今日9月6日は太平洋戦争を語るうえで重要な日であり、昭和天皇が悔やんでも悔やみきれない悔恨の日となるのが、9月6日ではないだろうか。
日本が太平洋戦争に踏み切らざるをえなかった理由として、よく知られるのが所謂ABCD包囲網と呼ばれるものだが、そのなかでも1941年(昭和16年)8月アメリカの対日石油輸出全面禁止は決定的なものだった。
「二つの祖国」(山崎豊子)の東京裁判でも、一切のエネルギー資源の道を絶つという経済制裁の手法が、原爆の製造・投下とあわせて問題視される場面があるが、それほどに8月の対日石油輸出全面禁止は日本にとって厳しいものだった。
この石油輸出全面禁止を受け、日本はアメリカ・イギリスに対して最低限の要求をすること、その交渉期限を10月上旬に区切ること、この時までに要求が受け入れられない場合、アメリカ・オランダ・イギリスに対し開戦することを決定する。
その決定をしたのが、9月6日の御前会議であった。
しかし、戦争が主で外交が従であるがごとき印象を持たれた昭和天皇は、9月6日の御前会議において開戦に反対しこの決定を拒否、あくまで外交により解決を図るよう命じた。
その際、明治天皇の御歌「四方の海 みなはらからと思う世に など波風の立ち騒ぐらむ」を引用されたうえで、「私は常にこの御製を拝誦して、平和愛好の精神を紹述することに努めている。戦争は極力避けなければならない。今わが国が戦争か平和かの岐路に立っている時、統帥部は責任ある答えをしていない。」と述べられた。
しかし、昭和天皇の願いも空しく太平洋戦争は始まり大敗する。
その運命を決したのが、9月6日なのだ。
「二つの祖国」の東京裁判の場面を読めば、戦勝国が日本の各界各層の戦争責任を断罪しようとした過程はよく分かる。
訴追は免れたが、ソビエトとオーストラリアは最後まで昭和天皇が法廷に立たれることを望んだし、A級戦犯以外にもBC級戦犯として死刑になった数は多いし、経済界や財閥もその責めは負った。
では、国民に情報を伝えるべき新聞などマスコミは、不正確な情報ばかり垂れ流し戦争を煽ったことの責めを負ったのか。
「二つの祖国」を読んだとき、印象に残った言葉がある。(注、「大本営発表に濡れそぼる眉」)
『日本の新聞は~ついこの間まで東条大将を英雄視し、大本営発表を大々的に報道し、戦意高揚のお先棒を担いでいたくせに、連合軍が進駐してくるなり、GHQの顔色をうかがうように戦犯東条、日本帝国主義撲滅と書きたてるのは、あまりに無節操すぎる。』
これに対し、日本人記者は『君(賢治)は今度の戦争で日本の国民がどれほどひどい犠牲を強いられたか、よく解ってないのだ~最後まで国民をつんぼ桟敷においたのだ。塗炭の苦しみに喘いでいる国民感情を知るべきだよ』と反論するが、賢治は怒りをもって畳み掛ける。
『国民の犠牲、国民感情を今になって強調するなら、なぜ戦争中に日本の新聞は''大本営発表''を勧めたんだい、この頃の知的日本人とか進歩派といわれる連中は、戦争の責任をすべてスガモプリズンに捕らわれている戦犯にのみ押し付けて、立派な口をきいているが、見苦しい限りだ~』
今も昔も、見苦しさにおいては変わりがないようだ。
更には、大本営発表を国民はどう受け留めていたのか、そこに責任はないのか。
これを考えるうえで参考になる内容が「天佑なり」(幸田真音)にある。
『こうした軍事的行動は、だが、国内では熱狂的に支持されたのである。大正時代に芽生えたデモクラシーを背景に、恐慌下における生活苦によって、国民心理が徐々に過激な方向性を持ち始めていた。大恐慌を経て保守主義に走る亜米利加の関税制度や、日系移民への迫害行為などが報じられるにつれ、強い日本を標榜する軍に救いを求めるのも無理ないことだった。
さまざまな鬱屈した国民心理が、軍部の行動を支え、日本の政治や外交までも変質させていく。
さらには国内でのクーデターや、暗殺と言った動きに拍車をかけ、軍部や右翼のテロリストといった一部の「国粋主義者」が、次々と暴力によって自由な言論を封じていくのである。』
国は違うが戦争が起る前の国民を知る言葉としては、「国民は夕立を待つように、戦争を待っていた」という意味のヘルマンヘッセの一節も印象に残っている。「第一次世界大戦の敗戦によりベルサイユ条約で厳しい賠償金を負わされたドイツは、国民ともども疲弊していくなかで、事態を打開するものを待つようになった。それが、再度の戦争だった」という内容だったと思う。
これをを読んだ当時はまだ読書備忘録をつけておらず、どの本のどの一節だったか定かでないのが残念だが、
「何も知らないままに騙され戦争に巻き込まれた善良で気の毒な被害者である国民」と思っていた私には、意外な一節だったので、記憶に残っており、それ以来、戦争前の国民というものに関心をもっていた。
「天佑なり」を読めば、戦前の日本国民も「待ってました」とまでは言わないまでも、何も知らないままに巻き込まれただけの気の毒で善良な被害者だとばかりは言えないのかもしれない。
今の世相が当時と酷似しているならば、もはや、何も知らなかったとはいえない情報化社会なのだから、今こそ国民は、目をしっかと見開き情報をとり考えなければならないと、思っている。
もう一つ、「天佑なり」を読み、2・26で凶弾に倒れた高橋是清の若き日の経験に必然性を感じたが、それにより歴史や運命の必然性に思いが至ったので、そのあたりを2・26事件を舞台に書いた「蒲生邸事件」(宮部みゆき)を読み直そうと思っている。
日本が太平洋戦争に踏み切らざるをえなかった理由として、よく知られるのが所謂ABCD包囲網と呼ばれるものだが、そのなかでも1941年(昭和16年)8月アメリカの対日石油輸出全面禁止は決定的なものだった。
「二つの祖国」(山崎豊子)の東京裁判でも、一切のエネルギー資源の道を絶つという経済制裁の手法が、原爆の製造・投下とあわせて問題視される場面があるが、それほどに8月の対日石油輸出全面禁止は日本にとって厳しいものだった。
この石油輸出全面禁止を受け、日本はアメリカ・イギリスに対して最低限の要求をすること、その交渉期限を10月上旬に区切ること、この時までに要求が受け入れられない場合、アメリカ・オランダ・イギリスに対し開戦することを決定する。
その決定をしたのが、9月6日の御前会議であった。
しかし、戦争が主で外交が従であるがごとき印象を持たれた昭和天皇は、9月6日の御前会議において開戦に反対しこの決定を拒否、あくまで外交により解決を図るよう命じた。
その際、明治天皇の御歌「四方の海 みなはらからと思う世に など波風の立ち騒ぐらむ」を引用されたうえで、「私は常にこの御製を拝誦して、平和愛好の精神を紹述することに努めている。戦争は極力避けなければならない。今わが国が戦争か平和かの岐路に立っている時、統帥部は責任ある答えをしていない。」と述べられた。
しかし、昭和天皇の願いも空しく太平洋戦争は始まり大敗する。
その運命を決したのが、9月6日なのだ。
「二つの祖国」の東京裁判の場面を読めば、戦勝国が日本の各界各層の戦争責任を断罪しようとした過程はよく分かる。
訴追は免れたが、ソビエトとオーストラリアは最後まで昭和天皇が法廷に立たれることを望んだし、A級戦犯以外にもBC級戦犯として死刑になった数は多いし、経済界や財閥もその責めは負った。
では、国民に情報を伝えるべき新聞などマスコミは、不正確な情報ばかり垂れ流し戦争を煽ったことの責めを負ったのか。
「二つの祖国」を読んだとき、印象に残った言葉がある。(注、「大本営発表に濡れそぼる眉」)
『日本の新聞は~ついこの間まで東条大将を英雄視し、大本営発表を大々的に報道し、戦意高揚のお先棒を担いでいたくせに、連合軍が進駐してくるなり、GHQの顔色をうかがうように戦犯東条、日本帝国主義撲滅と書きたてるのは、あまりに無節操すぎる。』
これに対し、日本人記者は『君(賢治)は今度の戦争で日本の国民がどれほどひどい犠牲を強いられたか、よく解ってないのだ~最後まで国民をつんぼ桟敷においたのだ。塗炭の苦しみに喘いでいる国民感情を知るべきだよ』と反論するが、賢治は怒りをもって畳み掛ける。
『国民の犠牲、国民感情を今になって強調するなら、なぜ戦争中に日本の新聞は''大本営発表''を勧めたんだい、この頃の知的日本人とか進歩派といわれる連中は、戦争の責任をすべてスガモプリズンに捕らわれている戦犯にのみ押し付けて、立派な口をきいているが、見苦しい限りだ~』
今も昔も、見苦しさにおいては変わりがないようだ。
更には、大本営発表を国民はどう受け留めていたのか、そこに責任はないのか。
これを考えるうえで参考になる内容が「天佑なり」(幸田真音)にある。
『こうした軍事的行動は、だが、国内では熱狂的に支持されたのである。大正時代に芽生えたデモクラシーを背景に、恐慌下における生活苦によって、国民心理が徐々に過激な方向性を持ち始めていた。大恐慌を経て保守主義に走る亜米利加の関税制度や、日系移民への迫害行為などが報じられるにつれ、強い日本を標榜する軍に救いを求めるのも無理ないことだった。
さまざまな鬱屈した国民心理が、軍部の行動を支え、日本の政治や外交までも変質させていく。
さらには国内でのクーデターや、暗殺と言った動きに拍車をかけ、軍部や右翼のテロリストといった一部の「国粋主義者」が、次々と暴力によって自由な言論を封じていくのである。』
国は違うが戦争が起る前の国民を知る言葉としては、「国民は夕立を待つように、戦争を待っていた」という意味のヘルマンヘッセの一節も印象に残っている。「第一次世界大戦の敗戦によりベルサイユ条約で厳しい賠償金を負わされたドイツは、国民ともども疲弊していくなかで、事態を打開するものを待つようになった。それが、再度の戦争だった」という内容だったと思う。
これをを読んだ当時はまだ読書備忘録をつけておらず、どの本のどの一節だったか定かでないのが残念だが、
「何も知らないままに騙され戦争に巻き込まれた善良で気の毒な被害者である国民」と思っていた私には、意外な一節だったので、記憶に残っており、それ以来、戦争前の国民というものに関心をもっていた。
「天佑なり」を読めば、戦前の日本国民も「待ってました」とまでは言わないまでも、何も知らないままに巻き込まれただけの気の毒で善良な被害者だとばかりは言えないのかもしれない。
今の世相が当時と酷似しているならば、もはや、何も知らなかったとはいえない情報化社会なのだから、今こそ国民は、目をしっかと見開き情報をとり考えなければならないと、思っている。
もう一つ、「天佑なり」を読み、2・26で凶弾に倒れた高橋是清の若き日の経験に必然性を感じたが、それにより歴史や運命の必然性に思いが至ったので、そのあたりを2・26事件を舞台に書いた「蒲生邸事件」(宮部みゆき)を読み直そうと思っている。