何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

播隆上人へ捧ぐアルペン踊り

2016-10-26 22:05:55 | 自然
「神宿るものたち まる&穂高」より

大正池の画像を望んでいたのだが、膨大な量の画像からそれを見つけ出す時間がなく、私が撮ったらしき画像を何枚か頂戴したのだが、そのなかに、天狗原からの槍ケ岳があったので、「槍ヶ岳開山」(新田次郎)の一節を思い出した。

「なぜ山に登るのか」と問われ、エベレスト登頂を目指したイギリス人登山家ジョージ・マロリーが「そこに山があるから」が答えたことは、つとに有名だが、これが日本人だったら何と答えるだろうかと考えた時、私の心にしっくりくる答えの一つが、「槍ヶ岳開山」の修行僧・播隆の言葉である。

『山を登ることは人間が一心不乱になれることです。一心不乱になって念仏が唱えられる場所が登山なのです。
 悟りに近づくことなのです。悟りとは何事にも心が動かされなくことです。死を恐れなくなることです。~略~
 一心不乱に登ることです』(『 』「槍ケ岳開山」より引用)

一心不乱になり悟りに近づくために登山するのか、山に登ることで一心不乱の境地にいたり悟りを得られるのかは分からないが、急坂に喘いでいると、私のような素人登山者でも、無我の境地というものを感じる瞬間がある。
そして、諸々に絡め取られた日常が、滂沱と流れる汗とともに、流れ去る爽快感がある。

初めて槍ケ岳に登り播隆窟を見た時には、この一節が浮かび厳かな気持ちになったものだが、播隆窟の写真も頂上からの写真も、今手元にはない。

  
左は、播隆窟のはるか手前を左折し、登ること小一時間の天狗原から見た槍ケ岳だ。
右写真の右下の天狗池は、真夏の一時だけ氷が溶け湖面に’’逆さ槍’’が映ることでで有名らしい。「らしい」というのは、当初ここへ来る予定ではなく予備知識がなかったうえに、この年はお盆の時期も凍っており、逆さ槍を見ることはできなかったせいで実感が伴っていない為だ。

山に登るには入念な準備が必要だが、天候などに応じて変更できる柔軟性も必要で、この時も、奥穂に登る予定で横尾まで来たところ、あまりの大雨で涸沢へ向かうことが規制されたため、急きょ「槍沢ロッジ」に泊まることにしたのだ。
翌日は、半日だけ晴天との予報だったため、同部屋の猛者さんのアドバイスに従い、天狗原まで足を延ばしたのだが、素晴らしい景色に、当初の目的が果たせなかったことなど忘れ、大感動。
槍に背を向け振り返ると、目に飛び込んでくるのは(おそらく)憧れの常念岳、足元に目を転じれば可憐な高山植物が心を和ませてくれ、大満足。

とは云え、やはりもう一度槍ヶ岳に登りたい。
穂高への道程を感じることができる槍が岳だからこそ、登りたい。
せっかくデジカメを手に入れたのだから、今度こそMyデジカメに峻厳屹立とした槍の穂先を収めたい。「カメラとご意見番」
そんな想いをふつふつと湧き立たせる、この写真。
 

もっとも、そんな真面目な気持ちだけでは、急坂のしんどさは乗り切れない。
時には涸沢ヒュッテのおでんを思い浮かべ、又ある時には涸沢小屋のソフトクリームを鼻先にぶら下げ、更にある時には穂高岳山荘の焼きたてチョコクロワッサンを目指して山に登っている。
雑念だらけで悟りにはほど遠いが、凡人の私であっては、それも致し方あるまい。
槍ケ岳を開山した直後の播隆上人ですら、こう仰っているのだから。

『山は登ってみなければ結局は分かりません。
 私もほんとうはまだ分かっていません』

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする