「合うこともあり、合わざることもあり」で改暦にかける春海について書いたが、老中酒井から「北極星を見て参れ」との命を受け日本中を観測すること実に22年。
22年の歳月を経てようやく春海の手による大和暦採用の詔が発布される。
これほど長い時間を要したのは、もちろん暦を作ることそのものの難しさもあるが、それと同時に暦を変えることで既得権益や面子を失う者の抵抗が激しかったことに加え、暦を司るという事が政治・経済・宗教・文化すべてを総べることに繋がるため「権威の所在」という点からも対応が難しかったという事情がある。
改暦のために老中と会津藩主が白羽の矢を立てたのが、算学に長けた春海であり、窮地にたった春海を助けるのがあの和算の関孝和であることからも分かるように、改暦には天を観測することだけでなく高度な算術の才こそ必要とされるのだが、この点についての説明を自分が出来るはずもないので、とにかく数学的にも難しい、ということだけ自信をもって書いておく。
ただ、暦にズレが生じた理由と、暦を司ることが持つ意味と、それゆえの改暦への抵抗は「天地明察」(冲方丁)から理解できるので、その点について考えてみる。
まず、暦がズレたのには大きく2つの理由がある。
時の流れに沿わないものの利用と、地に沿わない借り物の利用
江戸時代初期に明確にズレをきたしていた宣明歴は800年前の平安時代に導入されたのもので、もって100年といわれる暦を800年使い続けることは土台無理な話である。
これを改めるため秀吉時代に中国から得た授時歴は、当時としては優れたものであったが、緯度経度が日本に合っていないため、蝕を外してしまう。
つまり、どれほど優れたシステムであろうと、時が流れれば誤謬が生じてくるし、それが適用される土地柄が違えば正しく機能しないのだ。
しかし、暦が2日狂い蝕を外すという明確な事態となってさえ対応が極めて鈍いのは、暦が持つ意味の重さと、それゆえの抵抗の激しさにある。
暦には宗教統制という側面がある。
天意を読み解く’’観象授時’’は古来天皇の職務であり宗教的権威そのものだが、暦を司るということは天皇が執り行う儀礼の日取りを支配することになり、日を決するということは方違えにおける方角をも決することになる。
暦を支配するということは、時節と空間を支配し、宗教的権威の筆頭に立つことを意味するのだ。
これを、朝廷や神事を司る陰陽師が黙って見過ごすはずがない。
また暦には政治統制と文化統制という側面もある。
日取りを決定するということは、全ての物事の開始と終了を支配することになり、公文書における日付の重要性に鑑みれば、幕府が定めた暦に倣わぬ公文書はそれだけで処罰の対象になりかねず、どんな難癖でもつけられる莫大な支配権を有することになる。これに対して諸藩が抱く反感は大きく、全国に熾烈な反幕感情を巻き起こしかねない、らしい。
これと同様の理由で文化統制の側面もある(らしい)。政務ばかりか文芸をも支配することに対しては、公家の反発の嵐となる、と書いている。
そして、実利的に一番関心が高いのが経済的統制の側面だ。
頒暦というものが全て幕府主導で行われ全国に販売されれば、単純な石高に換算して70万石。これは手持ちの資料で調べてみると、仙台の伊達藩の石高に匹敵するのだ。この莫大な収入を幕府が独占するとなれば、独自の頒暦を販売していた全国の神宮も黙ってはいない。
更に暦には、民の教養と信仰の結晶という精神的側面もあった。
暦は、播種のためには絶対必需品であり様々な生活の日取りの選択基準であるがゆえに『万人の生活を映す鏡』であり、『「昨日が今日へ、今日が明日へ、ずっと続いてゆく」という人間にとってなくてはならない確信の賜物だった』
それゆえに、頒暦は発行する者にとって権威であり、人々に権威の所在を示すものであったのだ。
暦がそれほどに権威を示すものであったため、日付が二日ズレ蝕を外すという事態になってなお伝統ある古い暦を墨守し続け、暦がもつ(実際的本来的)権威そのものを傷つけていくという、愚の骨頂。
保守正道から安定を望む老中酒井と、民の生活の安定から革新的改革を実施する会津藩主保科が強力に改暦の必要性を説いたとして、『古い伝統を誇って神秘化し、新たに改めるすべそのものを消し去ってゆく』『変化への絶対的な拒否を表明している』’’旧慣墨守’’の態度を改めることは難しかった。
そこに手を差し伸べたのが、尽忠の対象を天皇と定める水戸光圀と、神道の権威・闇斎。
何時の世も、何事かが前進するためには、異なる価値観を結ぶ偉大な橋渡しの存在が必要なのだと思いながら、
つづく
22年の歳月を経てようやく春海の手による大和暦採用の詔が発布される。
これほど長い時間を要したのは、もちろん暦を作ることそのものの難しさもあるが、それと同時に暦を変えることで既得権益や面子を失う者の抵抗が激しかったことに加え、暦を司るという事が政治・経済・宗教・文化すべてを総べることに繋がるため「権威の所在」という点からも対応が難しかったという事情がある。
改暦のために老中と会津藩主が白羽の矢を立てたのが、算学に長けた春海であり、窮地にたった春海を助けるのがあの和算の関孝和であることからも分かるように、改暦には天を観測することだけでなく高度な算術の才こそ必要とされるのだが、この点についての説明を自分が出来るはずもないので、とにかく数学的にも難しい、ということだけ自信をもって書いておく。
ただ、暦にズレが生じた理由と、暦を司ることが持つ意味と、それゆえの改暦への抵抗は「天地明察」(冲方丁)から理解できるので、その点について考えてみる。
まず、暦がズレたのには大きく2つの理由がある。
時の流れに沿わないものの利用と、地に沿わない借り物の利用
江戸時代初期に明確にズレをきたしていた宣明歴は800年前の平安時代に導入されたのもので、もって100年といわれる暦を800年使い続けることは土台無理な話である。
これを改めるため秀吉時代に中国から得た授時歴は、当時としては優れたものであったが、緯度経度が日本に合っていないため、蝕を外してしまう。
つまり、どれほど優れたシステムであろうと、時が流れれば誤謬が生じてくるし、それが適用される土地柄が違えば正しく機能しないのだ。
しかし、暦が2日狂い蝕を外すという明確な事態となってさえ対応が極めて鈍いのは、暦が持つ意味の重さと、それゆえの抵抗の激しさにある。
暦には宗教統制という側面がある。
天意を読み解く’’観象授時’’は古来天皇の職務であり宗教的権威そのものだが、暦を司るということは天皇が執り行う儀礼の日取りを支配することになり、日を決するということは方違えにおける方角をも決することになる。
暦を支配するということは、時節と空間を支配し、宗教的権威の筆頭に立つことを意味するのだ。
これを、朝廷や神事を司る陰陽師が黙って見過ごすはずがない。
また暦には政治統制と文化統制という側面もある。
日取りを決定するということは、全ての物事の開始と終了を支配することになり、公文書における日付の重要性に鑑みれば、幕府が定めた暦に倣わぬ公文書はそれだけで処罰の対象になりかねず、どんな難癖でもつけられる莫大な支配権を有することになる。これに対して諸藩が抱く反感は大きく、全国に熾烈な反幕感情を巻き起こしかねない、らしい。
これと同様の理由で文化統制の側面もある(らしい)。政務ばかりか文芸をも支配することに対しては、公家の反発の嵐となる、と書いている。
そして、実利的に一番関心が高いのが経済的統制の側面だ。
頒暦というものが全て幕府主導で行われ全国に販売されれば、単純な石高に換算して70万石。これは手持ちの資料で調べてみると、仙台の伊達藩の石高に匹敵するのだ。この莫大な収入を幕府が独占するとなれば、独自の頒暦を販売していた全国の神宮も黙ってはいない。
更に暦には、民の教養と信仰の結晶という精神的側面もあった。
暦は、播種のためには絶対必需品であり様々な生活の日取りの選択基準であるがゆえに『万人の生活を映す鏡』であり、『「昨日が今日へ、今日が明日へ、ずっと続いてゆく」という人間にとってなくてはならない確信の賜物だった』
それゆえに、頒暦は発行する者にとって権威であり、人々に権威の所在を示すものであったのだ。
暦がそれほどに権威を示すものであったため、日付が二日ズレ蝕を外すという事態になってなお伝統ある古い暦を墨守し続け、暦がもつ(実際的本来的)権威そのものを傷つけていくという、愚の骨頂。
保守正道から安定を望む老中酒井と、民の生活の安定から革新的改革を実施する会津藩主保科が強力に改暦の必要性を説いたとして、『古い伝統を誇って神秘化し、新たに改めるすべそのものを消し去ってゆく』『変化への絶対的な拒否を表明している』’’旧慣墨守’’の態度を改めることは難しかった。
そこに手を差し伸べたのが、尽忠の対象を天皇と定める水戸光圀と、神道の権威・闇斎。
何時の世も、何事かが前進するためには、異なる価値観を結ぶ偉大な橋渡しの存在が必要なのだと思いながら、
つづく