ボケッと生活の締めくくりに懸案の本屋に行くと書いていた。
何が懸案かというと、以前「楽園のカンヴァス」(原田マハ)の意見交換をした本友人から『三重苦の少女と教師を書いた「奇跡の人(原田マハ)は涙なしには読めないよ』と勧められていたのだが、正直この手の話には食傷気味だったので、読むかどうか迷っていたのだ。
例えばベートーベンの交響曲第五番「運命」あのダ・ダ・ダ・ダーンは、ベートーベンが耳が不自由になってから作曲されたと知って聞くと更に迫力をもって胸に迫ってくるし、フジ子・ヘミングの苦難の道と不自由な耳に想いを寄せながら彼女の奏でるショパンを聞くと心に沁みわたる感じがする。
誤解を恐れず書くと、ハンディ-キャップがある人の芸術は、その背景もひっくるめて人の心を打つのだと思うので、そのことに食傷気味なのでは勿論、ない。仮に本当に耳が不自由な作曲家が、それを強調するのはアリだと思っている。
「奇跡の人」でも意味合いは違うが、「弱点を強みにする」という表現はあり共感もしている。
が、昨今はどこか狂っている。
何処も悪くないのに障害者を騙って芸術を押し売りする者もいれば、それと知りつつ営業に乗じる者もいる、そのうえ弱者に心を寄せるフリで成り立つ偽善事業まで見せつけられるので、十羽一絡げにその手の話に拒否感があったのだが、「奇跡の人」読んでみて、良かった。
戦後あらゆるものがアメリカナイズされていくことに危機感を覚えた民俗学者などの働きかけで制定された重要無形文化財(人間国宝)の栄えある第一回目に選ばれた、津軽三味線の狼野キワ。
本書は、キワの人生に大きな影響を与えた三重苦の少女「れん」とれんの教師「去場安」の話である。
「去場安」先生という名前から想像がつくように、三重苦の少女とその教師が経る過程(手文字の習得など)は「ヘレンケラー」の焼き直しであるし、人物描写では「蔵」(宮尾登美子)の方が人を惹きつけるかもしれないが、それでも「奇跡の人」にしかないものもあると思う。
本書には、岩倉使節団の留学生として渡米し10年以上にわたりアメリカで最高の女子教育を受けた去場安から見た、「明治の日本」という視点が柱としてあると思う。
去場安が折々に感じる「家庭内にある封建的な男尊女卑」と、それを打破するためにも「日本の女子教育に尽くしたい」という思いには、本書を障害者教育という狭いジャンルにとどまらせない’力’があった。
『あの子には、感情がある。学ぶ能力がある。人間らしく生きていく権利がある。
人を愛し、信じて、誰かのために祈る。
そういう人に、あの子はなる。
れんは、不可能を可能にする人。・・・・・奇跡の人なのですーと。』
れんに対する去場安のこの教育の信念は、後に人間国宝となる盲目の津軽三味線のキワにも大きく影響を与えるが、子供に接する親や教師も学ぶところが大きいと思う。
その想いで本書の冒頭を見ると、ヘレンケラーのこの言葉にも普遍的な意味を見出すことができる。
『その顔を、いつも、太陽のほうに向けていなさい。
あなたは、影を見る必要などない人なのだから。』
ところで、「去場安」先生は言わずとしれたサリバン先生の捩りだが、これを書いていると、ある事を思い出させるニュースに出くわした。
<「イスラム国」がタリバンと交戦=27人死亡、勢力争いか―アフガン>時事通信 5月26日(火)5時54分配信より一部引用
スペインのEFE通信は25日、イランとの国境に近いアフガニスタン西部ファラー州で24日に過激派組織「イスラム国」が反政府勢力タリバンと交戦し、双方の戦闘員少なくとも27人が死亡したと報じた。
一頃タリバンがニュースにならないことはないという時期があったが、その当時「ヘレンケラー」を音読している子が大真面目に「タリバン先生、タリバン先生」と言っていた。それを聞きながら、違和感があるのに何が変なのか気付かない私に、年かさの子が「その先生は、人の殺し方とか教えてるのかな」とニヤリと一言。
子供というのは、日常のありふれた風景の中からも大きな影響を受けているのだと感じた一瞬だった。
そんな事も思い出させてくれた「奇跡の人」であったが、勧められながらも読むのを躊躇っていた私を後押ししてくれたニュースがある。
産経新聞の皇室ウィークリー384より引用
皇太子ご夫妻は19日、東京都港区の国連大学で、インドのNGOが企画した細密画の展覧会を鑑賞された。NGOは聴覚障害がある人に細密画を教える自立支援活動に取り組む。ご夫妻は支援を受けた画家、シャルマ氏の創作活動を見学し、手話通訳を交えてご歓談。インドの伝統的な絵柄や色彩を引き継ぐ細密画に感心されていたという。
これは公式には発表されていない御活動、つまりマスコミを引き連れての活動でない、皇太子ご夫妻が私的と位置付けておられる御活動である。
主催者とすれば、皇太子ご夫妻のご来場は広く伝えて欲しいところではあるかもしれないが、障害者の自立支援に取り組む活動に、静かに心をよせて応援されているという皇太子ご夫妻の御姿勢が、私は好きだ。
弱者支援の活動を広く知らしめるためには、有名人は時に人寄せパンダの役を買ってでる必要はあるかもしれないが、それを自身のウリにしてはお終いだと思うのだ。
「右の手のすることを左の手に知らせてはならぬ」を信条とする人は、右手のしたことを左手が知る前に喧伝してみせるのが流行る現在を、さぞかし生きにくいと感じておられるとは思うが、そんな方だからこそ心を込めて応援したいと思っている。
何が懸案かというと、以前「楽園のカンヴァス」(原田マハ)の意見交換をした本友人から『三重苦の少女と教師を書いた「奇跡の人(原田マハ)は涙なしには読めないよ』と勧められていたのだが、正直この手の話には食傷気味だったので、読むかどうか迷っていたのだ。
例えばベートーベンの交響曲第五番「運命」あのダ・ダ・ダ・ダーンは、ベートーベンが耳が不自由になってから作曲されたと知って聞くと更に迫力をもって胸に迫ってくるし、フジ子・ヘミングの苦難の道と不自由な耳に想いを寄せながら彼女の奏でるショパンを聞くと心に沁みわたる感じがする。
誤解を恐れず書くと、ハンディ-キャップがある人の芸術は、その背景もひっくるめて人の心を打つのだと思うので、そのことに食傷気味なのでは勿論、ない。仮に本当に耳が不自由な作曲家が、それを強調するのはアリだと思っている。
「奇跡の人」でも意味合いは違うが、「弱点を強みにする」という表現はあり共感もしている。
が、昨今はどこか狂っている。
何処も悪くないのに障害者を騙って芸術を押し売りする者もいれば、それと知りつつ営業に乗じる者もいる、そのうえ弱者に心を寄せるフリで成り立つ偽善事業まで見せつけられるので、十羽一絡げにその手の話に拒否感があったのだが、「奇跡の人」読んでみて、良かった。
戦後あらゆるものがアメリカナイズされていくことに危機感を覚えた民俗学者などの働きかけで制定された重要無形文化財(人間国宝)の栄えある第一回目に選ばれた、津軽三味線の狼野キワ。
本書は、キワの人生に大きな影響を与えた三重苦の少女「れん」とれんの教師「去場安」の話である。
「去場安」先生という名前から想像がつくように、三重苦の少女とその教師が経る過程(手文字の習得など)は「ヘレンケラー」の焼き直しであるし、人物描写では「蔵」(宮尾登美子)の方が人を惹きつけるかもしれないが、それでも「奇跡の人」にしかないものもあると思う。
本書には、岩倉使節団の留学生として渡米し10年以上にわたりアメリカで最高の女子教育を受けた去場安から見た、「明治の日本」という視点が柱としてあると思う。
去場安が折々に感じる「家庭内にある封建的な男尊女卑」と、それを打破するためにも「日本の女子教育に尽くしたい」という思いには、本書を障害者教育という狭いジャンルにとどまらせない’力’があった。
『あの子には、感情がある。学ぶ能力がある。人間らしく生きていく権利がある。
人を愛し、信じて、誰かのために祈る。
そういう人に、あの子はなる。
れんは、不可能を可能にする人。・・・・・奇跡の人なのですーと。』
れんに対する去場安のこの教育の信念は、後に人間国宝となる盲目の津軽三味線のキワにも大きく影響を与えるが、子供に接する親や教師も学ぶところが大きいと思う。
その想いで本書の冒頭を見ると、ヘレンケラーのこの言葉にも普遍的な意味を見出すことができる。
『その顔を、いつも、太陽のほうに向けていなさい。
あなたは、影を見る必要などない人なのだから。』
ところで、「去場安」先生は言わずとしれたサリバン先生の捩りだが、これを書いていると、ある事を思い出させるニュースに出くわした。
<「イスラム国」がタリバンと交戦=27人死亡、勢力争いか―アフガン>時事通信 5月26日(火)5時54分配信より一部引用
スペインのEFE通信は25日、イランとの国境に近いアフガニスタン西部ファラー州で24日に過激派組織「イスラム国」が反政府勢力タリバンと交戦し、双方の戦闘員少なくとも27人が死亡したと報じた。
一頃タリバンがニュースにならないことはないという時期があったが、その当時「ヘレンケラー」を音読している子が大真面目に「タリバン先生、タリバン先生」と言っていた。それを聞きながら、違和感があるのに何が変なのか気付かない私に、年かさの子が「その先生は、人の殺し方とか教えてるのかな」とニヤリと一言。
子供というのは、日常のありふれた風景の中からも大きな影響を受けているのだと感じた一瞬だった。
そんな事も思い出させてくれた「奇跡の人」であったが、勧められながらも読むのを躊躇っていた私を後押ししてくれたニュースがある。
産経新聞の皇室ウィークリー384より引用
皇太子ご夫妻は19日、東京都港区の国連大学で、インドのNGOが企画した細密画の展覧会を鑑賞された。NGOは聴覚障害がある人に細密画を教える自立支援活動に取り組む。ご夫妻は支援を受けた画家、シャルマ氏の創作活動を見学し、手話通訳を交えてご歓談。インドの伝統的な絵柄や色彩を引き継ぐ細密画に感心されていたという。
これは公式には発表されていない御活動、つまりマスコミを引き連れての活動でない、皇太子ご夫妻が私的と位置付けておられる御活動である。
主催者とすれば、皇太子ご夫妻のご来場は広く伝えて欲しいところではあるかもしれないが、障害者の自立支援に取り組む活動に、静かに心をよせて応援されているという皇太子ご夫妻の御姿勢が、私は好きだ。
弱者支援の活動を広く知らしめるためには、有名人は時に人寄せパンダの役を買ってでる必要はあるかもしれないが、それを自身のウリにしてはお終いだと思うのだ。
「右の手のすることを左の手に知らせてはならぬ」を信条とする人は、右手のしたことを左手が知る前に喧伝してみせるのが流行る現在を、さぞかし生きにくいと感じておられるとは思うが、そんな方だからこそ心を込めて応援したいと思っている。