何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

偽装から実はでない

2016-04-01 23:22:42 | ひとりごと
今日は4月1日なので「嘘」にまつわる本を書こうと思っていたが、嘘というべきか偽装というべきかエイプリルフールらしいニュースがあったので、「嘘」と「偽装」の揃い踏みでいこうと思う。

まずは「極乱を正すのも国民のはず」で食の安全を書いたばかりなので、有名高級料亭の産地偽装と使い回し事件を彷彿とさせる「まぐだら屋のマリア」(原田マハ)について書こうと思うが、実は未だによくは分かっていない。

主人公は老舗料亭で修行をしている青年だが、その料亭が長年産地偽装と使い回しに手を染めていたことが発覚し店が立ち行かなくなるだけでなく、事件の発端となる内部告発をした後輩の自殺に責任を感じ、自らも死の旅に出る。
死に場所を探し彷徨い辿り着いた「尽果」という地の定食屋「まぐだら屋」で、マリアが作る素朴であたたかな料理を食べた元料理人の主人公は料理がもつ力を思い出し、そこで働くようになる。主人公がそうであったように、「尽果」に流れ着いた心に疵持つ人々はマリアの料理で元気を得ているが、マリア自身も心に影を抱えている。
それぞれ心に疵を抱えた登場人物たちが、料理を通じた心の交流により心を再生させる物語、というのが本書の要旨だと思うが、作者の意図するところが掴めているとは思えない。

それは一つには、私がクリスチャンではないからだと思う。
本のタイトルからして「まぐだら屋のマリア」なので、登場人物はキリスト教的に有名な名前ばかりだが、私はクリスチャンではないので、登場人物の名が体現しているのであろう深遠な意味合いが、ほとんど分からないのだ。
使い回しと産地偽装をしていた高級料亭に勤める25才の主人公の名が「紫紋・シモン」、偽装と使い回しを仕切っていた料理長の名が「湯田・ユダ」、「紫紋」を救うのが「まぐだら屋のマリア」、マリアを救おうとし妻子を死に追いやる男の名が「与羽・ヨハネ」、マリアと与羽を憎む与羽の妻の母の名が「桐江・キリスト?」、行き倒れ寸前のところを紫紋に救われるのが「丸狐・マルコ」といった具合だが、偽装の中心人物が「湯田」であることと、聖女と罪深い女という真逆のイメージでとらえられる女性を「まぐだら屋のマリア」と名付けていること以外、登場人物の名が何を体現しているのか、私には分からない。

分からないので自分勝手な思い込みを書いてみる。
本書は料理を通じて心の再生をはかるという話だが、同じ料理であっても良い面ばかりではなく、嘘と偽装で塗り固められた料理界に結果的に押しつぶされ自殺してしまう青年がいることに、嘘と偽装の罪深さを感じるし、罪の犠牲となり自殺する青年の名が、主要登場人物でありながらキリスト教的でない「悠太」という名であることにも、神のご加護という意味で思うところがあったのだが、それは作者が希望する感想ではないことは承知している。

嘘から人を殺めてしまう話としては、東野圭吾氏「嘘をもうひとつ」も印象に残っている。
五編の短編からなる本書の容疑者は皆「嘘」をついている。
自分の名誉を守るための「嘘」、大切な誰かを守るための「嘘」は、どこか悲しい。
表題作の「嘘をもうひとつだけ」の犯人は、自分の名誉や誇りを守るために嘘と殺人という罪を犯すが、そうまでして守りたかったものが、実は他人からすれば、さほど重要でないあたりは切なくもあり、物語の最後のセリフは教訓として読書備忘録に記録していた。
『嘘を隠すには、もっと大きな嘘が必要になる』
『人生においてもね』

本書の「嘘」が、どこか物悲しさも感じさせるのは、嘘は嘘でも、守りの嘘だからかもしれない。
では一片の共感もない「嘘」というものはあるだろうかと考えると、それは「偽装」ではないかと思う。
自分や誰かを守るためではなく、自分の利益のために人を騙す「嘘」の先にあるのが「偽装」ではないか。
耐震偽装しかり産地偽装しかり、偽装とは、実態を偽り、実体以上に見せかけることで、人を騙すこと。

『ある人が嘘を吐くということを考えてみれば、
 それは、その者が神に対しては大胆であり、人間に対しては卑怯であるということにほかならない』
これは、フランシス・ベーコンの言葉だそうだが、この場合の嘘は、小心者の哀しい嘘ではなく、実体以上に''盛る''ことで人を欺く嘘つまり偽装を意味すると思いたい、嘘から実がでることはあっても、偽装から実がでることはあり得ないと思う、今日4月1日の偽装ニュースであった。