日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

為になるかも知れない本(その239-7)

2007-12-21 08:31:58 | Weblog
病院一階の理事長執務室の部屋に”夢”と題する額が飾ってある。その中に、「・・・若き時からの夢は、かなづちの音でさめては、又さめての日々でありました。その間、良きドクター、良き従業員、良き友に恵まれて幸に感謝しております。又と来ない貴重な一生も僅かとなりましたが、それなりに生きて行きたいと思います・・・」とある。

 佐伯文化会館で葬儀があり、1.300名もの参列者があったが、その場にいた多くの人が、何も言わなくてもその雰囲気から、理事長先生が如何に多くの人から慕われ、尊敬され、一日でも長く生きていて欲しいと思われていたかを、又、すごい業績を残した偉大な医者であったかを自然な形で知ったに違いない。
 皆から愛され、’85日中友好ソフトボール国際大会と入った帽子を胸の上に抱いて、精一杯真面目に最後までエネルギーを出し切って仕事をされ、多くの人の涙を誘って亡くなられた理事長先生のご冥福をお祈りすると共に、この生き方を多くの人が学んで行かなければいけないと思う。

(おわり)

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為になるかも知れない本(その239-7)

2007-12-21 08:28:18 | Weblog
その10、夢を持つ
 理事長先生は、常に夢を抱いていた様に思える。高い目標を持っていた様に思える。理事長先生の生前中に成人病棟の改築を済ませたかったと思われる。孫の成長をもっと先まで見届けたかったと思われる。先生の趣味は、スポーツと陶芸であるが、女子ソフトボールにかける夢は年々大きくなって行った様で、世界第2位の中国チームと対戦しても堂々と闘えるまでに成長した西田病院女子ソフトボールチームのことをとても嬉しく思っていた様である。灘のグランドの整備の費用も自分のお金で出し、遠征費用もポケットマネーを使われていた。花束を北京チームからもらった時の理事長先生の笑顔を(私のビデオカメラでも撮り)今でもありありと私は思い浮かべることが出来る。

 今年(昭和60年)の西田病院月報の念頭所感で、院長先生は次の様に述べられている。
 この50年間の病院経営には、慈恵の魂がこもっていたからこそ出来たと言えばそれまでかも知れませんが、患者さん確保の為、自ら自転車に乗って情報収集に走り回り、さまざまな角度から”愛される病院”にと努力し、我慢し、睡眠も充分に取らず、遊びもせず、只ひたすらに患者さんの為にと奉仕を忘れずに頑張ってきた永い年月が横たわっているのです。又、その他の波乱万丈の姿は、父理事長の随筆集「かなづち病院長」の二巻に余す所なく書かれています。そこには、あの戦争中の苦難の時代を経て今日に至るまでの姿が克明に綴られています。今日のこの病院の隆盛と反映の基礎を築いた神算元祖とも言うべき理事長に対して、心から感謝の念と尊敬の心を失ってはならないし、又、母宮子理事と共にその健康と尚一層の長寿を祈念するものです。
(*理事長先生も院長先生(長男)も副院長先生(次男)も、慈恵医大出身。)


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