日本の心・さいき

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為になるかも知れない本(その239)

2007-12-15 09:28:43 | Weblog
○昭和60年6月30日(日)雨。
 休みは、何となくダラダラとしているなあ(この頃には、水曜の午後は大分医大から、土曜の夕方から日曜も、宮医大と大分医大から代診に来てもらうことが多くなっていた。)。グッスリ眠れない。体を動かしていない。雨がよく降るなあ。3番目の子ども、男でも女でもいい。健康であってくれれば。息抜き、あまりしていない。飲みの出ることも、殆どなくなったなあ。今月は、それでもMRさんと1回行ったなあ(飲みに行っても、飲むものはウーロン茶だけで、よくカラオケで歌っていた)。
○昭和60年7月1日(月)雨。
 140人来た。奇形症候群で生まれた子どもの父親とその親戚の人が来て、何もしないで欲しいと言われた。2時間以上も話した。患者さんって、自分のことしか考えない。深夜0時まで掛かっていても、医療側としてそう言う態度をとることがどんなに苦しいか理解しようとしない。かってそんな患者さんの親から、「私達に苦労を押しつけるのですか!」と言われたことを思い出した。
○昭和60年7月5日(金)晴。
 とても可愛がってもらっていた理事長先生が突然に亡くなられた。14;40頃だった。息が止まった時に、(副院長の)○内先生が、「あっ、息が止まって」と言った。奥さんと○内さんの娘さんが泣いていた。(息子の副院長の)○○先生も泣いていた。主治医の○○先生は心臓マッサージもせずに、そのまま見守っていた。今までも、何度も危ない状態になっていたが、今回は、もう、心臓は再び動こうとはしなかった。それからどんどん来客が来た。医師会長(故人となられている)や南海病院の院長(故人となられている)などが。何か信じられなかった。今からは、朝、いつも統計を執っていた理事長の姿は、もう見られないのだなあ。
○昭和60年7月6日(土)晴。
 理事長先生を柩に入れた。理事長先生の胸には、紅色の字で「'85日中女子ソフトボール国際大会」と書かれた帽子があった。多くの人が泣いていた。夕方、柩を本宅に運ぶ時(理事長は、病院の前にある本宅に帰ろうとせずに、いつも、病院内の狭い所に奥さんと住んでいた)、下でナースがずらっと並んでいた。これ程までに多くの人の深い涙を誘った人、佐伯市でいただろうか。お通夜があった。
○昭和60年7月8日(月)晴。
 西田理事長先生の葬儀が13:00から佐伯文化会館であった。満席状態だった。あちこちからすすり泣きの声が聞こえて来た。ソフトボールの選手(負けると、理事長先生の体調がおかしくなるからとの理由で、厳しい練習にも耐えてきていた)やナースが目を真っ赤にしていた。如何に理事長先生が皆から慕われていたかの証明だ。仕事一途でよく働いてきた先生、(多くの人が認めているが)実に誠実で真面目な先生、気配りの先生、よく働いてきた先生、それだからこそ、これだけの人が集まったのだろう。
*あるエピソードがある、いろんな理由で去って行く職員に、理事長先生の場合は、礼を言った後に最後に必ず、「又、機会があったら、うちの病院で働いて下さい。」と言って頭を下げ、角を立てる言い方は絶対にしなかったとのこと。素晴らしい西田茂人間経営哲学がそこにあった。


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