何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

毬を禍にも毒にもせぬように

2016-04-13 21:07:48 | 
 「毬毬をまあるく収める為に」 「身を縁取る翠の時」のつづき

表題作の「まるまるの毬」について書いていなかったので、しつこく「まるまるの毬」(西條奈加)話。
表題作だから書いておかねばならないというものでもないが、この作品には、私が本を読むとき作者の視点として関心を寄せている「心の持ちよう」について書かれているので、その点に絞って記してみる。

元はお武家しかも前将軍の御落胤である治兵衛が菓子職人になり、娘お永と孫娘お君と切り盛りする南星屋は大看板を背負ってはいないが、美味しさと安さがウケて大繁盛してる。
平穏な暮らしのために出自を隠す治兵衛だが、忙しい日々に波風を立てないように、それぞれが胸に隠し持っている「屈託」があり、お永が父・治兵衛と娘お君に言えないままに元亭主に会っているというのも、その一つだった。
娘と孫娘を捨てて他所にこさえた女と出奔した娘婿を治兵衛は許す気はないし、お君も自分と母を捨てて出て行った父に怒りしかない。
それを知るお永は舞い戻ってきた亭主と会っていると言えないままに苦しんでしまうのだが、その苦しみを見た父が口にする言葉が印象に残ったのだ。

表題作になる団子の菓子をつくるとき、治兵衛は娘と孫に言い聞かせていた言葉がある。
『団子みたいに気持ちもまあるく。それがこいつのコツだからな』
この言葉を頑なまでに守り、娘お永は夫に裏切られた悔しさ悲しさ怒りも見せず、涙をのんで、まあるく捏ね続けた。
『丸くて白い団子のような、まあるい持ちでいて欲しいと、そう願ったのはおそらく俺だ。だからお永は毬を表に出すことができず、長いこと苦しんできたんだ。』
『他人の気持ちに聡い娘だ。お永は己を殺し、父の願った理想の娘を演じ続けてきた。治兵衛には、そう思えてならなかった。だからお永は己の毬を、外ではなく内に纏うしかなかったのだ。その毬はただ己だけを苛んで、お永はたった一人で苦しむより他なかった。』

誰かの理想に沿うため自分でない何かを黙って演じ続けることの苦悩や、心の奥底に溜まってくる膿を黙って一人で抱える苦悩については、これまでも書いてきた。
「闇医者おゑん 秘録帖」(あさのあつこ)にも「鬼はもとより」(青山文平)にも、黙って言葉を呑み込んでしまう危険は書かれている。
『言葉には外に出すべきものと、内に秘めたままにしておくべきものと二通りがあるのだそうです。
 秘めておくべきものを外に出せば禍となり、外に出すべきものを秘めておくと腐ります。』
『言葉には命がある。命あるものは生かされなければ腐り、腐れば毒を出すとね』 「闇医者おゑん 秘録帖」より

『體の深くに、無数の(精神的)疵を溜めこんでいく。いまは顎の震え程度で済んでいるが、遠からず、その疵は別の形で、清明を壊すかもしれなかった。内なる疵が重なれば、體の強い者は心を壊し、心の強い者は體を壊す。そうなる前に、いまの席から清明を離れさせなければならない』 「鬼はもとより」より

独り黙って思いを呑み込めば、心の奥底で膿重なった言の葉は、痛み疵・毬となって身の内を苛んでいくと、あらゆる本が語っている。

私が、心の病に関心を持ち、本の中の「心の持ちよう」についての記述に注意して読むようになったのは、日本の皇太子妃殿下が長く心の病を患われているからだ。

そのあたりについては、つづく

ところで、今回本文中で、屈託という言葉に「 」を付けたのは、「まるまるの毬」に「屈託がある」という表現が何度もでてくるからだ。「屈託がある」という用い方があるのは知ってはいるが、「屈託」のあとにつづくのは「ない」の方が自然に感じられるのは私の趣味というか言語感覚の問題だろうか。
「屈託がある」もそうだが、本を読んでいると、作者が多用する言葉遣いや文字があることに気が付くことがある。
例えば今読んでいる「すし そば てんぷら」(藤野千夜)では、やたらと「ひとりごちる」という言葉がでてくるが、本というのは元来主人公の思いを記しているという部分があるので、頻繁に「ひとりごちる」と書かれると、少々気になってしまうというのも、私の言語感覚がおかしいからだろうか。


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