一学期も残りわずかとなりました。
今日,授業で子どもたちと夏の俳句を作ってみましたが,なかなかおもしろいものが多く,一層夏を身近に感じ,夏休みを身近に感じました。
子どもたちのわくわくそわそわをよそに,先生たちはこの時期学期末事務に追われます。
まずは通知表。
1学期4ヶ月間の子どもたちの学習の足跡を振り返りながら,評価をつけていきます。
感心なことにコツコツとその時期に評価をしていたものは楽ですね。
今から追って評価をしなくてはいけないものもあるでしょう。
子どもたちの作品を見返したり,ノートを集めたり,テストの集計をしたり。
それは大変な作業ですが,もちろん手を抜いていいものではありません。
さて
よくできた子には◎
まあまあできた子には○
まだまだ努力が必要な子には△
とか
達成率85%以上の子には◎
達成率84%~60%の子には○
達成率60%未満の子には△
とかつけていくわけですが,これらを1人1人に,評価項目1つ1つにつけていきながら,いつも思うことがあります。
△をつけた場合。
この子は,この学習を通して,この目標については達成できず,努力が必要と判断した。
ということになります。
それ自体に何の矛盾も疑問もないのですが,思うのは,
無責任さや憤りです。
△に対して先生は何をしていたんだ。
この単元,この目標について指導できる時間はは少なくとも数時間はあったはず。
学習のスタート時点で△であることは不思議なことではなく,多くの子にありえることだ。
しかし,その多くの子たちは先生の指導を通して○,◎と変容していく存在であり,先生はそこに責任がある。
変容していかなくちゃいけないんだ。
なのに,最後まで△のままで,その子に最後に告げる言葉は
「まだまだ努力が必要」
なんて,冷たいし,投げやりだし,無責任じゃないか。
通知表に△をつけなきゃいけない最後なんて,先生としてとても情けない。。。。。
なんて思ってしまうんです。
・・・・もちろん分かっています。
それでも,△はやっぱり存在してしまうことを。
先生の責任において精一杯の指導をしたとしても,最後に△をつけなきゃいけない現実もあることを。
だから評価というんだし,なにより,これで最後ではないということ。
その△は,まだ○,◎に変容していくチャンスはあって,そこにまた先生は努力しなきゃいけないということ。
しかし,それにしても,通知表の△は・・・・ 辛いです。
だから,結局こう思います。
子どもの評価は,そのまま先生の評価!
これを痛感する学期末です。
△をもらう子どもの辛さは,そのままそれをつけなきゃいけない先生の辛さです。
学期末だけでなく,もっと普段からこのことを思って,指導に当たるべきだと,反省することでした。