今年の春は辛いものになると覚悟を決めていた家族が、少しでも楽しみを作るために思いついたのが、ジャガイモ種芋とブルーベリーの苗木を植えることだった。
例年なら、今時分から園芸店をのぞいて夏野菜の苗などを見るのを楽しみにしているのだが、ワンコがいない早春の庭はあまりに寂しいので、二月末にはジャガイモ種芋を、三月初めにはブルベリーの苗木を植えたのだ。
ブルーベリーは早速蕾が膨らみこちらの心を大いに弾ませてくれたが、ジャガイモの芽がでない。
二週間たっても、三週間たっても、芽が出ない。
これは土の中で種芋が腐ったのかもしれないと、せっかちで心配性な私は一つ掘り返してみたのだが、多少萎びてはいるものの、変わったところはない。
あれこれ本を読みネットで検索し、一つのアドバイスに行き当たり、それを拠り処に、その時を待っていた。
「ジャガイモの芽がでるのは、植えてから二週間目とか三週間目というのではなく、桜が満開を迎える頃である」
半信半疑で待つこと一月以上たった今月8日。
満開の桜に追い打ちをかけるような花散らしの雨が止んだと思ったら、一斉に芽が出て、瞬く間に10cmにも成長した。
何事にも時がある、という言葉を思い出す。 「和睦の時」
『天の下のすべての事には季節があり、すべての業には時がある
生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
殺すに時があり、癒すに時があり ~泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり ~
愛するに時があり、憎むに時があり、
戦うに時があり、和睦するに時がある~』(コレヘントの言葉より)
あれこれ調べたので、「ジャガイモの芽が出る時期を、桜が満開を迎える頃」と表現したのが何であったかは分からないが、その時が来れば芽が出ると云う季節の巡りにも、その時が桜が咲く頃であることにも、何ともいえない感慨がある。
だが、一か所だけ芽が出なかった場所がある。
猫の額の庭菜園なので、細々と数か所に分けて植え付けをしたのだが、一番ジャガイモ生育には適しているだろうと思われ、それ故に一番 ''力'' を入れていた場所のジャガイモの芽がでなかった。
一番日当たりがよく、一番土を耕し、一番堆肥の混ぜ加減にも気を配った場所のジャガイモだけ、芽が出なかった。
掘り返してみると、腐っているもの、何に食われたのか内側が空洞になっているもの、干からびているものなどがあり、種芋の残骸からは、発芽しなかった統一的な原因が見出せそうにない。
殺処分の理不尽を書いた本(参照、「神聖な御力とともに」 「夢が生き 夢で生かされる」 「ワンコと人の絆は永遠」)を読んだばかりなので、特にそう思うのかもしれないが、’’置かれた場所で咲きなさい’’と云われても、自分の努力ではどうにもならないこともあると思いながら、種芋の残骸の後片付けをしていていて、ふと思い浮んだことがある。
’’置かれた場所で生きなさい’’は積極思考なのかマイナス思考なのか?ということだ。
「置かれた場所で咲きなさい」(渡辺和子)を私は読んだことがないので、この本については何も書けないが、それでもこの言葉はあまりに有名になったし、それが意図するところは何となく、分かる。
この言葉は、一見ポジティブシンキングに見えるが、そもそも置かれた場所が自分の身の丈に合っていると考えている人には、この言葉は不要だと思われる。つまり、(自分が)置かれている場所は不当だと考えている人の心にこそ、この言葉が響くのだとしたら、その土壌は究極のマイナス思考なのかもしれないと思ったのだ。
こんなことをつらつら考えたのは、最近「まるまるの毬」(西條奈加)を読み、「まるまるの毬さん、お前もか」と思わず感じたからだ。
私が、高田郁氏の「みをつくし料理帖シリーズ」や和田はつ子氏の「口中医者桂助事件帖シリーズ」や「料理人季蔵捕物控シリーズ」を読んでいるのを知っている本仲間が、勧めてくれたのが「まるまるの毬」だったのだが、これらの本にはある共通点がある。
みをつくしし料理帖シリーズはともかく、和田氏の二作の主人公は口中医や料理人ではあるが、本当は前将軍の御落胤とか理不尽に立場を追われた元お武家さんという設定であり、素直に只の一介の口中医や料理人としての日々の悲喜交々を書いているのではない。
そして、「まるまるの毬」の主人公も菓子職人ではあるが、育ての親は500石の旗本であるだけでなく、実は前将軍の御落胤という捻りようである。
元の出自をめぐって起る事件と現在の生業を絡めて書けば物語に深みがでるし、厳然たる身分社会を乗り越えるストーリー展開は読む者の心を掴みやすいのだろうが、身分を乗り越え二つの立場を生きる話を書くのなら、ただの料理人や口中医がひょんなことから将軍様になったりお武家さんになったりする話があってもおかしくないが、「王子と乞食」(マーク・トウェイン)のトムの視点ははあまり、ない。
「本当は高い身分だが、本人の与り知らぬ理由で身を落とすことにことに相成った。だが、つましく真面目に頑張っている」
この手の話を我々は好きで、この延長線上に''置かれた場所で咲きなさい''があるのなら、その根っこにあるのは、ここは自分がいるには不当な場所だという思いであり、土壌としては究極のマイナス思考なのではないか。だが、それは存外、誰しも持っている毬毬をまあるく収める方法かもしれないと、上手くいかなかった種芋を片付けながら考えていた。
それでも、別の場所ででも、自分で咲く努力をする機会があるだけ人間はまだしもましで、それすら奪われ殺処分される命もあるのだと胸を痛めながら、庭に咲くフリージアをワンコ聖地に届けた日曜の午後であった。
例年なら、今時分から園芸店をのぞいて夏野菜の苗などを見るのを楽しみにしているのだが、ワンコがいない早春の庭はあまりに寂しいので、二月末にはジャガイモ種芋を、三月初めにはブルベリーの苗木を植えたのだ。
ブルーベリーは早速蕾が膨らみこちらの心を大いに弾ませてくれたが、ジャガイモの芽がでない。
二週間たっても、三週間たっても、芽が出ない。
これは土の中で種芋が腐ったのかもしれないと、せっかちで心配性な私は一つ掘り返してみたのだが、多少萎びてはいるものの、変わったところはない。
あれこれ本を読みネットで検索し、一つのアドバイスに行き当たり、それを拠り処に、その時を待っていた。
「ジャガイモの芽がでるのは、植えてから二週間目とか三週間目というのではなく、桜が満開を迎える頃である」
半信半疑で待つこと一月以上たった今月8日。
満開の桜に追い打ちをかけるような花散らしの雨が止んだと思ったら、一斉に芽が出て、瞬く間に10cmにも成長した。
何事にも時がある、という言葉を思い出す。 「和睦の時」
『天の下のすべての事には季節があり、すべての業には時がある
生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
殺すに時があり、癒すに時があり ~泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり ~
愛するに時があり、憎むに時があり、
戦うに時があり、和睦するに時がある~』(コレヘントの言葉より)
あれこれ調べたので、「ジャガイモの芽が出る時期を、桜が満開を迎える頃」と表現したのが何であったかは分からないが、その時が来れば芽が出ると云う季節の巡りにも、その時が桜が咲く頃であることにも、何ともいえない感慨がある。
だが、一か所だけ芽が出なかった場所がある。
猫の額の庭菜園なので、細々と数か所に分けて植え付けをしたのだが、一番ジャガイモ生育には適しているだろうと思われ、それ故に一番 ''力'' を入れていた場所のジャガイモの芽がでなかった。
一番日当たりがよく、一番土を耕し、一番堆肥の混ぜ加減にも気を配った場所のジャガイモだけ、芽が出なかった。
掘り返してみると、腐っているもの、何に食われたのか内側が空洞になっているもの、干からびているものなどがあり、種芋の残骸からは、発芽しなかった統一的な原因が見出せそうにない。
殺処分の理不尽を書いた本(参照、「神聖な御力とともに」 「夢が生き 夢で生かされる」 「ワンコと人の絆は永遠」)を読んだばかりなので、特にそう思うのかもしれないが、’’置かれた場所で咲きなさい’’と云われても、自分の努力ではどうにもならないこともあると思いながら、種芋の残骸の後片付けをしていていて、ふと思い浮んだことがある。
’’置かれた場所で生きなさい’’は積極思考なのかマイナス思考なのか?ということだ。
「置かれた場所で咲きなさい」(渡辺和子)を私は読んだことがないので、この本については何も書けないが、それでもこの言葉はあまりに有名になったし、それが意図するところは何となく、分かる。
この言葉は、一見ポジティブシンキングに見えるが、そもそも置かれた場所が自分の身の丈に合っていると考えている人には、この言葉は不要だと思われる。つまり、(自分が)置かれている場所は不当だと考えている人の心にこそ、この言葉が響くのだとしたら、その土壌は究極のマイナス思考なのかもしれないと思ったのだ。
こんなことをつらつら考えたのは、最近「まるまるの毬」(西條奈加)を読み、「まるまるの毬さん、お前もか」と思わず感じたからだ。
私が、高田郁氏の「みをつくし料理帖シリーズ」や和田はつ子氏の「口中医者桂助事件帖シリーズ」や「料理人季蔵捕物控シリーズ」を読んでいるのを知っている本仲間が、勧めてくれたのが「まるまるの毬」だったのだが、これらの本にはある共通点がある。
みをつくしし料理帖シリーズはともかく、和田氏の二作の主人公は口中医や料理人ではあるが、本当は前将軍の御落胤とか理不尽に立場を追われた元お武家さんという設定であり、素直に只の一介の口中医や料理人としての日々の悲喜交々を書いているのではない。
そして、「まるまるの毬」の主人公も菓子職人ではあるが、育ての親は500石の旗本であるだけでなく、実は前将軍の御落胤という捻りようである。
元の出自をめぐって起る事件と現在の生業を絡めて書けば物語に深みがでるし、厳然たる身分社会を乗り越えるストーリー展開は読む者の心を掴みやすいのだろうが、身分を乗り越え二つの立場を生きる話を書くのなら、ただの料理人や口中医がひょんなことから将軍様になったりお武家さんになったりする話があってもおかしくないが、「王子と乞食」(マーク・トウェイン)のトムの視点ははあまり、ない。
「本当は高い身分だが、本人の与り知らぬ理由で身を落とすことにことに相成った。だが、つましく真面目に頑張っている」
この手の話を我々は好きで、この延長線上に''置かれた場所で咲きなさい''があるのなら、その根っこにあるのは、ここは自分がいるには不当な場所だという思いであり、土壌としては究極のマイナス思考なのではないか。だが、それは存外、誰しも持っている毬毬をまあるく収める方法かもしれないと、上手くいかなかった種芋を片付けながら考えていた。
それでも、別の場所ででも、自分で咲く努力をする機会があるだけ人間はまだしもましで、それすら奪われ殺処分される命もあるのだと胸を痛めながら、庭に咲くフリージアをワンコ聖地に届けた日曜の午後であった。