<私>自身が一挙に死に至らないのはなぜだろう。ふだんの<私>が多少なりとも「習慣の重いベール」に依存しているからである。「ビュット=ショーモン」という特定の土地の名が逆に至るところで不特定多数の「過去の扉を開いてくれる合言葉、つまり魔法の『開けゴマ』になった」と<私>は言ったばかりだ。それに比べればトゥーレーヌという土地の名のおぞましさは想像を絶するにもかかわらず、慣れ親しんできたことで、言い換えれば習慣化してきたことで、「ビュット=ショーモン」ほどには忌まわしい名前ではなくなったと<私>は思い込んでいる。
ところがそうなったのが、他の土地の名やそこで演じられた身振りが喚起する衝撃と比較して新しいかどうかということは、<私>の廃墟化の過程にとって、実際のところまるで関係がない。
なるほどトゥーレーヌという土地の名はアルベルチーヌと洗濯屋の娘との同性愛的情事と結びついたことに慣れてきてビュット=ショーモンほどには唐突な衝撃にならなくなっていたとはいえ、<慣れ親しむ>ことが<習慣化>にほかならない以上、「習慣の重いベール」が不意に取り払われるような場合、ビュット=ショーモンという名前が<私>を打ち倒す衝撃とトゥーレーヌという名前が<私>を打ち倒す衝撃との違いは消えてなくなるどころか、逆にそれぞれに異なる衝撃をまったく新鮮な形でやおら再提出される。
もっとも、時間の作用として、時間が経過すればするほど苦痛の程度は以前のように耐えられないものではなくなっていく。そうでなければ「喪の作業」は決して終わることがない。しかし逆説的なことに、苦痛に耐えられるようになればなるほど、冷静さを取り戻した知性は、苦痛をもたらす一つ一つの記憶を微分的に細かく類別し、今や随分軽減されたと思い込んでいた問いに再び取り組むことを促さないではおかない。
「ふと私は、ゲルマント大公妃邸での夜会のあと、アルベルチーヌはなにをしていたのか?私を裏切ったのか?相手はだれなのか?たとえ私がエメの暴露した事実を認めたとしても、この予期せぬ問いをめぐる私の不安に満ちた嘆かわしい関心はいささも減少しなかった」というふうに。
「ビュット=ショーモンのことや、たとえばバルベックのカジノの鏡に注がれていたアルベルチーヌのまなざしとか、ゲルマント家の夜会のあと私がアルベルチーヌをあれほど待っていたときの不可解な遅刻とかのことは、久しく考えたことがなかった。要するにアルベルチーヌの人生のこうした部分はどれもこれも、私としてはそれをわが心に同化吸収してわがものとし、真に所有された内的アルベルチーヌを形づくる心中のもっと甘美な想い出と合体させるべく、その真相を知りたいと念願していたにもかかわらず、私の心の外にとどまっていたのである。それらがふと習慣の重いベールの片隅を持ちあげ(習慣は人を愚鈍にするほかなく、われわれの生涯の全期間にわたり、世界のほとんどすべてをわれわれの目から覆い隠し、深い闇のなかで、人生の最も危険な、あるいは最も陶酔をさそう毒物を、そのラベルはなんら変えずに、なんの悦楽ももたらさない無難なものにとり替えてしまう)、最初の日と同じように、季節の更新や因習と化した日常の時間にもたらされた変化などにつきもののみずみずしく心に沁みいる新しさをともなって、私によみがえってきたのだ。そのような季節のよみがえりや日常の変化は、さまざまな楽しみの領域にも当てはまり、たとえばはじめて訪れた春の晴天の日に車に乗ったり日の出とともに出かけたりすると、そんな取るに足りぬ行動をも曇りなき昂揚感をもってわれわれに注目させてくれ、その昂揚感はこの鮮烈な一瞬をそれ以前の日々の総計よりもはるかに価値あるものにしてくれる。昔の日々は、それに先立つ日々をすこしずつ覆い隠し、それ自身もつづく日々の下に埋もれてゆく。しかしその昔の一日一日は、大きな図書館にはおそらくだれひとり閲覧する人のない古い本でも一部は保管されているように、われわれのうちに保管されている。ところがその昔の一日が、それにつづく幾多の時期の半透明な層を通過して表面に浮かびあがり、われわれの内部に広がってわれわれ自身を覆い尽くせば、それだけで一瞬のあいだ、名前は昔の意味をとり戻し、人びとは昔の顔をとり戻し、われわれ自身は当時の自分の心をとり戻し、あれほどわが胸を不安で締めつけた問題がずいぶん前から解決不能になっているのを感じて漠然とした苦痛を覚えるが、その苦痛はもはや耐えられないものではなく、長くもつづかない。われわれの自我は、われわれに継起したさまざまな状態が積み重なってできているが、この積み重なりは、山の成層のような不変のものではない。そこにはたえず隆起が生じ、さまざまな古い層が表面にすがたをあらわす。ふと私は、ゲルマント大公妃邸での夜会のあと、アルベルチーヌはなにをしていたのか?私を裏切ったのか?相手はだれなのか?たとえ私がエメの暴露した事実を認めたとしても、この予期せぬ問いをめぐる私の不安に満ちた嘆かわしい関心はいささも減少しなかった。まるで相異なるアルベルチーヌのひとりひとりが、新たな想い出のひとつひとつが、それぞれ特殊な嫉妬の問題を提起し、その問題にはほかの問題への解答を当てはめることはできないかのようであった」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.280~283」岩波文庫 二〇一七年)
習慣というものは一体何をするのか。
「人を愚鈍にするほかなく、われわれの生涯の全期間にわたり、世界のほとんどすべてをわれわれの目から覆い隠し、深い闇のなかで、人生の最も危険な、あるいは最も陶酔をさそう毒物を、そのラベルはなんら変えずに、なんの悦楽ももたらさない無難なものにとり替えてしまう」。
ニーチェの愛読者だったプルーストがその事情をいっときでも忘れることはない。その構造はこうだ。
「何か未知のものを何か既知のものへと還元することは、気楽にさせ、安心させ、満足させ、しかのみならず或る権力の感情をあたえる。未知のものとともに、危険、不安、憂慮があたえられるが、ーーー最初の本能は、こうした苦しい状態を《除去する》ことにつとめる。なんらかの説明は説明しないよりもましである、これが第一原則にほかならない。根本において、問題はただ圧迫する想念から脱れたいということのみにあるのだから、それから脱れる手段のことは、まともに厳密にはとらない。未知のものを既知のものとして説明してくれる最初の思いつきは、それを『真なりとみなす』ほど気持ちよいのである。真理の標識としての《快感》(「力」の証明)。ーーーそれゆえ、原因をもとめる衝動は恐怖の感情によって制約されひきおこされる。『なぜ?』という問いは、できさえすれば、原因自身のために原因をあたえるというよりは、むしろ《一種の原因》をーーー一つの安心させ、満足させ、気楽にさせる原因をあたえるであろう。何かすでに《既知のもの》、体験されたもの、回想のうちへと書きこまれているものが原因として措定されるということは、この欲求の第一の結果である。新しいもの、体験されていないもの、見知らぬものは、原因としては閉めだされる。ーーーそれゆえ、原因として探しもとめられるのは、一種の説明であるのみならず、《選りぬきの優先的な》種類の説明であり、見知らぬもの、新しいもの、体験されていないものの感情が、そこでは最も急速に最も頻繁に除去されてしまっている説明、ーーー《最も習慣的な》説明である。その結果は、一種の原因定立が、ますます優勢となり、体系へと集中化され、最後には、《支配的となりつつ》、言いかえれば、《他の》原因や説明を簡単に閉めだしつつ、立ちあらわれるということになる」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏/反キリスト者・P.62~63』ちくま学芸文庫 一九九四年)
この構造に慣れ親しみ依存してしまうと人間はもはや驚かなくなる。<無知への意志>と化してしまう。
そして往々にして<無知への意志>へ逃げ込みたがる人間は、その弱さゆえ可憐に見えもするが、その同じ人間が同時に反対方向へ作用する飽くなき意志としてしか生きていくことができないということもまた現実である。人間は自分で自分自身をまったくの死物のように固定してしまうことができない脱中心的で可変的な生きものだという平凡な事情ゆえに。
「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない。『個体』という概念は誤りである。これらの生命体は孤立しては全く現存しない。中心的な重点が何か可変的なものなのだ。細胞等々の絶えざる《産出》がこれらの生命体の数を絶えず変化させる」(ニーチェ「生成の無垢・下・七三四・P.361~362」ちくま学芸文庫 一九九四年)
プルーストの文章では「われわれの自我は、われわれに継起したさまざまな状態が積み重なってできているが、この積み重なりは、山の成層のような不変のものではない。そこにはたえず隆起が生じ、さまざまな古い層が表面にすがたをあらわす」とあり、その直後、改行一つなしに「ふと私は、ゲルマント大公妃邸での夜会のあと」とあっけなく接続されている。この「ふと私は」に注目させたがっているのはもはや明らかだろう。記憶の流れというものは何ら固定した絶対的脈略など一つも知らない。いつも脱中心的な可変性としてしか存在しない。
アルベルチーヌは出会いの最初からそもそも「相異なるアルベルチーヌのひとりひとり」として出現した。それは時間の経過にともなって「新たな想い出のひとつひとつ」としてどんどん組み換えられ組み合わされていく。その都度それらは「それぞれ特殊な嫉妬の問題を提起」しないではおかない。