原始的な<共同体>の成立はその成員すべてに対し、ニーチェのいう<良心の疾しさ>を生じさせる。そして一度<共同体>が成立するとその後につづくすべての成員はそれに先立つ<祖先>に対する終わりのない債務感情を打刻される。いわば<償却不可能な永遠の負債>を背負うことになる。
言い換えれば、<償却不可能な永遠の負債>に対して「犠牲と業績によって祖先に《払い戻され》なくてはならない」という<倫理的な>意識が生じる。しかし何によって?何度も繰り返し反復される<祭儀>によってである。
吉本隆明はいう。
「ニーチェは『道徳の系譜』のなかで、原始的な種族共同体の内部では、現存の世代は先行の世代にたいし、とりわけ種族を草創した最初の世代にたいして不可解な義務をおうものとかんがえられており、種族の社会は、徹頭徹尾祖先の犠牲と功業のおかげで存立したという観念が支配する旨をのべている」(吉本隆明「共同幻想論・罪責論・P.203」角川文庫 一九八二年)
こうある。
「原初的な種族社会の内部ではーーーわれわれは太古について言っているのだがーーーいつでも現存の世代は前の世代に対して、また特に最初の世代、すなわちその種族を創始した世代に対して、一種の法律上の義務を負うていることを承認する(しかもこれは決して単なる感情上の責務ではない。この責務は、人類一般の極めて長い存続期間を通じて、決して故なく否定し去られるべきものではないであろう)。そこにおいては、種族の《存立》は全く祖先の犠牲と業績の賜物にほかならないーーー従ってそれはまた犠牲と業績によって祖先にいつでも現存の世代は前の世代に対して、また特に最初の世代、すなわちその種族を創始した世代に対して、一種の法律上の義務を負うていることを承認する(しかもこれは決して単なる感情上の責務ではない。この責務は、人類一般の極めて長い存続期間を通じて、決して故なく否定し去られるべきものではないであろう)。そこにおいては、種族の《存立》は全く祖先の犠牲と業績の賜物にほかならないーーー従ってそれはまた犠牲と業績によって祖先に《払い戻され》なくてはならない、という確信が支配している、という確信が支配している。ところでかようにして承認せられた《債務》は、そういう祖先がなお生き長らえて力強い精霊となっており、そしてその力の側から該種族に新しい利得や前金が与えられるという信仰によって、なお絶えず増大して行くことになる。もしかするとロハで?だが、あの素朴な『魂の貧しい』時代にとっては『ロハ』などということはなかった。では何を祖先に払い戻すことができるか。犠牲(当初は極めて大雑把な意味での食物)・祝祭・礼拝堂・崇敬・殊に服従であるーーーというのは、すべての慣習は祖先の作ったものとして、その指令や命令でもあるのだからだーーー。が、果たして祖先が満足するほど払われるだろうか。なおそうした疑念が残され、しかもそれは次第に増大する。この疑念は債務者に時々大枚の償却をひとまとめにして強要し、ある法外な代償を支払うべきことを強要する(例えば、あの悪評の高い初子犠牲、血、いつの場合にも人間の血)。祖先と祖先の力に対する《恐怖》、祖先に対する債務意識の増大は、この種の論理に従って必然的に種族そのものの力の増大と厳密に比例し、種族そのものの勝利・独立・栄誉・畏怖の増大と厳密に比例する。断じてその逆ではないのだ!種族の衰退に向かう一歩一歩、あらゆる悲惨な事故、退化のあらゆる徴候、解体の近接を示すあらゆる徴候は、かえってまた常にその種族の創始者の精霊に対する恐怖を《減少させ》、かつその創始者の思慮や先慮や力についての観念をますます不明瞭にする。このような素朴な論理がその終点に達した場合を考えてみるがよい。結局、《最も強力な》種族の祖先は、恐怖の増大を想像することによって自ら巨怪なものにまで増大し、無気味な神秘のうちへ押し込められてしまうほかはない、ーーーつまり、祖先は必然的に一つの神に変形される。恐らくここに神々の本当の起源、すなわち恐怖からの起源があるのだ!」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十九・P.104~106」岩波文庫 一九四〇年)
ニーチェは<共同体>の起源におそろしく峻厳な<道徳>の発生を見ている。さらに吉本隆明は折口信夫の道徳論を対比させるが、「ニーチェにくらべれば、折口信夫の考えははるかに<お人好し>だ」としつつ、しかし「語ったところはおなじ」であると述べる。
引用されるエピソードは「古事記」の中でも有名な箇所。「この挿話ではスサノオは父イザナギから農耕社会を統治せよとは命ぜられずに、海辺(漁撈)を統治するよう命じられるために、それをうけずに青山を泣き枯らすほどに哭きわめいて<妣の国>へゆきたいとごねて追放されるのである。スサノオが願望した<妣の国>あるいは<黄泉の国>は、共同性として理解すれば母のいる他界というよりも、母系制の根幹としての農耕社会であるようにみえる」。
「折口信夫はおそらくニーチェとは独立に(あるいはニーチェの影響下に)『道徳の発生』のなかで、ほぼおなじ結論をやっている。
天つ神について一応、言ひ添へて置かねばならぬことがある。日本の宗教に於ける原罪観念が、ここにあつて、責任者を《すさのをの》命としてゐる。だがそれは、神話上の事として過ぎ去り、其罪に当つてゐるものは、田づくりに関係深い世々の農民である。日本の農民は、祖先から、尊い者に対する原罪を背負つて来てゐるものと考へ、此をあがなふ為に、務めて来たのである。贖罪の方法はあつて、、常は之を行つてゐるのだが、贖はなければならぬ因子は、農民自身になかつた。ここに宗教としての立脚点があつた。唯、田作りする日本の古代部落の長い耕人生活の間に、《すさのをの》命の為の贖罪が行はれてゐたのである。罪を意味する謹慎にこもることが、原罪なる天つ神を消却する方法となるのである。
ニーチェにくらべれば、折口信夫の考えははるかに<お人好し>だが、語ったところはおなじである。
だが農耕土民の祖形であってアマテラスの<弟>に擬定された<スサノオ>の背負った<原罪>は<共同幻想>としてみれば、ニーチェのいうようには不可解なものではない。この<原罪>が、農耕土民の集落的な社会の<共同幻想>と、大和朝廷勢力に統一されたのちの部族的な社会の<共同幻想>のあいだにうまれた矛盾や《あつれき》に発祥したのはたしからしくおもわれる。もとをただせば、大和朝廷勢力が背負うはずの<原罪>だったのに、農耕土民が背負わされたか、または農耕土民が大和朝廷権力に従属したときに、じぶんたちが土俗神にいだいた負い目に発祥したか、どちらかである。けれど作為的にかあるいは無作為にか混融がおこった。農耕土民たちの<共同幻想>は、大和朝廷の支配下での統一的な部族社会の<共同幻想>のように装われてしまった。
そのためこの挿話から、<共同幻想>の構成をとりだそうとすれば、天上界を支配する<姉>(アマテラス)と現実の農耕社会を支配する<弟>(スサノオ)という統治形態がかんがえられる。
そしてこの挿話ではスサノオは父イザナギから農耕社会を統治せよとは命ぜられずに、海辺(漁撈)を統治するよう命じられるために、それをうけずに青山を泣き枯らすほどに哭きわめいて<妣の国>へゆきたいとごねて追放されるのである。スサノオが願望した<妣の国>あるいは<黄泉の国>は、共同性として理解すれば母のいる他界というよりも、母系制の根幹としての農耕社会であるようにみえる。この挿話が出雲系土民の神話と古典学者にみなされた大国主の神話に接続されることからそう推測ができよう。そこでわたしたちはこの挿話から、神権を支配する<姉>(あるいは妹)と現世的な政治を支配する<弟>(あるいは兄)という氏族性以前の制度の形態の原型をおもいえがくのである。
この挿話で個体としてのスサノオは、原始父系制的な世界(『河海』)の相続を否定して、母系制的な世界(農耕社会)の相続を願望し、哭きやまないために追放される。スサノオの個体としての<罪>の観念はただそれだけに発している。そしてスサノオの<倫理>は青山を泣き枯らし、河海を泣きほすという行為のなかに象徴的にあらわれている。これを神話的な世界での個体の<倫理>の発生のはじめの形態とかんがえれば、それは農耕社会の<共同幻想>を肯定するか否定するかという点にだけあらわれている。いいかえればスサノオが父系的な世界の構造を否定して、母系的な農耕世界を肯定したとき<倫理>の問題がはじめてあらわれている。人間の個体の<倫理>が、欠如の意識の軋みからうまれるのだとするなら、スサノオがもった欠如の意識は父系制がもった欠如に発祥している。『古事記』神話を統合したものが、水田耕作民の支配者となった大和朝廷勢力だとすれば、かれらは雑穀の半自然的な栽培と、漁撈と、わずかの狩猟で生活していた前農耕的段階の社会を否定し、変革し、席捲したとき、はじめてかれらの<倫理>意識を獲取したのである。いいかえれば良心の疾しさに当面したのである。そこでかれらはさまざまの農耕祭儀をうみだしてこの<倫理>意識を補償することになった」(吉本隆明「共同幻想論・罪責論・P.203~206」角川文庫 一九八二年)
吉本隆明は「雑穀の半自然的な栽培と、漁撈と、わずかの狩猟で生活していた前農耕的段階の社会」を「水田耕作民の支配者となった大和朝廷勢力」が「否定し、変革し、席捲したとき、はじめてかれらの<倫理>意識を獲取した」と述べる。
それにしても「雑穀の半自然的な栽培と、漁撈と、わずかの狩猟で生活していた前農耕的段階の社会」が日本列島のどこにあったのか。柳田國男はそれこそ日本列島の至るところにあったし、とりわけ「紀州」に顕著に見られる特徴だといっている。
「南方氏が熊野山中の奇草を得んがために山神とオコジの贈を約せられしは一場の佳話なりといえども、そのオコゼは果して山神の所望に応ずべき長一寸のハナオコゼなりしや否や。自分は山神とともに少なからず懸念を抱きつつあり。また海人が山神を祀りオコゼをこれに貢することはすこぶる注意すべきことなり。おそらくはこの信仰は『山島に拠りて居をなせる』日本のごとき国にあらざれば起るまじきものにてことに紀州のごとき海に臨みて高山ある地方には似つかわしき伝説なり」(柳田國男「山神とオコゼ」『柳田国男全集4・P.429』ちくま文庫 一九九八年)
だがしかし、なるほど「雑穀の半自然的な栽培と、漁撈と、わずかの狩猟で生活していた前農耕的段階の社会」を「水田耕作民の支配者となった大和朝廷勢力」が「否定し、変革し、席捲したとき、はじめてかれらの<倫理>意識を獲取した」としても、<償却不可能な永遠の負債>として<農耕祭儀>が終わりのない反復を呈しないわけにはいかなくなるのはどうしてだろう。ニーチェはいう。「今や究極的な償却の見込みは、悲しいかなひとたまりもなく全く閉ざされ《なくてはならない》」がゆえに、と。
「今や究極的な償却の見込みは、悲しいかなひとたまりもなく全く閉ざされ《なくてはならない》。今や眼は悄然と鉄の如き不可能性の前に跳ね返り、弾き返ら《なくてはならない》。今やあの『負い目』や『義務』の概念は後向きになら《なくてはならない》ーーーが一体、誰の方へ向かうのであるか。疑いもなく、まず『債務者』の方へである。今や債務者のうちに良心の疚(やま)しさが根を張り、食い込み、蔓(はびこ)って、水虫のように広く深く成長する。その結果、ついに負債を償却できなくなるとともに罪の贖(あがな)いもできなくなり、ここに贖罪の不可能(「《永劫の》罰」)という思想が抱かれることになる」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・二十一・P.108」岩波文庫 一九四〇年)
アマテラス(姉)とスサノオ(弟)の関係は、前者が<神権>を象徴し後者が<政権>を象徴するという形を取る。吉本隆明はそれを「神権を支配する<姉>(あるいは妹)と現世的な政治を支配する<弟>(あるいは兄)という氏族性以前の制度の形態の原型」と呼ぶ。
そして個体としてのスサノオは「神権優位の<共同幻想>を意識し、これに抗命したときはじめて<倫理>を手に入れることになった」。
「アマテラスとスサノオの挿話には<倫理>の原型があらわれている。いいかえれば<神権>が<政権>よりも優位だった社会の<共同幻想>の軋みが、個体と共同性の問題にふりわけられてあらわれている。スサノオがイザナギの宣命にそむいてまでゆきたいと願う<妣(はは)の国>を、空間的に農耕社会とかんがえずに、時間的に他界(<黄泉の国>)とかんがえれば個体としての現世からの逃亡を、いいかえれば自死の願望を語っていることになる。個体としてのスサノオは神権優位の<共同幻想>を意識し、これに抗命したときはじめて<倫理>を手に入れることになった。<内なる道徳律>というカント的な概念はここにはありえないが<共同幻想>にそむくかどうかが個体の<倫理>を決定するという問題はあらわれる」(吉本隆明「共同幻想論・罪責論・P.203~206」角川文庫 一九八二年)
吉本隆明は<共同幻想>(国家・制度)に「そむくかどうかが個体の<倫理>を決定するという問題」の<あらわれ>を「古事記」のエピソードの中に見ている。