「喪の作業」が上手くいった試しは一度もない。<私>が演じているのはその困難性自体である。もっとも、最良の「喪の作業」が仮にあるとして、ではそれはどんな行程を押し進めるものなのか、誰一人知らないという越えられない壁があるのは確かだ。そしてその壁に阻止され、結局、他の人々も経験する「喪の作業」との単純比較によってしか一言も述べることができないという凡庸で一般的で均質化されつつ<加工=変造>された「喪の作業」の<鋳型>へ、自分自身の経験をもあっけなく嵌め込んでしまう勘違いを受け入れて自分で自分自身を慰めるというが常だ。
他の人々が様々な形で演じる「喪の作業」と自分にのみ固有の「喪の作業」とを混同できることは一つの才能というべきだろうか。そんなことはよくあるということと、そんなことはまるでないということと、その両者をともに演じることが可能なのが人間という動物の不思議な点だとプルーストは教えている。
<私>はアルベルチーヌの<有罪性>について今なおこだわっている。モレルもゲルマント大公もトランス(横断的)両性愛者であるにもかかわらずアルベルチーヌにばかり<有罪性>をラベリングするばかりか何度繰り返しラベリングしてもなおし足りないというのは<私>のアルベルチーヌに対する<愛=所有欲>がどれほど強烈かを知らしめる露骨なイデオロギーの発露である。一方、「喪の作業」はまったく進捗しないかといえばそうでもない。「ところがアルベルチーヌの欲望に想いを馳せても耐えられる今では、想いうかべるアルベルチーヌの欲望も私の欲望がただちに目醒めさせたものだから、このふたつの広大な欲望はいわば合体し、私はアルベルチーヌとふたりしてこの欲望に身をゆだねたいものだと思」う。
「もちろん私の心に部分的に再生しはじめたのは、私のアルベルチーヌへの愛が充たすことのできなかった広大な欲望だった。それは昔バルベックの街道やパリの街路でいだいた人生を知りたいという広大な欲望にほかならず、それと同じ欲望がアルベルチーヌの心にも存在すると想定した私は、アルベルチーヌが私以外の者とその欲望を充たす手段を残らず奪おうとしてずいぶん苦しんだものだ。ところがアルベルチーヌの欲望に想いを馳せても耐えられる今では、想いうかべるアルベルチーヌの欲望も私の欲望がただちに目醒めさせたものだから、このふたつの広大な欲望はいわば合体し、私はアルベルチーヌとふたりしてこの欲望に身をゆだねたいものだと思い、『あの娘ならアルベルチーヌの気に入るだろう』とひとりつぶやいた」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.299~300」岩波文庫 二〇一七年)
<私>の欲望はアルベルチーヌの欲望と接続可能になってくる。<私>はただ単に一方通行な異性愛者でしかなく逆にアルベルチーヌはトランス(横断的)性愛者として広大無辺な<未知の世界>を知っている存在なのだが、唯一、<欲望する>という点で<私>はアルベルチーヌの<欲望>と共犯関係を作ることができる。<欲望>はある価値体系と別の価値体系を不意に接続させる。<私>の欲望とアルベルチーヌの<欲望>という「ふたつの広大な欲望」の「合体」。それはいつでも可能だ。そして実際、<私>はこれまで性愛を感じたことのある無数の女性を脳裏に出現させつつ、「あの娘ならアルベルチーヌの気に入るだろう」と思うのである。
(1)メゼグリーズやゲルマントで抱いた<欲望>。(2)パリで抱いた<欲望>。
(1)「ひとり、またひとりと、歩いたり自転車に乗ったり荷馬車や馬車に乗っかったりして坂道をのぼってくる娘とすれちがうーーーこれまた晴天の日に咲いた花というべきだが、野の花々とは違ってめいめいがほかの花にはないものを秘めているため、そのひとりがわれわれのうちに目覚めさせた欲望をほかの類似の者によって満足させることはできないーーー、農家の娘が牝牛を追ったり荷車のうえに半分寝そべっていたりするかと思えば、商店の娘が散歩していたり、エレガントな令嬢が幌付四輪馬車(ランドー)の腰掛けに両親と向きあって座っていたりする。私がひとり淋しくメゼグリーズのほうを散歩しながら、通りがかりの農家の娘を両腕に抱きしめたいと願った夢は、私の外部のなにものにも対応しない幻想ではなく、村娘であろうと令嬢であろうと出会うすべての娘がかなえてくれる夢と似たり寄ったりのものだとブロックが教えてくれた日、たしかに私には新たな時代が拓かれ、人生の価値は一変した」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.166~167」岩波文庫 二〇一二年)
(2)「雨が降ったあと、ようやく晴れ間が出て、すぐさま下に降りてすこし歩いたときなど、いまだに濡れる鋪石(ほせき)にいきなり光が射して黄金(こがね)色に照り映える歩道の、太陽によってブロンド色に染めあげられた靄(もや)のきらめく四つ辻という最高の舞台に登場するのは、家庭教師の女をしたがえが寄宿舎の女生徒とか、白い袖の牛乳売りの娘とかで、私はその場に釘づけになって動けず、早くも未知の暮らしに向けて飛び出さんとするわが胸を手で抑える仕儀となる」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.1131岩波文庫 二〇一三年)
<私>は(1)も(2)も再登場させ、<私>の欲望とアルベルチーヌの<欲望>という「ふたつの広大な欲望」の「合体」のうちに(1)も(2)もつつみこんで、<欲望>の広大さについてさらに学ぶのである。この学びの場を与えているのはいうまでもなくプルーストなのだが。