
加賀の人も、長く生きてきているが、なぜ戦艦ミズ-リ-の甲板で降伏調印なんて考えてもみなかったが、各国要人が集まるための治安上の問題とあった。某国(もう忘れた)代表が他国欄に署名したため、ズレて署名し、他の国の代表も無頓着で、ズレたままで、もめ始めても、さっさとマッカ-サ-は乾杯の会場へ。残された重光外相達は、これでは枢密院の裁可とれなく、戻れないと狼狽。中将に頼み込み、中将は署名者名を丁寧に書きなおしているのも映像で見れる。ポツダム宣言は終戦をするため無条件の受け入れ提案なのが、受け入れの玉音放送の頃から2週間以上経った艦上の頃には降伏となっていた。調印後も、ソ連代表がマッカ-サ-に食い下がり、日本の共同統治を提案してたが、原爆保有の力で相手にしない。パワ-だなぁ、戦争は。皮肉にも平和主義者が降伏署名をするのも、さらに潜水艦上の大勢の水兵からの注視など、一層の恥辱だったろう。 日本代表は威厳をもって式が終わらんとしたのに、某国代表の署名チョンボで気まずい。
30数年前に明治のある騒動の歴史を追いかけていた頃に、さまざまな言説(言い伝え)を土地の人々に聞いて回った。
実際にその騒動に参加した人はほとんど居なかったが、参加した人の家族や子孫は沢山居てさまざまな記憶や話を聞くことが出来た。
勿論、たいへん有意義な話が多かったのだが、時々、疑問を感じる話もあったのは事実である。
ある家では柱の刀傷を見せられてその騒動の時の暴徒に付けられたものだと言う説明を受けたが、前後の脈絡やその他の記録から考えると、それより以前の慶応の武州一揆の時のものと考えて間違いないと思った。
このように言説というものは、なかなか扱いが難しいものである。
ミズリー号での出来事が風聞であると決め付けるわけではないが、一概に信用するのもまた、一考を要する場合があるということである。
それにしても、降伏文書への調印をたかが外務大臣でOKしたのはマッカーサーだったのだろうか?