日本の心・さいき

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為になるかも知れない本(その236)

2007-12-12 09:25:15 | Weblog
○昭和60年5月1日(水)晴。
 日中友好協ソフトボール大会があって、佐伯球場に行った。院長が挨拶をした。中国チーム(世界第2位)に5対2で負けたが、(国体全国3位の)西田病院女子ソフトチームも、いい試合をしたと思う。19:00から金水苑でレセプションがあって、少し中国語で話した。自分が中国語を学生の時にしてたことを誰も知らなかった様だ。中国の人って、人なつっこい感じだ。(翌日、ビデオに撮ったテープを院長の所まで持って行った。)
○昭和60年5月3日(金)晴。
 (外人による)英会話の日だった。(整形外科の)竹内先生はいなかった。(外科の)池田先生は、外国に行った経験があるだけに、上手だ。(脳外科の)土屋先生は、あまり話そうとしないが、聞く力がある様だ。継続は力なりだなあ。
○昭和60年5月4日(土)晴。
 200人以上診た。保険の注意書きもした。夜の23時に帰った。忙しかった。喘息が実に多い。こちらと患者さんとの信頼関係が大切だなあ。
○昭和60年5月7日(火)晴。
 5日に熱で(入院した)けいれんの子が再び発熱した。アレビアチンを使った。父親としっくり行かない。初診で来た患者さん(の親御さん)とは、どうもしっくりといかない。特にけいれんの場合は。遠くに送ればそれで終わりなのだが。いろんな症例がある。一例一例が貴重な体験となっている。出来るだけ最初から最後まで診る、そうしないと医者の腕も上がらない感じだ。
○昭和60年5月10日(金)雨。
 患者さんが大分の方に帰りたいとしつこく言うので、紹介状を持たせて帰した。旅の途中で突然来た人を相手にするのは疲れる。紹介状がなくて、初めて診るので、状況が分からないからだ。よほど優れた臨床医でないと、誤診の元になるなあ。しかし、この救急病院、断る訳にはいかずに、診ているが、自分でも一人でよくやっていると思う。
○昭和60年5月16日(木)晴。
 19:30からNHKで、鹿児島放送局から、「高校生の進路」があった。九大の留年率が、鹿児島>宮崎>長崎>大分>福岡>佐賀の順に高い。自分の予想通りだ。教育とは恐ろしいなあと思う。大分県は、自分たちの時代に一番補習をしていた。上野丘が九大に現役が99人も合格したと言って大分県中が騒いでいた。その結果、九大の留年率は、九州1。大分上野丘の東大留年率も全国1位だった。それを反省してか、今は、大分県はガリガリしていない。鹿児島県は、今も昔も、市内の県立の進学高校はガリガリしていて、九大での留年率は、3人に1人の高率。土台、受験の為の勉強何て、大学でのやる気をなくして、人間形成にはほど遠い。

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