何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

越えるべき川 愛すべき川

2016-10-10 14:35:55 | 
「川を渡る覚悟で海を渡る」 「口先現金男と縁と月日」 「Y・kは遠かった」より

時期を同じくして読んだ、「あきない世傳 金と銀2」(高田郁)に大川が、「ブラック・ジャックは遠かった」(久坂部羊)に大川の支流である土佐堀川と堂島川が描かれていた事から、宮本輝氏の川三部作を思い出し、古い本箱を探してみた。

あった、あった三部作「蛍川」「泥の川」「道頓堀川」。(『 』それぞれ引用)
改めて読み返すと、川の表情の違いが見事に表されている。

富山で思春期を過ごす少年の目線で書かれた「蛍川」は、時に陰鬱ながらも、しっとりとした情緒がある。
『一年を終えると、あたかも冬こそすべてであったように思われる。
 土が残雪であり、水が残雪であり、草が残雪であり、さらには光までが残雪の余韻だった。
 春があっても、夏があっても、そこには絶えず冬の胞子が潜んでいて、この裏日本特有の香気を年中重く澱ませていた』

これが、同じ川でも、大阪の川を描くと題名からして「泥の河」となり、冒頭の描写もまったく異なってしまう。
『堂島川と土佐堀川がひとつとなり、安治川と名を変えて大阪湾の一角に注ぎ込んでいく。~略~藁や板きれや腐った果実を浮かべてゆるやかに流れるこの黄土色の川を見おろしながら、古びた市電がのろのろと渡っていった』

そして、「道頓堀川」になると、もう・・・『あぶくこそ湧くことはないが、殆ど流れのない、粘りつくような光沢を放つ腐った運河』 『陽の明るいうちは、それは墨汁のような色をたたえてねっとりと淀む巨大な泥溝である』 『夜、幾つかの色あざやかな光彩我その周りに林立するとき、川は実像から無数の生あるものを奪い取る黯い鏡と化してしまう』となってしまう。

また川の表情の違いだけでなく、街と川がもつ佇まいの違いは、主人公の周辺事情の違いとなっても表れてくる。
少年の淡い初恋や、生活の目処が立たない不安を蛍を重ねて書く、富山の「蛍川」
『蛍の大群は、滝壺底に寂寞と舞う微生物の屍のように、はかりしれない沈黙と死臭をはらんで光の澱と化し、天空へ天空へと光彩をぼかしながら冷たい火の粉状になって舞いあがっていた。~略~この切ない、哀しいばかりに蒼く瞬いている光の塊に魂を注いでいると、これまでのことがすべて嘘でなかった、そのときそのとき、何もかもが嘘ではなかったと思いだされてくるのである。』

これが、大阪の川を背景にすると、「泥の川」の廓船で生活する人間の困窮になる。
『お米がいっぱい詰まってる米櫃に手ェ入れて温もってるときが、いちばんしあわせや。・・・うちのお母ちゃん、そない言うてたわ』

こう書くと、私は浪速・ナニワの川を嫌っているように見えるかもしれないが、決してそうではない。

近年ナニワの川と云うと、グリコの看板やら、阪神ファンの道頓堀川への飛び込みやら、先頃政治から足を洗ったナニワの風雲児が息巻いた「水の都」PRやら、ある種のイメージが付き纏ってしまうが、その一見あほらしいパワーを、私は決して嫌いではない。
もっとも、すごく好きかと問われると、答えに窮するのも事実ではあるので、ここは井上靖氏が日本で一番美しい川としてあげておられる梓川で話を締めくくりたい。 (以下の『 』は「穂高の月」(井上靖)より引用)

『上高地附近では、梓川はその清澄な流れの色が見る者の眼をそばだてしめるが、併し梓川の真の美しさが現れ出すのはそれから上流である。梓川の川幅はどこまで行っても狭くならない。上高地附近よりももっと広い川幅を見せ、右岸或は左岸に美しい白い磧を抱いたまま、淙々たる川瀬の音を響かせたまま樹林帯を流れている。気品がある川である。』
『私は今度の穂高行で、上高地から横尾の出合まで、梓川に沿って歩いた何時間かの行程が、一番楽しかった。』
『(略)梓川は大河の表情を持ったまま北アルプスの山ひだへと分け入っている。
私は涸沢小屋の月と梓川に惹かれて穂高に登ったのであるが、梓川の流れは、このためだけにもう一度来てもいいと思ったくらい美しかった。穂高へ来てよかったと思った。』
   
井上靖氏が楽しんだ横尾への道
行きは先を急ぐため写真を撮る余裕がなく、帰りは体力に余裕がなく良い写真を撮れず、
井上靖氏の感動を写真で記すことが出来ず、無念。


『これこそ他のどこでもなく、日本の風景の中を歩いているという思いを持つのは、穂高に登るとき、梓川に沿った樹林帯を歩いている時である。』
『山よりも、山に登ることよりも、梓川に沿った樹林帯を歩くことが楽しいのである。~(略)このように美しい川が、このように美しい樹林帯がこの世にあったのかという思いを持ったのである。』
樹林帯をそれて河原へ近づく余裕はないが、歩きながらでも撮れる美しい光景が、樹林帯である。
上高地から帰り写真の整理をしていると、ホテルから河童橋への小道と、横尾から明神までの樹林帯の’’道’’を何枚も撮っていることに気付く。早朝、川瀬の音と鳥のさえずりを聞きながら木漏れ日の下を歩く心地よさは、他では経験できない素晴らしいものである。
「穂高の月」を読み、大好きな井上靖氏が、同じ道を同じ気持ちで歩いておられたと知り、感激している。
自然がいくら素晴らしくとも、写真の腕がヘタレでは、どうしようもない。井上靖氏の感動をカメラに収めるためにも、写真の腕をなんとかしなければあきまへんな、と思う秋の夜である。