白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ26

2023年06月10日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年六月十日(土)。

 

朝食(午前八時三十分)。朝の風邪薬投与。1ミリリットルのミルクで溶かしてシリンジで口から与える。その後、ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)5グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)三十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)三十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

昼食(午後一時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)5グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)三十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)三十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

遊びの時間。

 

玩具を使ってぐるぐる走らせていたら勢いよくトイレに飛び込む。飼い主の目を見て「きゃあ、きゃあ」と鳴き声を上げる。何が言いたいのかわからないので飼い主もタマの目を覗き込む。その瞬間、急にかしこまった姿勢になり固まったかと思うと大便を出した。どうして「きゃあ」なのだろう。

 

トイレの始末をしていると勝手に走り出すが、今度はなるほどフットワークが軽そうだ。ここ三、四日の様子を見ているとほとんどきまって夕方頃から夜更けにかけて元気が出てくるらしい。

 

夕食(午後七時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)5グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)三十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)三十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

昼寝の場所は気分次第で毎日のようにころころ変わる。けれども夜になって精一杯遊んだあとは自分でバスケットの中へ入って寝る習慣が付いてきたように思う。

 

体重測定。970グラム。昨日より10グラム増。

 

なぜかお米をカップで軽量している気分がしなくもない。

 

For the moon never beams without bringing me dreams

Of the beautiful Annabel Lee,

And the stars never rise but I see the bright eyes

Of the beautiful Annabel Lee,

And so,all the night-tide,I lie down by the side

Of my darling,my darling,my life and my bride

In the sepulchre there by the sea―

In her tomb by the side of the sea.

 

「なぜならば月の光はかならず私にもたらしてくれる、

かの美しいアナベル・リイの夢を。

そして満天の星ののぼる時、私はかならず見る、

かの美しいアナベル・リイのきらめく眼を。

このように、夜もすがら、私は憩う、その傍らに、

わが愛するーーーあが愛するーーーわが命、わが花嫁の、

海のほとりの彼女の墓に、

鳴りひびく海のほとりの、その墓に」(ポオ「アナベル・リイ」『詩と詩論・P.198』創元推理文庫 一九七九年)  


Blog21・<全嫉妬状態>から<半嫉妬状態>へ

2023年06月10日 | 日記・エッセイ・コラム

エメの報告の言葉に衝撃を受けた<私>はしばらくのあいだ嫉妬の苦痛にのたうちまわる。アルベルチーヌが発した同性愛行為中の言葉(「あなた、すごくいいわ」)は<私>を深刻な苦痛に陥らせる。しかしその言葉は次にエルスチールの絵画を呼び寄せることに貢献する。その箇所でプルーストが延々語ってみせるのはほぼ間違いなく、ルノワールによるあまりにも有名な絵画「大水浴図」をゴモラ(レズビアン)の楽園と見なしつつ、<私>の嫉妬の念を織り交ぜたイメージで埋め尽くされた世界である。

 

しかしそんな時間ばかりが永遠に続くわけもない。人間は唯一絶対的な同一のイメージにばかり縛り付けていられるほど単純でない。そもそも唯一絶対的なものが跡形もなく崩壊した<神は死んだ>世界を生きているという十分な自覚を持ったプルーストゆえに、ある一つのイメージの到来は瞬時に無数のイメージの密集と拡散へ転化しないではいられないと、嫌というほどよく知っていたに違いない。

 

嫉妬の時間に引き続いて、嫉妬しつつも、<全嫉妬状態>から<半嫉妬状態>への<切断>がやってくる。アルベルチーヌのイメージはほどなく、いつものようにばらばらな「分割」のうちに、逆に<私>を底なしの嫉妬から救済へ導く諸々の断片的イメージとして再出現する。

 

「そんな洗濯屋の娘のイメージはしばらくつづいたが、それに対抗して私を救いに来てくれたのは、そのイメージ自体であった。なぜならわれわれがほんとうに知ったといえるのは、新たなもの、われわれの感受性のなかにいきなりはっとする転調をもたらすもの、習慣が冴えない複写にいまだ置き換えていないものに限られるからである。だがとりわけ救いとなったのは、アルベルチーヌが多くの部分、数多くのアルベルチーヌに分割されていたことで、それが私の心中におけるアルベルチーヌの唯一の存在様式だった」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.251」岩波文庫 二〇一七年)

 

アルベルチーヌは最初から<未知の女>として出現していた。統一されたことなど一度もない。

 

「さまざまなアルベルチーヌのひとりひとりが異なるのは、ダンサーが舞台に登場するたびに、投光器の光が無数に変化し、そのせいでダンサーの色彩も形も性格も変わるのに似ている。この時期に私がアルベルチーヌのうちに眺めた存在はあまりにも多様であり、のちのちの私も、どのアルベルチーヌを想いうかべるかによって自分がべつの人間となる習慣を身につけたのかもしれない。私は、場合によって嫉妬深い男、つれない男、官能にふける男、憂鬱な男、怒り狂う男になったが、これらはよみがえる想い出のつれづれに再創造されただけではなく、たとえ同じひとつの想い出でも、その想い出を評価するときに介在する確信の度合いの違いによって再創造されたのである。つねに立ち返るべきはこのことであり、たいていの時間われわれの心を気づかないうちに満たしているこの確信であるが、この確信はわれわれの幸福にたいして、われわれが実際に見ている相手より重大な役割を果たすのだ。というのもわれわれが人を見るのもこの確信を通じてであり、見ている相手にそのときどきの重要性を与えるのもこの確信だからである。厳密に言うなら、のちにアルベルチーヌのことを考えたときのさまざまな私にも、ひとりずつべつの名称を与えるべきだろう」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.642」岩波文庫 二〇一二年)

 

だからといってアルベルチーヌがトランス(横断的)性愛者であることは事実として動かせない。むしろアルベルチーヌはこのようにいつも異なる無数のアルベルチーヌ、無数に分裂していくアルベルチーヌとしてしか存在しない。だからこそ、無数に分裂した諸々のイメージの中から<私>に都合のいいイメージのみを見い出し切り離して頭の中で半ば強引に前景化することで、<全嫉妬状態>から<半嫉妬状態>への<切断>は、かろうじて可能になったというべきだろう。

 

しかしこの<切断>は何を意味しているか。ニーチェが言えば<神は死んだ>。言い換えれば、世界の<不連続性>という事情について、プルーストはしつこく繰り返すのである。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて443

2023年06月10日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

午前五時、いつものように朝早い後期高齢者の朝食の支度を横で見ています。

 

漬物(なす)は塩分を抜くために表面の皮を削ぎ落とし、中身を水洗いしながら揉み込んでさらに塩分を抜き、ラップの上に乗せてティッシュで水分をよく吸い取ってから皿に盛る。

 

ご飯の横に豆腐を置いて頂きます。豆腐は器に京豆苑「絹豆腐」を適度に崩して盛り、市販の白だしをかけてレンジで少し温めたもの。

 

だから毎朝おかずは二品。味もかなりあっさりめですが残さず食べられています。

 

ここまでは昨日と同じです。明日も同じならそれでいいのだろうと思っています。

 

さて、おかげさまで昨日午後の食事から多少なりとも元気が回復してきたかのように見えます。

 

昨日の夕食もおいしく食べることができると言っていました。そして今朝も。

 

理由は簡単です。母は昨日の午前中、かかりつけ医を訪れており、胃薬の内容が変更になったと言うのです。聞いてみるとこれまでの胃粘膜保護薬に加え制酸剤が入っていました。

 

それはそうだろうと思いました。制酸剤を投与して食欲が回復しない患者というのはほとんどいないからです。ところが母は制酸剤投与による劇的な食欲改善効果を自然治癒力が戻ってきたと勘違いしているようなところがあるのです。

 

いちおう説明しました。食べることに対する抵抗感が消失したことは確かなので、そこはいったん安心してもいいだろうと思いはするわけです。しかしまた、制酸剤は目に見えて効果的なぶん、耐性が付くのが大変早い薬剤でもあります。一ヶ月も経たないうちに効果は逆に激減してくるため、その前に元に戻れば何も問題はありません。けれども後期高齢者の体力という点でいえば、今後、自然治癒力に過度な期待は望めません。

 

それとは別に、以前と比べて顔の色が黄色く変わっているようです。ただ単なる黄疸なら同時に目も黄色くなるので肝臓かも知れないと疑ってみることができるわけですが、目の色は変わっておらず、しかし顔の色は確かに黄色く変色しています。消化器系に問題があるというより、消化器系以外の内臓の異変が胃痛や食欲不振になって表面化していると考えることもできます。

 

制酸剤投与期間中のどこかで行われる検査(胃カメラなど)で、なるべく早いうちに要因の一つでもつきとめられればいいのですがーーー。

 

参考になれば幸いです。