何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

身を縁取る翠の時

2016-04-12 19:15:21 | 
「毬毬をまあるく収める為に」で、定型化している時代小説について書いたが、そう書いたからといえ、それが決して嫌いなわけではない。

「胃袋は昭和」を自認している私としては、捕物・人情話に美味しいものが絡むのは大歓迎で、「みをつくし料理帖シリーズ」(高田郁)「料理人季蔵捕物控シリーズ」「口中医者桂助事件帖シリーズ」(和田はつ子)は全巻読んでいるので、武家出身の和菓子職人・治兵衛が娘と孫娘の三人で切り盛りする南星屋を舞台にした「まるまるの毬」(西條奈加)も楽しく読んだ。

七編の短編からなる本書は、一編ごとに一つの和菓子とそれにまつわる話で上手い具合に構成されているが、時節柄というべきか「若みどり」が印象に残った。

武家の嫡男といえども、まだ十ほどの少年・翠之介が弟子入りしたいと南星屋にやってくるという「若みどり」という話。
食べたい盛りの甘いもの好きなだけの少年かと思いきや、幼い妹に食べさせたいという武家の子息に、治兵衛は我が身を重ね可愛がるが、案の定、「菓子屋で修業とは何事か」と親父殿が怒鳴り込んでくる。
治兵衛を前に、「武家の嫡男だ帰って来い」「いや武士にはなりたくない」と激しく思いをぶつけあう父と息子。
遂には「甲斐性の無い自分のような武士に嫌気がさしたのか」とまで問う父に、翠之介は「貧しい武家が嫌なのではなく、貧しいこと浮かばれぬことを嘆いてばかりいる父のような武士にはなりたくないのだ」と言い放つ。
武家の内証の厳しさも、それにもかかわらず体面を保たねばならない苦労も知る治兵衛は、翠之介の名の一文字が謂れの一つでもある「若みどり」という菓子になぞらえ説得する。

''かりんとう''を思い浮かべれば分かりやすいが、「若みどり」とは『粉と砂糖を水で固めにこねて、一寸ほどの長さに細く切り、鍋で炒る。これを銅の平鍋で弱火にかけ、煮詰めた砂糖を幾度もかけまわしながら、砂糖衣を纏わせた』菓子をいう。
「みどり」という名には相応しくない色の菓子の名前には諸説あり、その形が「松の翠」つまり松葉に似ているからだという説もあるが、別の謂れもあるという。
『別の謂れがありましてね。松の翠ではなく、身を縁取るということからその名がついたと、そういう説もあるんですよ』
『砂糖を幾度もかけて、衣を纏わせることが名前の由来だ、というものもあった』
『翠坊ちゃんも、今は身を縁取る時だと思いますよ。手習や剣術もそのためのもので、己のすべきことをきちんと修めて、それでも菓子屋になりてえと言うなら、相談に乗りやしょう。それまでは、決してここへ来てはなりやせん』

「身を縁取る時」という言葉に強く反応したのは、春休みに子供たちが話していたことが気にかかっていたからだ。
優秀な女の子が「私は絶対に医者になる」とちょっと必死な感じで言っているのに、うちの筋肉頭がポヤーンとしているので私が「偉いね。今年受験生になるお兄ちゃんも医学部志望なのかい」と話を向けると、「お兄ちゃんは偏差値75あるけど、どうしたらいいか分からないって悩んでる・・・・・どんなに頑張っても、自分のせいじゃないことで、上手くいかないことがあるから」と悲しそうに言う。
そうなのだ。
この優秀な兄妹の両親はやはり共に非常に優秀で、年明けから買収だの身売りだのと世間を賑わせた企業のエンジニアだったことを思い出した。
金銭的な問題ももちろん小さくないだろうが、自分の与り知らぬ理由で道が閉ざされうるという世間の厳しさを、まだ早い段階で知ることになった優秀な兄妹に胸が痛くなったので、「身を縁取る時」という言葉が印象に残ったのだ。

子供というのは、意外に、親や大人や社会の事情を察している、察しているから「身を縁取る時」をどのように過ごすべきかと悩んでしまう。
ここで一つ、素晴らしい作文を思い出す。

私はどういうめぐり合わせか高貴な家に生まれた。私は絶えず世間の注視の中にある。いつどこにおいてもわたしは優れていなければならない。私は皇室を背負っている。私の言動は直ちに皇室にひびいてくる。どうして安閑としていられよう。
高い木には風が当たり易い。それなのに高きにありながら多くの弱点をもつ自分をみるときこの地位にいる資格があるかどうか恐ろしくなる。自分の能力は誰よりも自分で一番よくわかっている。ともかく私は自分で自分を育て築きあげていかなければならない。
この炭鉱の奥深くで、来る日も来る日も働き続け世間から忘れ去られそして人知れず死に行く運命をもった人々の前に立った時、護衛の警官やおおぜいのお供をひきつれている自分の姿にいたたまれぬ申し訳なさを感じた。

これは、照宮成子内親王殿下 女子学習院中等科5年生17歳の頃の作文だ。

戦時下に神格化された御家庭に育ちながら、炭鉱の奥深くで働く人々の運命に申し訳なさを感じ、自分で自分を築きあげねばならないと決意される作文からは、成子内親王の類まれなる素晴らしさが伝わるのは勿論だが、子供が社会や大人の事情を察し身の振り方について悩むのは、立場の違いこそあれどの時代でも同じなのだと、今更ながら気付かされたのだ。

今、ただ年だけを食って、ビミョウな感じを子供に察してもらうことが多い自分を強く強く反省し、せめて真面目に頑張っている人たち特に真面目に頑張っている子供たちを、心を込めて応援しようと思っている。

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