何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

Y・kは遠かった

2016-10-05 23:33:33 | 
「川を渡る覚悟で海を渡る」より 

久坂部羊氏の本は、ほぼ全て読んでいる。
読むたびに、久坂部氏の作品はある種のアンチテーゼだろうと思いつつも、久坂部氏の代表作「廃用身」「破裂」「無痛」をたて続きに読み衝撃を受けた私は、その作風に爬虫類のような''ぬるり''とした捉えどころのなさと''ひんやり''とした質感を感じていた。
’08後期高齢者医療制度が社会問題化する以前に書かれた「破裂」(出版’04)は、超高齢化社会の医療費が日本の財政を破綻させかねないという危機感を示すだけでなく、病者と高齢者のQOLについて真正面から問うており、その先見性に気付いてはいたのだが、これを「廃葉身」と「無痛」と併せて読んだために、冷徹で変質的な印象を強く持ってしまったのかもしれない。

これを根底から覆したのが、「ブラック・ジャックは遠かった」だった。
さしずめ、「私の理解は真の久坂部像から遠かった」とでもいうべきだろうか。

まだ初心で純情な医学部(研修医時代も含む)時代が書かれている「ブラックジャックは遠かった」の久坂部氏と、’’白い巨塔’’の財前教授のもと鍛えられた久坂部氏がまったく同じだとは思わないが、人間性の根っこは、そうそう変わるものでもない。
そして、若かりし頃の久坂部氏は、人の死と心の痛みを人一倍感じる繊細な青年だったのだ。
もしかすると、久坂部氏は自分の繊細さと比較し図太く無神経な医療関係者を目の当たりにして驚くとともに、又そうでなければ機能しない病院という場の厳しい現実に失望し、あのような作風の作品を手掛けるようになったのかもしれない。

ともあれ、ナニワの風景とともに語られる久坂部氏の学生時代を記しておきたい。

解剖実習 (『 』「ブラック・ジャックは遠かった」より引用)
始めの頃は、実習日には食欲をなくし食事がのどを通らなかった学生も、いつしか手をチョロット洗っただけで平気で弁当を食べるようになる。
解剖そのものに対しても、当初は(におい予防の意味もあるが)おっかなびっくり白衣に手袋マスクに帽子という完全武装(正装)で臨んでいるが、一月も経つと慣れてしまい、手袋を脱いだ手で平気で遺体に触るだけでなく、遺体に顔を近づけメスとハサミで切り分け、切り取った部位を片手に筋肉や血管の名を確認するようになる。
実習が進めば、遺体は人間の形を失い、分解された腕・胸部・頭蓋骨・下腿などがそこらに転がるようになるのだが、その日の実習が終われば包帯でまとめられる。これも、最初は丁寧に復元するのが、次第にいい加減になり、そのうち腕が左右逆であろうが、爪先が背中に向いていようが平気になってしまう。
このような心理を久坂部氏は嘆いている。
『全ての遺体に人生があり、喜怒哀楽があり、さまざまな経験と深い思いがあったはずなのに』 『解剖などという行為に、慣れてはいけない』と書いている。

臨床実習
ご遺体の人生に思いを馳せる久坂部氏なので、生きた患者に対して行われる「ポリクリ」(臨床医学の実習)では、『患者の心情に気を取られたり、医療の在り方に疑問を持ったり、矛盾を感じたりすることが多かった。更には人間が直面させられる病気という過酷な運命に何度も慄然とさせられ』『心が乱れて、勉強に集中できな』かった。
子宮の形状が普通でないため三度の流産を経験している女性の運命の過酷さと、その女性にかける教授の言葉の虚しさに、久坂部青年は『息が詰まるほどの恐怖を感じ』、平静ではおれない。
また、助かる見込みが5割以下の乳がんの手術を待つ若い女性を、学生たちが触診させてもらうという実習の時も、久坂部青年は悩む。
正常な乳房・乳腺と癌があるそれとを比較するため、多くの学生たちに触診される女性の心情が気になり、病室をでる時に振り返り、女性が布団を頭からかぶり声を殺して泣いている姿を見てしまう。『癌がリンパ節に転移し、死の瀬戸際に立たされている彼女を、勉強の具にし、ただ通り過ぎていく』 『そんな自分に、どうしようもない嫌悪を感じた』と久坂部氏は述懐している。

久坂部青年は、実習や研修を重ねるごとに、人の過酷な人生を思い悩みを深くする一方で、先輩医師たちの対応へ疑問を募らせていくし、インオペの判断や転院事情についても、知識での理解と患者の心情を思いやる心がぶつかり葛藤する。
当時の久坂部氏は合理主義とヒューマニズムとの狭間で悩んだし、現在でも良い医師と優秀な医師とは何かで悩んでいるという。

こんなにも繊細で正義感に燃えた久坂部氏ならば、「白い巨塔」(山崎豊子)では善意の人・里見派かと思いきや、そうではなかったらしい。
入学したての医学部生に自校が酷く描かれている映画「白い巨塔」を見せる阪大医学部は、果たして懐が深いのか?ボケとツッコミ精神が旺盛なだけのかは分からないが、同級生全員が「財前五郎はけしからん」「あんな奴、医者の風上にも置けん」と怒るなか、久坂部氏はたった一人「財前五郎は偉い」と言っていたという。
それが25年もたてば皆 『財前はおるけど里見は絶対おれへんな』 に変わっているという。
終始一貫財前派の久坂部氏の言い分は、「性格はいいが腕の悪い医者と、性格は悪いが腕のいい医者がいたら、どちらを選ぶかは一目瞭然。里見は熱心でいい先生に見えるが、一人の患者にあれほど掛かりきりになれば、あとは全部ほったらかしになるから」ということらしいが、このあたりに、「破裂」「廃葉身」にみる現実的な一面があるのだと思う。

ところで、本書でも書かれているが、「白い巨塔」の財前五郎にはモデルがおられる。
本書では、名前だけがモデルとして使用されたことになっているが、私が手にする虎の巻によると、どうだったか? 法学部の私が、なぜ医学部の先生に習ったのか、今となっては何を習ったのかさえも覚えてないが、「白い巨塔」の裏話をよくしてくださった。そして、私が「白い巨塔」の愛読者だと知ると、A4二枚に詳しい人物相関図や小話をまとめたものを下さった、その虎の巻によると、本家本元の教授はその名もナント、神前五郎氏。(注、本書でも本名は記載されているし、例のwikipediaにも書かれているので、秘密の暴露でもなんでもない)

「神の前」を、「財の前」に変えてしまう山崎豊子氏、おそるべし!

おそるべし!ならぬ、怒るべし!話~怪しからん医師国家試験も記されている。
医師国家試験は資格試験なので、受験性は互いにライバルではなく、むしろ同志なので積極的に情報交換がなされるそうだ。
久坂部氏は、試験当日、神戸大に行った高校の同級生から得た複数の情報が見事に的中し喜ぶのだが、その理由は、昨年発覚したある国家試験の不正と同様。
『あれはある大学の女子医学生が、出題者の教授からベッドで聞き出した情報やから』(『 』「BJは遠かった」より引用)
昨年の事件のケースは、教授が問題漏洩をエサに女子学生を誘ったのか、その逆なのかは分からないが、久坂部青年の時代から同様の手口で問題が漏れているのだとしたら、これは古典的な手口なのかもしれない、などと感心している場合ではない。
ところで、私が学生の頃には、ある国家試験の試験委員を務める某教授の講義は、教室に鍵がかかると言われていた・・・・・。


夢のまた夢、と云われるナニワのことを書いているせいか、少々脱線気味になってきたので、このあたりで「ブラック・ジャックは遠かった」における久坂部氏の心象風景をかってに想像するのは、終わりにするが、これからも久坂部氏の作品を読むことは、続いていこうと思っている。

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