白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ35

2023年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年六月十九日(月)。

 

遅めの朝食(午前八時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)5グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)三十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)三十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

遅めの昼食(午後四時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)5グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)三十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)三十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

遅めの夕食(午後八時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)5グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)三十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)三十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

カリカリを残すことはほぼなくなってきた。今度は流動食を減らしながらカリカリ摂取量を増やす方向へ徐々に移していかないといけない。スムーズに運べばいいのだが。

 

遊ぶ元気は旺盛で好奇心のおもむくがままというようなところもある。なるべくスレトスのかからない環境に置いてやるのが望ましいだろう。

 

The happiest day―the happiest hour

Mine eyes still see―have ever seen,

The brightest glance of pride and power,

I feel have been.

 

「もっとも幸せな日、もっとも幸せな時とも

見えるはずの その時を 私はすでにこの眼で見てしまった。

誇りと力との もっとも輝かしいひらめき

そうだ それももはや 過去のことだ」 (ポオ「もっとも幸せな日、もっとも幸せな時に」『詩と詩論・P.43』創元推理文庫 一九七九年)


Blog21・<私>の欲望とアルベルチーヌの<欲望>という「ふたつの広大な欲望」の「合体」

2023年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム

「喪の作業」が上手くいった試しは一度もない。<私>が演じているのはその困難性自体である。もっとも、最良の「喪の作業」が仮にあるとして、ではそれはどんな行程を押し進めるものなのか、誰一人知らないという越えられない壁があるのは確かだ。そしてその壁に阻止され、結局、他の人々も経験する「喪の作業」との単純比較によってしか一言も述べることができないという凡庸で一般的で均質化されつつ<加工=変造>された「喪の作業」の<鋳型>へ、自分自身の経験をもあっけなく嵌め込んでしまう勘違いを受け入れて自分で自分自身を慰めるというが常だ。

 

他の人々が様々な形で演じる「喪の作業」と自分にのみ固有の「喪の作業」とを混同できることは一つの才能というべきだろうか。そんなことはよくあるということと、そんなことはまるでないということと、その両者をともに演じることが可能なのが人間という動物の不思議な点だとプルーストは教えている。

 

<私>はアルベルチーヌの<有罪性>について今なおこだわっている。モレルもゲルマント大公もトランス(横断的)両性愛者であるにもかかわらずアルベルチーヌにばかり<有罪性>をラベリングするばかりか何度繰り返しラベリングしてもなおし足りないというのは<私>のアルベルチーヌに対する<愛=所有欲>がどれほど強烈かを知らしめる露骨なイデオロギーの発露である。一方、「喪の作業」はまったく進捗しないかといえばそうでもない。「ところがアルベルチーヌの欲望に想いを馳せても耐えられる今では、想いうかべるアルベルチーヌの欲望も私の欲望がただちに目醒めさせたものだから、このふたつの広大な欲望はいわば合体し、私はアルベルチーヌとふたりしてこの欲望に身をゆだねたいものだと思」う。

 

「もちろん私の心に部分的に再生しはじめたのは、私のアルベルチーヌへの愛が充たすことのできなかった広大な欲望だった。それは昔バルベックの街道やパリの街路でいだいた人生を知りたいという広大な欲望にほかならず、それと同じ欲望がアルベルチーヌの心にも存在すると想定した私は、アルベルチーヌが私以外の者とその欲望を充たす手段を残らず奪おうとしてずいぶん苦しんだものだ。ところがアルベルチーヌの欲望に想いを馳せても耐えられる今では、想いうかべるアルベルチーヌの欲望も私の欲望がただちに目醒めさせたものだから、このふたつの広大な欲望はいわば合体し、私はアルベルチーヌとふたりしてこの欲望に身をゆだねたいものだと思い、『あの娘ならアルベルチーヌの気に入るだろう』とひとりつぶやいた」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.299~300」岩波文庫 二〇一七年)

 

<私>の欲望はアルベルチーヌの欲望と接続可能になってくる。<私>はただ単に一方通行な異性愛者でしかなく逆にアルベルチーヌはトランス(横断的)性愛者として広大無辺な<未知の世界>を知っている存在なのだが、唯一、<欲望する>という点で<私>はアルベルチーヌの<欲望>と共犯関係を作ることができる。<欲望>はある価値体系と別の価値体系を不意に接続させる。<私>の欲望とアルベルチーヌの<欲望>という「ふたつの広大な欲望」の「合体」。それはいつでも可能だ。そして実際、<私>はこれまで性愛を感じたことのある無数の女性を脳裏に出現させつつ、「あの娘ならアルベルチーヌの気に入るだろう」と思うのである。

 

(1)メゼグリーズやゲルマントで抱いた<欲望>。(2)パリで抱いた<欲望>。

 

(1)「ひとり、またひとりと、歩いたり自転車に乗ったり荷馬車や馬車に乗っかったりして坂道をのぼってくる娘とすれちがうーーーこれまた晴天の日に咲いた花というべきだが、野の花々とは違ってめいめいがほかの花にはないものを秘めているため、そのひとりがわれわれのうちに目覚めさせた欲望をほかの類似の者によって満足させることはできないーーー、農家の娘が牝牛を追ったり荷車のうえに半分寝そべっていたりするかと思えば、商店の娘が散歩していたり、エレガントな令嬢が幌付四輪馬車(ランドー)の腰掛けに両親と向きあって座っていたりする。私がひとり淋しくメゼグリーズのほうを散歩しながら、通りがかりの農家の娘を両腕に抱きしめたいと願った夢は、私の外部のなにものにも対応しない幻想ではなく、村娘であろうと令嬢であろうと出会うすべての娘がかなえてくれる夢と似たり寄ったりのものだとブロックが教えてくれた日、たしかに私には新たな時代が拓かれ、人生の価値は一変した」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.166~167」岩波文庫 二〇一二年)

 

(2)「雨が降ったあと、ようやく晴れ間が出て、すぐさま下に降りてすこし歩いたときなど、いまだに濡れる鋪石(ほせき)にいきなり光が射して黄金(こがね)色に照り映える歩道の、太陽によってブロンド色に染めあげられた靄(もや)のきらめく四つ辻という最高の舞台に登場するのは、家庭教師の女をしたがえが寄宿舎の女生徒とか、白い袖の牛乳売りの娘とかで、私はその場に釘づけになって動けず、早くも未知の暮らしに向けて飛び出さんとするわが胸を手で抑える仕儀となる」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.1131岩波文庫 二〇一三年)

 

<私>は(1)も(2)も再登場させ、<私>の欲望とアルベルチーヌの<欲望>という「ふたつの広大な欲望」の「合体」のうちに(1)も(2)もつつみこんで、<欲望>の広大さについてさらに学ぶのである。この学びの場を与えているのはいうまでもなくプルーストなのだが。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて454

2023年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

昨日のように午前五時のキッチンに母はいません。すでに書いた通り六月十四日午後、大津日赤に緊急入院しました。

 

したがって朝のリハビリはまた姿を変えます。当面のあいだ本を開いて、いつ飛び込んでくるかわからない母からか病院からの連絡を待ちつつ、さらに妻の病状に目を配りつつ(特に睡眠が十分に取れているか)、二代目タマの世話をして時間を過ごすことになります。

 

ここまでは昨日とほぼ同じです。

 

十八日(日)のコロナワクチン接種後、日付が変わる〇時頃から今日の午前三時にかけて妻が38度7分の発熱。バファリン服用。午前八時には解熱。

 

母から電話。病状だが昨日やや発熱あり。抗生物質投与で解熱した模様。胆管で滞留している胆汁を流し出す手術は予定通り今日行うとのこと。

 

妻の予後のこともあり面会は当初予定していた今日の午後はキャンセル。明日の午後へ移動したい旨、病院へ連絡。母の話では、持ってきてほしい物品が幾つか変更になったらしい。その準備もありふだんより忙しい朝になった。

 

参考になれば幸いです。