何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

穂高の木ワンコの木 その壱

2016-10-20 09:51:25 | 
ワンコが天上界の住人になって9か月。

秋はワンコと思いっきり散歩した思い出がたっくさんあるから、辛いよ ワンコ
ポプラ並木の落ち葉を踏むと、バリバリ音がなるのをワンコは楽しんでいたね。
夏は人の体温を避け板間で寝そべるワンコが、秋になると体を摺り寄せてくれるから、私は秋が好きだったよ ワンコ

ワンコ 今年の秋は本当に本当に、辛いよ。
ワンコは電話もかけてくれないし、最近では気配も感じさせてくれないから、本当に堪えていたんだよ ワンコ
でも、今日の日に向けて読んでいた本にワンコの気配を感じて、久しぶりに嬉しかったよ。
(参照、「それでも 逢いたい」 「星の宝物 ワンコ」

「欅の木」(井上靖)
初めて穂高神社を参拝し、穂高連峰を仰ぎ見た感動は大きく、それがワンコの名前の由来となっているとは、何度も話したよね ワンコ
穂高神社には見事な大木が二本あるのだけど、そのうちの一本に、井上靖氏が感銘を受け「欅の木」が書かれたという説明書きがあるんだよ。


井上靖氏が好きで、書棚にはそのほとんどの作品があると思っていたのに、今年穂高神社で’’欅の木’’を拝むまで、「欅の木」を読んでいないことを忘れていたのは何故かと思ったのだけど、残念なことに絶版になっている作品は多く、本書もその一冊だったんだよ、ワンコ

それでも、この夏念願かなってワンコと一緒に’’欅の木’’を拝むことができたから、本を必死で探し、やっと「欅の木」を収めている井上靖全集の第20巻を手に入れたんだよ ワンコ (参照、「奇蹟を呼ぶ男 ワンコ」
そして、今日この日に感想を書きたいと思っていたんだよ ワンコ
とは云え、内容的にワンコ繋がりになるとは思っていなかったのだけど、日々の願いに繋がる内容だったから、ワンコの気配を感じたんだよ。

本書は、井上靖氏が日々思うところを、57歳の建設会社社長・旗一朗の口を借りて語っているという作品で、心の中で亡き友と語らうこともあれば、連載中の新聞コラムで世の風潮を嘆くこともある。
そのコラムに「一本の欅の木も切ってはならぬ」と書いたために巻き起こった反響と出会いが物語の中心であるため、本書の題名が「欅の木」になったのだろうが、その内容に触れる前に、心の中で亡き友人と語り合う場面について書きたいと思っている。(『 』「欅の木」引用)

ある明け方、旧制高校時代の友人が夢枕にたった。
その友人・魚頭は昭和19年1月20日未明、南海の孤島の激しい戦闘で亡くなっていたのだが、戦死した瞬間からひたすら故国日本を目指して海底を歩き続け、25年経って親友だった友・旗一朗の夢に帰ってきたのだ。
そこから、魚頭と旗一朗の会話が続いていくのだが、25年たって帰って来てみると、男も女も性別の区別がつかないような格好で、騒々しい街を歩いていると、魚頭は嘆く。
街にはビルが乱立しているが、開いている窓はなく、人がいるべき場所には見えないと言う。
やたらと車ばかり多いが、車中の人はみな表情がないと言う。
『(車の運転をする人は)無表情な顔で前方を見ているだけじゃないか。車のなかの人間は、俺には生きている人間には見えない。心を持っている人間の顔はしていないよ。ロボットだ。』
『ここからビルの群れを見ている限りでは死の町だな。人間がみんな死んでしまって、ビルだけが残されている。
 廃墟だよ。』

帰ってみれば、父も母も跡を継いでいたはずの兄も既に他界し、生家は取り壊され、郷里にはただ墓だけが残っていた。

戦後25年の人と街には失望しか感じなかった魚頭だが、富士山が見えた時には嗚咽する、慟哭する。
『富士だけが昔の姿のままだ。何も変わっていない。
 高くもならなければ、低くもならない。尖りもしなければ、平たくもならない。
 今大陸や南海から、誰でも連れて来てみろ、一人残らず、俺と同じように泣くだろう。』 と。

その思いは、大陸から帰還した旗一朗とて同じだったし、すべての兵士に共通する思いだったのだろう、旗一朗は雑誌の投稿欄で見た富士山を歌を心に刻んでいる。
『命ありて、帰還の途次に仰ぎたる、あわれ、夕暮れの富士を忘れず』

戦後25年で何もかも変わってしまったが、変わらない山河が残されていることを確認し、魚頭は郷里の墓に眠ると旗一朗に告げる。
『みんな海底を歩いて日本へ辿り着くと、それぞれの郷里に帰っていく。そして、俺と同じように郷里に眠る。
 魂魄飛びて、ここ美しい郷里に帰る、だな』

そして、最後に旗一朗に『本当に生きろよ』と言い残して、語らいを終えるのだ。

ワンコ
何も私は魚頭が残した 『本当に生きろよ』 『いいと思ったことだけをやれよ。本当にやりたいと思うことだけをやれよ』 という言葉を都合よく解釈して、感銘を受けているのではないんだよ。
分かっているよ、これは共に死線を潜った経験を持つ友人同士が、耳順を前にした年齢で交わす言葉だっていうことは。
だから、この言葉を実感するには、もうひと踏ん張りもふた踏ん張りもしてからだと、分かっているよ。
戦後たった25年で、戦死した兵士を失望させる人と街になったのだから、今はきっと目も当てられない惨状なんだろう、それを大いに反省しなければならないことも、分かっているんだよ ワンコ
ただ、私がワンコに訴えたいのは、魚頭が戦地で散ったその瞬間から、日本を目指して歩き始めたように、ワンコにも帰ってきて欲しいということなんだよ。
そして、この日に合せて読もうと思っていた本に、何年かかっても郷里を目指した人が書かれていることに、かってにワンコの気配を感じて、期待しているんだよ ワンコ

ワンコが好きなふわふわの毛布を用意して待っているから、帰っておいでよ ワンコ
待っているよ ワンコ

本書の題名となる’’欅の木’’については又つづく


追記
鳥取で震度6弱=倉吉1900人避難、けが人も―気象庁「1週間は注意」  時事通信10月21日 22:52より一部引用
21日午後2時7分ごろ、鳥取県中部を震源とする地震があり、同県倉吉市と湯梨浜町などで震度6弱、岡山県真庭市などで震度5強の揺れを観測した。鳥取、岡山両県で計7人が重軽傷を負い、建物などに被害が出た。気象庁によると、震源の深さは11キロ。地震の規模(マグニチュード)は6.6と推定される。気象庁は今後1週間、最大で震度6弱程度の地震に注意するよう呼び掛けた。

また一つ被災地と呼ばれる場所ができてしまった。
世界的活動期とはいえ、内も地も平らかでないことが、外にも天にも現れ民ばかりが苦しんでいる。
今も活発な余震活動が続いているというが、被害がこれ以上拡大せず、一刻も早い復旧を心からお祈りしている。

必ず浮かびあがる橋を架ける

2016-10-20 00:45:00 | 
「ワンコ星ひとつ欲しいとの祈り」より

見たことがないせいか、物を知らないせいか、「星がひとつほしいとの祈り」(原田マハ)を読んで初めて’’沈下橋’’というものを知った。
本書の最終作である「沈下橋」は、高知県の四万十川を舞台にした、別れた夫の連れ子・由愛と義母・多恵の話である。
主人公の多恵は、子供がないまま最初の夫とは死別し、再婚した夫とは、夫の浮気が原因で離婚に至り、来年は60歳という現在、村はずれの食堂で働きながら穏やかに暮らしていたのだが、そこに別れた夫の連れ子であった由愛から電話が入る。
歌手として成功していた由愛であったが、大麻使用が発覚し追われる身となり、かつての義理の母をたより、高知まで落ち延びてきたのだ。
一緒に暮らしたのは、由愛が13の時からの5年間で、その間も、完全に打ち解けた間柄になったわけではないが、義娘には自分が一番得意な歌を義母が理解してくれているという想いがあったし、義母は素直に義娘の歌が好きだった。
一番大切なものを理解されているという信頼感があったからだろうか、義娘は、逮捕を目前にして義母をたより高知まで来たのだが、素直になれず「川を見に来た」という、その川が四万十川だ。

つい最近 「川を渡る覚悟で海を渡る」で、人生を一歩前に進めるために乗り越えるべき川を書いてたが、本作は、二人の人間の間に横たわる距離を「川」で表現している。(『 』「沈下橋」より)

『二人の間には、容易には超えられない川がある』 と多恵は感じていた。
『(13歳で初めて会った時)最初は大河のようだった、向こう岸はかすんで見えないくらいだった。一緒に暮らすうちに、次第に川幅は狭まっていき、手を振れば見える、笑えばその顔も見える程度になり、いつしか小川程度になっていた』

離婚を機に、その川幅は一気に広がり、やがて岸も消えてしまっていたのだが、非常事態を前に、二人の間の川幅は手を取りあえるまでに狭まり、二人して四万十川とそこに架かる’’沈下橋’’を見つめているのだ。

本書によると’’沈下橋’’とは、増水時に川に沈んでしまうように設計されている、欄干のない橋のことをいう。
台風や大水の時には水中に沈むことが前提なので、低い位置に架橋され、流木や土砂が引っ掛からないように最初から欄干は設けていない’’沈下橋’’を、多恵は『こじゃんと賢い橋やね』という。
『なんだか、橋が自分で水をくぐちゅうように思えるちや。嵐のときは抗わんで、わざと飲みこまれて、全部通り過ぎたらけろっと出てくるらぁて、まっこと賢いがやない?』

そう言いながら、これから囚われの身になる義娘に、声なき声を送っている。
『この橋になればいい。』
『嵐のときには水に沈み、じっと耐える橋。空が晴れ渡れば、再び姿を現す橋に』 と。

次のステージへ進むために越えるべき物の象徴として描かれる’’川’’、人と人との距離を描くための’’川’’。
いずれも心理的には隔たりを感じさせるものだが、当然のことながら、川には橋を架けることができる。

夢や人との間に橋を架けることを諦めてもいけないが、同じ架けるならば、逆境でポキリと折れてしまうような橋ではなく’’沈下橋’’のような地味ではあっても強い橋を架けられる人になりたいと思わせてくれる、「沈下橋」であった。

写真出展 wikipedia「沈下橋」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E4%B8%8B%E6%A9%8B#/media/File:Shimanto_iwama_chinkabashi.jpg

追記
 本書では「容易には超えられない川がある」とあるが、この場合「越えられない」ではなかろうか。
恥ずかしながら、今でも時々「超える」と「越える」の用い方に迷うことがある私なので、自信をもって言うことはできないが、私ならここは「越える」を使ってしまうところだが。