余震が続いている。
一夜明け、被害状況が明らかになるにつれ、震度7の大きさ恐さを改めて感じている。
<長周期地震動の「階級4」を国内初観測 震度6強の余震で> 産経新聞2016.4.15 05:42配信より一部引用
熊本県益城町で14日夜に発生した震度7の地震で、気象庁は15日、同県宇城市で発生した震度6強の余震で、長周期地震動の「階級4」を観測したことを明らかにした。平成25年3月に長周期地震動の観測が試行されて以来、国内初。
気象庁によると、15日午前3時までに発生した余震は計75回。うち午前0時3分に宇城市で発生した震源の深さ約10キロ、推定マグニチュード(M)6・4の最大余震は、同市内の地震計で長周期地震動が4段階中最大の階級4を観測した。
長周期地震動は、大規模な地震で発生する周期の長い揺れで、高層ビルなどの高い建物に大きな揺れを生じさせる。
阪神淡路大震災を目の当たりにしたとき、「これほどの災害を目にすることは、自分が生きている間には二度とないだろう」と思ったが、あれから何度同じように酷く辛い災害に日本は襲われてきたことだろうか。
何時頃からか、災害を伝えるテレビ画面を見るのが本当に本当に辛くなり、何か心が沈み込むような感じをもつようになってきている。
だからこそ、自分に言い聞かせるためにも書いておかねばならないと思うことが、ある。
人生のあれやこれやに翻弄され、今は今でワンコをうしなった悲しみから立ち直れていないような私が、災害があったばかりの今書くべきことでもないかもしれないが、災害列島に住む者として明日は我が身との覚悟をもつため、あえて書いておこうと思っている。
それは、絶え間なく余震に見舞われる被災地がかつて銃弾が雨あられと降った激戦の地であったことから、西南戦争に続く人生模様を書いた「光と影」(渡辺淳一)を思い出したことに、ある。
「光と影」は、陸軍将校として西南戦争で戦い共に銃弾の貫通により右腕の関節上部の紛糾骨折という怪我をおった小武と寺内の人生を書いている。
政府は医薬物資を九州まで運べず又抗生物質などもなかった時代、小武と寺内はお互い励まし合いながら、治療を受けるため船で大阪に向かう。二人の傷はひどく化膿し切断は免れないという状況のなか、同じ病院で同じ日に切断の手術を受けることになったのだが、二人はその運命を受け入れていた。
だが、日に二度までも有能な若者の腕を切り落とすことに辟易とした軍医はふと、切り落とさねばどうなるか試してみたくなる。
軍医のふとした一瞬のひらめきで、先に手術した小武の腕は切断され、後に手術することになっていた寺内の腕は残された。
これが後々人生を大きく分けることになる。
腐った腕を切り落とされた小武が早々に退院し社会復帰を果たすのに対し、膿んだ腕を残したままの寺内はいつまでたっても膿と熱がひかず長く闘病生活を送ることになる。
だが、膿と熱がおさまり、さほど使い物にはならないとはいえ、ともかく両腕が残った寺内が軍にもどり出世階段を上りはじめた頃から、同期で一番優秀だったと云われた小武の苦悩は始まる。
片腕ゆえに陸軍友好クラブの管理人でしかない小武と、最終的には陸軍大臣から総理大臣にまで上り詰める寺内。
腕をなくした不自由とそれによって失ったものを嘆きながら、腕が残った寺内を羨み、人を羨み妬んでいる自分に自己嫌悪を覚えて更に苦しむという長い年月が老いとともに終わろうとしていた頃、小武は二人の人生を分けた手術の事実を知ってしまう。
小武は、同じ右上腕部の紛糾骨折ではあったが医学的理由があり二人の治療法が異なったのだと思っていたが、そうではなかった。
二人はまったく同じ状態ではあったが、単にカルテがおかれていた順番という違いだけで、腕を切り落とすか残すかが決まったのだと知り、発狂してしまうのだ。
腕を失ったとはいえ膿や痛みから早く解放され、名誉の負傷を理解しあえる人のなかで早期に社会復帰できたという事実と、腕が残されたために膿と熱がひかず「腕を切り落としてくれ」と叫びのた打ち回りながら長く苦しだという事実は見落とされがちで、その後の経歴だけで「光」と「影」の烙印が貼られてしまう。
一見すると、小武は「影」で寺内が「光」にも思えるが、同じ一人の人生のなかにも「光」と「影」があるのは、私程度の年齢を生きてくれば誰しも身に沁みて感じている。
あの時あの道を選ばなければ・・・という後悔の念をもつ事柄も一つや二つではない。
まして、それがカルテの順番、突然に襲ってくる災害であれば、何にその怒りをぶつけていいのか分からない。
だが、「光と影」を読んだとき、中学生の頃に部活の先輩から借りて読んだ「エースをねらえ!」(山本鈴美香)のなかの宗方コーチの言葉が浮かんだのだ。
たしか、この世に起る出来事にもともと幸・不幸はないのだと、それを決めるのは人間なんだ、というニュアンスの言葉だったと思う。
あの頃あの言葉に甚く心を打たれはしたが、その後に降りかかる人生のあれこれに盛大に右往左往し、宗方コーチの境地には至れない私なので、災害に苦しむ方々に「この世におこる出来事にもともと幸・不幸はないのだと、それを決めるのは人間なんだ」などとは言えるはずもない。
だが、災害列島日本に住む者として、明日は我が身と云う覚悟をもたねばならないとき、国も個人も、起っている事実以上の「影」をまとわりつかせないように心せねばならないとは思っている。
一夜明け、被害状況が明らかになるにつれ、震度7の大きさ恐さを改めて感じている。
<長周期地震動の「階級4」を国内初観測 震度6強の余震で> 産経新聞2016.4.15 05:42配信より一部引用
熊本県益城町で14日夜に発生した震度7の地震で、気象庁は15日、同県宇城市で発生した震度6強の余震で、長周期地震動の「階級4」を観測したことを明らかにした。平成25年3月に長周期地震動の観測が試行されて以来、国内初。
気象庁によると、15日午前3時までに発生した余震は計75回。うち午前0時3分に宇城市で発生した震源の深さ約10キロ、推定マグニチュード(M)6・4の最大余震は、同市内の地震計で長周期地震動が4段階中最大の階級4を観測した。
長周期地震動は、大規模な地震で発生する周期の長い揺れで、高層ビルなどの高い建物に大きな揺れを生じさせる。
阪神淡路大震災を目の当たりにしたとき、「これほどの災害を目にすることは、自分が生きている間には二度とないだろう」と思ったが、あれから何度同じように酷く辛い災害に日本は襲われてきたことだろうか。
何時頃からか、災害を伝えるテレビ画面を見るのが本当に本当に辛くなり、何か心が沈み込むような感じをもつようになってきている。
だからこそ、自分に言い聞かせるためにも書いておかねばならないと思うことが、ある。
人生のあれやこれやに翻弄され、今は今でワンコをうしなった悲しみから立ち直れていないような私が、災害があったばかりの今書くべきことでもないかもしれないが、災害列島に住む者として明日は我が身との覚悟をもつため、あえて書いておこうと思っている。
それは、絶え間なく余震に見舞われる被災地がかつて銃弾が雨あられと降った激戦の地であったことから、西南戦争に続く人生模様を書いた「光と影」(渡辺淳一)を思い出したことに、ある。
「光と影」は、陸軍将校として西南戦争で戦い共に銃弾の貫通により右腕の関節上部の紛糾骨折という怪我をおった小武と寺内の人生を書いている。
政府は医薬物資を九州まで運べず又抗生物質などもなかった時代、小武と寺内はお互い励まし合いながら、治療を受けるため船で大阪に向かう。二人の傷はひどく化膿し切断は免れないという状況のなか、同じ病院で同じ日に切断の手術を受けることになったのだが、二人はその運命を受け入れていた。
だが、日に二度までも有能な若者の腕を切り落とすことに辟易とした軍医はふと、切り落とさねばどうなるか試してみたくなる。
軍医のふとした一瞬のひらめきで、先に手術した小武の腕は切断され、後に手術することになっていた寺内の腕は残された。
これが後々人生を大きく分けることになる。
腐った腕を切り落とされた小武が早々に退院し社会復帰を果たすのに対し、膿んだ腕を残したままの寺内はいつまでたっても膿と熱がひかず長く闘病生活を送ることになる。
だが、膿と熱がおさまり、さほど使い物にはならないとはいえ、ともかく両腕が残った寺内が軍にもどり出世階段を上りはじめた頃から、同期で一番優秀だったと云われた小武の苦悩は始まる。
片腕ゆえに陸軍友好クラブの管理人でしかない小武と、最終的には陸軍大臣から総理大臣にまで上り詰める寺内。
腕をなくした不自由とそれによって失ったものを嘆きながら、腕が残った寺内を羨み、人を羨み妬んでいる自分に自己嫌悪を覚えて更に苦しむという長い年月が老いとともに終わろうとしていた頃、小武は二人の人生を分けた手術の事実を知ってしまう。
小武は、同じ右上腕部の紛糾骨折ではあったが医学的理由があり二人の治療法が異なったのだと思っていたが、そうではなかった。
二人はまったく同じ状態ではあったが、単にカルテがおかれていた順番という違いだけで、腕を切り落とすか残すかが決まったのだと知り、発狂してしまうのだ。
腕を失ったとはいえ膿や痛みから早く解放され、名誉の負傷を理解しあえる人のなかで早期に社会復帰できたという事実と、腕が残されたために膿と熱がひかず「腕を切り落としてくれ」と叫びのた打ち回りながら長く苦しだという事実は見落とされがちで、その後の経歴だけで「光」と「影」の烙印が貼られてしまう。
一見すると、小武は「影」で寺内が「光」にも思えるが、同じ一人の人生のなかにも「光」と「影」があるのは、私程度の年齢を生きてくれば誰しも身に沁みて感じている。
あの時あの道を選ばなければ・・・という後悔の念をもつ事柄も一つや二つではない。
まして、それがカルテの順番、突然に襲ってくる災害であれば、何にその怒りをぶつけていいのか分からない。
だが、「光と影」を読んだとき、中学生の頃に部活の先輩から借りて読んだ「エースをねらえ!」(山本鈴美香)のなかの宗方コーチの言葉が浮かんだのだ。
たしか、この世に起る出来事にもともと幸・不幸はないのだと、それを決めるのは人間なんだ、というニュアンスの言葉だったと思う。
あの頃あの言葉に甚く心を打たれはしたが、その後に降りかかる人生のあれこれに盛大に右往左往し、宗方コーチの境地には至れない私なので、災害に苦しむ方々に「この世におこる出来事にもともと幸・不幸はないのだと、それを決めるのは人間なんだ」などとは言えるはずもない。
だが、災害列島日本に住む者として、明日は我が身と云う覚悟をもたねばならないとき、国も個人も、起っている事実以上の「影」をまとわりつかせないように心せねばならないとは思っている。