「毬を禍にも毒にもせぬように」の文末で、『心の病に関心を持ち、本の中の「心の持ちよう」についての記述に注意して読むようになった』理由を記したうえで<つづく>としていたが、地震があり書きそびれたままになっている。それを書いた時には、「人魚の眠る家」(東野圭吾)で主人公の主治医が述べる「心の持ちよう」について考えようと思っていたのだが、「優しい死神の飼い方」(知念実希人)のワンコ&シュークリームを切っ掛けに、延命や看護について考えるところがあったので、先に、そのあたりのことを書いてみる。
「家裁の人」(作・毛利甚八作 画・魚戸おさむ)ではないが、私の仕事場には鉢植え生け花をとわず絶えず花がある。
今ではお互いの考え方が理解でき、とくに干渉し合うこともないが、以前それについて突っ込んだ話になったのは、それが、ただ花がら摘みという事柄におさまらず人生観にまで繋がる問題だと思えたからかもしれない。
ある時、シクラメンの花がだらりと萎れ横たわらんばかりになっていた。
球根の根元にまだまだ多くの蕾がついているのを確かめた私は、萎れた花をつけたままにしておけば全体に栄養が回らず蕾が咲きづらくなると思い、躊躇わずに花がらを摘んだ。
それを見た上司が驚かれた、上司にすれば、それはまだ花がらではなかったのだ。
命あるものは最後の最後まで生かしておいてあげたい、というのがクリスチャンの上司の考えであり、思えば母も同じようなことを言っていた。
だが、私は少し違う。
それが最後の一輪なら、もしかすると私も最後の最後まで咲かせてあげたいと思うかもしれないが、次の出番をまつ蕾の栄養分を奪ってまで萎れた花をつけているのは違うのではないか、という思いもあるが、それよりも、美しく咲き誇っていた花の気持ちになってみれば、色褪せ萎れてしまっている姿を晒し続けたくはないはずだ、と思えるのだ。
今では、ギリギリのところまで花を愛で、上司にすれば(少し)早いが私にすれば(少し)遅いというタイミングで、花がらを摘むことで落ち着いているが、花を手折る時について身を切られるような思いで考えなければならない時がきた。
ワンコは最後の最後まで美し過ぎた。
愛らしい目も優しい眼差しも、つややかな鼻も美しい毛艶も若かりし頃と変わるところはなかった。
血液検査でもレントゲンでもエコーでも、異常はなかった。
ただ、少しずつ少しずつ体重が減り、その時が近づいていっていると傍目には明らかだったのだと思う。
そして、傍目には私が、「人魚の眠る家」の薫子のようになるのではないかと思われていたのだと、思う。
薫子夫婦には、小学校お受験真っ最中の娘・瑞穂がいたが、その娘がプールで溺れて病院に運ばれたという第一報が入るところから物語は始まる。
薫子夫妻は、脳死状態に陥っているとはいえ、今にも起き出しそうな外見の娘の<死>を受け入れられず、あらゆる手段を講じて延命を図る。
薫子の夫(脳死状態の娘の父)が経営する会社の先進技術は、コンピューターや機械を駆使しての自発呼吸と筋肉稼働を可能にし、現代医学では奇跡と云われながら数年にもわたり延命を続けていた。
周囲の「既に死んでいる人間に無理をさせている」「母親の自己満足」という非難の声には、『この世には狂ってでも守らなきゃいけないものがある』と言い張り譲らなかった母・薫子だが、息子(脳死状態の娘の弟)がそれが原因でイジメに遭っていると知り、「死」とは何かと問いかけるための事件を起こす。
警察官を呼びつけたうえで、娘に包丁を突き付け「死とは何か」と警察官に問いかけるのだ。
薫子は問う。
『もし私達が臓器提供に同意して、脳死判定テストをしていたなら、脳死と確定していたかもしれないんです。
法的脳死の確定イコール死です。それでも娘の死を招いたのは私でしょうか。
心臓を止めたのは私だったとしても、私達の態度次第で、死はとうの昔に訪れていた可能性があるんです。
それでも殺したのは私でしょうか。こういう場合、推定無罪が適用されるのではないですか』
『今の瑞穂の扱いは、まるで生きている死体。そんなかわいそうな立場においておけない。
生きているのか死んでいるのか、法律に・・・・・国に決めてもらう。
瑞穂はとうの昔に死んでいたというのなら、私は罪には問われない。
生きていたというなら殺人罪。でも私は喜んで刑に服します。
あの事故の日から今日まで私が介護してきた瑞穂は、たしかに生きていたというお墨付きを貰えたわけだから』
誰が命の器を決めることができるのか?
昨年秋、ワンコ実家でワンコがショック状態をおこした時、涙を流す私に実家母さんは「ワンコはこの年齢では考えられないほどに若さとキレイさを保っている。この姿を、飼い主家族の胸に留めておきたいとワンコ自身は願っていると思うよ。医療は進んでいるけれど、命の流れに任せるべきだよ」と静かに諭してくださった。「シルバー&ワンコ敬愛の週」
初冬から通い詰めていた掛かりつけワンコ病院の美人先生は、まだ重篤とは思えない時期から、さりげなく話して下さっていたことがある。
「毎日でも点滴をして、人間でいえば胃瘻をほどこしスパゲティー状態にしてでも生かしておきたいと思えば可能だけれど、どうでしょう?体重が減り骨ばってくれば皮膚を突き破って骨が出てくることがあり、暑い時期にそうなれば、どんなに丁寧に介護をしていても、たちまちウジが湧くことがある。命の流れに任せることは大切ですよ」
・・・・・そう説いておられた美人先生は、ワンコの最期を聞いて「命の器を生ききったのですよ」と涙ぐまれた。
ワンコは、薫子の娘・瑞穂と同じに、自分でその時を定めて、眠りながら笑いながら眠っていってしまった。
「人魚が眠る家」には、四葉のクローバーを見つけた娘に薫子が「それを見つけたら幸せになれるのよ。持って帰れば」と勧めた時のことを思いだす場面がある。
『瑞穂は幸せだから大丈夫。この葉っぱは誰かのために残しとくって、そのままにしておいたの。
会ったこともない誰かが幸せになれますようにって』
知らない誰かのために四葉のクローバーを残しておくような優しさをもった少女(小学校入学前)だったからだろうか、母自身が十分納得がいくだけの介護する時間を与え、又それ以上に家族を苦しめないタイミングで、自ら天国へ旅立っていったのだ。
人間の言葉を完璧に理解していたワンコは、美人先生の言葉も分かっていたのかもしれないし、家族に次々おこる体調不良も敏感で優しいワンコは感じ取っていたのかもしれない。
何より、「男前で美男子で気品があって凛々しくて、天才で賢くて、か~わいい~か~わいい~」と声かけられることを常としていたワンコは、その美しいままの姿を家族の心に留めておきたかったのかもしれない。
暖冬だったこの冬唯一の大寒波の、あの日、眠りながら笑いながら眠っていってしまった。
一日半家で一緒にすごして、家族皆そろって見送ることができたのは、あの二日だけが寒い寒い日だったからだ。
私にはワンコがあの日を選んだように思えるのだ。
だが、ウジウジ悩む癖のある私は、シュークリームをお預けにしていたことを気に病んでしまう。
高脂血症や中性脂肪の数値を気にするよりも、美味しいもので幸せだと感じさせてあげれば良かったと、そうすれば「もっと美味しいものを食べるために長生きしよう」とワンコ自身が思ったのではないかと、ウジウジ考えてしまうぐらいだから、介護や体調異変の気付きについての後悔は尽きない。
花の気持ちと、花を手折らねばならない人の気持ちと・・・・・答えが分からないままに、春が過ぎようとしている。
「家裁の人」(作・毛利甚八作 画・魚戸おさむ)ではないが、私の仕事場には鉢植え生け花をとわず絶えず花がある。
今ではお互いの考え方が理解でき、とくに干渉し合うこともないが、以前それについて突っ込んだ話になったのは、それが、ただ花がら摘みという事柄におさまらず人生観にまで繋がる問題だと思えたからかもしれない。
ある時、シクラメンの花がだらりと萎れ横たわらんばかりになっていた。
球根の根元にまだまだ多くの蕾がついているのを確かめた私は、萎れた花をつけたままにしておけば全体に栄養が回らず蕾が咲きづらくなると思い、躊躇わずに花がらを摘んだ。
それを見た上司が驚かれた、上司にすれば、それはまだ花がらではなかったのだ。
命あるものは最後の最後まで生かしておいてあげたい、というのがクリスチャンの上司の考えであり、思えば母も同じようなことを言っていた。
だが、私は少し違う。
それが最後の一輪なら、もしかすると私も最後の最後まで咲かせてあげたいと思うかもしれないが、次の出番をまつ蕾の栄養分を奪ってまで萎れた花をつけているのは違うのではないか、という思いもあるが、それよりも、美しく咲き誇っていた花の気持ちになってみれば、色褪せ萎れてしまっている姿を晒し続けたくはないはずだ、と思えるのだ。
今では、ギリギリのところまで花を愛で、上司にすれば(少し)早いが私にすれば(少し)遅いというタイミングで、花がらを摘むことで落ち着いているが、花を手折る時について身を切られるような思いで考えなければならない時がきた。
ワンコは最後の最後まで美し過ぎた。
愛らしい目も優しい眼差しも、つややかな鼻も美しい毛艶も若かりし頃と変わるところはなかった。
血液検査でもレントゲンでもエコーでも、異常はなかった。
ただ、少しずつ少しずつ体重が減り、その時が近づいていっていると傍目には明らかだったのだと思う。
そして、傍目には私が、「人魚の眠る家」の薫子のようになるのではないかと思われていたのだと、思う。
薫子夫婦には、小学校お受験真っ最中の娘・瑞穂がいたが、その娘がプールで溺れて病院に運ばれたという第一報が入るところから物語は始まる。
薫子夫妻は、脳死状態に陥っているとはいえ、今にも起き出しそうな外見の娘の<死>を受け入れられず、あらゆる手段を講じて延命を図る。
薫子の夫(脳死状態の娘の父)が経営する会社の先進技術は、コンピューターや機械を駆使しての自発呼吸と筋肉稼働を可能にし、現代医学では奇跡と云われながら数年にもわたり延命を続けていた。
周囲の「既に死んでいる人間に無理をさせている」「母親の自己満足」という非難の声には、『この世には狂ってでも守らなきゃいけないものがある』と言い張り譲らなかった母・薫子だが、息子(脳死状態の娘の弟)がそれが原因でイジメに遭っていると知り、「死」とは何かと問いかけるための事件を起こす。
警察官を呼びつけたうえで、娘に包丁を突き付け「死とは何か」と警察官に問いかけるのだ。
薫子は問う。
『もし私達が臓器提供に同意して、脳死判定テストをしていたなら、脳死と確定していたかもしれないんです。
法的脳死の確定イコール死です。それでも娘の死を招いたのは私でしょうか。
心臓を止めたのは私だったとしても、私達の態度次第で、死はとうの昔に訪れていた可能性があるんです。
それでも殺したのは私でしょうか。こういう場合、推定無罪が適用されるのではないですか』
『今の瑞穂の扱いは、まるで生きている死体。そんなかわいそうな立場においておけない。
生きているのか死んでいるのか、法律に・・・・・国に決めてもらう。
瑞穂はとうの昔に死んでいたというのなら、私は罪には問われない。
生きていたというなら殺人罪。でも私は喜んで刑に服します。
あの事故の日から今日まで私が介護してきた瑞穂は、たしかに生きていたというお墨付きを貰えたわけだから』
誰が命の器を決めることができるのか?
昨年秋、ワンコ実家でワンコがショック状態をおこした時、涙を流す私に実家母さんは「ワンコはこの年齢では考えられないほどに若さとキレイさを保っている。この姿を、飼い主家族の胸に留めておきたいとワンコ自身は願っていると思うよ。医療は進んでいるけれど、命の流れに任せるべきだよ」と静かに諭してくださった。「シルバー&ワンコ敬愛の週」
初冬から通い詰めていた掛かりつけワンコ病院の美人先生は、まだ重篤とは思えない時期から、さりげなく話して下さっていたことがある。
「毎日でも点滴をして、人間でいえば胃瘻をほどこしスパゲティー状態にしてでも生かしておきたいと思えば可能だけれど、どうでしょう?体重が減り骨ばってくれば皮膚を突き破って骨が出てくることがあり、暑い時期にそうなれば、どんなに丁寧に介護をしていても、たちまちウジが湧くことがある。命の流れに任せることは大切ですよ」
・・・・・そう説いておられた美人先生は、ワンコの最期を聞いて「命の器を生ききったのですよ」と涙ぐまれた。
ワンコは、薫子の娘・瑞穂と同じに、自分でその時を定めて、眠りながら笑いながら眠っていってしまった。
「人魚が眠る家」には、四葉のクローバーを見つけた娘に薫子が「それを見つけたら幸せになれるのよ。持って帰れば」と勧めた時のことを思いだす場面がある。
『瑞穂は幸せだから大丈夫。この葉っぱは誰かのために残しとくって、そのままにしておいたの。
会ったこともない誰かが幸せになれますようにって』
知らない誰かのために四葉のクローバーを残しておくような優しさをもった少女(小学校入学前)だったからだろうか、母自身が十分納得がいくだけの介護する時間を与え、又それ以上に家族を苦しめないタイミングで、自ら天国へ旅立っていったのだ。
人間の言葉を完璧に理解していたワンコは、美人先生の言葉も分かっていたのかもしれないし、家族に次々おこる体調不良も敏感で優しいワンコは感じ取っていたのかもしれない。
何より、「男前で美男子で気品があって凛々しくて、天才で賢くて、か~わいい~か~わいい~」と声かけられることを常としていたワンコは、その美しいままの姿を家族の心に留めておきたかったのかもしれない。
暖冬だったこの冬唯一の大寒波の、あの日、眠りながら笑いながら眠っていってしまった。
一日半家で一緒にすごして、家族皆そろって見送ることができたのは、あの二日だけが寒い寒い日だったからだ。
私にはワンコがあの日を選んだように思えるのだ。
だが、ウジウジ悩む癖のある私は、シュークリームをお預けにしていたことを気に病んでしまう。
高脂血症や中性脂肪の数値を気にするよりも、美味しいもので幸せだと感じさせてあげれば良かったと、そうすれば「もっと美味しいものを食べるために長生きしよう」とワンコ自身が思ったのではないかと、ウジウジ考えてしまうぐらいだから、介護や体調異変の気付きについての後悔は尽きない。
花の気持ちと、花を手折らねばならない人の気持ちと・・・・・答えが分からないままに、春が過ぎようとしている。