白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ44

2023年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年六月二十八日(水)。

 

朝食(午前五時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)3グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)五十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

昼食(午後一時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)3グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)五十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

夕食(午後七時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)3グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)五十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

日中、横になってくつろいでいる場所がテーブルの椅子からテーブルの上に変わった。暑さからだろうか。板の上ならクッションの上より確かに少しはひんやりするわけだが。

 

Doth o’re us pass,when,as th’expanding eye

To the loved object―so the tear to the lid

Will start,which lately slept in apathy?

And yet it need not be―(that objedt)hid

From us in life―but common―which doth lie

Each hour before us―but then only,bid

With a strange sound,as of a harp-spring broken,

To awake us―‘Tis a symbol and a token

 

「それがわれらの上を通り過ぎるのではないだろうか、

われらの眼が 愛の対象に向って見ひらかれる時ーーーそしてまた

今の今まで無感覚に眠っていた人のまぶたから涙が流れ出るような時には?

しかもそれはーーーその対象はーーー日常 人の眼に

匿されたものである必要はなくーーーむしろ平凡なーーー四六時中

われらの目前にあるものなのだがーーーだが その時

『その時』だけは 切れたハープの弦のような不思議な音で

われらを目覚めさせるーーーそれは象徴なのだ 暗号なのだ」(ポオ「スタンザ」『詩と詩論・P.39~40』創元推理文庫 一九七九年)

 

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて463

2023年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

昨日と同じく午前五時のキッチンに母はいません。すでに書いた通り六月十四日午後、大津日赤に緊急入院しました。

 

したがって朝のリハビリはまた姿を変えます。当面のあいだ本を開いて、いつ飛び込んでくるかわからない母からか病院からの連絡を待ちつつ、さらに妻の病状に目を配りつつ(特に睡眠が十分に取れているか)、二代目タマの世話をして時間を過ごすことになります。

 

ここまでは同じです。

 

今朝の読書も適当にぱらぱら。柄谷行人の文芸時評から。

 

「『事故のてんまつ』が事実上依拠(いきょ)している、『野間宏=安岡章太郎の<差別>鼎談』(『朝日ジャーナル』連載)のいくつかを私も読んだことがある。その印象では、野間宏はいわゆる正義の人だが、安岡章太郎の『差別問題』への取りくみ方にはややちがったところがある。それがはっきりするのは、中上健次をゲストに迎えた鼎談(三月二十五日号)であって、中上氏の注目すべき率直さとそれに対する安岡氏の微妙な反応が、ある重要な問題を示唆するのである。『差別』に対して直接プロテストする文学は浅い、『部落ってあんなに浅い問題じゃないーーー(中略)もっと深くて、もっと厚いんだ』と、中上氏はいっている。いいかえれば、作家が出身を秘密にするかどうかということよりも、むしろ文学的な想像力の根底に『差別』があるということが問題なのだ。明治以来の文学・芸術はいうまでもあるまい。谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫ーーーといった代表的な作家、すなわちエロティシズムと暴力あるいは死に根をおろしたこれらの作家をふりかえってみるとき、われわれはこの問題のもつ《深さ》と《厚み》を考えざるをえないのである。臼井氏の作品にはこういう視点が欠けていることはいうまでもない。しかし、すくなくともそういう問いかけへの契機(けいき)を与えた以上、みのがすことはできないのである。安岡章太郎が『差別問題』にとりくんでいることを、私はこれまでいくらか奇異に感じていた。だが、それは安岡氏自身が文学的停滞を突破しようとする一つの自覚的な努力なのかもしれない。そうだとすれば、作家はいま想像力の源泉そのものに意識的に向かわねばならないところに立っている、といってよい。たとえば、『内向の世代』とよばれる以前の、阿部昭や坂上弘の作品にある地味だが烈(はげ)しいエネルギーはどこからきていたか、私にはいまわかるような気がする。安部氏は旧軍人の父と精神病者の兄のいる『家』から、坂上氏は『朝の村』に書かれた帰化人集落から、たんなる都市中産階級の生活にはない《深さ》と《厚み》を得ていたのである。私は、彼らがもう一度そのことを《意識的》に考えるべき時期にきていると思う」(柄谷行人「同一性と差異性について」『反文学論・P.20~22』講談社文芸文庫 二〇一二年)

 

昨今マス-コミが盛んに取り上げている「生ぐるしさ・生きにくさ」。一度「息苦しさ」へ変換するともっと問題がはっきりするかもしれない。

 

「『約束事』の言葉に抑圧された言葉は、肉体的な『息苦しさ』においてしかあらわれてこない」(柄谷行人「老いについて」『反文学論・P.95』講談社文芸文庫 二〇一二年)

 

今なお言えることだろう。「生きぐるしさ・生きにくさ」について盛んに取り上げている昨今のマス-コミ。ところがそもそもマス-コミ言語というものは、ほとんどそのまま「『約束事』の言葉」ばかりなのであって、それを受け取る側は「肉体的な『息苦しさ』」のためにますますがんじがらめにされていくほかないのだろうか。

 

一方で「生きぐるしさ・生きにくさ」が訴えられ、もう一方で手垢まみれのわかりきった反論が提出される。そのような両者ともに反論しあっているように見せかけて、そのじつ相補的に補い合い補完し合う形をとるマス-コミの予定調和的なあり方。そういう形式自体が何年も前からすでにうっとうしいのである。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・第二のソ連へ加速する<日本とマス-コミ>

2023年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム

嫉妬を誘発せずにはおかない<未知の女>アルベルチーヌ。次の箇所で書かれていることは嫉妬する男が往々にして陥ってしまいがちな傾向についての一般論。必ずしも<私>とアルベルチーヌとの関係でなくても構わない。

 

つい先日、日本で「LGBT理解増進法」が成立したが、あの法律の主旨を前提するとアルベルチーヌは間違いなく「よくもあんな女を愛するものだと人が不思議に思うような凡庸な女」に当てはまる。

 

ところが逆説的なことに「よくもあんな女=アルベルチーヌ」と見なした多数者は「よくもあんな女=アルベルチーヌ」について「女の発言のひとつひとつの背後に嘘を嗅ぎつけ、女が行ったというどんな家の背後にもべつの家を、どんな行動やどんな人の背後にもべつの行動やべつの人を嗅ぎつける。おそらくその男たちは、どれがほんとうの家や行動や人なのか知らないし、それを知るまで奮起する気力も、知りうる可能性も持たないだろう」、にもかかわらず、<未知の地帯>を知っているアルベルチーヌとその仲間たちからいっときたりとも目を離すことができない。

 

<未知の地帯>を知っているアルベルチーヌとその仲間たちは、逆に<未知の地帯>を知らないし知る方法をまるで持たず決して知ることのできない人々をさらなる嫉妬の狂気へ叩き込む。「嘘つきの女」というのは何もアルベルチーヌ一人に限ったことではなく「嘘つきの男」でもまるで構わないが、もしアルベルチーヌに限ってみたとしても、その「嘘」は<私>を悲しませないための「言葉の対応術」のほんの応用に過ぎない。

 

<私>がアルベルチーヌの周囲に張り巡らした<監禁・監視・管理>のためのありとあらゆる方法を思い出そう。これ以上考えにくいほど「卑劣・狡猾・無礼」極まりないものばかりなのはプルーストの懇切丁寧な説明の通りすぐわかるだろう。しかしそれほどまで徹底的に<監禁・監視・管理>へ欲望したがるのはなぜか。

 

「男たちの嫉妬心はその深さを測ってみたくなり、男たちの知性はその深さに興味をそそられずにはいない」からだ。

 

プルーストに言わせるまでもなく「LGBT理解増進法」を可決成立させた人々は自分にとって<未知の領域>を持つ<他者>に対して怖いほどの<畏怖>を持っている。作品の中の<私>のように怖れている。にもかかわらず逆にその<未知の領域>について「その深さを測ってみたくなり」、「その深さに興味をそそられずにはいない」。この態度はおそろしく古くから世界中で見られる態度であり、古代人が「神」に対して感じた最初の態度と一致している。

 

「よくもあんな女を愛するものだと人が不思議に思うような凡庸な女のほうが、聡明な女よりも、その男たちの世界をはるかに豊かにする。男たちは女の発言のひとつひとつの背後に嘘を嗅ぎつけ、女が行ったというどんな家の背後にもべつの家を、どんな行動やどんな人の背後にもべつの行動やべつの人を嗅ぎつける。おそらくその男たちは、どれがほんとうの家や行動や人なのか知らないし、それを知るまで奮起する気力も、知りうる可能性も持たないだろう。嘘つきの女は、じつに簡単な手口で、その手口を変える手間をかけずとも大勢の人間をだますことができるし、そのうえ、その手口を見抜けるはずの同じ人間を何度もだますことさえできる。これらすべてが感じやすい聡明な男たちの眼前にきわめて奥深い世界をつくりだすので、男たちの嫉妬心はその深さを測ってみたくなり、男たちの知性はその深さに興味をそそられずにはいないのである」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.437~438」岩波文庫 二〇一七年)

 

人々が常に怖れつつ同時に心の底では願望するアンビバレントな対象。日本人にとって最も身近なところで「天皇」を上げることができるだろう。だが天皇が国家的最上級に位置するためには日本社会の階層秩序において、その逆に位置する最底辺階層が位置していなければ成り立たない。

 

「この伊勢で居た間中、私が考えつづけ、自分がまるで写真機のフィルムでもあるかのように感光しようと思ったのは、日本的自然の粋でもある神道と天皇の事だった。いや、ここでは、乱暴に言葉を使って、右翼と言ってみる。伊勢市にはいり、模造花をたくさんつけて走り廻るバスやタレ幕のことごとくが神社に関する事ばかりだったのを見て、私は突飛な発想かも知れぬが、この日本の小説家のすべての根は、右翼の感情にもとづいていると思ったのだった。現実政治や団体としての『右翼』ではなく、そのまま何の手も加えないなら文化の統(すめ)らぎであるという天皇に収斂(しゅうれん)されてしまう感性の事である。唯心とでも言い直そうか。車で走り廻り、市役所横の喫茶店に入って、その右翼(唯心)を考えた。三島由紀夫と言えばわかり易すぎる。武田泰淳、生きている敬愛する作家を思いつくと、深沢七郎。『風流夢潭』を書く深沢氏に一種幻視としての右翼を見るというのは、私が偏向しすぎているかもしれないが、たとえばここで検証するいとまもなしに言うと、屁(へ)のように生まれ屁のように死ぬ人物らは、この天皇というものがある故に『屁のように』という形容が成り立つのではないだろうか。そしていまひとつ、ここに、差別、被差別という回路をつないでみる。あるいは被差別は差別者を差別する、というテーゼをつなげてみる。ということは私が言う右翼の感性は、日本的自然の粋である天皇こそが差別者であり同時に被差別者だということを知った者の言葉の働きである。いやここでは、私は自分を右翼的感性の持ち主である、と思ったと言えば済む事かもしれない。私と三島由紀夫との違いは、言葉にして『天皇』と言わぬことである。あるいは深沢七郎との違いは、『風流夢潭』を書かぬことである。『天皇』と一言言えば、この詞(ことのは)の国の小説家である私の矛盾の一切もまた消えるはずである。私の使う言葉は出所来歴が定かになる」(中上健次「紀州~木の国・根の国物語・伊勢・P.187~188」角川文庫 一九八〇年)

 

とすれば「LGBT理解増進法」の可決成立に関し、おそらく今後、日本史上前代未聞の歴史的意義を加速的に帯び始めていくだろうことを念頭におけば、日本はいったい何をやってしまったのか、どんなことを決定してしまったのか、じっくり考えてみるのがいいとおもう。

 

世論誘導したのは日本のマス-コミ。しかもマス-コミは読者・視聴者に向けて何か一つでも考えさせる余地を与えただろうか。むしろ逆にほとんど奪い取ったまま、ただ成り行きばかりを一方的に報じて与える全体主義的態度をしゃあしゃあと演じて済ませたというほかない。あるいは、いずれ近いうちに、もはや取り返しのつかない事態になることを承知の上で、日本のマス-コミは日本の実情を<見ない><見せない>ことに集中していくことに決めたと言いたいのだろうか。日本の第二のソ連化は日増しに高まってきているように見える。