白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ32

2023年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年六月十六日(金)。

 

朝食(午前五時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)5グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)三十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)三十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

午前八時過ぎ。あちこち走り回っていて好奇心もますます旺盛。何度も人間の食事に近づこうとする。二種類のカリカリを合わせて二十粒ほど置いてやるとぱくぱく食べる。食欲は快調らしい。

 

遅めの昼食(午後二時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)5グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)三十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)三十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

夕食(午後八時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)5グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)三十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)三十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

爪を切ってやる。初代タマもそうだったが子猫の爪切りはむずかしい。一つ一つが鋭いことや血管が近いことやすぐ逃げ出そうとじっとしていてくれないこととかで何かと気をつかう。窓際のレースのカーテンの裾をほぼぼろぼろにしてしまった後なのだが。

 

THE happiest day―the happiest hour

My sear’d and blighted heart hath known,

The highest hope of pride and power,

I feel hath flown.

 

「もっとも幸せな日、もっとも幸せな時に、

今では萎え衰えた私の心も、知っていたのだ、

誇りと力への至高の希望をーーー

その希望も今は飛び去ってしまったが」(ポオ「もっとも幸せな日、もっとも幸せな時に」『詩と詩論・P.42』創元推理文庫 一九七九年)


Blog21・LGBT理解増進法成立から見える差別排外主義的<共同幻想>(国家・制度)

2023年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム

吉本隆明のいう<対幻想>(すべての性的関係)は大江健三郎作品でも中上健次作品でも、<共同幻想>(国家・制度)に逆立するし、せざるを得ない存在として強烈な切迫感を帯びている。

 

ヘーゲルはいう。

 

「夫と妻、両親と子供、兄妹というきょうだい、これら三つの家族関係のうちで、まず、《夫》と《妻》の《関係》は、一方の意識が他方の意識のうちに、自分を《直接》認めることであり、互いに認め合うという認識の関係である。この関係は、相互認識であっても《自然的》であり、人倫的認識ではないから、精神の『表象』であり『像』であるに止まり、現実の精神そのものではない。ーーーそれは精神を想い浮べ、その像をもちはするが、それらの関係は、自分とは別のものにおいて現実となる。だからこの関係は自らにおいてではなく、子供という他者において現実となる。ーーーこの関係は、この他者が生成することでありこの他者のうちで自ら消えて行くことである。そして世代から世代へ進むこの交替は、民族のうちに存立している。ーーー夫と妻相互の敬愛は、自然的な関係と感覚を混えており、その関係はそれ自身においては自己還帰しない。また、『両親』と『子供』相互の敬愛という第二の関係も、それと同じである。子供に対する両親の敬愛も、自分の現実を他者のうちにもっており、他者のうちに自立存在(対自存在、自独存在)が生成して行くのを見るだけで、それを取りもどしえないという感動に影響されている。かえって子供は、自己の現実をえて、よそよそしいものになったままである。ーーーだがこれとは逆に、子供の両親に対する敬愛は、自分自身の生成、つまり自体を、消えて行く両親においてもっており、自立存在や自分の自己意識は、その本源たる両親から分かれることによってのみ、獲られるという感動に伴われているが、ーーーこの分離のうちでその本源は枯れて行くのである。これら二つの関係は、両者に分け与えられている両側面の移行と、不等のうちに止まっている」(ヘーゲル「精神現象学・下・P.34~35」平凡社ライブラリー 一九九七年)

 

この点に触れて吉本隆明は次のように述べる。

 

「<家族>のなかで<対>幻想の根幹をなすのは、ヘーゲルがただしくいいあてているように、一対の男女としての夫婦である。そしてこの関係にもっとも如実に<対>幻想の本質があらわれるものとすれば、ヘーゲルのいうように自然的な<性>関係にもとづきながら、けっして『自己還帰』しえないで、『一方の意識が他方の意識のうちに、自分を直接認める』幻想関係であるといえる。もちろん親子の関係も根幹的な<対>幻想につつみこまれる。ただこの場合は<親>は自己の死滅によってはじめて<対>幻想の対象になってゆくものを<子>にみているし、<子>は<親>のなかに自己の生成と逆比例して死滅してゆく<対>幻想の対象をみているというちがいがある。いわば<時間>が導入された<対>幻想をさして親子と呼ぶべきである。そして、兄弟や姉妹は<親>が死滅したとき同時に、死滅する<対>幻想を意味している。最後にヘーゲルがするどく指摘しているように兄弟と姉妹との関係は、はじめから仮構の異性という基盤にたちながら、かえって(あるいはそのために)永続する<対>幻想の関係にあるということができよう」(吉本隆明「共同幻想論・対幻想論・P.183」角川文庫 一九八二年)

 

<共同幻想>(国家・制度)に対して鋭く対立するほかない<対幻想>(すべての性的関係)。

 

ヘーゲルが「夫と妻、両親と子供」だけでなく「兄妹というきょうだい」に言及していることは極めて重要であり、それを吉本は「兄弟と姉妹との関係は、はじめから仮構の異性という基盤にたちながら、かえって(あるいはそのために)永続する<対>幻想の関係にある」と定義する。そしてこの定義は間違っていない。

 

さらに吉本隆明はこう続ける。「人間を<性>としてみるかぎり<家族>は夫婦ばかりでなく、親子や兄弟や姉妹の関係でも大なり小なり<性>的である」。「その意味でフロイト学説には錯誤はない」。なるほどそうだ。けれどもしかし、ヘーゲルに多くを負っていながらフロイトが「その考察から除いてしまった」事情がある。<対幻想>(すべての性的関係)は「けっしてそのまま社会の共同性や個人のもつ幻想性には拡張できない」ということがそれだ。

 

「人間を<性>としてみるかぎり<家族>は夫婦ばかりでなく、親子や兄弟や姉妹の関係でも大なり小なり<性>的である。この意味でおそらくフロイトの学説には錯誤はなかった。ただかれはこういう関係が<対>幻想の領域でだけ成り立つもので、けっしてそのまま社会の共同性や個人のもつ幻想性には拡張できないことをその考察から除いてしまったわけである」(吉本隆明「共同幻想論・対幻想論・P.183~184」角川文庫 一九八二年)

 

東アジア、とりわけ日本では、<対幻想>(すべての性的関係)をエンゲルスの国家論のように自動機械的に拡大再生産されるものとして考えることはできない。欧米と日本との生々しい<裂け目>がそこにある。

 

またさらに吉本隆明は<対幻想>(すべての性的関係)について「<性>的なものであっても、性交的なものとかぎらないことは、人間の性交が動物的なものであっても、同時に観念的(愛とか憎悪とか)でありうるのとおなじであり、おなじ程度においてである」と述べる。実際に<性交するしない>は問題で<ない>。

 

「ところで一対の男・女のあいだに性交が禁止されるためには、個々の男・女に禁止の《意識》が存在しなければならない。そしてこの禁止の意識は<対なる幻想>の存在を前提としている。<対なる幻想>は<性>的なものであっても、性交的なものとかぎらないことは、人間の性交が動物的なものであっても、同時に観念的(愛とか憎悪とか)でありうるのとおなじであり、おなじ程度においてである」(吉本隆明「共同幻想論・母性論・P.170」角川文庫 一九八二年)

 

ゆえに「兄弟と姉妹との関係は、はじめから仮構の異性という基盤にたちながら、かえって(あるいはそのために)永続する<対>幻想の関係にある」といえるし、ヘーゲル自身、「精神現象学」の時点ですでにそういう認識に立っていた。

 

吉本隆明が「一対の男・女のあいだに性交が禁止されるためには、個々の男・女に禁止の《意識》が存在しなければならない」と述べる中で、エンゲルスの国家論はどうでもいいとして、<意識>がどのように規定されるのか、マルクスがこだわった点に注目しよう。

 

「むしろ自分たちの物質的な生産と<現実的な>物質的な交通<の中で発展していく>を発展させていく人間たちが、こうした自分たちの現実と一緒に、自らの思考や思考の産物をも変化させていくのである。意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.31」岩波文庫 二〇〇二年)

 

吉本のいう「禁止の《意識》」は「意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する」という事情から暴力的に押し付けられて始めて発生する。<対幻想>(すべての性的関係)に「禁止の《意識》」を押し付けるのは何か<共同幻想>(国家・制度)という暴力的枠組みにほかならない。<共同幻想>としての<国家の起源>があるとすれば、もしそう言いたいというのなら、それは<対幻想>(すべての性的関係)に「禁止の《意識》」を押し付けることで始めて発生した<共同幻想>(国家・制度)という暴力装置なのだ。

 

さらに吉本隆明とはまた違った別の方法でこの問題にアプローチしたのがフーコーである。

 

(1)「十九世紀後半以来、血のテーマ系が、性的欲望の装置を通じて行使される政治権力の形を、歴史的な厚みによって活性化し支えるために動員される、ということが起きた。人種差別はまさにこの時点で形成される(近代的な、国家的な、生物学的な形態における人種差別である)。植民、家族、結婚、教育、社会の階層化、所有権などに関する政策と、身体、行動、健康、日常生活などのレベルにおける一連の不断の介入とが、その時、血の純潔さを守り種族を君臨せしめるという神話的な配慮から、己れが色合いと正当化を受けとった」(フーコー「知への意志・P.188」新潮社 一九八六年)

 

(2)「ナチズムは、おそらく、血の幻想と規律的権力の激発との最も素朴にして最も狡猾なーーーそしてこの二つの様相は相関的だったがーーー結合であった。社会の優生学的再編成は、無際限な国家管理の名にかくれてそれがもたらす<極小権力>の拡張・強化と相まって、至高の血の夢幻的昂揚を伴っていた、それが内包していたものは、民族的規模での他者のシステマティックな絶滅であると同時に、自らを全的な生贄に捧げる危険でもあった。そして歴史の望んだところは、ヒットラーの性政策は全く愚劣な実践に終わったが、血の神話のほうは、さし当たり人間が記憶し得る最大の虐殺に変貌した、ということであった」(フーコー「知への意志・第五章・P.188~189」新潮社 一九八六年)

 

(3)「正反対の極に、今問題にしている十九世紀末以来、性的欲望のテーマ系を、法と象徴的秩序と主権のシステムにもう一度書き込もうとする努力を追うことができる。まさに精神分析の政治的名誉であったことーーー少なくとも精神分析において整合的であり得たものの名誉であるがーーーそれは、性的名誉の日常性を管理し経営しようと企てていたこれら権力メカニズムの内部にあって、取り返しのつかぬ形で増殖し得るものに疑いをかけたことである(しかもそれは精神分析の誕生した時からであり、つまり病的変質という神経-精神医学とはっきり一線を画した時からそうであった)」(フーコー「知への意志・第五章・P.189」新潮社 一九八六年)

 

フーコーの論旨。(2)ではナチズムによる「社会の優生学的再編成」。さらに(3)で念頭に置かれているソ連による<性倒錯者>というラベリングによる「精神病院」への監禁。

 

昨日日本の国会で成立したLGBT関連法案。それに対する批判の急激な高まりは、フーコーが指摘している(2)と(3)とを同時に含み持たせる極めて危険なイデオロギーをなぜ国会が承認したのかという追求にとどまらない。そもそも、今さらあり得ない優生学的な差別排外主義的<共同幻想>(国家・制度)がなぜ必要とされているのか、おかしいではないか、わからないという様々な異論反論に応えようとするつもりはないという<開き直り/居直り>を決め込む態度表明としか見えないのである。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて450

2023年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

昨日のように午前五時のキッチンに母はいません。すでに書いた通り六月十四日午後、大津日赤に緊急入院しました。

 

したがって朝のリハビリはまた姿を変えます。当面のあいだ本を開いて、いつ飛び込んでくるかわからない母からか病院からの連絡を待ちつつ、さらに妻の病状に目を配りつつ(特に睡眠が十分に取れているか)、二代目タマの世話をして時間を過ごすことになります。

 

ここまでは昨日とほぼ同じです。

 

ちなみに今朝開いた本は大江健三郎「水死」(講談社文庫)。

 

つい最近「取り替え子」に目を通し、ほんの少しですが気になった箇所を書き出してみました。そこで目を通しはしたものの書き出すにあたってあえて保留した箇所が幾つかあります。その一つが登場人物「大黄さん」の語りと行動です。

 

大江文学ではある作品の登場人物が他の作品にしばしば顔を出します。中上健次作品の場合もよくあります。珍しくはありません。

 

ただ「取り替え子」の「大黄さん」と「水死」の「大黄さん」は似ているようでそのじつ微妙に違っています。前者ではごく単純な国家主義者だった「大黄さん」が、後者では脱構築しようとして脱構築しそこねた国家主義者「大黄さん」として登場してくる。そこが大変面白く思えるわけです。

 

シンプルな脱構築なら多くの小説家が難なくやってみせるでしょう。しかし意図的に脱構築しそこねて見せることで、「そこにある何か不思議なもの」(ニーチェ)を炙り出し、読者に「むむ?」と気づかせるというのはなかなかできないのでと思います。

 

まだ目を通したばかりで何とも言えませんが、他の作品(「万延元年のフットボール」、「同時代ゲーム」)などとも比べてみたい気がします。

 

さきほど起きてきた二代目タマの面倒も見ないといけません。ほかにやらないといけないことはたくさんあります。決して暇な時間ではありません。ところが逆にいかにも暇そうなことを考えているかのように見えるとすれば、今朝はそれで十分だろうと思います。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・大和朝廷と<良心の疚しさ>

2023年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム

原始的な<共同体>の成立はその成員すべてに対し、ニーチェのいう<良心の疾しさ>を生じさせる。そして一度<共同体>が成立するとその後につづくすべての成員はそれに先立つ<祖先>に対する終わりのない債務感情を打刻される。いわば<償却不可能な永遠の負債>を背負うことになる。

 

言い換えれば、<償却不可能な永遠の負債>に対して「犠牲と業績によって祖先に《払い戻され》なくてはならない」という<倫理的な>意識が生じる。しかし何によって?何度も繰り返し反復される<祭儀>によってである。

 

吉本隆明はいう。

 

「ニーチェは『道徳の系譜』のなかで、原始的な種族共同体の内部では、現存の世代は先行の世代にたいし、とりわけ種族を草創した最初の世代にたいして不可解な義務をおうものとかんがえられており、種族の社会は、徹頭徹尾祖先の犠牲と功業のおかげで存立したという観念が支配する旨をのべている」(吉本隆明「共同幻想論・罪責論・P.203」角川文庫 一九八二年)

 

こうある。

 

「原初的な種族社会の内部ではーーーわれわれは太古について言っているのだがーーーいつでも現存の世代は前の世代に対して、また特に最初の世代、すなわちその種族を創始した世代に対して、一種の法律上の義務を負うていることを承認する(しかもこれは決して単なる感情上の責務ではない。この責務は、人類一般の極めて長い存続期間を通じて、決して故なく否定し去られるべきものではないであろう)。そこにおいては、種族の《存立》は全く祖先の犠牲と業績の賜物にほかならないーーー従ってそれはまた犠牲と業績によって祖先にいつでも現存の世代は前の世代に対して、また特に最初の世代、すなわちその種族を創始した世代に対して、一種の法律上の義務を負うていることを承認する(しかもこれは決して単なる感情上の責務ではない。この責務は、人類一般の極めて長い存続期間を通じて、決して故なく否定し去られるべきものではないであろう)。そこにおいては、種族の《存立》は全く祖先の犠牲と業績の賜物にほかならないーーー従ってそれはまた犠牲と業績によって祖先に《払い戻され》なくてはならない、という確信が支配している、という確信が支配している。ところでかようにして承認せられた《債務》は、そういう祖先がなお生き長らえて力強い精霊となっており、そしてその力の側から該種族に新しい利得や前金が与えられるという信仰によって、なお絶えず増大して行くことになる。もしかするとロハで?だが、あの素朴な『魂の貧しい』時代にとっては『ロハ』などということはなかった。では何を祖先に払い戻すことができるか。犠牲(当初は極めて大雑把な意味での食物)・祝祭・礼拝堂・崇敬・殊に服従であるーーーというのは、すべての慣習は祖先の作ったものとして、その指令や命令でもあるのだからだーーー。が、果たして祖先が満足するほど払われるだろうか。なおそうした疑念が残され、しかもそれは次第に増大する。この疑念は債務者に時々大枚の償却をひとまとめにして強要し、ある法外な代償を支払うべきことを強要する(例えば、あの悪評の高い初子犠牲、血、いつの場合にも人間の血)。祖先と祖先の力に対する《恐怖》、祖先に対する債務意識の増大は、この種の論理に従って必然的に種族そのものの力の増大と厳密に比例し、種族そのものの勝利・独立・栄誉・畏怖の増大と厳密に比例する。断じてその逆ではないのだ!種族の衰退に向かう一歩一歩、あらゆる悲惨な事故、退化のあらゆる徴候、解体の近接を示すあらゆる徴候は、かえってまた常にその種族の創始者の精霊に対する恐怖を《減少させ》、かつその創始者の思慮や先慮や力についての観念をますます不明瞭にする。このような素朴な論理がその終点に達した場合を考えてみるがよい。結局、《最も強力な》種族の祖先は、恐怖の増大を想像することによって自ら巨怪なものにまで増大し、無気味な神秘のうちへ押し込められてしまうほかはない、ーーーつまり、祖先は必然的に一つの神に変形される。恐らくここに神々の本当の起源、すなわち恐怖からの起源があるのだ!」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十九・P.104~106」岩波文庫 一九四〇年)

 

ニーチェは<共同体>の起源におそろしく峻厳な<道徳>の発生を見ている。さらに吉本隆明は折口信夫の道徳論を対比させるが、「ニーチェにくらべれば、折口信夫の考えははるかに<お人好し>だ」としつつ、しかし「語ったところはおなじ」であると述べる。

 

引用されるエピソードは「古事記」の中でも有名な箇所。「この挿話ではスサノオは父イザナギから農耕社会を統治せよとは命ぜられずに、海辺(漁撈)を統治するよう命じられるために、それをうけずに青山を泣き枯らすほどに哭きわめいて<妣の国>へゆきたいとごねて追放されるのである。スサノオが願望した<妣の国>あるいは<黄泉の国>は、共同性として理解すれば母のいる他界というよりも、母系制の根幹としての農耕社会であるようにみえる」。

 

「折口信夫はおそらくニーチェとは独立に(あるいはニーチェの影響下に)『道徳の発生』のなかで、ほぼおなじ結論をやっている。

 

天つ神について一応、言ひ添へて置かねばならぬことがある。日本の宗教に於ける原罪観念が、ここにあつて、責任者を《すさのをの》命としてゐる。だがそれは、神話上の事として過ぎ去り、其罪に当つてゐるものは、田づくりに関係深い世々の農民である。日本の農民は、祖先から、尊い者に対する原罪を背負つて来てゐるものと考へ、此をあがなふ為に、務めて来たのである。贖罪の方法はあつて、、常は之を行つてゐるのだが、贖はなければならぬ因子は、農民自身になかつた。ここに宗教としての立脚点があつた。唯、田作りする日本の古代部落の長い耕人生活の間に、《すさのをの》命の為の贖罪が行はれてゐたのである。罪を意味する謹慎にこもることが、原罪なる天つ神を消却する方法となるのである。

 

ニーチェにくらべれば、折口信夫の考えははるかに<お人好し>だが、語ったところはおなじである。

 

だが農耕土民の祖形であってアマテラスの<弟>に擬定された<スサノオ>の背負った<原罪>は<共同幻想>としてみれば、ニーチェのいうようには不可解なものではない。この<原罪>が、農耕土民の集落的な社会の<共同幻想>と、大和朝廷勢力に統一されたのちの部族的な社会の<共同幻想>のあいだにうまれた矛盾や《あつれき》に発祥したのはたしからしくおもわれる。もとをただせば、大和朝廷勢力が背負うはずの<原罪>だったのに、農耕土民が背負わされたか、または農耕土民が大和朝廷権力に従属したときに、じぶんたちが土俗神にいだいた負い目に発祥したか、どちらかである。けれど作為的にかあるいは無作為にか混融がおこった。農耕土民たちの<共同幻想>は、大和朝廷の支配下での統一的な部族社会の<共同幻想>のように装われてしまった。

 

そのためこの挿話から、<共同幻想>の構成をとりだそうとすれば、天上界を支配する<姉>(アマテラス)と現実の農耕社会を支配する<弟>(スサノオ)という統治形態がかんがえられる。

 

そしてこの挿話ではスサノオは父イザナギから農耕社会を統治せよとは命ぜられずに、海辺(漁撈)を統治するよう命じられるために、それをうけずに青山を泣き枯らすほどに哭きわめいて<妣の国>へゆきたいとごねて追放されるのである。スサノオが願望した<妣の国>あるいは<黄泉の国>は、共同性として理解すれば母のいる他界というよりも、母系制の根幹としての農耕社会であるようにみえる。この挿話が出雲系土民の神話と古典学者にみなされた大国主の神話に接続されることからそう推測ができよう。そこでわたしたちはこの挿話から、神権を支配する<姉>(あるいは妹)と現世的な政治を支配する<弟>(あるいは兄)という氏族性以前の制度の形態の原型をおもいえがくのである。

 

この挿話で個体としてのスサノオは、原始父系制的な世界(『河海』)の相続を否定して、母系制的な世界(農耕社会)の相続を願望し、哭きやまないために追放される。スサノオの個体としての<罪>の観念はただそれだけに発している。そしてスサノオの<倫理>は青山を泣き枯らし、河海を泣きほすという行為のなかに象徴的にあらわれている。これを神話的な世界での個体の<倫理>の発生のはじめの形態とかんがえれば、それは農耕社会の<共同幻想>を肯定するか否定するかという点にだけあらわれている。いいかえればスサノオが父系的な世界の構造を否定して、母系的な農耕世界を肯定したとき<倫理>の問題がはじめてあらわれている。人間の個体の<倫理>が、欠如の意識の軋みからうまれるのだとするなら、スサノオがもった欠如の意識は父系制がもった欠如に発祥している。『古事記』神話を統合したものが、水田耕作民の支配者となった大和朝廷勢力だとすれば、かれらは雑穀の半自然的な栽培と、漁撈と、わずかの狩猟で生活していた前農耕的段階の社会を否定し、変革し、席捲したとき、はじめてかれらの<倫理>意識を獲取したのである。いいかえれば良心の疾しさに当面したのである。そこでかれらはさまざまの農耕祭儀をうみだしてこの<倫理>意識を補償することになった」(吉本隆明「共同幻想論・罪責論・P.203~206」角川文庫 一九八二年)

 

吉本隆明は「雑穀の半自然的な栽培と、漁撈と、わずかの狩猟で生活していた前農耕的段階の社会」を「水田耕作民の支配者となった大和朝廷勢力」が「否定し、変革し、席捲したとき、はじめてかれらの<倫理>意識を獲取した」と述べる。

 

それにしても「雑穀の半自然的な栽培と、漁撈と、わずかの狩猟で生活していた前農耕的段階の社会」が日本列島のどこにあったのか。柳田國男はそれこそ日本列島の至るところにあったし、とりわけ「紀州」に顕著に見られる特徴だといっている。

 

「南方氏が熊野山中の奇草を得んがために山神とオコジの贈を約せられしは一場の佳話なりといえども、そのオコゼは果して山神の所望に応ずべき長一寸のハナオコゼなりしや否や。自分は山神とともに少なからず懸念を抱きつつあり。また海人が山神を祀りオコゼをこれに貢することはすこぶる注意すべきことなり。おそらくはこの信仰は『山島に拠りて居をなせる』日本のごとき国にあらざれば起るまじきものにてことに紀州のごとき海に臨みて高山ある地方には似つかわしき伝説なり」(柳田國男「山神とオコゼ」『柳田国男全集4・P.429』ちくま文庫 一九九八年)

 

だがしかし、なるほど「雑穀の半自然的な栽培と、漁撈と、わずかの狩猟で生活していた前農耕的段階の社会」を「水田耕作民の支配者となった大和朝廷勢力」が「否定し、変革し、席捲したとき、はじめてかれらの<倫理>意識を獲取した」としても、<償却不可能な永遠の負債>として<農耕祭儀>が終わりのない反復を呈しないわけにはいかなくなるのはどうしてだろう。ニーチェはいう。「今や究極的な償却の見込みは、悲しいかなひとたまりもなく全く閉ざされ《なくてはならない》」がゆえに、と。

 

「今や究極的な償却の見込みは、悲しいかなひとたまりもなく全く閉ざされ《なくてはならない》。今や眼は悄然と鉄の如き不可能性の前に跳ね返り、弾き返ら《なくてはならない》。今やあの『負い目』や『義務』の概念は後向きになら《なくてはならない》ーーーが一体、誰の方へ向かうのであるか。疑いもなく、まず『債務者』の方へである。今や債務者のうちに良心の疚(やま)しさが根を張り、食い込み、蔓(はびこ)って、水虫のように広く深く成長する。その結果、ついに負債を償却できなくなるとともに罪の贖(あがな)いもできなくなり、ここに贖罪の不可能(「《永劫の》罰」)という思想が抱かれることになる」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・二十一・P.108」岩波文庫 一九四〇年)

 

アマテラス(姉)とスサノオ(弟)の関係は、前者が<神権>を象徴し後者が<政権>を象徴するという形を取る。吉本隆明はそれを「神権を支配する<姉>(あるいは妹)と現世的な政治を支配する<弟>(あるいは兄)という氏族性以前の制度の形態の原型」と呼ぶ。

 

そして個体としてのスサノオは「神権優位の<共同幻想>を意識し、これに抗命したときはじめて<倫理>を手に入れることになった」。

 

「アマテラスとスサノオの挿話には<倫理>の原型があらわれている。いいかえれば<神権>が<政権>よりも優位だった社会の<共同幻想>の軋みが、個体と共同性の問題にふりわけられてあらわれている。スサノオがイザナギの宣命にそむいてまでゆきたいと願う<妣(はは)の国>を、空間的に農耕社会とかんがえずに、時間的に他界(<黄泉の国>)とかんがえれば個体としての現世からの逃亡を、いいかえれば自死の願望を語っていることになる。個体としてのスサノオは神権優位の<共同幻想>を意識し、これに抗命したときはじめて<倫理>を手に入れることになった。<内なる道徳律>というカント的な概念はここにはありえないが<共同幻想>にそむくかどうかが個体の<倫理>を決定するという問題はあらわれる」(吉本隆明「共同幻想論・罪責論・P.203~206」角川文庫 一九八二年)

 

吉本隆明は<共同幻想>(国家・制度)に「そむくかどうかが個体の<倫理>を決定するという問題」の<あらわれ>を「古事記」のエピソードの中に見ている。