白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ20

2023年06月04日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年六月四日(日)。

 

朝食(午前八時)。朝の風邪薬投与。1ミリリットルのミルクで溶かしてシリンジで口から与える。その後、ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)5グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)三十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)二十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。さらにシリンジでヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)15グラム摂取。

 

睡眠。大変よく寝る。

 

遅めの昼食(午後三時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)5グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)二十五粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)二十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。さらにシリンジでヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)10グラム摂取。

 

無理のカリカリへ移行させるのもどうか、といって流動食ばかりでもいけない、と悩んでしまう。ともあれ遊びの時間は思いのほか走り回る。それが救いに思える。

 

見ていると三日ほど前から顔の輪郭がはっきりしてきたのは確か。体重も昨夜800グラムを越えた。成長期なのだろう。一方、予定していた一回目のワクチン接種は風邪らしき変調を見せたため延期。食事の摂取量が一定量以上に伸びないのも気にかかる。

 

睡眠。これまたとてもよく寝る。

 

遅い夕食(午後八時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)5グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)二十五粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)二十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。さらにシリンジでヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)10グラム摂取。

 

夕食後、玩具を追いかけさせるといつものようによく走る。遊ばせる飼い主の側も疲れるくらいだが、飼い主の疲れは多分ふだんの運動不足が原因なのだろう。

 

体重測定。850グラム。昨日より40グラム増。

 

活発に動くようになるに連れ、いつ水分摂取しているのかとんとわからなくなってきた。しかしトイレはしっかりしている。シートを取り換える回数が増えた。猫砂の代わりにいらなくなった新聞紙のみじん切りをさらにたくさん用意しておく。猫砂ならぬ新聞紙のみじん切りは猫が前足で掻き集める時の音の歯切れがよく、タマもすっかり馴染んでいる。

 

And the Raven,never flitting,still is sitting,still is sitting

On the pallid bust of Pallas just above my chamber door,

And his eyes have all the seeming of a demon’s that is dreaming,

And the lamp-light o’er him streaming throws his shadow on the floor,

And my soul from out that shadow that lies floating on the floor

Shall be lifted—nevermore!

 

「そして鴉は決して羽ばたかず、尚もうずくまる、《尚も》うずくまる、

私の部屋の戸の真上の、色蒼ざめたパラスの像のその上に。

そしてその両眼は夢みつつある魔神の姿をさながらに、

そしてランプの灯は流れるように床(ゆか)の上にこの鳥の影を落す。

そして床の上に漂いつつ横たわるその影から、私の魂の遂に

逃れ出ることはーーー最早ない!」(ポオ「鴉」『詩と詩論・P.160』創元推理文庫 一九七九年)

 


Blog21・「あてこむ言葉」と全体主義的<推し>の暴力

2023年06月04日 | 日記・エッセイ・コラム

デリダによるヘーゲル主義的<同一性>批判「書物外」。「群像」(二〇二三年四月号)の「投壜通信」(8)で伊藤潤一郎はそこから二ヶ所引用していた。

 

(1)「各概念は、脱構築されるシステムの内に一つ、外に一つ、相似た二つの標記ーーー同一性なき反復ーーーを必然的に受けているのであって、この規則は二重の読解と二重のエクリチュールを産みださなければならない」(デリダ「書物外」『散種・P.5』法政大学出版局 二〇一三年)

 

(2)「古い名を働かせたり、さらにそれを流通させておくことには、たしかにある危険がつきまとうだろう。すなわち、脱構築された、あるいは脱構築されつつあるシステムのなかに居座ったり、さらにはそのシステムのなかへ退行してしまう危険が」(デリダ「書物外」『散種・P.6』法政大学出版局 二〇一三年)

 

いずれも同一性中心主義批判のための準備体操のようなものだ。で、「群像」(六月号)の「投壜通信」(9)のサブタイトルは「あてこまない言葉」。

 

長いが引用しておきたい。

 

「『あてこむ』とは、よい結果を期待することにほかならない。ある言葉を投げて期待したような反応が返ってきたとしたら、いうまでもなく、言葉はよい結果を生み出したことになるが、終わりゆく時代において、言葉に対するポジティヴな反応はきわめてわかりやすい。なぜなら、数量化されているからだ。各種SNSの『いいね』は、みずからが発した言葉に好意的な反応が返ってきたことを数量として明示し、その結果、一部の人々はより多くの『いいね』を求めて、『いいね』を多くもらえそうな言葉を語るようになる。自明の事実ゆえにけっして気にかけられないが、SNSに実装されているのが、『いいね』ボタンであって、『読んだ』ボタンではないということの意味は非常に重い。あなたの言葉を『読んだ』という事実ではなく、あなたの言葉を『いいね』と思ったという感情的承認を量的に交換しあうのがSNSでのコミュニケーションなのだ。SNSの登場によって、一部のメディアによる情報の独占状態が崩れ、誰もが自分の言葉を不特定多数に向けて発信する『一億総発信時代』になったとよくいわれるが、それと同時に承認の数量化が進行したことを忘れてはならない。数という誰の目にも明らかな尺度がそこにあるとき、言葉はあてこまれやすくなる。

 

現代は、かつてなくみずからの言葉が承認されていると実感(さっかく)しやすい時代なのだろう。しかし、数量化された承認においては、誰からのものであってもひとつのアカウントからの承認は『一いいね』でしかない。ほかでもないこのひとから承認されるのも、匿名の誰かから承認されるのも、数量という観点では重さのちがいはなく、単位としての『一』に還元されるやいなや、『いいね』という承認は交換可能なものとなる。もちろん、特定のあるひとから『いいね』をもらえたという喜びはなくならないはずだが、もしSNS上の『いいね』の数の多寡に何らか重要性を見出しているとすれば、言葉が数にひれ伏し、数のために言葉を発する状態はすぐそこに迫っている。

 

もともと『承認』なるものを思想的課題としてはじめて本格的に取り上げたのはヘーゲルだといわれ(厳密にいうとフィヒテのほうが先駆者だが、いま措いておく)、その承認論の要点は『他者において自分自身であること』、『他者における自己直観』などと言い表されることが多い。この独特な言い回しがいわんとしているのは、細部に目をつむって噛み砕けば、私はひとりでは存在できず、必ず他者とともにあり、私の存在にとって他者は不可欠であるという思いのほか凡庸な事柄だ。しかし、凡庸であるからといって、問うのをやめてよいわけではけっしてない。ナンシー、ブランショ、アガンベン、エスポジト、リンギスらによる、一九八〇年代から陸続と現れた共同体論は、あたかもヘーゲルというプリズムにさまざまな角度から光を当てたかのように、ヘーゲルの承認論を潜り抜けたところで生まれてきたものだった。それゆえ、あらためていま問いなおしてみなければならない。『他者において自分自身であること』というプリズムは、いま何を映し出しているのか、と。

 

そのひとつは、まちがいなく『推し』である。ヘーゲルと『推し』ーーーあまりにかけ離れているように思える二つの名だが、ある意味で『推し』なる存在は、『他者において自分自身であること』という難解な言い回しに明瞭な輪郭を与えてくれる。ヘーゲルにおいて、私にとって不可欠な存在として他者を認めることが『承認』と呼ばれていた以上、それはただ単純に他者の存在を事実として『認識』するのではなく、他者を価値ある存在として《尊》重することを意味していた。それゆえ『推しが《尊》い』とはよく言ったもので、誰かを『推す』ひとにとって、『推し』は自己の存在に不可欠であり、『推し』と私は一体のもので、けっして切り離せない。『推しにおいて自分自身であること』。推すひとにとって、『推し』なしの自己は存在しないのだろう。このような構造のなかでは、いうまでもなく、『推し』の目にとまるための『あてこんだ言葉』が語られる。それはある程度は仕方がない。何らかの賞を取らんがために、試験に合格するために、審査員の関心に合いそうな言葉を吐くのは人間の性である。しかし、現代においてあてこんだ言葉を発しているのは『推し』当人のほうでもあるかもしれない。

 

あらためてヘーゲルに立ち返ってみれば、<私→他者>という承認のベクトルは、同時に<私←他者>というベクトルでもなければならず、承認はつねに相互承認にならなければならないのだった。私が一方向的に他者を承認しているのではなく、他者のほうも私を承認し、双方がお互いを承認する共同体が生まれるということだが、私のみるかぎり、『推し』を中心とした集団においても、『推す』側が『推し』の反応を期待した言葉を投げるだけでなく、『推し』のコミュニティ向けの言葉を投げて好意的な反応を期待しており、見事にヘーゲル的な承認の共同体が完成している。おそらく、こうした事態は『推し』という言葉に限らず、広く見られるものだろう。『ファンあってのプロ野球』でもなんでもよいが、ファンコミュニティに向かって『サービス』する言葉は最近はじまったことではないし、採算が取れなければ活動できず、収入がなければ生活できないのだから、文芸の世界にとっても無関係ではない。しかし、SNSによってポジティヴな反応が数量として可視化される現在、書き手が承認の共同体の内部に向けて言葉を発する傾向は強まっているように思える。

 

しかし、固定客向けの言葉はどこかで頭打ちになるにちがいない。なぜなら、そこには外部が存在しないからだ。オタク文化を超えて一般化した『推し』なる語が示しているのは、自己の存在のために他者を必要としながら、その裏で異質な他者とは出会わずに済ませたいという欲望である。『推す』側もあてこんだ言葉を投げ、『推される』側もあてこんだ言葉を投げる鏡仕掛けの装置のなかに、期待を裏切る他者は存在しない」(伊藤潤一郎「投壜通信(9)」『群像・2023・06・P.487~489』講談社 二〇二三年)

 

その通りなのだが、ではそうすればーーー、と思いながら読んでいた。一九七〇年代初頭のデリダは<外部へ>という態度を強調していたわけだが。それはともかく次回は八月号らしい。

 

ネット社会が巨大化すればするほど必然的に巨大化する「開かれた<閉域>」。というだけでなく、この種の特徴が顕著なのもまた一つの<現代日本論>であることは間違いない。「あてこむ」言葉、「あてこまんとする」言葉、無言のうちに「あてこめ!」と恫喝まがいに平然と流通する言葉。気が滅入りそうだ。

 

目を疑う暇一つ与えられず、そこにありありと出現し堂々と増大し、ほんの僅かな時間ですっかりマス-メディアも驚くほどの社会的同調圧力として機能する、極めて排他的かつ全体主義的空間が持つ濃厚な暴力性について、大変暗い鬱々たる気分に襲われないではいられない。


Blog21・アルベルチーヌに逆襲された<監禁マシン>としての<私>

2023年06月04日 | 日記・エッセイ・コラム

自分で自分に向けて問いを発する場合、その問いはどんな内容の問いだろう。人間というものは、自分にとっての問いをともかく「副次的で瑣末な問い」にばかり限定することで、それが「苦痛、嘘、悪癖、死」を降りかからせる内容であってなお、日々の暮らしを乗り切っていくことができる。プルーストの言葉を借りれば「防水加工された思考に身をつつみ」つつ、その限りで人間は生き抜いていけるようにできている。

 

「防水加工された思考に身をつつ」むというのはどういう態度だろう。言い換えれば、習慣の力による保護に依存することである。神経を鈍らせ、わざとやんわり摩耗させ、進んで怠惰になり、何一つ自分で新しく考えなくても済まされる慣習の力に何もかも丸投げしておいて、<やったことにしてしまう>生き方を選ぶことにほかならない。

 

だからといってプルーストは、それがいけないと言っているわけではまるでない。善悪を問題にしていない。そうではなく少なくとも<私>の場合、アルベルチーヌとの関係において、そういう生き方は完全な失敗を招き込んだというに過ぎない。

 

アルベルチーヌの行動は、他人の目から見ている限りまったく「副次的で瑣末」にしか見えない。ところがアルベルチーヌの性愛傾向を知っている<私>から見ればそれが「副次的で瑣末な」部分で<ない>がゆえに、後になって<私>を叩きのめした。バルベックのグランドホテルの「シャワー施設」で一人の女性ともう一人の女性とが一緒になる。何一つおかしな光景には見えない。しかしそれこそ<私>には耐えがたいのだ。

 

「ところがアルベルチーヌにかんしては、それは根本的な問いだった。ほんとうのところアルベルチーヌは何者だったのか、なにを考えていたのか、なにを愛していたのか、私に嘘をついていたのか、私のアルベルチーヌとの生活はやはりスワンのオデットとの生活と同じように惨めなものだったのか、と私は問うたのである。それゆえエメの返事は、一般的な返事ではなく特殊な返事であったにもかかわらずーーーいや特殊な返事であったからこそーーーアルベルチーヌにおいても私においても最深部にまで到達したのである。グレーの服を着た婦人とともに路地を通ってシャワー施設へやって来たアルベルチーヌのすがたのなかに私がようやく見たのは、かつてアルベルチーヌの想い出やまなざしのなかに閉ざされているものと想像して怖れていたあの過去と同じく、不可解に見え、身の毛もよだつ、過去の一断片であった。たしかに私以外のだれにも取るに足りないものに思われたかもしれぬそのような細部には、アルベルチーヌが死んでしまい私が本人にそれを否定されることが不可能になったせいで、一種の蓋然性にも等しい価値が授けられたのである。アルベルチーヌにとっては、たとえそうした細部が事実だったとしても、みずからその細部を告白していたら、自分自身の過ちは、良心がそれを罪なきものと思うにせよ非難されて当然と思うにせよ、官能がそれを甘美なものと思うにせよ味気ないものと思うにせよ私にはその過ちと切り離せなかったあの言いようのない嫌悪感を欠いたにちがいない。私自身は、女性たちへの自分の愛を手がかりにして、アルベルチーヌにとって女性たちは私の場合と同じものではなかったにもかかわらず、アルベルチーヌがなにを感じていたかを多少は想像することができた。私がしばしば欲望を覚えたように同じく欲望に燃えるアルベルチーヌを想い描き、私がアルベルチーヌにしばしば嘘をついたように同じく私に嘘をつくアルベルチーヌを想いうかべ、私がステルマリア嬢やほかの女性たちや田舎で出会った農家の娘たちにそうしたように、アルベルチーヌがあれやこれやの娘に心を奪われてその娘のために多額の出費をするのを想像するのは、たしかにすでに苦痛のはじまりだった。なるほどそのとおりで、私が覚えたあらゆる欲望は、ある程度アルベルチーヌの欲望を理解するのを助けてくれたが、それがすでに大きな苦痛となり、すべての欲望はそれが激しいものであればあるほど、ますます辛い責め苦になった」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.223~225」岩波文庫 二〇一七年)

 

底なしの嫉妬から湧き起こる苦痛の除去のために<私>はかつてアルベルチーヌを幽閉、監禁、監視した。アルベルチーヌは<私>を心配させまいと気を配ってたびたび嘘を口にした。<私>の疑念はいったん消失するものの何かの拍子に再び頭をもたげてくる。

 

例えば、一人の女性がもう一人の女性と二人でいる光景が目に止まったとき。もっとも、そんな光景はいつどこにいても見かけないわけにはいかない。だからアルベルチーヌの存在はほんのいっときの鎮静剤になり得ることはあっても、アルベルチーヌがそばにいるいないにかかわらず、トランス(横断的)性を思い起こさせる光景が目に入るやすぐさま<私>はせわしなく<監禁マシン>へ変身するほかない。結果的に<私>はアルベルチーヌを殺してしまったことになる。

 

嘘をつく愛人。身近なところではスワンにとってのオデットがそうだ。ところがスワンがオデットに対して取った態度は<私>がアルベルチーヌに対して取った態度とは違っている。

 

「オデットはいた。さきにスワンが呼び鈴を鳴らしたときは、家にはいたが寝ていたと言う。呼び鈴の音に目が覚め、スワンにちがいないと思ってあとを追ったが、もう帰ったあとだった、窓ガラスを叩く音も聞こえた、と言う。すぐにスワンは、この言い分のなかに、正確な事実の断片が含まれているのに気づいた。不意を突かれた嘘つきが、偽りのない事実をでっちあげるにあたり、気休めにそんな事実の断片を組み入れ、その効力で嘘がいかにも『真実』らしく見えるのを期待するのと同じである。たしかにオデットは、なにか明らかにしたくないことをした場合、それを心の奥底にひた隠しにする。ところが嘘をつくべき相手が目の前にあらわれると、動転するあまり考えていたことはすべて瓦解し、創意工夫をしたり論理的に考えたりする能力は麻痺してしまう。もはや頭のなかは空白なのに、それでもなにか言わなくてはならない。そのときに出くわすのが、手の届くところにあった、ほかでもない隠しておきたいと考えていたことがらで、それは真実であるがあゆえにその場に残っていたのである。オデットは、そこからそれ自体なんら重要でない小さな断片をとり出すと、結局これでいいのだ、本物の断片なのだから嘘の断片のような危険はない、と考える。『すくなくともこれならほんとうだわ。どう転んでもこっちのものよ。あの人が調べたってほんとうだとわかるだけで、これであたしが裏切られることは絶対にありえないわ』。ところがそれはオデットの考え違いというべきで、それに裏切られるのだ。オデットには理解できなかったが、この本物の断片なるものの四隅がぴったり合わさるのは、恣意的にそれをとり出した本物の事実と隣接する他の断片だけであり、いかにその断片を嘘でかためた他の断片にはめ込もうとしても、つねにはみ出す部分や足りない部分が残り、その断片がとり出されたのはそこからではないことがばれてしまうのである。スワンはこう思った、『呼び鈴を鳴らす音がして、それから窓ガラスを叩く音も聞こえ、俺だと思って会おうとしたと言っている。ところがそれは、ドアを開けさせなかった事実と辻褄が合わない』」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.212~213」岩波文庫 二〇一一年)

 

スワンはオデットを許すわけでもなく許さないわけでもない。むしろ許す許さないは問題外であって、スワンにとってそんな道徳めいた価値判断は始めから頭の外にしかない。

 

オデットの嘘は一つの記号である。そしてそれに対するスワンの態度は先に出現した記号に対するスワンの応答である。スワンは苦痛の引き延ばしという態度で応答した。それをマゾヒズムだと言って何か精神分析の一つもやってのけたかのように思い込んでふんぞりかえるのは読者の自由だが、けれどもプルーストは精神分析のためにこのエピソードを盛り込んだわけでは全然ない。その意味で読者の読解は的外れもいいところだ。

 

スワンの口調はとても重苦しい。オデットを監禁せず自由に振る舞わせたがゆえに、<私>とは比較にならない苦痛を延々耐え忍んでいたはずだ。一方、オデットは死んだだろうか。死んでいない。しかしこのことは何もスワンが寛容な性格だということを意味しない。スワンの嫉妬の苦痛は並外れている。逆に非寛容この上ないように思える。逆説的だが、スワンは自分が非寛容であるがゆえにオデットを監禁する危険をよくわかっていたに違いない。実際、監禁できるにもかかわらずしなかった。<私>がアルベルチーヌを監禁し、結果的に殺してしまったようにはならなかった。今になってスワンの言葉は<私>に向けた予言者の言葉のように響いてくる。

 

「『といってもこの手の恋愛が危険なのは、女の隷属状態がいっとき男の嫉妬を鎮めはしても、同時にその嫉妬をますます気むずかしいものにしてしまうことです。あげくの果てに、夜となく昼となく灯りをつけて監視される囚人のような生活を愛人に送らせるはめになります。それもたいてい悲劇に終わるのです』」(プルースト「失われた時を求めて3・第二篇・一・一・P.303」岩波文庫 二〇一一年)

 

愛人を隷属状態に置いた場合、嫉妬の苦痛は「ますます気むずかしいものに」なる。「それもたいてい悲劇に終わる」。とすれば<私>は悲劇を欲したのだろうか。アルベルチーヌの死を欲望したのだろうか。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて437

2023年06月04日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

午前五時、いつものように朝早い後期高齢者の朝食の支度を横で見ています。

 

漬物は塩分を抜くために表面の皮を削ぎ落とし、中身を水洗いしながら揉み込んでさらに塩分を抜き、ラップの上に乗せてティッシュで水分をよく吸い取ってから皿に盛る。

 

ご飯の横に豆腐を置いて頂きます。

 

だからご飯のほかは二品を少しずつです。かなり少食になりました。

 

単純作業ですが、後期高齢者の場合、自分でできる間はなるべく自分でやるのがいいのだろうと思っています。とはいえーーー。

 

朝も昼も食が細るのはよくあるとしても、このところ夕食はほとんど食べないというか、わずかなおかず以外はかなり嫌がるほどになっています。

 

かかりつけの医院で胃痛の原因を調べてもらっていますが、今年の春まではふつうに飲んでいた抗アレルギー剤も胃壁を荒らすためもう飲めなくなって止めました。

 

参考になれば幸いです。