何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

日本丸の安全運航を祈って

2015-09-26 00:55:00 | 
人生や歴史の必然性に思いを馳せるため「蒲生邸事件」(宮部みゆき)を再読したいとか、宝永富士山大噴火の民の奮闘を書いた「起返の記」(嶋津義忠)を読む予定と書いておきながら、どちらも読んでいない。
ワンコの夜毎のあれこれが堪える日々、毛色の違う本が読みたくなり、連休中は「真夏の方程式」(東野圭吾)を読んでいた。
この本は昨年の夏、およそ本など読まない熱血スポーツっ子が「面白い。おすすめ」と言いながら読んでいたので気にはなっていたのだが、ガリレオシリーズは湯川のセリフに福山雅治の声色を被せて読んでしまうので、映像化された本を避ける傾向がある私は、読んでいなかったのだ。

「真夏の方程式」
「実に面白い」とまで言えるかはともかく、面白かった。
福山ガリレオシリーズが定番となった今では、作者自身が福山雅治の声やしぐさを想像しながら書いているのではないかと思えるほど、作中の湯川博士のセリフと行動の一つ一つが、福山雅治に重なり、映像を見ているような錯覚のうちに本を読み終わった。

昨日「国民車から世界の環境車へ」で書いたように車が世間を騒がしているので、「真夏の方程式」に書かれている「車」酔いの場面を書いてみる。
子供の頃の私は、車に乗る度に車酔いに悩まされていた。
父の運転で酔っては、父は運転が下手なんだろうと諦め、タクシーで酔っては、タクシー独特のあの匂いが悪いのだろうと怒っていた。
遠足でバスに乗るようになると、遠足は憂鬱以外の何ものでもなくなり、座席の位置の交渉から前日に食するものまで、入念な準備をして悲壮な覚悟で遠足に参加していた。
そんな私なので運転免許は無理だろうと思っていたが、「自分の運転する車では酔わない」と説得され渋々教習所に通ったのが嘘のように、今ではドライブが気分転換の一つというほどに、運転することが好きでもあるし、分かりもしないが車のメカ解説本を読むのも好きだ。
そして、密かに、自分の運転がなかなかのものなので酔わないのだろう、と自画自賛していた。
が、そこに、細いメタルフレームの眼鏡を指でもち上げながら「実にくだらない」と言う湯川博士の声が聞こえてきた。

車酔いにおける湯川博士のご高説
『前の席に座るだけでなく、視線も重要だ。例えばカーブの多い道を走っている時なんか、身体が遠心力で外側に振られるだろう?その時、視線も一緒に振られると、三半規管の情報と視覚情報が一致しなくなり、脳が混乱する。その結果、乗り物酔いになる。視線を乗り物の進行方向に固定しておけば、その症状は出にくい。車酔いしやすい人でも自分で運転している時には大丈夫なのは、運転中は常に前方を見ているからだ』

湯川博士の理屈や私の運転技術の良し悪しはともかく、自分が運転するようになりカーライフを楽しんでいると書いていて、ふと思い出したことがある。

確か、幼少の頃に酷い車酔いを経験された敬宮様は、長時間の車移動が苦手になられたと読んだ記憶がある。
バス遠足へのお付添いがバッシングされた時、敬宮様が車酔いに対して不安を持たれているという報道を目にした記憶もあるが、ナイロン袋を握りしめながらのバス遠足に恐怖感を持っていた自分には、そのお気持ちがよく分かる。「吐しゃ物で迷惑をかけたらどうしよう」という不安は、大人が考えるよりも子供にとっては重大問題なのだ。まして、それが翌週の誌面でバッシングされかねない敬宮様はどれほど不安を抱えておられたか。
しかし、バスによる宿泊遠足を乗り越えられた頃から、目に見えて学校生活を楽しみ始められたのは、車酔いだけでない何かを克服され、一つ大人の階段を登られたからに違いない。

湯川博士によると、視線を真っ直ぐ前方で固定しておけば、脳が混乱することはない。

伊勢神宮で真っ直ぐ前方を見つめて歩みを進められる凛とした敬宮様の御姿は印象的だった。
その眼差しの先の未来が揺るぎないものとなるよう、日本丸の安全な航海を望んでいる。

おそらく、つづく。