今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

石光山 石山寺 その3(滋賀県大津市石山寺)

2013年12月12日 | 神社・仏閣
石山寺の3回目になる

多宝塔(国宝)
源頼朝の寄進で建久5年(1194)建立。年代の明らかなものとしては日本最古の多宝塔



三大多宝塔の一つでもある。他二つは、金剛三昧院多宝塔(和歌山県)と浄土寺多宝塔(広島県)



塔は大好きだが写真を撮ると空の空間が多く白トビが発生し、私の技術ではとても難しい。
今回は周囲の木々を多く入れながら撮ってみた



現代の寺院建築用語では初重平面が方形、二重平面が円形の二層塔を多宝塔と称する。
さらに狭義には初重が方三間(1辺に柱が4本立ち柱間が3間ある)のものを多宝塔と称し、方五間のものを「大塔」と称する 



現在、国宝に指定されている多宝塔は、石山寺を含め6塔ある。
慈眼院(大阪府泉佐野市)、長保寺(和歌山県海南市)、金剛三昧院(和歌山県高野町)、根来寺(和歌山県岩出市)、浄土寺(広島県尾道市)



多宝塔の初重内部は須弥壇を設け、仏像を安置するのが原則で、石山寺多宝塔のように大日如来を本尊として安置する例が多い。
快慶作の大日如来像(重要文化財)



多宝塔の写真が多くなってしまったが、それだけ価値のある素晴らしい塔だ



芭蕉庵と月見亭
写真右側の建物が芭蕉庵、左側が月見亭になる。
芭蕉庵は松尾芭蕉ゆかりの茶室(非公開)。
芭蕉は石山寺 に詣で「曙はまだむらさきにほととぎす」「石山の石にたばしる霰かな」といった句を残している



月見亭
後白河上皇の行幸に際して建てられたといい、その後再建や 修理を経て現在に至っている



琵琶湖を望みなが ら瀬田川の美しい風景を楽しむことができる






瀬田川と現在の瀬田唐橋



次回に続く


撮影 平成25年11月12日
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石光山 石山寺 その2(滋賀県大津市石山寺)

2013年12月11日 | 神社・仏閣
昨日に続き石山寺

蓮如堂の右側にある階段の奥に本堂が見える



本堂(国宝)
正堂、合の間、礼堂からなる複合建築。
正堂は承暦2年(1078年)の火災焼失後、永長元年(1096年)に再建されたもので、滋賀県最古の木造建築物。
内陣は平安時代中期の建築、外陣(礼堂)は慶長7 (1602) 年淀殿の寄進により増築された



本堂内陣に安置されるのは、 安産・福徳・縁結びの観音さまとして信仰を集める本尊如意輪観世音菩薩。日本で唯一の勅封の秘仏で、御開扉は33年毎



京都の清水寺や奈良県の長谷寺と並ぶ、日本でも有数の観音霊場。
西国三十三所観音霊場第13番札所でもあり、白装束を身にまとい巡礼している人たちも多い



礼堂は傾斜地に建ち、正面は長い柱を多数立てて床を支える懸造となっている



懸造の本堂は、清水寺、長谷寺など、観音を祀る寺院に多い



相の間には、紫式部が『源氏物語』を起筆したことに ちなむ「源氏の間」がある



紫式部が『源氏物語』の着想を得たのも石山寺とされている。
伝承では、寛弘元年(1004年)、紫式部が当寺に参篭した際、八月十五夜の名月の晩に、「須磨」「明石」の巻の発想を得たとされ、石山寺本堂には「紫式部の間」が造られている



源氏の間の建物の右側に開山した良弁(ろうべん)座像が祀られているが、暗くてよく見えなかったので、カメラの力をかりることにした



本堂右側にある階段を進む

三十八所権現社本殿(重要文化財)
石山寺の鎮守社。一間社流造、檜皮葺で硅灰石の上に建っている



慶長期の伽藍復興時に本堂の礼堂とともに建立された。
蓮如堂は三十八所権現社の拝殿として建てられた



経蔵(重要文化財) 
16世紀ごろに建立された高床の校倉で、かつては重要な経典 や聖教類などが収蔵されていた



滋賀県最古の校倉造



経蔵の柱の下を覗き込んでみると「腰掛石」がある。
若い女性が次から次へと座っていたが、安産するとの言い伝えがあるようだ



紫式部供養塔



松尾芭蕉句碑
 (源氏の間を詠む)「あけぼのは まだむらさきに ほととぎす」



供養塔と句碑はこのように並んでいる 



次回に続く


撮影 平成25年11月12日 
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石光山 石山寺 その1(滋賀県大津市石山寺)

2013年12月10日 | 神社・仏閣
平成25年9月16日付けで平成22年7月に訪れた石山寺を紹介している。
今回は拝観時に渡された境内図を参考に、写真を撮りながら歩く。
境内も広く奥深い。気がつけば約3時間の滞在となった。

東大門(重要文化財)
参道入口の門。入母屋造、瓦葺きで、建久元年(1190年)の建立。本堂の礼堂が建立されたのと同時期の近世初期に大幅な修理を受けている。



東大門の両側には金剛力士(仁王)像が安置されている






石山寺事務所
「ゆるキャラ」が迎えてくれる



拾翠園 



公風園白耳亭 



整備された参道。奥の右側に受付所がある

 

大黒堂 
石山寺参拝の出口になる



世尊院 



比良明神影向石(ひらみょうじんようごうせき) 
東大寺の良弁は大仏建立に必要な黄金の調達のため、金峯山に籠もって金剛蔵王の夢告を受け、この石山の地を訪れた。
岩の上で老人が釣りをしており、お告げの場所がこの地であった事を良弁に告げた。
この老人こそが近江の地主である比良明神で座っていた石が比良明神影向石。



くぐり石 
大理石でできた岩。体内くぐりの状態をなすこの池は天平時代のもの



周囲に人がいない時に挑戦してみたが、体の幅の問題に加え、柔軟性にも欠けていたため、まったく進むことができなかった。






密蔵院 
島崎藤村ゆかりの家。
22歳の時、敬愛する西行や芭蕉の如く旅をして足を休めた所が石山寺で、二ヶ月近い寄宿生活をこの奥にて始める。



観音堂






毘沙門堂(滋賀県指定有形文化財)
安永2年(1773)建立。毘沙門天立像(重文)を祀る



御影堂(重要文化財)
室町時代の建立。正面三間、側面三間、宝形造、檜皮葺









良弁杖桜
石山寺の開山良弁僧正の杖が根づき育った桜と伝えられる
 「いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな」 古歌の奈良八重桜



蓮如堂(重要文化財) 
慶長7年(1602)、淀殿による境内復興の際に三十八所権現社本殿の拝殿として建立。



明治以降、蓮如上人六歳の御影や遺品を祀る堂として使用






天然記念物 石山寺硅灰石
 
硅灰石は石灰岩が花崗岩と接触し、その熱作用のために変質



通常は大理石となるがこのように雄大な硅灰石となっているのは珍しい



石山寺の「石山」の起こりとなった 

 

次回に続く


撮影 平成25年11月12日
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岩根山 善水寺(滋賀県湖南市岩根)

2013年12月09日 | 神社・仏閣
同じ日に湖南三山を巡ることになったが、以前湖東三山を訪ねた心地よさを感じることなく、最後の寺となる「善水寺」に来た。
この日は雨交じりの天気で、北海道の人間でも寒いと感じる程であった。



湖南三山に共通することは、駐車場から歩いてすぐの所に本堂があるため高齢者でも訪れやすいことだ。



鐘楼
受付所から少し歩いた左手に鐘楼がある






その奥の方に本堂の姿が見えてくる。
滋賀県湖南市にある天台宗の寺院。 山号は岩根山(いわねさん)。院号は医王院。本
尊は薬師如来。 常楽寺、長寿寺とともに湖南三山の1つに数えられる。



本堂(国宝)
南北朝時代の建立。近世の地誌類には貞治3年(1364年)または同5年(1366年)の建立。
木造入母屋造檜皮葺、桁行(正面)7間、梁間(側面)5間の天台密教仏堂。(「間」は長さの単位ではなく柱間の数を意味する)。
横幅が広く24mmのレンズに収まらない。



本堂の外で写真を撮っていると、堂内から「これからお寺の説明をさせていただきますので、よかったらお上がり下さい」と声をかけていただいた。
これまで訪れた湖南二寺とは感じが違う。



堂内では寺の歴史や仏像について10分程度にまとめて説明があり、その後、内陣の仏像拝観という流れになっている。



伝承では、奈良時代中期に国家鎮護の道場として建立され、和銅寺と称したという。



平安時代の初期に最澄が入山し、延暦寺の別院諸堂を建立。



桓武天皇が病気になり、最澄が法力により霊水を献上したところ、たちどころに回復したことから「善水寺」の寺号を賜り改名した。



堂内には本尊の薬師如来(重要文化財)をはじめ30余駆の仏像を安置されている。
そのうち9駆は重文であり、その価値も高い。また、間近で拝観することができ仏像が好きな人は必見である。



庭園周辺
本堂横に庭園があり、中央に「百伝池」がある




 

善水寺と善水の由来となった「霊水場」



お堂に信者の方が用意したペットボトルがあり、私もその器に霊水を入れ翌朝のコーヒーに使用した。
健康で旅を終えることができたのもこの霊水のお陰だと思う。






元三(がんざん)大師堂
等身大の尊像が安置されている



六所権現



観音堂
丈六の観音像が安置されている



このお堂は受付所から外に出て5分程度歩いたところにある






帰ろうとして駐車場に戻ると、「本堂の屋根の造り」について質問された。
写真を撮っていた感覚から「檜皮葺」だと思うとその時は答えたが、今日、調べてみると正解であった。
この長い旅で職務質問の警察官以外で、初めて話しかけられた人(石川県の母娘)であり旅の思いでの一つにもなった。
最後は旅用の名刺を渡したり、記念撮影まですることに。

最後の写真は国宝の本堂 




撮影 平成25年11月11日
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阿星山 長寿寺、白山神社(滋賀県湖南市東寺)

2013年12月08日 | 神社・仏閣
阿星山 長寿寺 
滋賀県湖南市石部地区にある天台宗の寺院。山号は阿星山、本尊は木造地蔵菩薩(秘仏)。
鎮守社は白山神社で本堂の東に隣接する。
同じ地区内にある常楽寺の「西寺」に対して「東寺(ひがしでら)」と呼ばれている。

山門
駐車場の近くに山門があり、石柱には「国宝 長寿寺」と刻まれている



落ち着いた雰囲気の山門で、右側に受付所がある



メモを取っていなかったのでお堂の名は不明だが「子宝御石」を祀っている



石造多宝塔
すこし参道を歩くと、右側に日本最大級と書かれた石造多宝塔がある



 


鐘楼



本堂内では団体客に対して法話が行われているようで、笑い声が聞こえてくる。終わるまで境内を散策することにした



弁天堂(重要文化財)
室町時代建造。入母屋造、桁行一間、梁間一間



横から見ると池の中央に建っていることがわかる



真四角の小さなお堂だが、存在感がある



この時、境内に取り付けてあるスピーカーから大きな声が聞こえてくる。
誰かが注意されているようだ。違和感はあったが何を言っているのか理解できなかったため、そのまま境内の散策を続けた。

本堂(国宝)
平安時代末期~鎌倉時代。寄棟造桧皮葺、桁行五間、梁間五間



寺伝では、奈良時代に聖武天皇の勅願により、良弁が紫香楽宮の鬼門を封じるために創建し、聖武天皇の皇女誕生に七堂伽藍を建立し長寿寺と名づけたという。



平安時代には、阿星山五千坊と呼ばれるほどの天台仏教園を形成した。
鎌倉時代には源頼朝が、室町時代には足利将軍家が祈願所として諸堂を造改修したと云われる。



常楽寺同様三重塔があったが、織田信長によって安土城山中の総見寺に移築される。
<「総見寺三重塔」については、「安土城跡」のタイトルで公開>



白山神社拝殿(重要文化財) 
長寿寺の鎮守社で本堂の東に隣接する



白山神社本殿



帰り際に、また境内に大きな声が響いてきた。本堂を出る参拝者に対して「最後の者は扉を閉めろ」と言っている。
監視カメラを見てマイクで注意しているようであるが、とてもその場所が寺院であるとは思えない高圧的な態度で、本人はもちろん周囲にいる者も不快にする。
話しているのがもし僧侶だとしたなら最悪だ。拝観料を払っている者に対しての配慮というものが場所が場所だけに必要ではないか。


撮影 平成25年11月11日
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阿星山 常楽寺(滋賀県湖南市西寺)

2013年12月07日 | 神社・仏閣
「湖南三山」について
平成16年10月1日旧石部町と旧甲西町が合併して「湖南市」が誕生。
この湖南市に奈良時代に建立された天台寺院で国宝に指定された建築物が三カ寺(常楽寺、長寿寺、善水寺)あることから、翌年から「湖南三山」と称している。

阿星山 常楽寺 
滋賀県湖南市石部地区にある天台宗の寺院。山号は阿星山(あせいざん)、本尊は千手観音。
同じ地区にある長寿寺の「東寺(ひがしでら)」に対して、「西寺(にしでら)」と呼ばれている。



寺伝では、奈良時代に聖武天皇の勅願により、良弁が紫香楽宮の鬼門を封じるために創建



本堂(国宝)
南北朝時代。木造入母屋造檜皮葺、桁行七間、梁間六間



雨が降ったり止んだりの天気だが紅葉の美しい寺だ。



本堂内には「釈迦如来(重文)」「風神・雷神・二十八部衆(重文)」など所狭しと置かれ、実に見応えがあるのだが



堂内に監視カメラのモニターが参拝者に見せつけるように置かれたり、写真を撮った者は警察に通報するといった内容の紙が貼られたり、仏像はすばらしいが居心地の悪さを感じていた。






三重塔(国宝) 
室町時代建立。三間塔婆本瓦葺



塔は本来仏舎利を安置する建物だが、天台宗では法華経を仏舎利の替わりに安置している



いつものように塔の周辺を歩いてみる。
歩いて初めてわかることだが、この寺では様々な角度、高さから眺めることができる



ここでは目線の高さで塔を見ることができる。
これまで多くの塔を見てきたが初めての経験になる







 

薬師堂
薬師如来が安置している



普賢堂 
普賢菩薩は本堂後陣に安置



行者堂
役行者像、諸仏像は盗難に遭い空になっている



鐘楼



最後はやはり大好きな三重塔の写真を






この常楽寺のブログを作成のため色々調べているうちに、この寺は住職一人で管理していること、他の寺の住職も兼ねているため、ある時期を除いて予約制になっていることもわかった。
また、過去に盗難にも遭っており、仏像等の管理に細心の注意を払っていることも理解できた。
たった一回の参拝で事情を何も知らず居心地の悪さを感じていたが、次回はすっきりした気持ちで訪れたいと思う。


撮影 平成25年11月11日
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苗村神社(滋賀県蒲生郡竜王町大字綾戸)

2013年12月06日 | 神社・仏閣
宿泊していた道の駅でパンフレットを見ていると、道の駅の近くに国宝の本殿を持つ「苗村(なむら)神社」があることを知った。
道路を挟んで東本宮と西本宮に分かれている。最初に選んだのは駐車場に近い西本宮だ。駐車場からも立派な門が見えてきた。



楼門(重要文化財)
応永(1394年~1427年)ごろの造営と考えられている



構造は、三間社一戸楼門入母屋造の茅葺で、この地方最大規模の和様を基調とした遺構



天文5年(1536年)3月2日、後奈良天皇から「正一位」の神位を授かる



運生井戸掛大穂生<「雨乞い」>
「雨乞い」の文言で、水に感謝することを意味し、往古より苗村郷の唱えことばとして伝承されてきた。「それもよかろう」



子守乃像



神輿庫(重要文化財) 
建立は天文5年(1536)に正一位の神位を受けたとき、勅使の装束召替仮殿として建て、後に神輿庫に用いた



正面及び北側面に各1ヶ所の出入口があるほかはすべてを板壁とした質素な外観である。
重要文化財という案内板を見て「えっ、これが重文」と驚いたほどの建物である。



護国社 



拝殿






西本殿(国宝)
祭神は国狭槌命(くにのさづちのみこと)鎌倉時代建立。三間社流造り、桧皮葺



鎌倉時代建立。三間社流造り、桧皮葺



境内社十禅師社本殿(重要文化財)
室町時代(1430年)建立。一間社流造り、桧皮葺(写真右側)。写真左は国宝の西本殿



境内社八幡社本殿(重要文化財)
室町時代(1430年頃)建立。一間社流造り、桧皮葺(写真左側)。写真右は国宝の西本殿



この建物内に「木像不動明王立像(重要文化財)」が安置されている



龍神池



毎週末お世話になるので「神馬」は必ず撮ることにしている



道路を挟んで反対側に鳥居がある



参道を歩いていくと祠が見えてくる



東本殿(重要文化財)
祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)・素盞嗚尊(すさのおのみこと)



古墳群が多く、祖霊信仰に始まる神社とされる



寛仁元年(1017年)正月、朝廷に門松用の松苗を献上して以来、年々の吉例となったことから、後一条天皇から苗村の称号を賜り、苗村と呼ぶようになった。 



道の駅から得た情報であるが、このような格式の高い、立派な神社があるとは知らなかった。
これまで宿泊専用だったが、利用の仕方を考え直さなければならない。「それもよかろう」良い言葉も知った。


撮影 平成25年11月11日
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安土城跡(滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)

2013年12月05日 | 
昨夜、NHKの歴史秘話ヒストリアで、信長公記を書いた太田牛一が放映され、来週が安土城の特集になると予告していた。実にタイミングが良い。
学生時代に読んだ、司馬遼太郎の「国盗り物語」に出てくる織田信長に魅了され、歴史小説を読み始めるきっかけとなり、歴史に興味を持った。
その、原点ともなった安土城跡に立っている。

特別史跡 安土城跡 
安土城は、織田信長によって、現在の安土山に建造され、大型の天守(天主)を初めて持つなど威容を誇った。



石段を上がると間もなく左手に「伝羽柴秀吉邸跡」と刻まれた石柱が立っている



歴史上の人物がかつてこの地で生活していたということを考えるだけで楽しい



当時の間取りなども案内板に示されている



また、石段を挟んで右側には「伝前田利家邸跡」もある



信長は安土城への最も重要な道である「大手道」を秀吉と利家に守らせていたとも考えられる



「大手道跡の石仏」は築城の際に石材として使われた。
城普請に使用する石材は近郊の山々から採取したが、石仏や墓石も含まれていた



石段中央の色違いの石のように使われている



朝からの雨で石も滑るが、石段の幅の広狭や傾斜など不安定で、自分のリズムで上ることができない



しかも、初めての場所なのでどの程度上ればいいのか検討もつかない。
石垣が見えるとそろそろかと思うが、そんなに甘くはない



受付所の説明では、早い人で往復40分位と言っていたが、すでにその時間には達している



このあたりは、安土城中枢部の入口の一つである「黒金門跡」になる

 

二の丸址に近づいてきているのか



この仏足石(室町時代中期)は築城当時、単なる石材として集められ石垣に使われていた



手前に「織田信長公本廟」と刻まれた石柱がある






天主閣から見える廟。この地では「天守を天主」と表記している



すぐ横に大きな石があり、それを熱心に見ている人がいたので「何の石か」と尋ねてみると。「蛇石」じゃないかと。



「蛇石」という巨石は約10メートル、約112トンあったが、引き上げる途中で綱が切れ、横滑りした蛇石に150人余が挽き潰された。
その後蛇石は安土山頂まで引き上げられたはずだが、現在までに幾度の発掘調査を経ても、未だ発見されていない。



来週の歴史秘話ヒストリアでも「蛇石」の予告があったので結果が楽しみだ。
一般客が眼にする石の中ではこれが一番大きい。しかし、ここは天主閣ではないことも確かだ。

この石段の上に「天主閣址」の石柱が立っている



やっと天主閣に着いた。
完成からわずか3年後の1582年(天正10年)、家臣明智光秀による信長への謀反(本能寺の変)の後まもなくして何らかの原因によって焼失.
その後廃城となり、現在は石垣などの一部の遺構を残すのみだ



永い年月、瓦礫と草木の下に埋もれていたが、調査の手が入ったのは昭和15年(1940)のこと



石垣の崩壊を防ぐための補強を加えられた他は、当時のまま現在に至っている



記録から地上6階、地下1階の高層建築物だったことがわかった



通常の天守は日常的な居住空間としては使用されなかったが、信長はこの天主で生活していたと推測されており、そのための構造と思われる。
こういった高層建築物を住居とした日本人は、信長が初とも言われている



天主閣址から見える風景



信長の「安土城」は、安楽浄土から名付けたといい、信長は、誰もが幸せになる平和で豊かな世界を目指していたといわれている



天主台南西の百々橋口付近に総見寺があるので下りていく






堂塔伽藍を備えた寺院が建てられているのは、後にも先にも安土城だけ









三重塔(重要文化財)
織田信長は、近隣の社寺から多くの建物を移築し、建立したようである。



享徳3年(1454年)建立。総見寺創建時に甲賀長寿寺より移築



雨が本降りとなり右手に傘、左手にカメラと不安定な姿勢で急な石段を下りる



この日は朝から強い雨が降り、休養日にしよう道の駅でのんびりしていた。
昼近くになり雨が突然止んだので重要文化財がたくさんある「長命寺」を目指すことに。
ところが、走行途中に「安土城跡」と書かれていた道路案内があり、気持ちが動いてハンドルを切ってしまった。
したがって、安土城跡は目指していた場所ではなく、偶然訪れた場所になる。
なお、長命寺はこのあと向かうのだが、入口の幅が狭くタクシーの幅でもぎりぎりだったので、ワイド車ではどうかなと、一応挑戦はしてみたが擦る可能性が高く、車の長命を考えあきらめることにした。
ただ、様子を見ていると観光客がかなり多い。当然、高齢者ばかりだが。 


撮影 平成25年11月10日
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阿育王山 石塔寺 その2(滋賀県東近江市石塔町)

2013年12月04日 | 神社・仏閣
昨日に続いて「石塔寺」を
阿育王(あしょかおう)塔の右側に移動する



こちらの区域は石仏群が果てしない海のように広がっている



写真を撮るために近寄ってはみるが、わずかな隙間に入って撮ろうという気持ちにはなれない



石塔寺を訪れたという強烈な印象がここにある



石造五輪塔2基(重要文化財) 
阿育王塔の右側には、嘉元2年(1304年)および貞和5年(1349年)の建立の五輪塔がある



石造宝塔(重要文化財)
正安4年(1302年)の建立。「宝塔」は、円筒形の塔身に宝形造(四角錐形)の屋根を付した形式の塔を指す






五輪塔、宝塔の奥にも石仏群が続いていく
さらに進んでいくと山頂付近を巡る道があるということなので行ってみることにした。

ブログを開設してから、何事に対しても積極的に行動するようになった気がする



予想していた通り、参道周辺には石仏が並べられている



距離的に半分くらいの所に大きな石仏がある



この参道は彫刻が認識できる石仏が比較的多く、時代的には新しいのかもしれない



一周するのに15分程度かかるが、森林浴も楽しむこともできるので心身の健康にはよい



左手に塔が見えてくると終わりに近づく



空には青空も見え塔が一層美しく映える



写真家の土門拳氏はこの塔は倒れている。
下と上の部分の時代が違うと文章を残しているが、言われてみるとそのようにも見える。



写真を撮っていて、そのようなことなど考えたこともないが、超一流プロの眼は違う



 


賑やかな観光寺院とは違い、この寺では参拝者の声も低くさせるような雰囲気をもっている



2時間近く滞在、帰る時間になった。石段を数えながら下りることにしよう



この寺の持つ独特な雰囲気や、強烈な印象は石段を上り、阿育王塔や石仏群を見て、石段を下りた者でなければ理解できないであろう。
間違いなく記憶には残る寺になるはずだ。



永源寺に始まり、弘誓寺、涌泉寺そして赤人寺・山部神社、最後は石塔寺と充実した一日となった。
この後は、近くの温泉にゆっくり浸かり、明日に備えることにする。


撮影 平成25年11月9日
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阿育王山 石塔寺 その1 (滋賀県東近江市石塔町)

2013年12月03日 | 神社・仏閣
重要文化財の石塔のある寺の代表は、私の勝手な判断ではあるが「石塔寺」だと思う。
平成22年7月に初めて訪れたときの写真と感想をH25年9月6日のブログで「異様な感じ、違和感がある、強烈な印象」と表現した。

阿育王山 石塔寺 
阿育王山(あしょかおうざん)石塔寺(いしどうじ)の歴史等については、9月6日のブログにて掲載しているため省略。

駐車場には2台の車が駐まっていたが、この寺の規模にしては、何か寂しい感じがする。
駐車場の上には「下馬」と「石塔寺」の石柱が堂々と立っている。



山門
阿育王山と書かれた小さな山門が右手にある。
三年前に訪れたときは、夏で緑一色だったが、今は周囲の木々が色づきはじめ、とてもおちついた雰囲気がある。



本堂
織田信長の元亀の兵火等により、伽藍は焼失し全山は荒廃した。
江戸時代初期に現在の寺領部分が復興された。
本堂前の扉は少し開けられていてお参りできるようになっている。



お堂の内部はこのようになっている。
御本尊の聖観世音菩薩は秘仏のため、御前立の十一面観世音菩薩が中央に安置されている。



本堂からみた釈尊像

 

長い石段が続くが、最近は一気に上ることはせず、自分の年齢の所で休むことにしている。
そうすることにより、段数が把握しやすいというメリットもある。今回は158段、前回より1段少ない。



石段の左側にはたくさんの石仏がきれいに並んでいる。
前回は上ることに集中していて、石段横の石仏の記憶がまったくない



判別できない石仏も数多くあるが、このように綺麗なまま残されているものもある



石造三重塔<伝・阿育王塔>(重要文化財)
石段を上がったところに、この塔が建っている



奈良時代前期建立。
石造層塔としては日本最古であり、石造三重塔としては日本最大。高さ7.6m。



圧倒的な存在感がある



阿育王塔の左側には大きな石碑が



鐘楼
この鐘は自由に撞いていいことになっているので、「旅の無事と、この寺でいい写真が撮れますように」とお願いして力強く撞いた。



左奥の方から撮る。石仏群が阿育王塔を向いて守っているような感じがする



阿育王塔の背後となる中央奥には大きな石仏が立っている



さらにその奥には小さな石仏が立っている



阿育王塔周囲の石仏群



信仰の深さがこの数になっている



そして、その中心にあるのは



 


次回に続く


撮影 平成25年11月9日
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梵釈山 涌泉寺(滋賀県東近江市鋳物師町)、養老山 赤人寺・山部神社(東近江市下麻生町)

2013年12月02日 | 神社・仏閣
今日、運転免許の更新を終えた。
次回の更新は5年後になるが、それまで事故無く旅を楽しんでいられたら、こんな嬉しいことはない。
さて、重要文化財の石塔を持つ2つの寺を紹介する。ともに拝観料不要の寺で、限られた予算内での長旅をしている私にとっては、大変ありがたい寺でもある。

梵釈山 涌泉寺(ゆうせんじ)
滋賀県東近江市鋳物師町にある涌泉寺は聖武天皇の勅願によって開創されたと伝えられる

山門(鐘楼)
拝観料がないのは嬉しいが困ることもある。
建物の名称や歴史などパンフレットを見て動くことが多いが、それができない。
この山門も見方によっては鐘楼ともいえる。






石造九重塔(重要文化財)
鎌倉時代(1295年)在銘の九重石塔として貴重



この塔は基礎部分を失っており現高は4.4m



塔身には西面に阿弥陀、北面に弥勒、東面に薬師、南面に釈迦を刻出している



周囲に大きな石があるが境内を整備しているためここに置かれている
 


石塔に横には観音像が立つ



 


 





九重石塔に花を入れてみた



同じく山門にもこの花は「桜」 



普段はきれいになっているらしいが、工事中で自由に歩くことができる範囲も自然制限されてしまう

 


次の寺はナビにもその存在がなく、住所検索により、なんとかたどり着いたが駐車スペースがなく、少し離れた場所に車を駐めた。
目的地は「赤人寺」だが、同じ場所に「山部神社」がある。
すっかり回転の悪くなった私の頭にも、ある人物名が閃いた。

養老山 赤人寺(しゃくにんじ)
奈良時代の歌人、山部赤人の創建で、臨終の地と伝えられる



この建物の扉には、紙で作られた花が飾られている。
お堂内は本物の花で飾られている。



本堂
万葉歌人で三十六歌仙の一人に数えられ、柿本人麻呂とともに歌聖と称されている山部赤人が開創したと伝わるお寺だが、かなり傷んできている感じがする。



元正天皇より「養老山」の勅額を賜り「赤人寺」と名付けられ赤人はこの地で生涯を閉じたと伝えられている

 

七重石塔(重要文化財)
本堂裏の狭い空間に建つ石塔は、文保2年(1318)山部種生が赤人の冥福を祈って建てた










 

山部神社
祭神は山部赤人。明治9年(1876)に小松大明神から山部神社に改称



本殿は1間社流造り檜皮葺で室町時代末頃に建立された



赤人廟碑<慶応元年(1865)に刻まれた碑文>
赤人寺が山部赤人の創建であること、小松社(山部神社)が赤人の廟にあたり近くに墓や桜があったことが記されている



赤人歌碑
 「春野の 寿みれ摘みにと こし我は野をなつかしみ 一夜寝た計る」

 「田子の浦ゆ うち出てみればま白にぞ 富士の高嶺に 雪はふりける」 









山部赤人のことを学んだのは高校生の時だと思うが、宗教家でもあったことなど、まったく知らず、この年齢になって新しい発見ができたことは素直に嬉しい。



これまで重要文化財を持つ寺院の石塔を紹介してきたが、近くに「石塔寺」があるので、そこへ向かうことにした。 


平成25年11月9日
コメント
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報身山 無量院 弘誓寺(滋賀県東近江市建部下野町)

2013年12月01日 | 神社・仏閣
石畠山 弘誓寺と掲載していた写真が読者の方から誤りでないかと指摘されました。
他の方のブログに掲載されている複数の写真で確認したところ、報身山 無量院 弘誓寺であることがわかりました。
山号等を削除訂正し写真のみ継続して掲載いたします。 


報身山 無量院 弘誓寺(ぐせいじ)
表門









鐘楼






本堂









本堂の扉が特に印象に残った









 


子供を抱いたり、囲まれている地蔵尊も珍しい



この扉の紋様は本堂の扉と同じもの

 

 



撮影 平成25年11月9日
コメント (2)
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