昨日、<償却不可能な永遠の負債>として<農耕祭儀>が終わりのない反復を呈しないわけにはいかなくなるのはどうしてか、という問いについて吉本隆明とニーチェを引用しつつこう述べた。
だがしかし、なるほど「雑穀の半自然的な栽培と、漁撈と、わずかの狩猟で生活していた前農耕的段階の社会」を「水田耕作民の支配者となった大和朝廷勢力」が「否定し、変革し、席捲したとき、はじめてかれらの<倫理>意識を獲取した」としても、<償却不可能な永遠の負債>として<農耕祭儀>が終わりのない反復を呈しないわけにはいかなくなるのはどうしてだろう。ニーチェはいう。「今や究極的な償却の見込みは、悲しいかなひとたまりもなく全く閉ざされ《なくてはならない》」がゆえに、と。
「今や究極的な償却の見込みは、悲しいかなひとたまりもなく全く閉ざされ《なくてはならない》。今や眼は悄然と鉄の如き不可能性の前に跳ね返り、弾き返ら《なくてはならない》。今やあの『負い目』や『義務』の概念は後向きになら《なくてはならない》ーーーが一体、誰の方へ向かうのであるか。疑いもなく、まず『債務者』の方へである。今や債務者のうちに良心の疚(やま)しさが根を張り、食い込み、蔓(はびこ)って、水虫のように広く深く成長する。その結果、ついに負債を償却できなくなるとともに罪の贖(あがな)いもできなくなり、ここに贖罪の不可能(「《永劫の》罰」)という思想が抱かれることになる」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・二十一・P.108」岩波文庫 一九四〇年)
アマテラス(姉)とスサノオ(弟)の関係は、前者が<神権>を象徴し後者が<政権>を象徴するという形を取る。吉本隆明はそれを「神権を支配する<姉>(あるいは妹)と現世的な政治を支配する<弟>(あるいは兄)という氏族性以前の制度の形態の原型」と呼ぶ。
そして個体としてのスサノオは「神権優位の<共同幻想>を意識し、これに抗命したときはじめて<倫理>を手に入れることになった」。
「アマテラスとスサノオの挿話には<倫理>の原型があらわれている。いいかえれば<神権>が<政権>よりも優位だった社会の<共同幻想>の軋みが、個体と共同性の問題にふりわけられてあらわれている。スサノオがイザナギの宣命にそむいてまでゆきたいと願う<妣(はは)の国>を、空間的に農耕社会とかんがえずに、時間的に他界(<黄泉の国>)とかんがえれば個体としての現世からの逃亡を、いいかえれば自死の願望を語っていることになる。個体としてのスサノオは神権優位の<共同幻想>を意識し、これに抗命したときはじめて<倫理>を手に入れることになった。<内なる道徳律>というカント的な概念はここにはありえないが<共同幻想>にそむくかどうかが個体の<倫理>を決定するという問題はあらわれる」(吉本隆明「共同幻想論・罪責論・P.203~206」角川文庫 一九八二年)
吉本隆明は<共同幻想>(国家・制度)に「そむくかどうかが個体の<倫理>を決定するという問題」の<あらわれ>を「古事記」のエピソードの中に見ている。
ここまでの過程は日本の戦後民主主義において忠実に反復されてきたことは言うまでもない。
そして<共同幻想>(国家・制度)を創設実施する側がどこまで自覚的なのかさっぱり見えてこないにせよ、すでに成立した「LGBT理解増進法」と同時にニーチェの言葉がもう一度吟味されないわけにはいかなくなったと言わねばならない事態に立ち至った。
「今や債務者のうちに良心の疚(やま)しさが根を張り、食い込み、蔓(はびこ)って、水虫のように広く深く成長する。その結果、ついに負債を償却できなくなるとともに罪の贖(あがな)いもできなくなり、ここに贖罪の不可能(「《永劫の》罰」)という思想が抱かれることになる」。
延々どこまでも相続されていくばかりの<債務者負担>。だが果たしてそれだけだろうか。ニーチェは「ここに贖罪の不可能(「《永劫の》罰」)という思想が抱かれることになる」と書いたあとすぐこう続けている。
「しかし最後には、あの概念は『債権者』の方へまで向かうのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・二十一・P.108」岩波文庫 一九四〇年)
どういうことだろうか。フーコーから次の箇所を引いてその論旨も述べておいた。
(1)「十九世紀後半以来、血のテーマ系が、性的欲望の装置を通じて行使される政治権力の形を、歴史的な厚みによって活性化し支えるために動員される、ということが起きた。人種差別はまさにこの時点で形成される(近代的な、国家的な、生物学的な形態における人種差別である)。植民、家族、結婚、教育、社会の階層化、所有権などに関する政策と、身体、行動、健康、日常生活などのレベルにおける一連の不断の介入とが、その時、血の純潔さを守り種族を君臨せしめるという神話的な配慮から、己れが色合いと正当化を受けとった」(フーコー「知への意志・P.188」新潮社 一九八六年)
(2)「ナチズムは、おそらく、血の幻想と規律的権力の激発との最も素朴にして最も狡猾なーーーそしてこの二つの様相は相関的だったがーーー結合であった。社会の優生学的再編成は、無際限な国家管理の名にかくれてそれがもたらす<極小権力>の拡張・強化と相まって、至高の血の夢幻的昂揚を伴っていた、それが内包していたものは、民族的規模での他者のシステマティックな絶滅であると同時に、自らを全的な生贄に捧げる危険でもあった。そして歴史の望んだところは、ヒットラーの性政策は全く愚劣な実践に終わったが、血の神話のほうは、さし当たり人間が記憶し得る最大の虐殺に変貌した、ということであった」(フーコー「知への意志・第五章・P.188~189」新潮社 一九八六年)
(3)「正反対の極に、今問題にしている十九世紀末以来、性的欲望のテーマ系を、法と象徴的秩序と主権のシステムにもう一度書き込もうとする努力を追うことができる。まさに精神分析の政治的名誉であったことーーー少なくとも精神分析において整合的であり得たものの名誉であるがーーーそれは、性的名誉の日常性を管理し経営しようと企てていたこれら権力メカニズムの内部にあって、取り返しのつかぬ形で増殖し得るものに疑いをかけたことである(しかもそれは精神分析の誕生した時からであり、つまり病的変質という神経-精神医学とはっきり一線を画した時からそうであった)」(フーコー「知への意志・第五章・P.189」新潮社 一九八六年)
フーコーの論旨。(2)ではナチズムによる「社会の優生学的再編成」。さらに(3)で念頭に置かれているソ連による<性倒錯者>というラベリングによる「精神病院」への監禁。
さらにここで、<そして>、と言おう。
「しかし最後には、あの概念は『債権者』の方へまで向かうのだ」というニーチェの言葉は、ナチス・ドイツ崩壊時にもソ連崩壊時にも忠実に反復された。<債権者>たるナチス・ドイツ自身、さらにソ連自身が、自分たちが成立させた<共同幻想>(国家・制度)の暴力によって自己破滅へ追い込まれるほかなくなり実際に自己破滅した。<対幻想>(すべての性的関係)にしろ思想信条のあり方にしろ、いずれにしても<正常・純粋>というイデオロギーを押し進めていけばいくほどその刃が実のところ<諸刃の剣>であるということを自分自身で自分自身に向けて明確化していくほかない。
今回、<債権者>は「LGBT理解増進法」を成立させた<共同幻想>(国家・制度)の側に立つ日本の国会に当たる。
ひとまず想定できるかも知れない事態について触れておこう。<債務者>たる市民に対する恒常的で徹底的な<規律・訓練>についてフーコーから。
(1)「一方の極には封鎖としての規律・訓練が、つまり周辺部で確立される閉鎖的な仕組があり、しかもそれは、悪の阻止、情報伝達の遮断、時間の中断などの消極的機能を完全に目指すのである。反対の極には、一望監視方式をふくむ機構としての規律・訓練がある。すなわち、権力の行使をより速かな、より軽快な、より有効なものにしつつ、それを改善しなければならない機能的な仕掛であり、来るべき或る社会のための巧妙な強制権である。一方の企図から他方の企図への、前者の例外中心の規律・訓練の図式から後者の監視の一般化の図式への動きは、歴史上の変化を基礎にするのである。つまり、十七世紀と十八世紀における規律・訓練装置の漸進的な拡張であり、全社会体に及ぶその装置の多様化であり、概括して名づけうるとすれば規律・訓練的な社会の形成である」(フーコー「監獄の誕生・P.210~211」新潮社 一九七七年)
(2)「ひとまとめにして言いうるとすれば、規律・訓練は人間の多様性の秩序化を確保するための技術である。ーーー規律・訓練に固有なものとは、規律・訓練が次の三つの規準に応ずる権力上の戦術を、人間の多様性にたいして明確にうち出す傾向がある点である。つまり、権力の行使をできるだけ経費のかからぬようにすること(経済的には、その行使にともなう出費の軽減によって、政治的には、その行使を控え目にし、その外在化を少なくし、その行使の不可視性を相対的にし、その行使によって生じる抵抗をわずかなものにすることで)、つぎに、この社会的権力の効果が最大限の強烈さをともなって達し、失敗もなく隙間もつくらずに可能なかぎり遠くまで広がるように、措置すること、第三には、権力の《経済策による》増大と、権力がそこで行使される装置(教育の、軍隊の、産業の、医療の、どんな装置であれ)の成果とを結びつけること、要約すれば、この権力体系のすべての構成要素の従順さ、ならびに効用を増加させることである」(フーコー「監獄の誕生・P.218」新潮社 一九七七年)
(3)「つまり、《前もっての差引という形で》介入するかわりに、さまざまな装置の生産的な効果や、この効果の増大や、それが生み出すものの活用などに内部から統合される、そうした権力機構である。かうって権力の経済を支配していた《先取=暴力(violence=ヴィオランス)》という古い原則にかわって、規律・訓練は《穏かさ(douceur=ドゥスール)=生産=利益》の原則を採り入れる(ここは「柔(ドゥスール)よく剛(ヴィオランス)を制す」という格言を踏まえていると思われる)。その原則にもとづいて、人間の多様性と生産装置の多様化を調整可能にさせる、言わばそうした諸技術を現に用いているのだ(しかもこの生産装置という言葉でもって、単に、固有な意味での《生産》を意味するのみならず、学校における知と能力の生産、病院における健康の生産、軍隊の場合の破壊力の生産をも意味しなければならない)」(フーコー「監獄の誕生・P.219」新潮社 一九七七年)
さらにドゥルーズのいう<管理>の全体主義化が加速していることについて。
「私たちが『管理社会』の時代にさしかかったことはたしかで、いまの社会は厳密な意味で規律型とは呼べないものになりました。フーコーはふつう、規律社会と、その中心的な技術である《監禁》(病院と監獄だけでなく、学校、工場、兵舎も含まれる)にいどんだ思想家だと思われています。しかし、じつをいうとフーコーは、規律社会とは私たちにとって過去のものとなりつつある社会であり、もはや私たちの姿を映していないということを明らかにした先駆者のひとりなのです。私たちが管理社会の時代にさしかかると、社会はもはや監禁によって機能するのではなく、恒常的な管理と、瞬時に成り立つコミュニケーションが幅をきかすようになる。
ーーーこれからは教育も閉鎖環境の色合いがうすまり、もうひとつの閉鎖環境である職業の世界との区別も弱まっていくだろうし、やがては教育環境も職業環境も消滅して、あのおぞましい生涯教育が推進され、高校で学ぶ労働者や大学で教鞭をとる会社幹部を管理するために『平常点』のしくみが一般化するにちがいありません。学校改革の推進は見かけ倒しで、実際には学校制度の解体が進んでいる。管理体制のなかでは、何を壊しても壊しすぎにはならないのです。それにあなたも、以前からイタリアにおける労働環境の変化を分析され、臨時雇いや在宅勤務など、新しい労働の形態が生まれたことをつきとめておられますが、同様の傾向はその後ますます顕著になってきた(そして製品の流通と分配でも新しい形態が生まれた)。
社会のタイプが違えば、当然ながらそれぞれの社会に、ひとつひとつタイプの異なる機械を対応させることができます。君主制の社会には単純な力学的機械を、規律型にはエネルギー論的機械を、そして管理社会にはサイバネティクスとコンピューターをそれぞれ対応させることができるのです。しかし機械だけでは何の説明にもなりません。機械をあくまでも部分として取り込んだ集合的アレンジメントを分析しなければならないのです。近い将来、開放環境に不断の管理という新たな管理の形態が生まれることは確実ですが、これに比べるなら苛酷このうえない監禁ですら甘美で優雅な過去の遺産に見えるかもしれません。『コミュニケーションの普遍相』を追求する執念には慄然とさせられるばかりです」(ドゥルーズ「記号と事件・政治・P.351~352」河出文庫 二〇〇七年)
次に<債権者>として<共同幻想>(国家・制度)の側に立つ日本の国会が、今回開示された危険極まりないイデオロギーを含み持つ「LGBT理解増進法」を成立させたか。それがとりわけ<対幻想>(すべての性的関係)あるいはもっと率直に言って<性>にかかわる<欲望>の問題だからである。
「いくたの革命家がどう考えているにしろ、欲望はその本質において革命的なのである。ーーー革命的であるのは欲望であって、左翼の祭典なのではない。ーーーいかなる社会といえども、真に欲望の定立を許すときには、搾取、隷属、位階秩序の諸構造は必ず危険にさらされることになるのだ。(愉快な仮定であるが)、ひとつの社会がこれらの諸構造と一体をなすものであれば、そのときには、そうだ、欲望は本質的にこの社会を脅かすことになるのだ。だから、欲望を抑制し、さらにはこの抑制よりももっと有効なるものをさえ見つけだして、ついには抑制、位階秩序、搾取、隷属といったものそのものをも欲望させるようにすることが、社会にとってはその死活にかかわる重大事となるのである。次のような初歩的なことまでも語らなければならないとは、全く腹立たしいことである。欲望が社会を脅かすのは、それが母と寝ることを欲するからではなくて、それが革命的であるからである、といったことまでも語らなければならないとは。このことが意味していることは、欲望が性欲とは別のものであるということではなくて、性欲と愛とがオイディプスの寝室の中では生きていないということである。むしろ、この両者は、もっと広い外海を夢みて、規制秩序の中にはストック〔貯蔵〕されない異質な種々の流れを移動させるものなのである。欲望は革命を『欲する』のではない。欲望は、それ自身において、いわば意識することなく、自分の欲するものを欲することによって革命的なのである」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第二章・P.146~147」河出書房新社 一九八六年)
<債権者>として<共同幻想>(国家・制度)の側に立つ日本の国会は「LGBT」概念を通して見えてきた<欲望>の破壊力を怖れたといえる。ところが国際社会は「LGBT」概念についてさほど動揺したりしない。いうまでもなくプルーストの同時代から大いに存在し、横断的な対話がなされてきた領域である。むしろ時代の要請として反対派との対話をも重視しながらできうる限り好意的な<折り合い>のつけ方を模索している。
ところがしかし今回、国際社会は、国際社会の一員たる日本にのみ顕著に見られる怖ろしく古い危険なイデオロギーが今なお根付いていることを目撃・確認した。国際社会は、国際社会の中の日本が国際社会の一員としてまだまだ使い勝手のいい敗戦国であり続けていることを、いま一度再認識することにまんまと成功した。
さて今度は、<対幻想>(すべての性的関係)にしろ思想信条のあり方にしろ、いずれにしても<正常・純粋>というイデオロギーを押し進めていけばいくほどその刃が実のところ<諸刃の剣>であるということを自分自身で自分自身に向けて明確化していくほかないという点で、ニーチェのいう通り、「しかし最後には、あの概念は『債権者』の方へまで向かう」。
<債務者>(日本のすべての市民)に押し付ける形になった<共同幻想>(国家・制度)としての「LGBT理解増進法」。<債務者>(日本のすべての市民)の側は今後ますます度重なる<規律・訓練・管理>にさらされつつ、<共同幻想>(国家・制度)が提示する性的身体的規格(モデル)に適合しそうにないと見なされるや続々と生贄になり処分されていくうち、今度はそれを眺めている<債権者>同士の間で高まる不安がある。
<債権者>側が設定した性的身体的規格(モデル)に関する<規律・訓練・管理>であるにもかかわらず、打ちつづく<債務者>の悲惨を見せつけられるということ。次に<債権者>同士の間で起こってくるのは<正常・純粋>とされる性的身体的規格(モデル)について<債権者>自身の側も本当に妥当しているかどうかという<終わりのない自己検証>を<償却不可能な永遠の負債>として背負うほかないという避けられない事態である。
イデオロギー的な<正常・純粋>を極限まで追求しないではいられず、<債権者>側が設定した性的身体的規格(モデル)からのほんのわずかの<ずれ>一つ見逃すわけにはいかないという、かつてのナチスやソ連に換わる新しい警察国家の誕生。例えるとすれば、一九七二年「連合赤軍同志リンチ殺害事件」の反復というのが近いだろう。