《(改) 和泉・岸和田だんじり彫り物・物語-4》

10月11日 (金) 今日の和泉市の天気予報は
“晴”
です 。
24時間予報では、朝から晩まで
のマークが並び、
マークは1つもありません。
今朝(7時)はすでに明るい日差しが降り注いでいます。朝の最低気温は6時の16.6℃でした。
最高気温は25.7℃を予想しています。風も穏やか、今日も爽やかな秋晴れになりそうです。
明日(土)も明後日(日)も和泉市の予報は “晴” で、
マークはありません。最高気温は26~27℃の予想です 
いよいよ
お散歩シーズンの到来です
昨日の朝一でブロック注射を打ってきました。
と、いう事で、今日は身体の痛みもなく、元気一杯
朝食後、蜻蛉池公園あたりを散歩して来ようと思っています。
そうそう、クリニックの帰りに、例の “柿屋さん” に寄ってみましたが、売り切れで在庫切れでした
こんどはいつ入荷するのか尋ねてみると「今年の夏は暑くて、雨が少なかったから、柿が日焼けしている」そうです。
商品にならない(見た目が悪い)柿もあり「今年は柿の入荷量が少ないかも知れない」との事
昨日の予報は “晴” でした。 明け方は多少雲がありましたが、すぐに青空が広がり、
柔らかな日差しが降り注ぎました。最低気温は6時の16.5℃、最高気温は午後1時の26.1℃でした。
スカッと晴れ上がり、素晴らしいお天気でした。 このお天気、長く続いて欲しいなぁ
今日は 《(改) 和泉・岸和田だんじり彫り物・物語-4》 です。
まず最初は… 「信長・熱田神宮戦勝祈願」 です。


戦国時代、織田信長が今川義元との決戦(桶狭間の戦い)を前に必勝を祈願した場面です。
《西野神社・社務日誌》によると・・・〖熱田神宮に着いた信長は、右筆(ゆうひつ)の武井夕庵に
“この戦いは多勢に無勢、苦しい戦いとなる。熱田大神の力を借りて、是非勝利したい”
という趣旨の願文を作らせ、御神前にひざまずいて、集結した兵達の前でこの願文を読み上げ戦勝を祈願しました。
この時、本殿の奥から甲冑の触れ合う音が聞こえ、一羽の白鷺が舞い立つという吉兆が顕れたそうで、
信長は「これぞ、熱田の大神が我々を護り、勝利に導くしるしである!」と兵達を激励しました〗
これから下は「楠正成」に関連した彫り物です。 その前に、ちょっと予備知識を・・・
以前、初孫が生まれた時によく通った、「楽しみな食堂(大阪府河内長野市)」の車道を隔てた
すぐ前が観心寺で、その脇に「大楠公(楠正成)の銅像」があります。

《観心寺HP》より・・・〖南北朝時代に活躍した武将。観心寺中院が菩提寺で8歳から15歳まで滝覚坊に仏教や学問を学び、
河内長野市加賀田の大江時親に兵法を学んだといわれています。後醍醐天皇 の鎌倉幕府の討伐(とうばつ)に加わり、
赤坂城、千早城で奮戦して後醍醐天皇の勝利に貢献しました。後醍醐天皇の建武(けんむ)政権では
記録所寄人(きろくじょよりうど)、 河内、和泉両国の守護などをつとめました。建武政権の崩壊後は足利尊氏と争いますが、
摂津の湊川(みなとがわ)の戦いで破れ戦死し、首級は京でさらされた後、菩提寺の観心寺に埋葬されました〗
この彫り物は・・・「多聞丸・射術修行」 です。 多聞丸とは “楠正成” の幼名です。


“多聞丸” とは “楠正成” の幼名です。
これは・・・「林軍太・多聞丸に降参」 です。

多聞丸(後の楠正成)の父と敵対していた林軍太。
その息子多聞丸の武勇が優れている事を聞き、のちの災いになると思い、力量を試す場面です。
歯が立たなかったようですね(笑。 この時、多聞丸は弱冠11歳だったそうです。
これは・・・「後醍醐天皇御夢」 です。

後醍醐天皇が楠正成の存在を知ったのは夢のお告げ・・・
《Wikipedia》によると…〖元弘の乱が発生し、天皇が笠置山に籠り、ある夢を見た。
その夢の中では、庭に南向きに枝が伸びた大きな木があり、その下には官人が位の順に座っていたが
南に設けられていた上座にはまだ誰も座っておらず、その席は誰のために設けられたものなのかと疑問に思っていた。
すると童子が来て「その席はあなたのために設けられたものだ」と言って空に上って行っていなくなってしまった。

夢から覚めて、天皇は夢の意味を考えていると「木」に「南」と書くと「楠」という字になることに気付き、
寺の衆徒にこの近辺に楠という武士はいるかと尋ねたところ、
河内国石川郡金剛山(現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)に橘諸兄の子孫とされる楠木正成(楠正成)という者が
いるというので、後醍醐帝はその夢に納得し、すぐさま楠木正成を笠置山に呼び寄せる事にした〗
これは・・・「桜井の驛」 です。
父、楠木正成と子の正行(まさつら)の今生の別れの場面ですね。


〖建武3年(1335)5月21日、楠木正成公、湊川の決戦に向かうにあたり桜井の駅で、
長男楠正行と今生の別れを告げる。 正行は父に従わんと願ったが、正成曰く
「後に残り忠孝を励め」と短刀一振りを与えて河内へ帰す。 時に正行11才である。
ひげは歌で知っています ⇒ ♪桜井の別れ
♪青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ 木の下陰に駒とめて
世の行く末をつくづくと 忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か
次は・・・「楠正成・包近八幡宮へ戦勝祈願」 です。

楠正成は包近にも来ていたんですね。 包近八幡宮は楠本神社のようです。
次は・・・「正行・如意輪堂」 です。 正行(まさつら)は楠正成の嫡男です。

四条畷の決戦へ出発に当たり、鏃を以って如意輪堂の扉に辞世の歌を残したそうです。23歳だったそうです。
“かゑらじと かねておもえば梓弓 なき数に入る名をぞとゞむる”
(今度の戦いは生きて再びかえれぬ身。故に、亡き人の仲間入りをする名前を残して出発します… と言う意味だそうです)
この歌は合戦の前に詠まれたもので、「太平記」によると楠木正行は勝ち目のない戦いだと考えていたようです。
この歌には、戦って死ぬのだという覚悟と決意が表されています。
次は・・・「義貞・龍神に宝剣を献ず」 です。

七里ヶ浜のいそ伝い 稲村ヶ崎 名将の剣 投ぜし古戦場 これも歌で知っています ⇒ ♪鎌倉
《観光かなかわNow》には・・・〖元弘3年(1333年)5月8日、後醍醐天皇の綸旨を受けて、
新田義貞は、新田荘生品神社で鎌倉幕府討幕の旗揚げをし、鎌倉を取り囲み、総攻撃をかけます。
ただし、三方を山、一方を海に囲まれ、守りやすく攻められにくい天然の要塞『鎌倉』を、そう簡単には落とせません。
攻めあぐんだ義貞は21日未明、この稲村ヶ崎で黄金の太刀を投げ入れて龍神に祈願すると、潮が大きく引き、
幕府の水軍が沖へと流され、岸壁沿いに鎌倉に攻め入ることが出来たと伝わります。
源頼朝以来、約150年続いた鎌倉幕府はこうして滅亡しました〗
今日の最後は・・・「神武天皇東征」 です。


日向(高千穂)を治めていた神武天皇(死後の命名)が東に進軍し、大和朝廷を建国。
八咫烏(やたがらす)が、神武天皇勢を大和へと道案内しました。
建国記念の日(2月11日)は、神武天皇の即位日である旧暦の紀元前660年1月1日にあたり、
明治に入って新暦に換算した日付だそうです。 神武天皇は紀元前711年2月13日生まれ、紀元前585年127歳で没。
《Wikipedia》によると…〖日本神話の「東征」において、八咫烏は瀬戸内海から近畿に進もうとした
神武天皇の道案内を務めたとされる。神武天皇は、当初、西から大阪に攻め入って敗れたため、
太陽神である天照大神の子孫である自分たちは西から東へ日に向かうのではなく、東から西へ日を背にして攻め入るべきだと考えた。
そこで八咫烏の案内により、紀伊半島を大きく迂回して現在の新宮付近から攻め入ることにし、
その後、吉野を経て橿原に行き大和朝廷を開いた。
※ 八咫烏の咫(あた)は寸や尺といった長さを表す単位の一つですが、八百万が「たくさん」を意味するのと同様、
八咫は「大きい」を意味しています。








24時間予報では、朝から晩まで


今朝(7時)はすでに明るい日差しが降り注いでいます。朝の最低気温は6時の16.6℃でした。
最高気温は25.7℃を予想しています。風も穏やか、今日も爽やかな秋晴れになりそうです。
明日(土)も明後日(日)も和泉市の予報は “晴” で、


いよいよ


と、いう事で、今日は身体の痛みもなく、元気一杯

そうそう、クリニックの帰りに、例の “柿屋さん” に寄ってみましたが、売り切れで在庫切れでした

こんどはいつ入荷するのか尋ねてみると「今年の夏は暑くて、雨が少なかったから、柿が日焼けしている」そうです。
商品にならない(見た目が悪い)柿もあり「今年は柿の入荷量が少ないかも知れない」との事

昨日の予報は “晴” でした。 明け方は多少雲がありましたが、すぐに青空が広がり、
柔らかな日差しが降り注ぎました。最低気温は6時の16.5℃、最高気温は午後1時の26.1℃でした。
スカッと晴れ上がり、素晴らしいお天気でした。 このお天気、長く続いて欲しいなぁ

今日は 《(改) 和泉・岸和田だんじり彫り物・物語-4》 です。



戦国時代、織田信長が今川義元との決戦(桶狭間の戦い)を前に必勝を祈願した場面です。
《西野神社・社務日誌》によると・・・〖熱田神宮に着いた信長は、右筆(ゆうひつ)の武井夕庵に
“この戦いは多勢に無勢、苦しい戦いとなる。熱田大神の力を借りて、是非勝利したい”
という趣旨の願文を作らせ、御神前にひざまずいて、集結した兵達の前でこの願文を読み上げ戦勝を祈願しました。
この時、本殿の奥から甲冑の触れ合う音が聞こえ、一羽の白鷺が舞い立つという吉兆が顕れたそうで、
信長は「これぞ、熱田の大神が我々を護り、勝利に導くしるしである!」と兵達を激励しました〗
これから下は「楠正成」に関連した彫り物です。 その前に、ちょっと予備知識を・・・
以前、初孫が生まれた時によく通った、「楽しみな食堂(大阪府河内長野市)」の車道を隔てた
すぐ前が観心寺で、その脇に「大楠公(楠正成)の銅像」があります。

《観心寺HP》より・・・〖南北朝時代に活躍した武将。観心寺中院が菩提寺で8歳から15歳まで滝覚坊に仏教や学問を学び、
河内長野市加賀田の大江時親に兵法を学んだといわれています。後醍醐天皇 の鎌倉幕府の討伐(とうばつ)に加わり、
赤坂城、千早城で奮戦して後醍醐天皇の勝利に貢献しました。後醍醐天皇の建武(けんむ)政権では
記録所寄人(きろくじょよりうど)、 河内、和泉両国の守護などをつとめました。建武政権の崩壊後は足利尊氏と争いますが、
摂津の湊川(みなとがわ)の戦いで破れ戦死し、首級は京でさらされた後、菩提寺の観心寺に埋葬されました〗



“多聞丸” とは “楠正成” の幼名です。


多聞丸(後の楠正成)の父と敵対していた林軍太。
その息子多聞丸の武勇が優れている事を聞き、のちの災いになると思い、力量を試す場面です。
歯が立たなかったようですね(笑。 この時、多聞丸は弱冠11歳だったそうです。


後醍醐天皇が楠正成の存在を知ったのは夢のお告げ・・・
《Wikipedia》によると…〖元弘の乱が発生し、天皇が笠置山に籠り、ある夢を見た。
その夢の中では、庭に南向きに枝が伸びた大きな木があり、その下には官人が位の順に座っていたが
南に設けられていた上座にはまだ誰も座っておらず、その席は誰のために設けられたものなのかと疑問に思っていた。
すると童子が来て「その席はあなたのために設けられたものだ」と言って空に上って行っていなくなってしまった。

夢から覚めて、天皇は夢の意味を考えていると「木」に「南」と書くと「楠」という字になることに気付き、
寺の衆徒にこの近辺に楠という武士はいるかと尋ねたところ、
河内国石川郡金剛山(現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)に橘諸兄の子孫とされる楠木正成(楠正成)という者が
いるというので、後醍醐帝はその夢に納得し、すぐさま楠木正成を笠置山に呼び寄せる事にした〗

父、楠木正成と子の正行(まさつら)の今生の別れの場面ですね。


〖建武3年(1335)5月21日、楠木正成公、湊川の決戦に向かうにあたり桜井の駅で、
長男楠正行と今生の別れを告げる。 正行は父に従わんと願ったが、正成曰く
「後に残り忠孝を励め」と短刀一振りを与えて河内へ帰す。 時に正行11才である。
ひげは歌で知っています ⇒ ♪桜井の別れ
♪青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ 木の下陰に駒とめて
世の行く末をつくづくと 忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か


楠正成は包近にも来ていたんですね。 包近八幡宮は楠本神社のようです。


四条畷の決戦へ出発に当たり、鏃を以って如意輪堂の扉に辞世の歌を残したそうです。23歳だったそうです。
“かゑらじと かねておもえば梓弓 なき数に入る名をぞとゞむる”
(今度の戦いは生きて再びかえれぬ身。故に、亡き人の仲間入りをする名前を残して出発します… と言う意味だそうです)
この歌は合戦の前に詠まれたもので、「太平記」によると楠木正行は勝ち目のない戦いだと考えていたようです。
この歌には、戦って死ぬのだという覚悟と決意が表されています。



《観光かなかわNow》には・・・〖元弘3年(1333年)5月8日、後醍醐天皇の綸旨を受けて、
新田義貞は、新田荘生品神社で鎌倉幕府討幕の旗揚げをし、鎌倉を取り囲み、総攻撃をかけます。
ただし、三方を山、一方を海に囲まれ、守りやすく攻められにくい天然の要塞『鎌倉』を、そう簡単には落とせません。
攻めあぐんだ義貞は21日未明、この稲村ヶ崎で黄金の太刀を投げ入れて龍神に祈願すると、潮が大きく引き、
幕府の水軍が沖へと流され、岸壁沿いに鎌倉に攻め入ることが出来たと伝わります。
源頼朝以来、約150年続いた鎌倉幕府はこうして滅亡しました〗



日向(高千穂)を治めていた神武天皇(死後の命名)が東に進軍し、大和朝廷を建国。
八咫烏(やたがらす)が、神武天皇勢を大和へと道案内しました。
建国記念の日(2月11日)は、神武天皇の即位日である旧暦の紀元前660年1月1日にあたり、
明治に入って新暦に換算した日付だそうです。 神武天皇は紀元前711年2月13日生まれ、紀元前585年127歳で没。
《Wikipedia》によると…〖日本神話の「東征」において、八咫烏は瀬戸内海から近畿に進もうとした
神武天皇の道案内を務めたとされる。神武天皇は、当初、西から大阪に攻め入って敗れたため、
太陽神である天照大神の子孫である自分たちは西から東へ日に向かうのではなく、東から西へ日を背にして攻め入るべきだと考えた。
そこで八咫烏の案内により、紀伊半島を大きく迂回して現在の新宮付近から攻め入ることにし、
その後、吉野を経て橿原に行き大和朝廷を開いた。
※ 八咫烏の咫(あた)は寸や尺といった長さを表す単位の一つですが、八百万が「たくさん」を意味するのと同様、
八咫は「大きい」を意味しています。