何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

架け橋の名は、雅

2015-12-09 05:00:00 | ひとりごと
<歩行者専用つり橋>長さ日本一、絶景パノラマ…静岡・三島  毎日新聞 12月8日(火)10時50分配信より一部引用
URL http://mainichi.jp/graphs/20151208/hrc/00m/040/002000g/1
静岡県三島市に、歩行者専用のつり橋としては長さ日本一という「箱根西麓(せいろく)・三島大吊橋(おおつりばし)」(愛称・三島スカイウォーク)が完成した。富士山や駿河湾、伊豆の山々など360度のパノラマが楽しめる。
つり橋は全長400メートル、高さ約70メートル、幅1.6メートル。これまで人道橋として最長だった大分県九重町の「九重“夢”大吊橋」の390メートルを抜いた。
三島市の遊技業「フジコー」が、総事業費約40億円をかけ整備した。設計は東京・レインボーブリッジも手がけた長大(東京都中央区)。



あのレインボーブリッジを手掛けた企業が設計したとあって、写真で見る限りその外観は現代的だが、富士山の圧倒的な存在感が人口建造物すら呑み込んでいるのか、世界の富士山だけあって新しいものを迎え入れる懐の深さもあるのか、真っ白な人口の吊り橋が違和感なく自然の中に納まっている。
日頃何気なく橋を渡っているが、今年渡った槍ヶ岳を源流とする梓川に架けられた横尾大橋と涸沢カール(雪渓)を源流とする急流にかかる本谷橋は、まさに''橋''であった。
一級河川にかかる橋を渡る時も、何か独特の''越える''と感じる時があるが、険しい山道で、その橋を渡らない限り向こう側にいけない橋、しかもその下には街中では見られないような水飛沫が音を立てているような橋を渡った時、違う世界に一歩踏み出すという新鮮で神秘な感じが印象的だった。

一般に「橋を架ける」「橋」といえば、異なる場所を繋ぐもので、古くは天の浮き橋にはじまり、日本中の道の始点となる日本橋を経て、この度完成した三島大吊橋に至っているが、この表現は物理的なものにとどまらない。(「羽ばたく道」
アテネオリンピックの体操男子団体の優勝が決まったシーンの、あのアナウンスは有名だ。
「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ」
28年間金メダルから離れていた体操国ニッポンが、富田選手の競技を架け橋として、現在の内村選手に代表される最強の体操国ニッポンに繋がったように、橋を架けるという言葉には、希望を繋ぐというイメージもある。

また、橋は歌や小説にも描かれているが、私にとっての「橋を架ける」本といえば、まず浮かぶのが「太陽にかける橋」(グエン・寺崎)だ。
日米開戦時にワシントン駐在の外交官だったグエンの夫・寺崎英成とグエンは日本とアメリカをつなぐ「太平洋の架け橋」となることを願い、一人娘マリコの名は日米関係の暗号電文にも使われた。
寺崎夫妻の願いも空しく日米開戦となった時、グエンは夫と離れて生きる道を選ばず、夫とともに日本へ渡る決意をする。アメリカ人でありながら、日本へ強制送還されるまでは他の日本人とともに抑留生活もし、日本の疎開先では家族中が餓死しそうなほど困窮を極めた生活もするが、苦しい中にあってグエンの持ち前の明るさは周囲の日本人との垣根を低くし、やがて取り払っていく。
しかし、グエンはただ夫に従順な明るい女性だっただけではない。
終戦直後、引っ越しを手伝ってくれる漁師さんが、これから始まる民主主義とは何かと問えば、グエンは「民衆の為の、民衆による、民衆の政治」や基本的人権について真剣に答え、グエンの話を聞いた漁師は独立宣言のなかの「幸福追求の権利」に感銘を受ける。
『(幸福追求の権利)その意味することは、人々に出来る限り自分の好む方法での行動の自由を選ばせ、政府が他の人々の幸福を保護する必要があると認めたときだけしか干渉しないという意味なんですよ』
グエンは日本人を世界でも有数の識字率を誇り知識欲をもつ民族だと考えており、その日本人が持つ疑問~新しい国の形となる民主主義とは何か~に米軍がきちんと答えられるか心配しているが、ただ気を揉むだけでなく、自分自身が知識の架け橋となろうと努めるのは、「太平洋の架け橋」となるという夢を諦めてはいなかったからだと思う。

また夫・英成が昭和天皇の御用掛に任命されマッカーサーとの通訳で皇居に参内するようになると、グエンは香淳皇后に御目通りする機会を得て、家族を思う気持ちに日米の違いはないと話し、涙を浮かべて話を聞かれた香淳皇后からは温かいお言葉を頂くが、これも「太平洋の架け橋」を日本の一番奥深くまで届けたいという願いがあったのだと思うのだ。

グエンは娘マリコが最終教育をアメリカで受けるのに伴いアメリカへ渡るが、日本への帰国を目前にして朝鮮戦争が勃発し、日本に帰れないままに夫英成が亡くなってしまう。
戦争が寺崎家族に落とした影を思うと、グエンが「Bridge to the Sun」の訳者へ書いた手紙の言葉は胸に迫ってくる。
『私たち平和を信ずるものは、常に''橋''の建設をつづけ、これを強固なものにする努力をしなければなりません。』

私は、太平洋に橋を架けることを夢見た寺崎夫妻の物語「太陽にかける橋」「マリコ」(柳田邦男)に感銘を受けていたので、「架け橋」ときけば、この二冊を思い浮かべるが、この二冊が印象深いのは、これにより外交官家庭が果たす使命に関心をもち、お妃候補となられた当初から小和田雅子さんこそ皇太子妃になって頂きたいと強く願っていたからだ。
幼少時に冷戦下のモスクワとニューヨークで暮らし、小学校と中学校という基礎学力を修得する時期は日本で学び、高校大学とアメリカで学びながら夏季研修でドイツ語とフランス語をマスターし、英国ではクイーンズイングリッシュも身につけられた雅子妃殿下は、日本と世界各国をつなぐ架け橋となる語学力を有されているが、それだけではない。
御病気のため祭祀からは遠ざかっておられるが、高祖父には鎌倉の鶴岡八幡宮の宮司がおられることもあってか、長い海外生活でも日本の四季折々の行事を大切にし、ハーバード大学時代には日本文化研究会の会長も務めておられるように、雅子妃殿下は日本と海外の文化の架け橋となる力も秘めておられる。

御成婚3年目の御誕生日には、海外でステレオタイプな報道が続いていることや、皇室での生活での戸惑いという質問に対して、ユーモア―を交えて答えておられる。
宮内庁ホームページより一部引用
私が皇室に入って変わったかどうか,それから戸惑うことがあるかどうかということにつきましては,皆様,よほど私が戸惑っているのではないかと心配してくださっているようなんですけれども,多分,今のいろいろなことが多様化してきている日本の社会においては,女性の在り方とか,女性の役割といったものについても様々な考え方があると思います。そのような中で,伝統的な皇太子妃の在り方というものと,それから自分らしさというものを,どのように調和なり,バランスの良い接点というものを見いだしていくかということについては,その時々で苦心もいたしますけれども,私がとても現代的なのか,もしくは保守的なのかということは,二つに一つということなどではなくて,多分,私の中には多くの人にとってそうであると思いますけれども,伝統的な部分とそれから新しい部分と両方があって,そしてその時々でどちらの様子をどのようにいかしていくかということなのではないかと思っています。ですから,古いものでも良いものは大切にしながら,そして新しい時代の要請というものも考慮に入れていくことが大切なのではないかというふうに考えています。

雅子妃殿下は御自分のなかに、保守的なものと現代的なもの、伝統的な部分と新しい部分があるとし、それを多様化してくる日本社会のなかで新しい時代の要請を考慮しながら、バランス良い接点を見出していきたいと希望をもって語っておられる。
この希望がかなっておれば、保守的なものと現代的なもの、伝統的な部分と新しい部分にバランス良い架け橋が架かっていたはずだが、いつからか時間が逆回りし、世はをかしな事になってしまっている。
しかし、間に合わないわけではないし、長きの病を乗り越えられる雅子妃殿下には、長く困難の中にある者との架け橋になるという新たな務めが生まれ、これは雅子妃殿下にしか果たすことができない尊い務めとなるに違いない。

今日12月9日 雅子妃殿下の御誕生日にあたり、ご健康とお幸せを祈るとともに、
雅子妃殿下がさまざまな道へと希望の架け橋をかけて下さるように祈っている。

ドイツの森

2015-12-07 19:01:15 | 
図書館論争を書く切っ掛けとなった村上春樹氏の高校時代の図書カード。
図書カードを公開するにあたりご本人の許可を取るべきであったのは当然だが、このおかげで「ノルウェーの森」を読み直すことになり、若気の至りの諸々で村上ワールドを殊更に遠ざけていた自分を反省することにもなった。

「ノルウェーの森」(村上春樹)
主人公ワタナベと高校時代の友人(恋人関係にある直子とキズキ)の三人の心模様が物語の中心にある。
直子をおいてキズキは亡くなり、恋人を失い精神的に不安定になる直子。
そんな直子をワタナベは支えようと決意し、心の中でキズキに「自分達は生きていくのだ」と語りかける。
本書のなかで、本を読む場面は何度かあるが、そのうちの一冊が「車輪の下」(ヘルマン・ヘッセ)

この設定には見覚えがある。
最近読んだ、あの作品である。
高校時代からの友人3人。後に片方が亡くなることになるカップルとそれを見守る男子一人の二十歳前後の物語。
登場人物はその年齢に似つかわしくないほど哲学的で、しかもそれを臆面もなく語るところや、物語の小物として使われる小説が「車輪の下」であることまで、瓜二つ。

だが、設定が酷似していても、「ノルウェーの森」に違和感が少ないのは、村上春樹氏が高校時代からケッセルを読み込むほどの読書家で、その年齢にしては早熟な思索が村上氏にはしっかり身についていたからかもしれないし、ここが後に毎年ノーベル賞候補となるだけあっての力量なのかもしれない。
あの作品が(高校~大学時代の)現在進行形であるため、思慮深い高校生の加地君がどこか浮世離れた印象になるのに対し、「ノルウェーの森」の大学生たちも小難しいことを語り合ってはいるが、それが37才のワタナベの回想という手法をとっているため、違和感が少ないのだ。

「ノルウェーの森」というと、直子の「私のことをいつまでも忘れないで。私が存在していたことを覚えていて」という言葉だけが印象に残る作品であり、先にも書いた通り、本書をプレゼントしてくれた人との関係性のせいで村上ワールドを遠ざける切っ掛けとなってしまった作品でもあるが、この度読み返してみると、幾つか印象的な言葉に出会った。

まずは本との関係について
本書には、東大法学部の永沢という屁理屈こね男がいて、本の読み方についても屁理屈こね男は語っている。
『他人と同じものを読んでいれば他人と同じ考え方しかできなくなる。
 そんなものは田舎者、俗物の世界だ。まともな人間はそんな恥ずかしいことはしない。』
その永沢は、作者の死後30年を経た本しか読まない。30年たっても世に残っている本しか信用しないという。
作者の死後30年たっても残っているということは、それだけ多くの人が読んでいるということなので、そればかり読むということは、結局は他人と同じもの、しかも時間と他人の手垢のついたものばかり読むことになると思うのだが?
私にも「出版から10年たったものしか読まない」という友人がいるが、優秀な人間というのは似たような思考をするものなのか、それとも友人は永沢の言葉を知っていて真似ただけなのか、真似たばかりか30年待てない友人は更なる田舎者・俗物なのかと、新刊が出るたびソワソワする私は自分を棚に上げて思ったりしている。
(参照、「至福の時 至福の空間」 「読書の森」

本書でも酷似本でも、友人の突然の死が残された者の人生に強く長く影を落とす様が書かれているが、先日のパリに続きロンドンの地下鉄でもテロが起こったことで、本書の言葉はより身近に感じられた。
『死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるだ』

ロンドン出張から帰国した家人から、ロンドン地下鉄の日本では考えられない話を、ちょうど聞いたばかりだったのだ。
ロンドンの地下鉄の時間がいい加減なのは周知のことだが、驚いたことに、走行中に行き先が突然変更になることまであるそうだ。
列車で、家人の近くにいた日本人の新婚夫婦が、この突然の行先変更のアナウンスに夫婦喧嘩を始めたそうだ。
飛行機の時間に間に合うかと焦る夫に、アナウンスの英語が理解できなかった妻は「走っている電車が突然行き先を変えること等あるはずがない。あなたは自分が乗り間違えたミスを電車のせいにするのか」と怒りをぶつけている。
ここは同じ日本人のよしみ、「いやいや本当に突然行き先が変更になったというアナウンスなのですよ。ロンドン地下鉄ではよくあることなのですよ」と助け船を出したが、釈然としない様子の新妻だったそうだ。
そんなロンドン地下鉄の話を聞いたばかりだったので、そこでテロが起こったことは、とても他人事には思えず、このご時世『死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるだ』という言葉はより確かなものとなってしまったという残念な思いで本書を読んでいた。

テロニュースとあわせて「ノルウェーの森」に書かれる癒えない哀しみを読むと、ロンドンの駅構内のテロで最愛の人マークを亡くしたDrケイ・スカーペッタの哀しみを思い出す。
『どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。
 どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。
 我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできな いし、
 そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。』
 ~ノルウェーの森より~

スカーペッタは恋人マークの死から何年も立ち直れず、やっと新しい恋人と生きようと決意した矢先に再び事故で恋人を喪うにいたって、精神科医のドクターアナ・ゼナーに救いを求める。

どんな死も残された者に哀しみをおいていくが、突然の死は長く長く残された者の心から平穏を奪ってしまう。

本書でワタナベは、『僕が手にしているのは人影のない背景だけなのだ』という。
パリでロンドンで、哀しみは広がっているが、この哀しみを生んでしまった根っこにある哀しみもまた取り除かねば、哀しみの連鎖は止まらないのではないかと思う。
人影のない背景だけを抱きしめて生きていかねばならない人々を、これ以上増やしてはいけないと思っている。

この物語はドイツの空港に着陸時にビートルズの「ノルウェーの森」を聴いたことで走馬灯のように浮かんだものを書いている。曲目や題名よりも、ドイツに着陸したばかりだったことに意味を見出そうとしてしまうほど、ナルチスとゴルドムントの国に惹かれるので・・・ドイツの森

写真出展 ウィキペディア

海の如く広い愛と想像の翼

2015-12-05 00:14:07 | ひとりごと
敬宮様が昨年中一の時に書かれた短編小説が女性週刊誌に掲載されていた。
「愛子の海の上の診療所」
この著作権は当然作者の敬宮様が有しておられるが、学校の文集に収録されたものなので学校も二義的には権利を有し、それを出版社が入手して雑誌に掲載しているので、ここで全文を記せば、敬宮様の権利を害すばかりか何重にも危険を犯すことになるので控えるが、記録できないのが残念でならないほど爽やかな短編小説であり、出来れば、絵本として出版されることを強く強く望んでいる。

『私は看護師の愛子』という出だしからして意表をついている。 (注、『 』は引用部分)
’’偏差値72’’とも巷間伝えられる学業優秀な敬宮様なら’’医師の愛子’’でも’’学者の愛子’’でも違和感はないはずだが、看護師という職業を選び、しかも先生が帰った後の片付けと戸締りを任され残業?している光景から物語は始まる。
ここに敬宮様の、偉ぶらない御性格と雑務をおろそかにしない真面目さが出ていると思うが、それが次の『待合室のソファーでつい居眠りをしてし』まい、『翌朝眩しい太陽の光で目が覚め、私は飛び起きた。』という描写で、まだまだ中1のあどけなさも伺え微笑ましいものとなる。

ここから物語は急展開し、『急いで片付けを済ませて家に帰ろうと扉をガラッと開けると』、看護師の愛子は『思わず落っこちそうにな』り、『目の前には真っ青な海が果てしなく広がってい』ることに気付くのだ。
学校での課題が幻想小説だったのかもしれないが、この展開の仕方が写実的にみて面白く、絵本には打って付けだと思われる。

診療所の周りが海になり、『助けを呼ぼうとしたが、電話もつながら』ず、看護師の愛子は途方に暮れる。

そこへ、『片足を怪我した真っ白なカモメが一羽 』『今にも潮に流されてしまいそうにな』りながら訪ねてくる。
看護師の愛子は、『カモメを一生懸命に手当てし』、元気になったカモメは『真っ青な大空へ真っ白な羽をいっぱいに広げて飛び立ってい』く。
真っ青な大空へ真っ白な羽をいっぱいに広げて飛ぶカモメという設定は、所謂ベタというものかもしれないが、これを書いたのが中1の生徒だと思えば初々しく瑞々しいものに感じられ、瞼に思い浮かべる光景は、空の青さも羽の白さも一層際立ってくるようだ。

それから怪我をした海の生き物たちが、次々診療所へやってくるようになる。
看護師の愛子は、『獣医の資格は持っていないながらも、やってきた動物たちに精一杯の看護を』する。
ここに敬宮様のたった13年の歳月をみる想いがして胸が痛くなる。
雅子妃殿下が病に倒れられたのは、敬宮様の二歳の御誕生日直後だが、それ以前からご体調はかなり悪かったと伝えられている。つまり敬宮様は物心ついた頃からずっと、病にふせっておられる母の雅子妃殿下を見てこられたのだ。
雅子妃殿下の枕辺にお手紙を届けておられることも多かったという敬宮様は、幼いなりに母のために何ができるか何時も何時も考えておられたのだろう。それが、資格はなくとも精一杯の看護をする、という表現に表れているように思えてならないのだ。

しかし、この物語が清々しいのは、資格がないので出来るだけの看護をしても限界がある、という悲観的な終わり方をしないどころか、『愛子の名は海中に知れ渡り、私は海の生き物たちの生きる活力になっていったのである。』『愛子の診療所は、正に海の上の診療所となったのだ。』と高らかに宣言し、毎日毎日『どんどんやってくる患者を精一杯看護し、沢山の勇気と希望を与え』続けると書き上げている所ではないか。

まだ義務教育を受ける年齢の敬宮様の学校生活までバッシングの対象となるのは、一つには女子であり皇位継承権がないからであるが、もう一つ、二度と待望論が起らぬように徹底的にイメージを破壊しておこうというロクでもない思惑が働いているからだとしか思えない。
敬宮様ご誕生を前に多くの国民は、「御誕生になるこの方が、性別にかかわらず天皇になられる」と信じていた。そして実際それに向け法改正の直前までいったのを国民は忘れてはいない。ともすれば「敬宮様を」という声を上げそうな国民に、運動会で走ってはリレーの選手として活躍しゴールのテープを颯爽ときられるお姿や、チェロを奏でるお姿や、7段ピラミッドの最下段を任される気力と体力を有していることや、偏差値72とも云われる優秀さが浸透するのを是が非でも阻止したい者どもがいるのだろう。
そして、敬宮様も御成長されるにつれ御自身がおかれている状況を理解され、理解される度ごとに苦しまれているに違いない。
問題は先送りされただけで解決はしていないのだから、これからも攻撃は続き苦しまれることはあるに違いないが、敬宮様の短編小説を読めば、どのような攻撃も苦しみも乗り越え、やがて私達の前にしっかりと立ってくださると信じることができる。
「愛子の海の上の診療所」は、劇的に環境が変わろうとも、自分に出来ることを一生懸命にする決意と、それにより傷つき弱ったものを助けたいという想いに溢れているのだから。

敬宮様の御活躍を信じ、お幸せを祈っている。


敬宮様に大きな力を与え続ける沼津の海と富士山と愛鷹山

写真出展 ウィキペディア
参照   「神々が祝福する夢」

読書の森

2015-12-03 18:55:55 | ニュース
「至福の時 至福の場所」からのつづき

「至福の時 至福の場所」で次回は「村上文学について考えてみる」などと大見得を切ったが、実は「ノルウェーの森」(村上春樹)一冊しか読んでいない。
村上ワールドは話題性も高く人様から勧められたりするのだが、「ノルウェーの森」との出会いが悪すぎたため村上ワールドに挑戦することがないままに、時間がたってしまった。
こう書くからといって、作品が特に悪かったわけではない。
私には、読んでいる最中にも話の本筋を離れて想いがあちこち飛んでいくという悪い癖があるが、更に悪いことに、その本を読んだときの状況や、その本を紹介してくれた人との関係性が、本への印象に大きな影響を与えてしまう癖がある。
そして、「ノルウェーの森」をプレゼントしてくれた人との関係性が破綻した時、村上文学は私には縁のないものとなったのだ。
以来、どれほどベストセラーの声を聞いても、ノーベル賞候補の呼び声が高いと聞いても手に取ることはなかったが、村上氏が高校の図書館で借りた本の報道をめぐるニュースを知り、村上文学というよりは、まず村上氏ご本人に興味をもったというのが正直なところだ。

<村上春樹氏が借りた本報道「プライバシー侵害」> 読売新聞 12月1日(火)7時26分配信より一部引用
作家の村上春樹さん(66)が兵庫県立神戸高校在学中に図書室で借りた本の書名を、神戸新聞が本人の承諾をとらずに報じ、日本図書館協会は30日、「利用者のプライバシーの侵害となる」とする調査報告をホームページ上で公表した。
同紙は10月5日付夕刊で、同校元教諭が図書室の蔵書整理中に村上さんの名前が書かれた帯出者カードを発見した、と報じた。村上さんを含む3人の生徒の氏名、学級、貸出日などが読み取れるカードの写真も掲載。
同協会は「何を読んだか、何に興味があるかは『内面の自由』として尊重されることが民主主義の基本原則」とし、「カード上に記載された本人の同意を得ずに報道することは是認できない」と の見解を示した。


この記事に村上氏のコメントはないが、異論が掲載されていないことをもって、日本図書館協会の見解に沿うものなのだと考える。そこで、図書館で借りた本の題名はプライバシーにあたるか考えてみる。
図書館で本を予約すると、「電話での『貸出可能』の連絡時に、予約者本人以外の人に題名を告げても良いですか?」と質問される。これは、「どのような本を読んでいるかは究極のプライバシーだ」と考えている私には当然の感覚でもあり有難い配慮でもあるが、頓着しない人もいるのだろうか。

何冊かの本を勧め合い、何冊かの本の感想を語り合えば、相手の思考や感情の機微が如実に分かることがある。まして半生を知り合った人間同士であれば、本を通じて、手に取るように腹の中が分かってしまうこともある。それが人間関係を深め心地よいこともあるが、日々顔を突き合わせる間柄では非常に決まりが悪い想いをすることにも繋がりかねない。
私には読書仲間といえる人もいるが、お互い読む本の全てを報告し合うわけではないし、読んだ本のどこに心動かされたかを探り合うわけでもない。それは究極のプライバシーの領域だという認識があるので、相手が自ら語る範囲で理解し、自分も自分で良しとする範囲で感想を述べる。この距離が私にはちょうど良い。私がこのブログで読書日記のようなものを書き付けているのも、どの本を読み、どの言葉に感動したかを、自分の意思で選んで書けるからだ。
とにかく私は、何を読むかは究極のプライバシーだと考えているので、この度の(村上氏も同意しているであろう)図書館協会の、「何を読んだか、何に興味があるかは『内面の自由』として尊重されることが民主主義の基本原則」という見解には賛成だが、一方の神戸新聞の言い分も分からなくもない。

「神戸高校旧蔵書貸出記録流出について(調査報告)」公益社団法人日本図書館協会 図書館の自由委員会を一部引用する。
神戸新聞社の説明要点
『「村上春樹氏は単なる私人にとどまる存在ではなく、その動静が社会的に注目を集めている上、村上春樹氏が若い時にどういう本を読んでいたかを、ノーベル文学賞発表前に伝えることは公益性が高いと考え報道した」と説明。図書カードの写真は本人直筆であるなど資料価値の高さからありのまま掲載しましたが、ほかの生徒の名前を隠さなかったたことについては「配慮を欠いた」と省みました。』
URL  http://www.jla.or.jp/portals/0/html/jiyu/toshocard2015.html

個人の思想の自由(憲19)は絶対に侵してはならないが、公益性という観点から表現の自由(憲21)と利益がぶつかることもある。
毎年ノーベル賞候補となりその言動が注目される作家の読書歴は、誰しも注目するものであり、公益性が認められる。事実、このニュースで高校生の村上青年がケッセルの全集を読んでいたと知り、私は初めて村上ワールドに自発的に関心をもったからだ。
まして、村上氏が在籍した当時の神戸高校はニューアーク式(借りるときは本の内側のポケットにある図書カードに氏名を記入する-貸出方式)を取っていたことからすれば、プライバシーを無意識に放棄していたと云えなくもない。
要は、高校側なり新聞社側なりが、村上氏に承諾さえとれば何の問題も生じなかったと思われる。

しかし、ここで承諾を得なければならないという考えに至らないところが、日本の出版言論界の驕りというか、人権感覚の乏しいところなのだと思われる。
そこへ一石を投じてくれたということで、村上氏と日本図書館協会に賛意を示したいと思っている。

ところで、皇族方のなかには読書を趣味とされる方もおられると思うが、なんと御不自由な思いをされていることかと拝察される。
何を読むかを究極のプライバシーと考える私からすれば、自由に本屋も図書館も訪問できず、何を購入するにしても人の手を介するしかないというのは、不自由なだけでなく、精神の自由を侵されているように感じられる。
読書を趣味とされる方として、雅子妃殿下がおられる。
御成婚前には趣味として読書が伝えられたが、御成婚にあたり大量の書籍を御所にお持ちになったという雅子妃殿下は、その後の誕生日のご会見でも読書について度々話しておられる。
平成7年には「私的な時間の過ごし方」という質問に対して、『公務の準備などに充てる時間以外は,読書を含め,世の中の事をなるべく広く知り,深く理解できるよう研鑽を積むことに努めて日々を過ごしていきたいと思っています。』と答えておられ、平成11年には「気分転換やリラックス法」という質問に対して、『一日の終わりに,夜,本を読んだりというようなことも休息になるような気がいたします。』と答えておられる。(『 』宮内庁ホームページより引用)

雅子妃殿下が御病気になられた理由の一つとして、「一種の情報遮断のような状態」を医師はあげていたが、読書の時間を大切にし、読書することが休息になるという人間にとって、自由に本を選ぶ楽しみが制限されることは、心の窓が塞がれるも同じで、それはある種の「情報遮断の状態」とも云えるかもしれない。もちろん問題の核心はここではないので、御病気についてはこれ以上は言及しないが、人の手を介さなければ好きな本一冊として手に取ることができない環境と云うのは、想像を絶する大変なものだというのは、共に読書を趣味とされる方々が心の病を抱えられたことからも拝察できると思っている。

この読書環境としては、なかなかに厳しい環境でありながら、想像の翼を大海の如く広げて文才を育んでおられるお姫様がいらっしゃる。
敬宮愛子内親王殿下だ。

そのあたりについては、つづく

至福の時 至福の空間

2015-12-02 12:34:38 | ニュース
毎年ノーベル賞候補となる村上春樹氏が神戸高校在学中に図書室で借りた本の書名を、神戸新聞が本人の承諾をとらずに報じたことについて、日本図書館協会は「利用者のプライバシーの侵害となる」とする調査報告をホームページ上で公表したそうだ。
最近図書館をめぐる話題が世間を賑わしていると感じるのは、私が頻繁に図書館のお世話になるからだろうか。
本人に許可なく図書カードを報じるのは思想の自由(憲19)の侵害につながるものだと私は思うので、図書館協会の言い分も理解できるが、これは先頃から表面化している出版会と図書館との余波という印象もなくはない。
そう考える切っ掛けとなったニュースについて考えてみる。

<本が売れぬのは図書館のせい?新刊貸し出し「待った」> 2015年10月29日05時16分朝日新聞より一部引用
公立図書館の貸し出しにより本が売れなくなっているとして、大手出版社や作家らが、発売から一定期間、新刊本の貸し出しをやめるよう求める動きがある。背景には、深刻化する出版不況に、図書館の増加、サービス拡充もある。本を売る者と貸す者、相反する利害のはざまで、出版文化のあり方が問われている。
「増刷できたはずのものができなくなり、出版社が非常に苦労している」。10月半ば、東京都内で開かれた全国図書館大会の「出版と図書館」分科会。図書館関係者が多くを占める会場で、新潮社の佐藤隆信社長が、売れるべき本が売れない要因の一つは図書館の貸し出しにある、と口火を切った。
佐藤社長は、ある人気作家の過去作品を例に、全国の図書館が発売から数カ月で貸し出した延べ冊数の数万部のうち、少しでも売れていれば増刷できていた計算になると説明。
新潮社を旗振り役に大手書店やエンターテインメント系作家らが、著者と版元の合意がある新刊について「貸し出しの1年猶予」を求める文書を、11月にも図書館側に送る予定だ。
■困惑する図書館協会
背景には、2000年代以降、深刻化する出版不況がある。国内の書籍(雑誌を除く)の売り上げはピークの1996年から減る一方で、14年は7割弱に落ち込んだ。漫画などを持たない文芸系出版社はとりわけ苦境にある。
大手出版社の文芸作品は一般的に、初版の9割が売れて採算ラインに乗り、増刷分が利益となるといわれる。数十万部に到達するベストセラーはまれで、大御所から中堅人気作家による初版2万~3万程度の作品で収益を確保できるかが死活問題だ。だが、近年はこれらの作品でなかなか増刷が出ないという。
出版不況の一方、全国の公共図書館(ほぼ公立)は増加傾向にある。10年で400館以上増え、3246館に。貸出冊数も軌を一にする。
今回の「貸し出し猶予」の要請の動きに、日本図書館協会は困惑する。山本宏義副理事長は「図書館の影響で出版社の売り上げがどのくらい減るかという実証的なデータがあるわけではない」と話す。



友人には「人生の時間は短い。出版されて10年たち一定の価値を認められているものしか読まない」という人もいて、そのような人間ばかりならば、そもそもこのような問題は生じないが、私は新刊が出ればいそいそと図書館の新刊コーナーを確認しては、予約する。
人気作家の新刊は’’あっ’’という間に「予約待ち60人」という状態になることもあるが、順番がくるのを大人しく半年待っている。
このニュースを見た本仲間の一人は「違うんだな。60人待って読むという意味の捉え方が」としきりに言っていた。
「おそらく出版社は、『60人待ちがでる本=60人待ってでも読みたい本』という認識なんだろうが、読者としては『60人待ってでも、買わずに読みたい本』なんだな」「貸出一年猶予にすれば多少は売り上げは伸びるかもしれないが、一年後図書館に並ぶなり40人待ちになるのではないか」

私の場合、一年後図書館に並んだ頃には、その本を忘れていて読み損なうことにもなりかねないが、同じような人はそこそこいるような気がしている。
そうだとすれば、本好き人間から本を読む機会を奪うことになり、これはこれで売り上げを減らすことにもなりかねない。というのも、私の知る本好き人間は、何もケチで新刊を買わないのではなく、既に書棚が一杯で収める場所がないため購入しないだけなので、図書館で借りて、感動すれば結局自分で購入し手元に置いているからだ。
もう一つ、我が家の御大もそうだが、最近図書館では年配の方々をよく見かける。年金問題もあるだろうが、「終活」という言葉が流行語になる昨今、年配者は物を増やしたくない、増やしたくないが本は読み続けたい、という年配者にとって図書館はなんと有難い存在か。どうしようもない箱モノ公共事業もあるが、住民の文化度に寄与し、併設施設は憩いの場ともなる図書館が増え続けることは、その地域の住民にとって有難い。
確かに、増え続ける図書館が新刊を置くことで売り上げが減少するという現象は一部に見受けられるだろうが、逆に一定の購買数は確保できるという面もなくはない。そもそも超少子高齢化社会による人口減少時代に出版部数を維持することは土台無理であり、「一年貸出し猶予」策など練っている間に紙媒体は、「ノルウェーの森」(村上春樹)の直子ではないが「私を忘れないで、私が存在したということを忘れないで」という過去の遺物となりかねない。
電子書籍も便利なのだろうが、「紙つなげ!彼らが本の紙を造っている」(佐々涼子)でも書かれていたように、本の内容にまで配慮して製紙されている日本の素晴らしい’’本’’、そのページを繰るときの喜びが受け継がれていくためにも、紙媒体には是非自助努力をお願いしたいのだ。
そして、そのためには、活字離れが叫ばれる子供や若者に新たな販路を見出すべきではないか、図書館をその新たな読者開拓の草刈り場にするという心意気こそを出版界にはもって欲しいのだ。
(参照、「神つなげ!てんでんこの悲痛」 「祈り つなげ!」 「愛つなげ!」

というのは綺麗ごとの本音で、「だから新刊一年貸出猶予は止めて欲しい」というのが、読書を趣味とし図書館で過ごす時間を至福の時とする私の心からのお願いである。
さてさて、一月前のニュースを思い出す切っ掛けとなった村上氏の図書カードと村上文学については、つづく