《(改) 和泉・岸和田だんじり彫り物・物語-3》
10月10日 (木) 今日の和泉市の天気予報は “晴” です 。
24時間予報では、明け方まで が2並び、以後は のマークが並んでいます。
今朝(7時)は雲間から青空が広がっています。昼間は良く晴れ秋らしい陽気になりそうです。
今朝は6時の17.6℃が最低でした。昼間の最高気温は26.4℃を予想しています。風も穏やか、今日も過ごしやすそう。
明日は終日 の予報で、 意外のマークはありません。お散歩 日和? どこに行こう?
昨日の予報は “雨のち晴” でした。 昨夜の 、予報では明け方には止むことになっていましたが、
少し回復が遅れ、昼前まで時々 がパラつき、午後は 、夕方からやっと が戻って来ました。
昨日の朝の最低気温は17.0℃。最高気温は25.0℃。風は治まりましたが、昨日は肌寒い一日でした。
今日は 《(改) 和泉・岸和田だんじり彫り物・物語-3》 です。
“だんじり” と云えば女の子の “だんじりヘア” を見るのも楽しみの一つです 変な趣味はありませんよ
ハート形・稲妻形・流れ星… 痛いでしょうねぇ。女の子のだんじりヘアーは別名 “地獄編み” と言うそうです(笑。
美容院で編んでもらうと1万円は下らないそうですが、大抵はお母さんが見よう見真似で結うようですよ。
《デイリー芸能》には・・・ 〖泉州では「編み込み」といえばコーンロウ(地獄編み)。
「コーンロウ」とは、ブラックカルチャー(主にアフリカ系アメリカ人が築き上げた文化)に起源を持つ編み込みスタイルで、
細かく立体的な編み込みを頭にびっしりとあしらった髪型のこと。シンプルな編み込みから、髪で花やハートを象ったものなど
仕上がりは人それぞれ。なかには町の紋章やシンボルのデザインなど、なんとも個性豊か〗
〖この編み込みは泉州の少女たちにとって、いわば勝負ヘアなのだ。いかに細かくびっしり編めるか、
いかに綺麗に頭皮が見えてるかっにこだわっている。 寝ても走っても水被っても崩れないし、
ハチマキしてもずれてきません。編まれてるときは痛いけど、それで祭りのスイッチもめっちゃ入る〗・・・と書かれています。
今日は「豊臣秀吉に関係する彫り物」を集めてみました。 まずは 「日吉誕生」 の場面です。
《講談るうむ》によると…〖尾張国愛知郡中村、今のJR名古屋駅付近に弥右衛門と「なか」という百姓夫婦がいた。
天文4年、なかは妊娠したが子供がなかなか生まれない。天文5年1月1日、今の時間で朝4時、元気な男の子が産まれた。
母子ともに健康である。これは大変な子供が生まれた。今年の干支は申(さる)年だが、この子は猿そっくりだ。
旦那寺の和尚にこの子を見せると次のように語る。目の中にふたつ点があるが、これはかの源義経と同じものである。
成長した暁には三公(さんこう)の位に達するかもしれないが、悪く育てると天下をとどろかす大悪人になるかもしれない。
この子は日吉丸と名付けられた〗
※ 誕生日は1月1日となっているが、実際の生誕日は天文6年2月6日とする説が有力だそうです。
この彫り物は「秀吉・小六との出会い」 です。
《講談るうむ》によると…〖13歳の時、日吉丸は一人前の侍になりたいと、旅支度をし、家を出る。
岡崎まで来たが、休むところが見つからない。やむなく矢作橋の中ほどで横になる。そのうちに日吉丸は寝入ってしまった。
侍5~6人が橋を渡る。そのうちの一人の足が、日吉丸の頭にコツリと当たる。日吉丸は侍の足を掴んだ。
筋骨たくましい侍で、近所に住む蜂須賀小六という者であった。日吉丸は小六に対して謝れという。小六が問うと、
日吉丸は年齢は13だといい、侍になりたいと話す。「それならば俺の家来になれ」と小六は言い、日吉丸は彼の厄介なる。
小六は野武士で金のある屋敷に押し入っては盗みを働いている。
※ 矢矧川に橋が架かったのは江戸時代初期の元禄年間であり、天正年間には
渡し船で渡河していたことがわかっており、この逸話は後世の創作である… だそうです(笑。
次は 「藤吉郎初見参」 です。
《福娘童話集》には・・・信長に仕えた木下藤吉郎(秀吉)は草履取りになり、ある寒い日、信長は・・・・
「サル! 出かけるぞ」 「はっ、かしこまりました。どうぞ、おはきものをおめしください」 「うむ」
信長は、日吉丸がきれいに並べたぞうりに足を入れて、怪訝な顔をしました。
「むっ。この寒空に、なぜ草履が温かい。さてはサル、わしの草履を尻にしいていたな。この無礼者!」
「いいえ。そんな、めっそうもない」 「では、なぜ草履が温かいのだ?」
信長にたずねられて、日吉丸は待ってましたとばかりに言いました。
「はい! 殿のおみあしが冷えてはならぬと、このふところで温めておきました」
日吉丸が自分の胸元を開くと、そこには草履の跡がくっきりと残っています。
この草履の跡は、日吉丸がわざとつけた物でした。それを一目で見破った信長は、思わずニヤリと笑いました。
「ふっ。あざといが、顔にあわず頭の良いサルよ」
生まれ持っての地位やコネがない日吉丸は、この様に細かい事にも知恵を働かせながら信長に仕え、
信長の信頼を少しずつ得るようになりました。
「藤吉郎・富士川之初陣」 です。
《富士川の初陣(西山建設)》より・・・〖藤吉郎の役目は糧食係でしたが、密かに抜け出て戦いの様子を伺っていました。
そこへ敵の大将、日向守が深い傷を負って追われてきました。藤吉郎は躍り出て大きな声で
「勝負、勝負」と叫び続けましたが、日向守は藤吉郎を小僧扱いしてしばらく渡り合っていました。
藤吉郎はとてもかなわないと思い馬の横腹を目がけて槍を突き出しました。
馬は驚き、日向守はモンドリ打って、まっさかさまに川の中へ落ちました。
藤吉郎はすぐさま躍りこんで見事に日向守の首を落し、今川勢の大勝利の元となりました。
これが藤吉郎初陣の手柄となり広く名を挙げました〗
「石川五右衛門・秀吉の命を狙う」
《産経WEST》によると・・・〖太閤秀吉から関白の職を譲られ、家督を相続した秀吉の甥・豊臣秀次でしたが、
秀吉に息子の秀頼が生まれると秀吉との関係に亀裂が生じます。
そこで秀次の家臣・木村常陸介は、天下の大泥棒・石川五右衛門に秀吉の暗殺を依頼しました
文禄3(1594)年8月23日夜、石川五右衛門は太閤、豊臣秀吉の居城、京都・伏見城の潜入に難なく成功する。
狙うお宝は秀吉の寝所に置かれている「千鳥」と呼ばれる円筒形の青磁の香炉だ。
香炉の中央にある高台が縁より高く、このため、縁の3本の足が浮き上がる姿が千鳥の立つときの姿に見立てられ、
この名がついたとも。また、蓋のつまみが千鳥の形をしているためともいわれている。
澄んだブルーの色合いの美しさもある、天下の名品だった。
ところが、五右衛門がこの香炉に手を掛けようとした瞬間、香炉が鳴いたというのだ。
これで目をさました秀吉。すぐさま五右衛門は周囲の警護に取り押さえられてしまう。
その後、配下の一人に悪事や部下などをすべて暴かれ、石川五右衛門は京都三条河原で釜茹での刑に処せられた。
「石川や、浜の真砂は尽くるとも、世に盗人の種は尽きまじ」 五右衛門の辞世の句は有名ですね。
次は 「大阪城完成」 です。
1598年(慶長3年)完成した大阪城を眺める豊臣秀吉が彫られています。
しかし、この時の大阪城は大坂夏の陣(1615年)で焼失してしまいました。
後に徳川により大阪城は再建(1629年)されましたが、1665年、天守閣が落雷により消失。
現在の天守閣は1931年(昭和6年)に再建された3代目なのだそうです。
最後は 「醍醐の花見」 です。
慶長3年(1598)の春、場所は醍醐寺。 秀吉は息子の秀頼や正室・北政所、側室の淀、
三の丸など近親の者は元より、諸大名からその配下の女房女中衆女房衆1300人を集め、
盛大な花見の宴を催しました。
それまで、醍醐寺には確かに桜の花は咲いていましたが、今ほどの規模ではなく、
秀吉が数か月をかけて、近隣諸国からなんと約700本もの桜を移植させたのだそうです。
この半年後に秀吉は亡くなります。 栄華を極めた瞬間だったのですね。
10月10日 (木) 今日の和泉市の天気予報は “晴” です 。
24時間予報では、明け方まで が2並び、以後は のマークが並んでいます。
今朝(7時)は雲間から青空が広がっています。昼間は良く晴れ秋らしい陽気になりそうです。
今朝は6時の17.6℃が最低でした。昼間の最高気温は26.4℃を予想しています。風も穏やか、今日も過ごしやすそう。
明日は終日 の予報で、 意外のマークはありません。お散歩 日和? どこに行こう?
昨日の予報は “雨のち晴” でした。 昨夜の 、予報では明け方には止むことになっていましたが、
少し回復が遅れ、昼前まで時々 がパラつき、午後は 、夕方からやっと が戻って来ました。
昨日の朝の最低気温は17.0℃。最高気温は25.0℃。風は治まりましたが、昨日は肌寒い一日でした。
今日は 《(改) 和泉・岸和田だんじり彫り物・物語-3》 です。
“だんじり” と云えば女の子の “だんじりヘア” を見るのも楽しみの一つです 変な趣味はありませんよ
ハート形・稲妻形・流れ星… 痛いでしょうねぇ。女の子のだんじりヘアーは別名 “地獄編み” と言うそうです(笑。
美容院で編んでもらうと1万円は下らないそうですが、大抵はお母さんが見よう見真似で結うようですよ。
《デイリー芸能》には・・・ 〖泉州では「編み込み」といえばコーンロウ(地獄編み)。
「コーンロウ」とは、ブラックカルチャー(主にアフリカ系アメリカ人が築き上げた文化)に起源を持つ編み込みスタイルで、
細かく立体的な編み込みを頭にびっしりとあしらった髪型のこと。シンプルな編み込みから、髪で花やハートを象ったものなど
仕上がりは人それぞれ。なかには町の紋章やシンボルのデザインなど、なんとも個性豊か〗
〖この編み込みは泉州の少女たちにとって、いわば勝負ヘアなのだ。いかに細かくびっしり編めるか、
いかに綺麗に頭皮が見えてるかっにこだわっている。 寝ても走っても水被っても崩れないし、
ハチマキしてもずれてきません。編まれてるときは痛いけど、それで祭りのスイッチもめっちゃ入る〗・・・と書かれています。
今日は「豊臣秀吉に関係する彫り物」を集めてみました。 まずは 「日吉誕生」 の場面です。
《講談るうむ》によると…〖尾張国愛知郡中村、今のJR名古屋駅付近に弥右衛門と「なか」という百姓夫婦がいた。
天文4年、なかは妊娠したが子供がなかなか生まれない。天文5年1月1日、今の時間で朝4時、元気な男の子が産まれた。
母子ともに健康である。これは大変な子供が生まれた。今年の干支は申(さる)年だが、この子は猿そっくりだ。
旦那寺の和尚にこの子を見せると次のように語る。目の中にふたつ点があるが、これはかの源義経と同じものである。
成長した暁には三公(さんこう)の位に達するかもしれないが、悪く育てると天下をとどろかす大悪人になるかもしれない。
この子は日吉丸と名付けられた〗
※ 誕生日は1月1日となっているが、実際の生誕日は天文6年2月6日とする説が有力だそうです。
この彫り物は「秀吉・小六との出会い」 です。
《講談るうむ》によると…〖13歳の時、日吉丸は一人前の侍になりたいと、旅支度をし、家を出る。
岡崎まで来たが、休むところが見つからない。やむなく矢作橋の中ほどで横になる。そのうちに日吉丸は寝入ってしまった。
侍5~6人が橋を渡る。そのうちの一人の足が、日吉丸の頭にコツリと当たる。日吉丸は侍の足を掴んだ。
筋骨たくましい侍で、近所に住む蜂須賀小六という者であった。日吉丸は小六に対して謝れという。小六が問うと、
日吉丸は年齢は13だといい、侍になりたいと話す。「それならば俺の家来になれ」と小六は言い、日吉丸は彼の厄介なる。
小六は野武士で金のある屋敷に押し入っては盗みを働いている。
※ 矢矧川に橋が架かったのは江戸時代初期の元禄年間であり、天正年間には
渡し船で渡河していたことがわかっており、この逸話は後世の創作である… だそうです(笑。
次は 「藤吉郎初見参」 です。
《福娘童話集》には・・・信長に仕えた木下藤吉郎(秀吉)は草履取りになり、ある寒い日、信長は・・・・
「サル! 出かけるぞ」 「はっ、かしこまりました。どうぞ、おはきものをおめしください」 「うむ」
信長は、日吉丸がきれいに並べたぞうりに足を入れて、怪訝な顔をしました。
「むっ。この寒空に、なぜ草履が温かい。さてはサル、わしの草履を尻にしいていたな。この無礼者!」
「いいえ。そんな、めっそうもない」 「では、なぜ草履が温かいのだ?」
信長にたずねられて、日吉丸は待ってましたとばかりに言いました。
「はい! 殿のおみあしが冷えてはならぬと、このふところで温めておきました」
日吉丸が自分の胸元を開くと、そこには草履の跡がくっきりと残っています。
この草履の跡は、日吉丸がわざとつけた物でした。それを一目で見破った信長は、思わずニヤリと笑いました。
「ふっ。あざといが、顔にあわず頭の良いサルよ」
生まれ持っての地位やコネがない日吉丸は、この様に細かい事にも知恵を働かせながら信長に仕え、
信長の信頼を少しずつ得るようになりました。
「藤吉郎・富士川之初陣」 です。
《富士川の初陣(西山建設)》より・・・〖藤吉郎の役目は糧食係でしたが、密かに抜け出て戦いの様子を伺っていました。
そこへ敵の大将、日向守が深い傷を負って追われてきました。藤吉郎は躍り出て大きな声で
「勝負、勝負」と叫び続けましたが、日向守は藤吉郎を小僧扱いしてしばらく渡り合っていました。
藤吉郎はとてもかなわないと思い馬の横腹を目がけて槍を突き出しました。
馬は驚き、日向守はモンドリ打って、まっさかさまに川の中へ落ちました。
藤吉郎はすぐさま躍りこんで見事に日向守の首を落し、今川勢の大勝利の元となりました。
これが藤吉郎初陣の手柄となり広く名を挙げました〗
「石川五右衛門・秀吉の命を狙う」
《産経WEST》によると・・・〖太閤秀吉から関白の職を譲られ、家督を相続した秀吉の甥・豊臣秀次でしたが、
秀吉に息子の秀頼が生まれると秀吉との関係に亀裂が生じます。
そこで秀次の家臣・木村常陸介は、天下の大泥棒・石川五右衛門に秀吉の暗殺を依頼しました
文禄3(1594)年8月23日夜、石川五右衛門は太閤、豊臣秀吉の居城、京都・伏見城の潜入に難なく成功する。
狙うお宝は秀吉の寝所に置かれている「千鳥」と呼ばれる円筒形の青磁の香炉だ。
香炉の中央にある高台が縁より高く、このため、縁の3本の足が浮き上がる姿が千鳥の立つときの姿に見立てられ、
この名がついたとも。また、蓋のつまみが千鳥の形をしているためともいわれている。
澄んだブルーの色合いの美しさもある、天下の名品だった。
ところが、五右衛門がこの香炉に手を掛けようとした瞬間、香炉が鳴いたというのだ。
これで目をさました秀吉。すぐさま五右衛門は周囲の警護に取り押さえられてしまう。
その後、配下の一人に悪事や部下などをすべて暴かれ、石川五右衛門は京都三条河原で釜茹での刑に処せられた。
「石川や、浜の真砂は尽くるとも、世に盗人の種は尽きまじ」 五右衛門の辞世の句は有名ですね。
次は 「大阪城完成」 です。
1598年(慶長3年)完成した大阪城を眺める豊臣秀吉が彫られています。
しかし、この時の大阪城は大坂夏の陣(1615年)で焼失してしまいました。
後に徳川により大阪城は再建(1629年)されましたが、1665年、天守閣が落雷により消失。
現在の天守閣は1931年(昭和6年)に再建された3代目なのだそうです。
最後は 「醍醐の花見」 です。
慶長3年(1598)の春、場所は醍醐寺。 秀吉は息子の秀頼や正室・北政所、側室の淀、
三の丸など近親の者は元より、諸大名からその配下の女房女中衆女房衆1300人を集め、
盛大な花見の宴を催しました。
それまで、醍醐寺には確かに桜の花は咲いていましたが、今ほどの規模ではなく、
秀吉が数か月をかけて、近隣諸国からなんと約700本もの桜を移植させたのだそうです。
この半年後に秀吉は亡くなります。 栄華を極めた瞬間だったのですね。