山崎 喬

加賀生まれ(金澤)

武漢の記憶 終り

2007年06月27日 10時58分55秒 | Weblog
写真は武漢・武昌の東湖。当時よくやってくれた若い通訳に三国志の話をしたら、日本人の方がよく知っていると取り合わない。下放政策でそんなところまで勉強の余裕がなかったか。湖北省博物館には古代青銅器の楽器が展示されていたが、こちらも、湖北の歴史を知らないからついていけない。YouTubeに米軍接収の戦争プロバガンダのフィルム『武漢三鎮攻略』がある。現代武漢は知る由もないが、おかれた位置が映像6分53秒あたりが理解しやすい。昔、社会主義国家のホテルに泊まるときは部屋の各階にある服務台係員にデパ-トで買ったパンストをチップ代わりに渡したが、配り方が悪かったか、その筋から注意を受けるハメに。そういえば、昔手土産用100円ライター1本で水割り一杯のモスクワのホテルがあったことを思い出した。全ては昔物語。いずれかの機会には次はヴェトナムかメキシコあたりにしよう。
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武漢の記憶 3

2007年06月27日 09時51分22秒 | Weblog
武漢では最大1週間の滞在予定だったが、交渉先担当者の現状認識不足とノラリクラリで長引いた。帰りの航空券手配で旅券を預けたが、返してくれたときは到着後2週間後の航空券だった。あとは腹をくくり、毎朝ホテル散髪、ジョッキング、昼飯ホテル、午後チンタラ交渉、晩飯ホテルの繰り返しだった。洗髪は1回でシャンプ-ボトル半分使用(適量を知らない)は驚きだ。頭マッサ-ジは最高だった。料金は200円。クリ-ニングもYシャツや下着も含めて200円。ホテルの食事は湖北省の田舎の味付け、醤を全ての料理に使い、鼻についてきて、筆談でもやし塩ラ-メンなんぞ作ってもらったことも。街中はナポリの洗濯干しみたいに、くすんだ黒い古綿が丸出しの布団が干してある。夜、街中に出ても明かりは暗く映画館のよう。目が慣れると凄い人だかりだ。コ-ヒ-を街中のホテルで飲んだが、小豆の皮を粉にしたような味だった。写真は黄鶴楼で、名刹といわれてるが、再建してコンクリ-トにペンキは内部に入る気はしない。
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武漢の記憶 2

2007年06月24日 16時58分55秒 | Weblog
今は外資系含め多々あるが、当時宿泊ホテル以外は戦前からの租界地ホテルになる。二軒見学にに行ったが、文革で部屋が荒廃しており、泊れない。外国人が食事をとれる箇所もも少く、このうちの1軒で、夕食をとった。裏側から断末魔の動物の声が。そのあと、わが胃袋を満たすことになった。このホテルの名前は忘れたが、部屋の調度品は破壊され、少しの修復ものだが、欧州の逸品が目についた。「もったいない」の記憶が鮮明にある。さて、本題。写真は武漢長江大橋。朝、ホテルからこの橋をジョキングで3時間の往復したが、今はとても走れない。橋に向かう途中、凄く時間がかかったが、外で練炭七輪で中華鍋に麺、粥や飯を作って家族で取り囲んで食べている風景は忘れない。自転車の大群が道路を往来し、バスもあるが、トラックの荷台に多くの人が乗り込んで走っていた景色ももうありえない景色か。写真には対岸に近代ビルが見えるが、当時は何もない。

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ばら仙人の自慢「Spanish Beauty」 

2007年06月23日 07時38分07秒 | Weblog
早速、5月の傑作を送付いただきましたのでアップいたしました。チョット家が入っているので余計な情報か思いカットしました。悪しからず。送付者かのメッセージも添えて「手間暇かけたSpanish Beautyです。スペイン気質がいかなるものか不詳なれど、一気に咲く一期咲は見事です。朝日に向かって誇らしげです。しかしバラの手入れも眼科医かも。20数本は正直、重荷。できの悪い社員を抱えたみたい。」五月に投稿できたら、タイミングが絶好だった。手入れが大変の分は見事に開花で報われるということでしょうか。今から、頭(耳)のMRIに病院。
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武漢の記憶 1

2007年06月22日 22時30分07秒 | Weblog
80年代後半武漢に冬に2週間、交渉業務で武漢に滞在した。秋には直前調印で計2回訪問した。そのときの宿は長江ほとりにある当時最新の高層ホテル「晴川飯店」だった。このホテルは三峡下りで観光客が食事もしくは乗船または下船で1泊させる予定で建築したようだ。今は、99年に改装されて晴川假日酒店ホリデイ イン リバーサイド となっている。武漢では同行の組織は日本人通訳同行、管理者は通訳なしだったから、ガタガタのソ連製イルリュ-シンでバラックの飛行場に到着したら、すぐに中山路の国際旅行社武漢分社に中国語通訳を依頼した。すぐにその晩は、彼らと宴会になった。通訳ができても、日本語のみならず、仏語、英語の各国に渡航経験ない連中がご馳走も長江産の淡水蟹と桂魚料理目当てで呼びもしないのに参加してきた。連中は文化革命の頃は外国人が来ないから、仕事がなく毎晩灯りを絞って麻雀の日々だったという。
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ばらの騎士か、ばら仙人

2007年06月21日 20時32分40秒 | Weblog
評判は新国立劇場で開催したばらの騎士だが、ゴ-ルデンウィ-クに投稿のあった「ばら仙人」はどうしているのか。ばらの季節は終わったが。新国立劇場のHPでは公演予定に動画映像まで掲載されてるが、動画を見てる限り07年度は見るべきものがない。舶来崇拝でないが、ないものはない。メトロポリタンのHPでは秋から目白押し。元気なうちに、アメリカはゴルフじゃなくてオペラに行くかぁ。メトは貧乏人はお呼びじゃないが航空が安い冬か。サンフランシスコならオペラ&ゴルフでベストなんだけど。知己は他界だし・・・・。アメリカのサンベルトならず昨日の小山田の農家のサボテンをアップ。ばらがいいが、画像がない。仙人さま、お恵み下さい。
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銭屋五兵衛の菩提寺の前を

2007年06月20日 21時09分20秒 | Weblog
五兵衛のことは、さておき我が家の寺の近くにあることは知らなかった。写真にある立て札の「加越能史談会」のHPが見つからない。加越能とは前田120万石は加賀、越中、能登の三つの国から構成されていたことに発している。昔は地形や交通事情から金沢から近いのは越中で能登は遠く交流は高岡を中心とした越中がもっぱらだった。方言も近いが、現代は差がなくなってきている。母親は前田直参家来千石の士族と誇りはあったが、血筋は遡ってよく見れば越中の血もある。親父も遡るとやはり、富山に行く。江戸っ子と同じかぁ。血筋なんてのは純粋なんてあったらクレオパトラのプトレマイオス王朝の近親結婚しか考えられない。
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金沢城の石垣工法は多々あるらしい

2007年06月20日 11時24分35秒 | Weblog
写真左は結構高いが、往時の半分程度らしい。工法は時代ごとに違う。日進月歩だから当然なんだろうが。見学コ-スもできている。兼六園側の石川門がシンボルとなっているが、記憶では本丸は明治時代前にたびたびの落雷・火事で無くなっていたらしい。城跡には金沢大学が入っていたが、移動してしまっている。天守閣構想があるらしいが、余計な税金食い虫の話だ
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加賀の太守

2007年06月18日 06時08分28秒 | Weblog

なまず尾の兜姿は百万石の太守、前田利家公の像。記憶ではなまず尾の兜姿の銅像では蒲生氏郷公のもある。本で見た限りだが。利家公の兜は金色になっているが、金箔かどうかは不明だ。像は石川門の下、白鳥路の入り口にある。管理者が高校生の時代は木々が今ほど茂っていなくすぐ分かったが、今は分かりにくくなってしまた。薩摩や伊達藩の雄ほどの派手さはない。氏郷もそうか。雄々しいのは楠正成かなぁ。
今日は金沢城の周囲を歩いてみた。尾山神社の鬱蒼とした東参道口は正門と違って趣きもある。周辺の石川県庁も移転して、だんだん城跡の様になってるような雰囲気だ。

 
 
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明日は加賀の国、尾山へ

2007年06月17日 09時52分20秒 | Weblog
金沢の中心に尾山神社がある。昔は神社から遠くは海辺まで見えたらしい。金沢城址の地に尾山御坊という寺院が完成し、一向一揆の拠点となり、織田信長家臣、佐久間盛政が攻略し、尾山城を築城。これが金沢を尾山といういわれらしい。昔は近隣在郷のひとは「オヤマ」といっていたのを記憶している。後回しになったが神社は加賀藩祖、前田利家が祭られている。
モ-タリゼ-ションで人口が郊外にシフトして、金沢旧市内も往年の人数が見かけなくなった。散歩の先の小山田のようになると寂しすぎる。花は江戸だから小山田の立ち「葵」をアップ。
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これで他者のYouTube乱発はやめよう

2007年06月14日 21時27分26秒 | Weblog

GooのBlogでは自分ならず、他の人の動画も見られない。動画は遠回りでYouTubeからアップしかない。映像がボケるので、暫くお散歩カメラや携帯電話付属のビデオも含めて鮮明映像研究だろうか。さて、今は鬼籍の二人、20世紀後半の大ソプラノとテノ-ルTebaldiとCorelliのAndrea Chenierラストシ-ン「悩める魂も」。あまた歌手あれど、聞き比べれば比べるほど、二人の声にはなんともいえない気品がある。
刑場に向かう二人は歌う
シエニエ:の悩める魂も、あなたの傍でやすらぎをえました。あなたこそは、私の望み、夢、詩情の行きつくところ。私はあなたの眼差しのなかに、大空に輝く虹を見出し、大きな緑色に輝くあなたの瞳の中で私の魂が漂い、思いが経巡っている。マッダレ-ナ:もう離れることはありません。私はここにいます。お別れを言うこともありません。あなたと一緒に死ぬ覚悟でまいりました。苦しみも悩みも終わり、あなたとの愛に死ぬばかり。私の唇からついて出る最後の言葉は・・・・それは、愛。

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小山田の鳥のさえずり ---test

2007年06月14日 11時22分55秒 | Weblog
やればできる。タグ文字がGoo専用になっていた。
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夕方4時に入浴

2007年06月12日 21時29分39秒 | Weblog
尾根緑道は長い。戦車道路と呼ばれない桜美林に至るところの尾根緑道の崖下に「いこいの湯」があった。2時間半紫外線にさらさして、露天に。映像では車の数は見えないが、相当なもの。入浴者の大半は65歳は超えているようだ。若い人がちらほらいるが、昔街のサウナで仕事をサボっていた輩とおなじかなぁ。会話が聞こえてきてそう感じる。施設はキレイで清掃が行き届いていて、多くの旅館も学ぶべきか。疲れがとれる。人が少なければ申し分なし。次回ここは昼飯前がいいか。入浴→昼飯→が理想?
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鶴見川源流か源泉か

2007年06月11日 18時00分51秒 | Weblog

今日は鑓水に出たが、何もない。平凡が普通。昨日撮影の鶴見川源流の泉をアップした。動画はgooではアップできるが、公開できないようだ。写真で見たとおり泉の周囲が刈り取られてサッパリしてしまった。夜は蛍の光が目立ち、かっぱらわれてしまうのは目に見える。ヴォランティアお掃除は結果として環境破壊になるんじゃ。小山田の付近に「いこいの湯」が2年ほど前にできている。入湯料700円。源泉かけ流し。多摩地区はあちこち温泉をボ-リングしているからが多い。もうこの温泉も平日はゆっくり露天に入れそう。明日は晴天なら散歩アトによってみよう。http://www.for-yu.com/tamasakai/index.html

 

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VERONAの野外劇場公演 ジョコンダから

2007年06月11日 12時02分15秒 | Weblog
宗教裁判所長のアルヴィーゼが現れるのを避けて逃げるエンツオはダルマティアの自船に火をかける。炎上スペクタクルは劇場に足を運んだ人がしっかり舞台で何があったか確認できる。観劇者は出演者は蟻のようにしか見えない筈だから、このシ-ンは絶対に記憶に残る。湖上での演奏なんかはマイクを頭からつけて歌ってるのを見かけるが愕然とする。この点、ベロ-ナはちゃんと肉声でオペラをやってるは伝統公演からか。マイクは恥だ。船籍のダルマティアとは今のクロチア、古代ロ-マ領~ベネツィア領~セルビア~オ-ストリア・ハンガリ-帝国。ムソ-リ-ニの時代にはイタリア領に。想い出した。パンノニア平原・バルカン半島の歴史はグチャグチャで頭がおかしくなる。昔クル-ズで立ち寄ったアドリア海の真珠、ドブロブニクは当時ユ-ゴで今はクロチア。
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