「人もワンコも、あぁ二度童」からのつづき
疲労から歯の不調でダウンする者もいる、と書いていたが本格的にダウン状態となり病院を駆けずり回る事態となっているので、年末年始にかけて先ずは何をおいても家族の応援に専念するなか、かなり不定期な記録になると思う。
数週間前、歯茎にできた小さな嚢胞のようなデキモノを切開&消毒してもらった家人。
すっきりしたようなしないような微妙な感じを騙し騙し過ごしていたが、ここ最近の寝不足のせいで抵抗力が落ちていたのも悪かったのかもしれない。歯茎の痛みは、目の痛み頭痛へと広がり、38度を超える熱まで出てきたので、歯科だけでなく内科にも駆け込む事態となり、今は明日の血液検査の結果を待ちつつ、眠れない夜を過ごしている。
掛かりつけ内科医さんは、どうも口腔外科の専門家へ問い合わせて下さったようだが、「白血球の数値などを特に重点的に調べるように」という電話の会話から察するに、何らかの感染症を疑っておられるようで心配でたまらない。
嚢胞といえば、25歳という若い女性皇族殿下が卵巣嚢胞の手術を受けられたとニュースが伝えていた。
嚢胞は良性で手術も成功したというから良かったが、未婚のうら若き女性の婦人科系の御病気についてまで発表せねばならないかと釈然としない思いを抱いている。
未婚の女性が婦人科にかかるというのは、皇族であれ一般人であれ心中穏やかでないのは容易に想像できることだが、エセ言論界は二言目には「公人」を盾に人の心の奥深くに土足で踏み込んでゆく。
雅子妃殿下も、適応障害と病名を明らかにし、投薬とカウンセリングによる治療を受けておられると発表されているが、医師でもない宮内庁担当記者が薬の内容から量まで公表するよう東宮大夫に詰め寄り、思う情報が得られなければ、「公人の自覚が足りぬ」と責め立ててきた。
婦人科系の治療も心の病も、患者にとって、ただその病気と向き合うだけでも勇気が必要だと思われるが、そこを土足で踏み荒らされなければならない「公人」とは何と辛いお立場であろうか。
もっともらしく「公私の区別」だの「公人の自覚」だの講釈を垂れる者に、節度と良識と公平と中立について問うてみたいが、女王殿下の手術も成功し雅子妃殿下も御回復の兆候が確かなものとなっているので、今はお二方の御健康を心から祈りたいと思っている。
他人の病名や病状にまで土足で踏み込む無神経を書きながら、家族とはいえ別人格の病気について誰が読むとも分からないネットで書いている自分の矛盾と「公私の区別」について考えていて、思い出した話がある。
米原万里氏のたしか「真昼の星空」だったと思うが、「海外では(少なくとも米原氏が暮らしたロシアでは)学校の宿題に日記がだされることはない」と書かれていた。
米原氏は、外国人の友人の「日記というのは内省的なものであり、人に見せるために書くものではない。もし宿題で(先生に提出するための)日記を書くとしたら、それは表日記であり、本当の心のうちは別の裏日記に書かなければならなくなる」という言葉を受けて、日本人のブログに言及していた。
米原氏曰く、誰が見るとも分からない形態のブログに、日本人ほど日記を書く民族は少ないと思われるが、それは子供の頃から他人に見せることを前提とした日記を書くことに慣れているからかもしれない、と。
この米原氏の考察は、たしか2000年頃に書かれたものであり、あれから世界は急速に変化し、世界中が日記どころかツブヤキ(独り言)まで架空空間に垂れ流す時代になっているので、事情は異なってきてはいるが、日本人の「公」と「私」の境界を考える際のヒントになると思われるのだ。
宿題日記の、公にするために心の内を記す日記を書くという矛盾は、何を題材に書くかが本人に委ねられているという曖昧さまではらんでいる。
得手勝手に選んだ題材について、公私の区別の判然としないものを書くのが、宿題日記。
わたくしの境界を自分で決め、わたくしの内面を公にする習慣が、他人の心の境界を自分勝手に判断し平気で他人の心に土足で踏み込むことに繋がるのかもしれないと、ワンコの夜鳴きで朦朧としている頭で考えてみるテスト。
こう書いてはきたものの、私は宿題日記には大いに賛成で、この宿題が激減したことが国語力の低下に繋がっているのではないかとさえ思っている。
やはり誰かに読んでもらうことを前提に、ものを書くというのは頭の体操になるのだ。
自分の気分次第で選んだ題材から本の一節を思い出し、我流の解釈を書き散らかしている私のブログも多くの矛盾を抱えているとは思うが、真面目に真摯に頑張っている人を応援する、「応援する」という一点を大切にしながら、頭の体操にも努めたいと思っている。(参照 「アインス、ツバイ、ドライ応援を 繋ぐんじゃ」)
病者と、病者を心配する人々の心の平安を祈っている。
疲労から歯の不調でダウンする者もいる、と書いていたが本格的にダウン状態となり病院を駆けずり回る事態となっているので、年末年始にかけて先ずは何をおいても家族の応援に専念するなか、かなり不定期な記録になると思う。
数週間前、歯茎にできた小さな嚢胞のようなデキモノを切開&消毒してもらった家人。
すっきりしたようなしないような微妙な感じを騙し騙し過ごしていたが、ここ最近の寝不足のせいで抵抗力が落ちていたのも悪かったのかもしれない。歯茎の痛みは、目の痛み頭痛へと広がり、38度を超える熱まで出てきたので、歯科だけでなく内科にも駆け込む事態となり、今は明日の血液検査の結果を待ちつつ、眠れない夜を過ごしている。
掛かりつけ内科医さんは、どうも口腔外科の専門家へ問い合わせて下さったようだが、「白血球の数値などを特に重点的に調べるように」という電話の会話から察するに、何らかの感染症を疑っておられるようで心配でたまらない。
嚢胞といえば、25歳という若い女性皇族殿下が卵巣嚢胞の手術を受けられたとニュースが伝えていた。
嚢胞は良性で手術も成功したというから良かったが、未婚のうら若き女性の婦人科系の御病気についてまで発表せねばならないかと釈然としない思いを抱いている。
未婚の女性が婦人科にかかるというのは、皇族であれ一般人であれ心中穏やかでないのは容易に想像できることだが、エセ言論界は二言目には「公人」を盾に人の心の奥深くに土足で踏み込んでゆく。
雅子妃殿下も、適応障害と病名を明らかにし、投薬とカウンセリングによる治療を受けておられると発表されているが、医師でもない宮内庁担当記者が薬の内容から量まで公表するよう東宮大夫に詰め寄り、思う情報が得られなければ、「公人の自覚が足りぬ」と責め立ててきた。
婦人科系の治療も心の病も、患者にとって、ただその病気と向き合うだけでも勇気が必要だと思われるが、そこを土足で踏み荒らされなければならない「公人」とは何と辛いお立場であろうか。
もっともらしく「公私の区別」だの「公人の自覚」だの講釈を垂れる者に、節度と良識と公平と中立について問うてみたいが、女王殿下の手術も成功し雅子妃殿下も御回復の兆候が確かなものとなっているので、今はお二方の御健康を心から祈りたいと思っている。
他人の病名や病状にまで土足で踏み込む無神経を書きながら、家族とはいえ別人格の病気について誰が読むとも分からないネットで書いている自分の矛盾と「公私の区別」について考えていて、思い出した話がある。
米原万里氏のたしか「真昼の星空」だったと思うが、「海外では(少なくとも米原氏が暮らしたロシアでは)学校の宿題に日記がだされることはない」と書かれていた。
米原氏は、外国人の友人の「日記というのは内省的なものであり、人に見せるために書くものではない。もし宿題で(先生に提出するための)日記を書くとしたら、それは表日記であり、本当の心のうちは別の裏日記に書かなければならなくなる」という言葉を受けて、日本人のブログに言及していた。
米原氏曰く、誰が見るとも分からない形態のブログに、日本人ほど日記を書く民族は少ないと思われるが、それは子供の頃から他人に見せることを前提とした日記を書くことに慣れているからかもしれない、と。
この米原氏の考察は、たしか2000年頃に書かれたものであり、あれから世界は急速に変化し、世界中が日記どころかツブヤキ(独り言)まで架空空間に垂れ流す時代になっているので、事情は異なってきてはいるが、日本人の「公」と「私」の境界を考える際のヒントになると思われるのだ。
宿題日記の、公にするために心の内を記す日記を書くという矛盾は、何を題材に書くかが本人に委ねられているという曖昧さまではらんでいる。
得手勝手に選んだ題材について、公私の区別の判然としないものを書くのが、宿題日記。
わたくしの境界を自分で決め、わたくしの内面を公にする習慣が、他人の心の境界を自分勝手に判断し平気で他人の心に土足で踏み込むことに繋がるのかもしれないと、ワンコの夜鳴きで朦朧としている頭で考えてみるテスト。
こう書いてはきたものの、私は宿題日記には大いに賛成で、この宿題が激減したことが国語力の低下に繋がっているのではないかとさえ思っている。
やはり誰かに読んでもらうことを前提に、ものを書くというのは頭の体操になるのだ。
自分の気分次第で選んだ題材から本の一節を思い出し、我流の解釈を書き散らかしている私のブログも多くの矛盾を抱えているとは思うが、真面目に真摯に頑張っている人を応援する、「応援する」という一点を大切にしながら、頭の体操にも努めたいと思っている。(参照 「アインス、ツバイ、ドライ応援を 繋ぐんじゃ」)
病者と、病者を心配する人々の心の平安を祈っている。