り、裸足で追跡、道成寺までの道の途中(上野の里)で追い付く。
安珍は再会を喜ぶどころか別人だと嘘に嘘を重ね、更には熊野権現に助けを求め清姫を金縛りにした隙に逃げ出そうとする始末である。
ここに至り清姫の怒りは天を衝き、遂に蛇身に化け安珍を追跡する。

日高川を渡り道成寺に逃げ込んだ安珍を追うものは、火を吹きつつ川を自力で渡る蛇の姿である。渡し守に「追っ手を渡さないでくれ」と頼んでもこれでは無意味であった。
よんどころなく、梵鐘を下ろしてもらいその中に逃げ込む安珍。
しかし清姫は許さず鐘に巻き付く。因果応報、哀れ安珍は鐘の中で焼き殺されてしまうのであった。
安珍を滅ぼした後、清姫は蛇の姿のまま入水する。



蛇道に転生した二人はその後、道成寺の住持のもとに現れて供養を頼む。
住持の唱える法華経の功徳により二人は成仏し、天人の姿で住持の夢に現れた。
実はこの二人はそれぞれ熊野権現と観世音菩薩の化身であったのである、と法華経の有り難さを讃えて終わる。

1対1で話を聞くことはお願いしたとはいえ、結構重圧がかかる。
途中から中年の女性2人が加わり、住職の話も俄然なめらかになる。
標準40分という話しだが、住職のアドリブも面白くあっという間に話しが終わったという感じがした。
願いが叶い住職には本当に感謝している。その気持ちをお土産を沢山購入したことで表した。

最後に、道明寺は「安珍清姫」の絵説き説法で有名だが、宝仏殿の仏像群は大変充実している。
時間に余裕を持って訪れることを勧める。「一聴一見の価値」は十分ある。


撮影 平成22年7月27日
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風猛山 粉河寺(和歌山県紀の川市粉河)

2013年09月12日 | 神社・仏閣
周囲が暗くなったら寝て、朝日と共に行動するというのが、この時の車中泊の特徴であり粉河寺の駐車場に着いたのは朝の6時過ぎ。
「早起きは三文の得」とはよくいったもので、駐車料金や拝観料が不要になることもある。
少し歩くと粉河寺の山門らしきところに着いた。
もちろん観光客らしき人も見あたらず、女子高生が部活動の合宿かなにかで走っている姿だけ。




粉河寺の歴史
和歌山県紀の川市粉河にある天台系の寺院。西国三十三所第三番札所。
山号は風猛山。宗派は天台宗系の粉河観音宗総本山。
本尊は、千手千眼観音菩薩(秘仏)。
伝承によれば創建は宝亀元年(770年)、大伴孔子古(おおとものくじこ)によるとされる。

粉河寺縁起には2つの説話が

1つ目の話は、紀伊国の猟師・大伴孔子古は宝亀元年(770年)のある日、山中に不思議な光を発する場所を見つけて、そこに小さな庵を営んだ。これが粉河寺の始まりという。
その後のある日、孔子古の家に一人の童子が訪ねて来て、一晩泊めてくれと言う。
童子は宿を借りたお礼にと言って、7日かけて千手観音の像を刻んだ。
8日目の朝、孔子古が見てみると童子の姿はなく、金色の千手観音の像だけがあった。
孔子古は殺生をやめて観音を信仰するようになったとのことである。

2つ目の話は、河内国の長者・佐太夫の娘は重い病で明日をも知れぬ命であった。
そこへどこからともなく現れた童行者が千手千眼陀羅尼を称えて祈祷したところ、娘の病は全快した。
喜んだ長者がお礼にと言って財宝を差し出すが童行者は受け取らず、娘の提鞘(さげざや、小太刀)と緋の袴だけを受け取り、「私は紀伊国那賀郡におります」と言って立ち去った。
長者一家が那賀郡を尋ねて行くと、小さな庵に千手観音像が立ち、観音の手には娘の提鞘と緋の袴があった。
長者一家は、あの行者が観音の化身であったことを知ってその場で出家し、孔子古とともに粉河寺の繁栄に尽くしたとのことである。


大門(重要文化財)
境内入口に建つ。宝永4年(1707年)建立。
入母屋造、本瓦葺きの楼門(2階建て門)。仏師春日作と伝える金剛力士像を安置。







中門(重要文化財)
入母屋造、本瓦葺きの楼門。左右の間に四天王像を安置する。
棟札によれば明和(1764 - 1772年)頃から長い年月をかけて天保3年(1832年)に完成した。




「風猛山」の扁額は紀州十代藩主徳川治宝の筆。



本堂(重要文化財) 









千手堂(重要文化財)
宝暦10年(1760年)建立。本堂の左に建つ宝形造の小堂である。
本尊の千手観音立像は秘仏で、2008年10月1日から10月31日までの間、217年ぶりに開扉された。




念仏堂(光明殿)
江戸時代後期築、総欅造



名勝 粉河寺庭園
国指定の名勝。本堂の擁壁を兼ねた前庭は、豪壮な石組みに植栽を合わせた座視式の枯山水蓬莱庭園である。
桃山時代・上田宗箇の作庭とされる先例のない様式。







仏足石
釈迦の足跡が刻まれている。紋様は千福輪相をあらわし、大きさは人徳の偉大さを象徴している。
うしろの碑は江戸時代の願海上人の筆である。




粉河寺阿弥陀如来座像(紀の川市指定文化財)



撮影 平成22年7月27日
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高野山真言宗総本山 金剛峯寺(和歌山県伊都郡高野町大字高野山)

2013年09月11日 | 神社・仏閣
いつかは高野山。旅に出る時はいつもそう思ってはいたがなかなか決断がつかなかった。
しかし、室生寺で十一面観音の美しさに感動、その勢いもあり、今日がその高野山へ行く日だと車を走らせた。
高野山の駐車場に着いたのが午後2時半、ところが観光バスや観光客の自家用車で駐車場は満車であったが運良く10分程度で駐めることができた。
高野山についての知識もなく駐車場からどこに行っていいのかもわからず、とりあえず有名な金剛峯寺を目指そうと車を降りた。


<世界遺産>高野山真言宗総本山 金剛峯寺の歴史
和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山真言宗総本山の寺院。
総本山金剛峯寺という場合、高野山全体を指す。
普通、寺といえば一つの建造物で、その敷地内を境内というが、高野山は「一山境内地」と称し、高野山の至る所が寺の境内地であり、高野山全体が寺となる。
 
「金剛峯寺」という名称は、空海が『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』というお経より名付けられたと伝えられている。
東西約60m、南北約70mの主殿(本坊)をはじめ、座主居間、奥殿、別殿、新別殿、書院、新書院、経蔵、鐘楼、真然堂、護摩堂、阿字観道場、茶室等の建物を備え、寺内には狩野派の襖絵や石庭などが設けられ、境内総坪数48,295坪の広大さと優美さを有している。


総本山 金剛峯寺と書かれた石柱があり、先に進む。 






主殿
金剛峯寺の屋根は檜皮葺、その屋根の上に、桶が置かれている。
これを天水桶といい、雨水を溜めておき、火災が発生したときに、火の粉が飛んで屋根が燃えあがらないように桶の水をまいて湿らし、少しでも類焼を食い止める役割を果たしてきた。







蟠龍庭(ばんりゅうてい) 
この石庭は、雲海の中で向かって左に雄、向かって右に雌の一対の龍が向かい合い、奥殿を守っているように表現されている。



龍を表す石は、空海誕生の地である四国の花崗岩が、雲海を表す白川砂は京都のものが使われている。国内最大級の石庭。



真然大徳廟
高野山第二世として、空海の理想を受け継ぎ、伝法会の基をひらき、次の時代の覚ばん上人に伝えた。



鐘楼(和歌山県指定文化財)
金剛峯寺の前身である青巌寺の鐘楼。
万延元年(1860年)に大火で類焼後、大主殿などの建物と共に鐘楼も元治元年(1864年)に再建されたもの。




高野山といえば多宝塔。しかし金剛峯寺では探しても見あたらなかったため、外に出て近くの作業員の男性に「国宝の多宝塔を探しているんですが」と声をかけると。
「分かり難いので」といって塔の見える近くまで案内してくれた。


<世界遺産>高野山金剛三昧院
高野山金剛三昧院は、建暦元年(西暦1211年)、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝公の菩提を弔うために、妻の北条政子が創建した。
始めは禅定院と称しており、落慶法会には、日本臨済宗の開祖である、明庵栄西禅師を請じ入れ、開山第一世とした。
承久元年(1219年)、三代将軍実朝公の逝去にともない、その遺骨を納め、禅定院を金剛三昧院と改めた。




多宝塔(国宝)
高さ15m。屋根の一辺はおよそ9m。
多宝塔の内部は須弥壇が設けられており、その前には仏師運慶作と伝えられる重要文化財に指定されている秘仏、五智如来像が安置されている。




建立は貞応2(1223)年、高野山で現在残っている、もっとも古い建立物。
北条政子が夫・源頼朝の逝去に伴い創建した禅定院の規模を拡大し、金剛三昧院と改めたときに造営することになった。




滋賀県大津市の石山寺に次いで二番目に古い。



当初、この塔の存在は知らず、朱塗りの塔を予想していただけに最高の気分だ。
しかも、金剛三昧院は高野山内117ケ寺(52ケ寺は宿坊)塔頭寺院として唯一、世界遺産に選ばれた寺院だという。




経堂(重要文化財)
建立は貞応2(1223)年頃で、建築様式が東大寺正倉院などと同じ校倉造り、鎌倉時代初期の校倉造りの建立物としては現存状態が非常によく、重要文化財に指定されている。
内部には「高野版」と呼ばれる経典が書かれた版木が、500枚以上収められている。




<世界遺産>高野山奥の院



寺院群の東端にある一の橋から二の橋を経て御廟橋まで、約2キロにわたる参道沿いに無数の石塔が立ち並ぶ。

加賀前田家二代利長墓所



安芸浅野家墓所 



結城秀康(家康次男)石廟(重要文化財)



豊臣家墓所(史跡)









御廟
御廟橋を渡ると空海入定の地とされる奥の院である。
一番奥には空海が今も瞑想されている御廟があり、その手前には信者が供えた無数の灯明がゆらめく燈篭堂がある。
空海は62歳の時、座禅を組み、手には大日如来の印を組んだまま永遠の悟りの世界に入り、今も高野山奥の院で生きていると信じている人もいる。
「死去」「入寂」「寂滅」などといわず「入定」というのはそのためである。




撮影 平成22年7月26日
コメント (4)
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龍穴神社と宀一山 室生寺(奈良県宇陀市室生)

2013年09月10日 | 神社・仏閣
昨日は東京五輪に関する報道に関心があったのでずっとテレビを視ていた。
チームワークの勝利ということが話題になっていたが、ある評論家は「皆が同じ目標に向かって努力するのがチームワークではない」ということを話していた。
おやっと思って聞いていたが、その評論家は「各人がいまやらなければならないこと、その役割をきちんと果たすことによって同じ目標に向かっていくのだ」と。
確かに日本のプレゼンを聞いていてそう感じた。

憲仁親王妃久子殿下の日本人を代表して各国に対して「感謝」という心のこもったお言葉は会場やテレビの前にいた人々に感動を与えたはずだ。
佐藤 真海 選手(パラリンピアン)や太田 雄貴選手(オリンピアン/招致アンバサダー)のプレゼンもすばらしいものであった。
滝川 クリステルさん (招致“Cool Tokyo”アンバサダー)の「おもてなしの心」も日本人の奥底にあったものを目覚めさせてくれた。

私個人の感想であるが日本のプレゼンは世界に対して呼びかけているのではなく、日本人に呼びかけていたのではないかとの思いを強くした。
いずれにしても東京開催は喜ばしいことだ。
また、多くの日本人は7年後の自分を想像したことだろう。
私もその一人だ。私の場合はその時まで生きていられるかだが。

前段が長くなったが、龍穴神社と室生寺について。
室生寺は8月6日付けで掲載しているが、今回の写真は3年前の写真になる。


龍穴神社
延喜式(697)内の古社で、雨神タカオカミノカミを祭り、雨ごいの神として知られている。
神域には龍穴と呼ばれる洞穴があって、いまでも雨ごいの行事が行なわれている。
この神社は室生寺よりも古く、室生寺は龍穴神社の神宮寺ともいわれ龍王寺と呼ばれていた時期もあった。













室生寺
三年前のこの時期は「平城遷都1300年祭」でこの室生寺でもいくつかの変化があった。



仁王門



鎧坂
今年の5月に室生寺を訪れたとき何か違和感があったのだが、3年前のこの写真を見てそれがわかった。
8月6日付けで掲載した鎧坂の写真と比較してもらうとわかるが写真としてはこちらの方がずっといい。








軍茶利明王石仏



 


 
弥勒堂(重要文化財)
 


本尊の釈迦如来坐像(国宝)は3年前のこの時期は出張中。






本堂<潅頂堂>(国宝)












金堂(国宝)
この期間中、十二神像が揃うということで楽しみにしていた。
また、特別拝観ということで内陣へ入るが許され、間近で仏像を拝観することができた。




十一面観音立像(国宝)
探していたものが見つかったというほどの驚きと感動があった。
この像は近くで観てこそ、その価値がわかる。


五重塔(国宝)
周辺を歩きながら撮影する。












絵を描いている人がいたので近くの場所から同じような構図で撮影。






奥の院からの帰り道。







奥の院への参道
720段の石段。今回が2回目なので、途中写真でも撮りながらと思ってはいたが、そんな余裕などなく、できあがった写真は石段ばかり。









奥の院からの帰りの急な石段。



奥の院 御影堂<大師堂>(重要文化財)
弘法大師を祀る御影堂は大師堂ともいう。



板葺き二段屋根の宝形造りで、屋上の宝珠と露盤は優品である。



各地にある大師堂の中でも最古級の堂。



七重石塔



最後に3年前の鎧坂。手すりがない。



撮影 平成22年7月26日
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仏頭山 上宮皇院菩提寺<橘寺>(奈良県高市郡明日香村大字橘)

2013年09月09日 | 神社・仏閣
石舞台古墳から1キロほどの所に橘寺があることを知る。駐車場の確認もできなかったため歩いて移動することにした。
この日は猛暑日で日差しも強く実際の距離以上に長く感じた。やっと着いたと思ったら目の前に無料の駐車場が。
帰りのことを考えると疲労感が倍増した。


橘寺 正式名称:仏頭山上宮皇院菩提寺の歴史
奈良県高市郡明日香村にある天台宗の寺院。
正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、本尊は聖徳太子・如意輪観音。
橘寺という名は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。


東門
同時期の寺院は中国の「王者南面」の思想を受け仏教寺院は南面して建てられるのが通常であったが、橘寺はこれに反して東面して建立されている。



境内
東門から真っ直ぐにのびる参道。正面が本堂になる。




本堂(太子殿)
現橘寺の本堂。この位置に創建時講堂があった。
現本堂は寺伝によると江戸時代末期元治元年(1864)建てられた。




橘寺の付近には聖徳太子が誕生したとされる場所があり、寺院は聖徳太子建立七大寺の1つとされている。
太子が父用明天皇の別宮を寺に改めたのが始まりと伝わる。
史実としては、橘寺の創建年代は不明で、『日本書紀』天武天皇9年(680年)4月条に、「橘寺尼房失火、以焚十房」(橘寺の尼房で火災があり、十房を焼いた)とあるのが文献上の初見である。




聖徳太子の愛馬。太子信仰ではこの馬は空を駆けたといわれ、達磨大師の化身と伝える。



発掘調査の結果、当初の建物は、東を正面として、中門、塔、金堂、講堂が東西に一直線に並ぶ、四天王寺式または山田寺式の伽藍配置だったことが判明している。



二面石
明日香村飛鳥時代石造物といえば亀石が有名だが、この石像もその一つで「二面石」と呼ばれている。
高さ約1mほどの石造物で、左右に善相と悪相が彫られており、人の心の二面性を表現しているという。



よく右善面、左悪面といい、人の心の善悪二相を現しているとされるが他の飛鳥石造物と同様、この石像が何故造られたのか等の本来の意味はよく解っていない。



左悪面



右善面



私など善悪の二面では足りない。多面石が必要だ。
なお亀石は、この橘寺の西門を出て少し西に行ったところにある




三光石
寺伝によれば、606年(推古14)、聖徳太子は推古天皇に請われて勝鬘経(しょうまんきょう)の講説を三日間この地で行った。
すると、蓮の花が天から溢れ落ちてきて庭に積もった。
さらに南の山に千の仏頭が現れ、太子の冠からは日月星の光が輝くなど不思議なことがおこった。
そこで、天皇がここに寺を建てるよう皇子に命じられ、皇子が尼寺を建立したのが橘寺の始まりとされている。
境内には、勝鬘経講説に関係した史跡が残っている。
「三光石」は、聖徳太子が勝鬘経の講義を行った際、冠が日・月・星の光を放ったとされていることからイメージされた石のようである。
「蓮華塚」と呼ばれている塚は、降り積もった蓮の華を埋めた場所であるという。




川原寺跡



撮影 平成22年7月25日
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石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村大字島庄)

2013年09月08日 | 名所・旧跡
2020年のオリンピック、パラリンピックの開催が東京都に決定した記念すべき日である。
私の母校となる高校や大学も多くのメダルを獲得しており、今回の決定は夢のようである。




さて、今日の石舞台はNHKの朝ドラを視るきっかけとなった「あすか」の舞台となった場所である。
子役の榎園実穂が遊んでいたのがこの石舞台である。
視るきっかけとなったのは女優竹内結子が高校生役で登場した瞬間からで衝撃を受けるほどの美しさがその当時あった。


石舞台古墳の歴史(特別史跡)
奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳。
元は土を盛りあげて作った墳丘で覆われていたが、その土が失われ、巨大な石を用いた横穴式石室が露出する。
被葬者は明らかではないが、7世紀初頭の権力者で、大化の改新で滅ぼされた蘇我入鹿の祖父でもある蘇我馬子の墓ではないかといわれている。




封土(盛土)の上部が剥がされているため、その墳形は明確ではなく、2段積の方墳とも上円下方墳とも、あるいは、下方八角墳とも推測されている。






夏休みということもあり親子連れが多い。駐車場も満車で他の駐車場を探すのに苦労した記憶がよみがえる。



30数個の岩の総重量は約2300トン、特に天井石は約77トンとかなりの重量で、造られた当時の優れた土木・運搬技術の高さがうかがわれる。



地元では他に「石蓋」(いしぶた)などの名前で呼ばれていた。
古墳でありながら「石舞台」と呼ばれているのは,天井石を舞台にして狐が女に化けて舞を見せたという伝説があり,また,いつの時代かわからないが,旅芸人がこの石の上で舞を披露したという云われから名付けられているらしい。




石室入り口 



埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、西南方向に開口している。



石室内部



外気温は30℃をこえているが石室内は涼しく過ごしやすい。



石室はすでにほとんどの埋葬品が盗掘に遭った後であり、石棺の欠片等が発見されるに留まった。



長さ約7.7メートル、幅約3.5メートル、高さ約4.7メートル、羨道は長さ約11メートル、幅2.5メートルの規模を有する。
また、石室内部には排水施設がある。




見学者の身長から石室の高さが想像できる。



大小の石が巧みに組み込まれ安定している。



石と石の隙間から見学者を撮影した。



石舞台はまた歴史の舞台でもある。 



撮影 平成22年7月25日
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鳥形山 飛鳥寺(奈良県高市郡明日香村大字飛鳥)

2013年09月07日 | 神社・仏閣
寺巡りをするようになって日本最古の寺である飛鳥寺と飛鳥大仏のことはいつも頭の中にあり、とうとうその日がやって来た。
昨夜は道の駅で宿泊したが熟睡し目覚めもよい。


鳥形山 飛鳥寺の歴史
奈良県高市郡明日香村にある寺院。蘇我氏の氏寺で、日本最古の本格的寺院でもある法興寺の後身である。
本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来、開基(創立者)は蘇我馬子である。
山号を鳥形山(とりがたやま)と称する。現在の宗派は真言宗豊山派。




これまで訪れた寺は本堂に着くまで多くの時間と距離を要したが、飛鳥寺は駐車場から本堂までは30m程度。
寺門の前には「飛鳥大佛」と書かれた標石がある。


飛鳥大佛標石
江戸時代の寛政4年(1792)飛鳥寺参拝の道しるべとして彫刻され、優秀な文字で台石は飛鳥寺創建時の礎石を用いている。



銅造釈迦如来坐像(重要文化財)
鞍作鳥(止利仏師)作の本尊像であるが、損傷が激しく、後世の補修を受けている。
現存する像のどの部分が鞍作鳥作のオリジナルで、どの部分が後補であるかについては諸説ある。
1973年に奈良国立文化財研究所による調査が行われ、当初部分と考えられるのは頭部の額から下、鼻から上の部分と、右手の第2〜第4指のみだとされた。




憧れていた仏像に出会うことができた。想像通り惚れ惚れとする仏像。
角度によってはフランケンシュタインのような感じもするから面白い。
3日前にモデルのはなさんが付き人の女性と2人で仏像を巡るという内容の番組が放映され、最後に選んだのがこの釈迦如来像だった。
私は右側からのお姿が好きだが……。




いろいろ事情があってピンぼけの写真になってしまったが、はなさんは左下方から見た口元(アルカイックスマイル)が好きらしい。
他人がどのように仏像を鑑賞しているかなど、あまり考えたこともなかったが番組内のはなさんの言葉は大変参考になった。


思惟殿



本尊 聖観世音菩薩が安置されている。



蘇我入鹿の首塚
中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らのいわゆる乙巳の変のクーデターによって、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で暗殺された。



従兄弟に当たる蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げていた際、肩を震わせていた事に不審がっていた所を中大兄皇子と佐伯子麻呂に斬り付けられ、天皇に無罪を訴えるも、あえなく止めを刺され、雨が降る外に遺体を打ち捨てられたという。



後日、父・蝦夷も自殺し、ここに蘇我宗本家は滅びる。



首塚から見える飛鳥寺全景。



本堂






金堂礎石(3個)
創建当初(596年)の礎石(日本最初)。



現在、首塚周辺では遺跡が発見され写真の風景とは異なる。
遺跡は日本書記に登場する「槻(つき)の木の広場」とされ、これまでも周辺で石敷きが見つかっている。
日本書記によると、「槻の木の広場」は大化改新の前年の644年、中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠(けまり)を通して出会った場所として登場。
壬申の乱(672年)の軍営地や、儀礼のための饗宴の場としても現れる。


撮影 平成22年7月25日
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阿育王山 石塔寺(滋賀県東近江市石塔町)

2013年09月06日 | 神社・仏閣
湖東三寺の長い長い石段を歩き、心身とも疲れていたが限られた時間の旅行なので、あと一つか二つの寺巡りを考え地図を見ると近くに石塔寺があった。
写真家土門拳氏の撮った写真を見た記憶があり、次の目的地に設定した。

追記 H25.12.3-4には紅葉の石塔寺のようすを40枚の写真で詳細に紹介している

受付所にて拝観料を納める。真っ直ぐ先には長い石段、右手には山門が見えた。迷うことなく体は階段の方へ進み出した。
この階段は疲れがあったのもあるが途中休みをとらなければならないほど急な感じがした。




石塔寺の歴史
滋賀県東近江市にある天台宗の寺院。山号は阿育王山(あしょかおうざん)、本尊は聖観世音菩薩(秘仏)。
「石塔寺」の名のとおり、境内には、阿育王塔と呼ばれる石造三重塔を中心に、数万基の石塔や石仏が並ぶ。
毎年8月末には、「石塔フェスティバル(石塔寺万燈祭)」が開かれ、石塔と石仏に献灯が行われる。
近西国三十三所観音霊場第二十二番札所。




石塔寺は、聖徳太子創建の伝承をもつ寺院である。
伝承によれば、聖徳太子は近江に48か寺を建立し、石塔寺は48番目の満願の寺院で、本願成就寺と称したという。




石塔寺境内にある数万基の石塔群の中で、ひときわ高くそびえる三重石塔については、次のような伝承がある。



長保3年(1003年)に唐に留学した比叡山の僧・寂照法師は、五台山に滞在中、五台山の僧から、「昔インドの阿育王が仏教隆盛を願って三千世界に撒布した8万4千基の仏舎利塔のうち、2基が日本に飛来しており、1基は琵琶湖の湖中に沈み、1基は近江国渡来山(わたらいやま)の土中にある」と聞いた。



寂照は日本に手紙を送ってこのことを知らせた。
3年後の寛弘3年(1006年)、播州明石(兵庫県明石市)の僧・義観僧都がこの手紙を入手し、一条天皇に上奏した。




一条天皇の勅命により、塔の探索を行ったところ、武士の野谷光盛なる者が、石塔寺の裏山に大きな塚を発見した。



野谷光盛と天皇の勅使平恒昌が掘ってみたところ、阿育王塔が出土した。
一条天皇は大変喜び、七堂伽藍を新たに建立し、寺号を阿育王山石塔寺と改号した。
寺は一条天皇の勅願寺となり、隆盛を極め、八十余坊の大伽藍を築いたという。 写真左は鐘楼。




鐘楼から見た石造三重塔。



三重石塔(伝・阿育王塔)の周りの境内に、五輪塔や石仏が多数奉納された。






化野念仏寺の石仏群はある空間にまとめられていたが、石塔寺の石仏は果てしなく続く海のように広がっていく。
海が苦手な私は遠くまで歩いて行きたいという気持ちにはなることはなかった。







この写真に写っている茶の土色が石塔寺の雰囲気だと私は感じている。



石造三重塔(重要文化財)
奈良時代前期建立。石造層塔としては日本最古であり、石造三重塔としては日本最大。
高さ7.6m。石材は花崗岩。




この石塔は、日本各地にある中世以前の石塔とは全く異なった様式をもつものであり、朝鮮半島の古代の石造物に類似している。



『日本書紀』に天智天皇8年(669年)、百済からの渡来人700名余を移住させた旨の記述があることからも、石塔寺の三重石塔も百済系の渡来人によって建立されたものであるとの見方が一般的である。



私の感想だが。
この空間に足を踏み入れ、三重塔や石仏を最初に見たときに異様な感じがした。
驚きで言葉を失い、違う世界に来ているような違和感があった。強烈な印象が頭に残り今でも当時のことを思い出す。




著名人の感想を紹介する。
司馬 遼太郎 「最後の石段をのぼりきったとき、眼前にひろがった風景のあやしさについては、わたしは生涯忘れることができないだろう」
瀬戸内 寂聴 「思わず声をあげた自分に気がつき、雨の降りかかるのも忘れて、塔の方へ駆けよらずにはいられなかった」




不思議な感覚を引きずりながら159段の石段を下りる。



寺門には阿育王山の山号が掲げられている。






本堂
織田信長の焼き討ちにより、七堂伽藍、木造建築物、寺宝が全て焼失し、寺は荒廃した。
明治時代に再建された本堂だけが残る。




撮影 平成22年7月24日
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釈迦山 百済寺(滋賀県東近江市百済寺町)

2013年09月05日 | 神社・仏閣
湖東三寺の最後の寺となる百済寺。
この三寺は秘仏公開なども同じ期間に行うなど結びつきは強いようだ。


百済寺の歴史
滋賀県東近江市にある天台宗の寺院。
山号を釈迦山と称する。本尊は十一面観音、開基(創立者)は聖徳太子とされる。

聖徳太子は当時来朝していた高麗(高句麗)の僧・恵慈とともにこの地に至った時、山中に不思議な光を見た。
その光の元を訪ねて行くと、それは霊木の杉であった。太子はその杉を、根が付いた立ち木のまま刻んで十一面観音の像を作り、像を囲むように堂を建てた。
これが百済寺の始まりであるといい、百済の龍雲寺にならって寺を建てたので百済寺と号したという。


表参道の途中に駐車場があり、その下の方にこの寺の顔となっている「赤門」があるらしい。
初めて訪れる寺だけにその辺の事情も知らず、湖東三寺に共通する石段があったので無意識で上を目指してしまっていた。 




緑に囲まれた薄暗い参道は外気温から-5~6℃で、年間を通しても30℃をこえることは1週間もないそうだ。
参道は石段と坂があり体力によって選択することができるが、下が土の方が膝には負担がかからない。
参道の左右には僧坊跡と思われる空間が広がっている。




「地上の天国」から
宣教師のルイス・フロイスは書簡に百済寺を地上の天国と書いていたが、百済寺の僧が敵対していた六角氏に通じていたことが、織田信長の逆鱗に触れ、徹底的に焼き払われたという。
信長後記には「4月11日、百済寺堂塔・伽藍・坊舎・仏閣、悉く灰燼となる。哀れなる様、目も当てられず」と表現されている。




仁王門
石段を上がると仁王門が見えてくる。
百済寺の創建は推古14年(606)、一説では崇峻3年(590)だという。
日本最古の寺「飛鳥寺」は崇峻元年(588)に着工されていることを考えると、何も残されていないのが残念な気もする。




金剛力士像






本堂側から見た仁王門



仁王門からさらに石段を上がると本堂が見えてくる。



本堂(重要文化財)
入母屋造、檜皮(ひわだ)葺き。江戸時代初期、慶安3年(1650年)の再興である。
中世以来の密教仏堂の形式を残しつつ細部には近世的特質の現われた建築で、2004年に重要文化財に指定されている。
元来の本堂は現在地の裏手にあり、規模も大きかった。また、旧本堂の右方(南)には五重塔が建っていた。







鐘楼 



当時は歴史的背景やその価値も知らず「ずいぶん寂しい寺だな」と思い、この鐘を強く撞いた記憶がよみがえった。



撮影 平成22年7月24日
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松峯山 金剛輪寺(滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺)

2013年09月04日 | 神社・仏閣


西明寺から車で15分程進むと金剛輪寺に着く。湖東三山の北から2番目の位置になる寺である。

金剛輪寺の歴史
滋賀県愛知郡愛荘町にある天台宗の寺院。山号は松峯山(しょうほうざん)。
地名から松尾寺ともいう。本尊は聖観音、開基(創立者)は行基とされる。

行基がこの地に一寺を建立したのは、文献によって天平9年(737年)とも言い、あるいは天平13年(741年)とも伝える。
その後、平安時代前期の嘉承年間(848-851年)には天台宗の僧・円仁(慈覚大師)によって再興されたと伝え、寺では円仁を中興の祖としている。


この日は雲一つない快晴、気温も30℃をこえている。
石畳に敷き詰められ、緑に囲まれた参道には木洩れ日が美しく、清涼感が漂う。







周囲の景色を楽しみながら進む。



参道の左右に千体地蔵がならび、緑の風景に風車の赤色が加わる。



遠くの石段の上に二天門が見えてきた。 



二天門(重要文化財)
様式上、室町時代末期の建築。
元来は楼門(2階建て門)だったが、近世に2階部分が取り払われている。







三重塔(重要文化財)
寺伝では鎌倉時代の寛元4年(1246年)の建立。
様式的には南北朝時代~室町時代の建築とみられる。
織田信長の焼き討ちはまぬがれたものの、近世以降は荒廃し、塔の初層と二重目がかろうじて残るだけで、三重目はなくなっていた。
現状の塔は欠失部分を補って1975年から1978年にかけて復元されたものである。




塔の扉が開かれ、大日如来が安置され拝観することができた。



復元されたとは思えないほど見事な塔である。 
 


遠くに見える塔も美しい。 






本堂(国宝)



入母屋造、檜皮葺の和様仏堂で、中世天台仏堂の代表作として国宝に指定されている。
須弥壇の金具に弘安11年(1288年)の銘があり、堂自体もそのころの建築と思われる。
本尊を安置する厨子も本堂の「附」(つけたり)として国宝に指定されている。




本尊の聖観音立像は、滋賀県内の多くの天台寺院の本尊と同様、秘仏である。
この像は一見、未完成像かと思われるほど、体部の彫りが荒々しく、行基の作であるかどうかは別としても、専門仏師でない行者の制作である可能性もあるという。




天正元年(1573年)、織田信長の兵火で湖東三山の1つである百済寺は全焼し、金剛輪寺も被害を受けるが、現存の本堂、三重塔は寺僧の尽力で焼失をまぬがれたという。
本堂をはじめとする中心堂宇は総門や本坊のある地点から数百メートルの石段を上ったはるか奥にあるため、見落とされ、焼き討ちをまぬがれたのではないかという説もある。



参道の千体地蔵には風車が添えられている。このような風車の風景は数年前に青森県にある恐山を訪れたとき以来の経験だ。



参道の横にもこのように並べられている。



参道は緑に覆われているが、秋にはこれが「血染めの」と表現されるほどの紅葉になるようである。
こちらの紅葉の美しい季節には、北海道では雪の季節となるため車の旅が難しくなる。


撮影 平成22年7月24日
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龍應山 西明寺(滋賀県犬上郡甲良町大字池寺)

2013年09月03日 | 神社・仏閣
琵琶湖の東側にある「湖東三寺」を訪ねる。一番北側にあたる西明寺が最初に訪れる寺だ。
寺の歴史を調べるためにネットで調べてみると西明寺という名の寺が多い。
昔、京都の鈴虫寺を訪ねたことがあったが、そこも正式には西明寺だそうで、新しい発見に喜んでいる。


龍應山 西明寺の歴史
滋賀県犬上郡甲良町にある天台宗の仏教寺院。
山号を龍応山(りゅうおうざん)と称する。
本尊は薬師如来、開基は三修上人である。
金剛輪寺、百済寺とともに「湖東三山」の1つに数えられる。
 
周囲を緑に囲まれた石段を上ると遠くに門が見えてくる。




二天門周辺が輝いて見え、この先にあるものに期待で胸が高鳴る。 



夫婦杉(千年杉)
西明寺の霊木で、元々2本であった木が寄り添い1つになって、共に育っていることから夫婦杉と呼ばれる。



二天門(重要文化財)
入母屋造、こけら葺き。応永14年(1407年)の墨書があり、その頃の建築と思われる。
元亀2年(1571年)、比叡山延暦寺の焼き討ちを行った織田信長は、近江国にある比叡山傘下の天台寺院をも焼き払うことを命じ、西明寺も焼き討ちの運命にあった。
しかし、寺僧の機知により、山門近くの房舎を激しく燃やし、全山焼失のように見せかけたため、山奥に位置する二天門や本堂そして三重塔は焼失をまぬがれたという。




二天門は四天王のうち、持国天と増長天に守られている。






三重塔(国宝)
二天門の右手に国宝の三重塔が見えてくる。



檜皮葺きの和様の三重塔である。様式的に鎌倉時代中期~後期の建築とされる。
初層内部には大日如来像を安置し、内部の柱や壁面には極彩色で仏・菩薩、牡丹、鳳凰などが描かれている。
壁画の主題は、4本の柱には両界曼荼羅のうち金剛界曼荼羅成身会の三十二菩薩を表し、壁面には計8面に法華経二十八品(章)の説話を表している。
これらは国宝建造物の一部であるとともに、絵画として別途重要文化財に指定されている。




さすが国宝、どの角度からみても惚れ惚れする。
塔内拝観1,000円と書かれていたのでお願いしますと頼んだら、春と秋だけの公開なので今は駄目ですと断られた。




本堂(国宝)
入母屋造、檜皮葺き。鎌倉時代前期の和様建築。中世天台仏堂の代表作として国宝に指定されている。
内陣中央の厨子には本尊薬師如来立像(重要文化財、秘仏)を安置し、左右に日光・月光(がっこう)菩薩像、十二神将像、二天王像(重要文化財)などを安置する。

本堂内にはたくさんの仏像がされていて正直驚いた。
仏像を観るのは大好きなので一つひとつ時間をかけて観ていると、係の男性が近寄ってきて堂内にある仏像について細かく説明してくれた。
懐中電灯で光を当て表情の変化まで教わり大変勉強になった。
昨年も滋賀県を訪れ国宝の彦根城を見学したんですよと話すと、「彦根城とは歴史が違うから」と一蹴されてしまった。
今は残念ながら仏像の記憶はまったくないが、係の男性の親切と西明寺に対する誇りは忘れない。




承和元年のある日、琵琶湖の西岸にいた三修上人は、湖の対岸の山に紫の雲のたなびくのを見て不思議に思った。
そこで神通力を用いて一気に水面を飛び越え、対岸に渡ると、今の西明寺のある山の中の池から紫の光がさしていた。
三修上人がその池に祈念すると、薬師如来の像が出現し、その姿を刻んで祀ったのが寺のはじまりであるという。
寺のある場所の地名を「池寺」というのは、この伝説に基づいている。
承和3年(836年)には仁明天皇の勅願寺となり、寺領が寄進され、諸堂が建築されたという。
「西明寺」の寺号は前述の紫の光が西の方へさしていたことによる。


名勝 西明寺本坊庭園
本堂へ向かう石段の途中左側には池泉鑑賞式の庭園をもつ本坊がある。



撮影 平成22年7月24日 
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谷汲山 華厳寺(岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積)

2013年09月02日 | 神社・仏閣
横蔵寺から車で10分もかからない場所に、華厳寺がある。
考えてみると早朝から水分は補給しているが食事はとっていない。
かなりの空腹だが30歳半ばで即身成仏を志し、断食断水の行にはいって入定した妙心上人を見たあとでは我慢しようとする気持ちが強くなる。

途中、駐車場があったが、さらに近いところにあるのではないかと仁王門の近くまで進むが残念ながらなく最初確認した場所に戻る。
緩やかな上りの参道が続き、土産物店、飲食店、旅館などの立ち並ぶ。
1キロはありそうな距離で正直疲れたが正面に仁王門が見えてきたため気持ちが楽になった。


谷汲山 華厳寺の歴史
岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積にある天台宗の寺院。 山号は谷汲山(たにぐみさん)。
本尊は十一面観音、脇侍として不動明王と毘沙門天を安置する。
西国三十三所第三十三番札所、満願結願の寺院。 西国三十三所の札所寺院では唯一、近畿地方以外にある。


仁王門
入母屋造、三間の二重門。奥の間左右に仁王像を安置。その手前、通路の左右に巨大な草鞋が奉納されている。



延暦20年(801年)、桓武天皇の勅願寺となり、延喜17年(917年)には醍醐天皇が「谷汲山」の山号と「華厳寺」の扁額を下賜。



華厳寺の写真の枚数がなぜか極端に少ない。本来なら仁王像や草鞋なども撮しているはずだが1枚もない。



仁王門からは長い石畳が続く。



しばらく歩くと本堂が見えてくる。



本堂
華厳寺は延暦17年(798年)、会津黒河郷の豪族大口大領なる人物によって創建された。
大口大領は都の仏師に依頼して十一面観音の像を造立した。
大口大領は観音像とともに会津に帰ろうとしていたが、途中、美濃国の赤坂(現・岐阜県大垣市)で観音像が動かなくなってしまった。
赤坂の北五里の山中に観音所縁の霊地があるというお告げを受け、大口大領は同地に草庵を建立。
延暦末年に、当地で修行していた僧・豊然上人(ぶねんしょうにん)の協力を得て華厳寺を建立した。

本堂本尊の十一面観音立像は、厳重な秘仏で、写真も公表されておらず、制作年代、構造等の詳細は不明である。




十一面観音立像。どこで撮したかは記憶にないが、時間系列から本堂にあったものと思われる。
本尊は秘仏なので御前立なのかもしれない。




今、写真を見て気づいたが、仏像の衣にお経らしきものが書かれている。写真を少し加工してみた。

本尊を実見した人の話として、十一面観音像は榎の一木造、像高7尺5寸、像身に華厳経を書し、衣には三千仏像と諸仏の三昧耶形を描く特異な姿の像であるという。 




脇侍として不動明王像と毘沙門天像(後者は重要文化財)を安置する(いずれも非公開)。
堂内右手に納経所、地下に「戒壇巡り」があり、正面向拝の左右の柱には「精進落としの鯉」と称する、銅製の鯉が打ち付けられている。
西国札所巡礼を三十三番札所の当寺で満願した者は、その記念にこの鯉に触れる習わしがある。


笈摺堂
西国三十三所霊場の中興者と伝承される花山法皇は徒歩で巡幸し、当寺を第三十三番札所の満願所と定め、禅衣(笈摺)、杖、及び三首の御詠歌を奉納した。



この堂には西国三十三所巡礼を終えた人々の奉納した笈摺、朱印帳等が置かれ、多数の千羽鶴が奉納されている。
千羽鶴は折鶴(おりつる)が笈摺(おいづる)にちなむことから奉納される




写真ではわからないが参拝者が多い。
第三十三番札所の満願所となっているため、観光気分で参拝している私とは違う雰囲気がある。
写真の枚数が少ないのもそのような理由なのかもしれない。

本堂から少し離れた小径をあるいてみると、猿でなく狸が




この直後、目の前が真っ暗になり倒れてしまった。
気がつくと大切なカメラをきちんと胸に抱き守っていたから可笑しい。
多少の擦り傷はあったが、睡眠不足、猛暑、空腹という理由もわかっているので心配はなかった。




仁王門を後にして駐車場に向かう。



北方系民族には慣れるまでこの暑さは厳しい。今日から主食は「そば」と決めているが、どこまでもつか楽しみだ。
もう一つ、この寺の写真と印象があまりにも少ないので機会があればもう一度来たい。


撮影 平成22年7月23日
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両界山 横蔵寺(岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲神原)

2013年09月01日 | 神社・仏閣
永保寺の駐車場で地図を開くとミイラで有名な横蔵寺が比較的近くにあることがわかり次の目的地に設定した。

両界山 横蔵寺の歴史
岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲神原にある天台宗寺院。
山号は両界山、本尊は薬師如来。西美濃三十三霊場第一番札所。
国の重要文化財を含む多数の文化財を有し、「美濃の正倉院」とも呼ばれる。
 
横蔵寺という寺名は笈が横倒しになったことに由来し、山号は金剛界と胎蔵界の両界を表す両界山である。
広い駐車場には私の車1台のみ。水分を補給しているとお孫さんと散歩している男性に声を掛けられる。
車のナンバーを見て北海道からよく来てくれた。
この時期は参拝者は少ないが紅葉時期には駐車場が一杯になるといったことを話してくれた。

医王橋、瑠璃橋を渡り緩やかな坂と石段を進むと仁王門が視界に入ってくる。



仁王門(岐阜県指定重要文化財)
檜皮葺の楼門、三間一戸(正面の柱間が3間で中央の1間が戸口)である。 
延宝3年(1675年)完成。







本堂側から見た仁王門。落ち着いた雰囲気ですばらしい。
仁王像は別の場所に安置されている。




三重塔(岐阜県指定重要文化財)
現存する仏像の中で、大日如来像(重要文化財)には平安時代最末期の寿永2年(1183年)の銘があり、同年、三重塔の本尊として造立された。



狭い空間に立っている三重塔で全体をはっきりと見ることはできないが、木材の質感にも歴史を感じることができ、印象に残るすばらしい塔である






本堂側から見た塔。



本堂(岐阜県指定重要文化財)



横蔵寺は日本天台宗の宗祖・最澄が自作の薬師如来を安置して創建した寺とされている。
最澄は比叡山延暦寺を開創する際に、本尊薬師如来像を自ら刻んだが、その薬師如来像を造ったのと同じ霊木から、もう1体の薬師如来像を造った。
最澄は、その2体目の薬師如来像を笈(背中に背負う箱状のもの)に入れて諸国を旅したが、延暦22年(803年)、横蔵寺のある地まで来た時に薬師如来像が動かなくなったので、ここに一寺を建立して薬師如来像を祀ることにし、地元の三和次郎大夫藤原助基が寺を建立したという(創建年は801年あるいは805年とも)。




織田信長の焼き討ちによって、延暦寺の伽藍が灰になった後、横蔵寺の本尊薬師如来像は、「延暦寺本尊と同じ霊木から造られた、最澄自作の像」という由緒ある像だということで延暦寺に移された。
その代わりに、洛北の御菩薩池から移されたのが、横蔵寺の現本尊である薬師如来像であるという。

60年に一度公開される秘仏薬師如来像が安置されている。




観音堂



瑠璃殿
「美濃の正倉院」とよばれているように、国の重要文化財を含む多数の文化財の宝庫。

3年後の今、建物の記憶はあるが仏像の記憶が抜けている。次に記載するミイラの印象が強すぎたのだろうか。


舎利堂
舎利堂に安置される「舎利仏」すなわちミイラは、妙心法師という人物の遺体である。
妙心法師は横蔵寺の地元の村の出身で、俗名を古野小市良。
天明元年(1781年)に生まれ、諸国を巡って仏道修行をし、文化14年(1817年)、断食修行の後、今の山梨県都留市の御正体山で即身成仏したという。
遺体は何らの加工もなく、自然にミイラ化したとされ、日本のミイラ仏の中では最も若い。
当初は成仏した地の山梨県都留郡鹿留村で保存されていたが、明治初年に山梨県庁に移され、明治13年(1880年)に明治天皇が天覧になられた際に、故郷へ戻すようにとのお言葉があり、明治23年(1890年)、本人の出身地の横蔵寺に移された。

係の女性の話では「そば粉」を食していたため遺体に腐敗がみられなかったと聞いたので、私もこの旅行中「そばを主食」にして旅行後に予定されている健康診断を乗り切る計画を立てた。
3年前のことなので結果をいうと1週間で体重5キロ減、血液サラサラ、血圧正常と最高の結果となった。

ところが精神に腐敗がおこり、旅行1ヶ月後には旅行前の正常値に戻った。
広い駐車場には私の車のみ、参拝者も私一人だったような気がする。




撮影平成22年7月23日
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