アルベルチーヌが愛した同性愛者たちは上流社交界ばかりでなく、これまでアルベルチーヌが暮らしたことのある地帯全域に存在するに違いないという<私>の思考の進行方向はまったく正しい。アルベルチーヌの死の衝撃は時間を追うごとに<私>にもっと思考を押し進めるよう働きかける。
エメが<私>に届けた手紙にあった「あなた、すごくいいわ」という言葉。シャワー設備の中でアルベルチーヌが洗濯屋の娘に向けて漏らした言葉である。<私>は洗濯屋の娘たちが住んでいる界隈がかつてアルベルチーヌが暮らしていた界隈と同一であることから、その界隈に住んでいる女性たちと性愛を堪能すればアルベルチーヌが知っていて<私>が知らない快楽の構成要素に部分的にでも触れることができるのではと考える。そこで「私はひとりの女工を抱いたとき、束の間とはいえ、アルベルチーヌの暮らしをはじめ、作業場の雰囲気やカウンターでの会話、さらにはみすぼらしい住まいの精髄にまで親しく触れる想いがした」。
ほんのわずかなひとときに過ぎないとはいえ、「ひとりの女工=アルベルチーヌ」という等価性が成立している。<私>はこの事情について「つぎつぎと取り替えられてしだいに色褪せてゆく快楽の代用」でしかないと否定的な身振りを演じつつ、にもかかわらず「そのおかげでわれわれは、バルベックへの旅やアルベルチーヌへの愛など、もはや実現できない快楽がなくても痛痒を感じない」ようにできていると、無限に延長可能な<快楽の代用可能性>を認めている。たとえば「ヴェエツィアへ行けないことの慰めに、往時はヴェネツィアにあったティツィアーノの画をルーヴル美術館へ見に行くという快楽などのように」と。
「かつて私は、パリで私に会いに来たアルベルチーヌを腕に抱きしめたとき、あらためてバルベックを所有したような錯覚をいだいた。それと同じく私はひとりの女工を抱いたとき、束の間とはいえ、アルベルチーヌの暮らしをはじめ、作業場の雰囲気やカウンターでの会話、さらにはみすぼらしい住まいの精髄にまで親しく触れる想いがした。アンドレといい、こうしたほかの女たちといい、すべてはアルベルチーヌと比べるとーーーバルベックと比べるとアルベルチーヌ自身がそうであったようにーーーつぎつぎと取り替えられてしだいに色褪せてゆく快楽の代用であり、そのおかげでわれわれは、バルベックへの旅やアルベルチーヌへの愛など、もはや実現できない快楽がなくても痛痒を感じないのだ。こうしたさまさまな代用の快楽は(ヴェエツィアへ行けないことの慰めに、往時はヴェネツィアにあったティツィアーノの画をルーヴル美術館へ見に行くという快楽などのように)、見わけがつかないほどの微妙な違いによってたがいに隔てられているが、われわれの人生を、その基調をなす根源的欲望に隣接しつつ同心円状に広がり調和を保ちながらしだいに色褪せてゆく一連の地帯たらしめていて、根源的欲望がそれと溶け合わぬものを排除し、支配的な色合いだけを広げているのだった(これはたとえばゲルマント公爵夫人やジルベルトを相手にした私に生じたことでもある)。アンドレやさきに挙げたほかの女たちは、アルベルチーヌを自分のそばに置きたいというもはや充たすことのできない欲望にとって、私がまだアルベルチーヌとは顔見知りにすぎずそのアルベルチーヌをそばに置きたいという欲望はけっして叶えられないものだと想いこんでいたある夕方、日の光を浴びてくねるみずみずしいブドウのひと房がそうであったものに相当する」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.297~299」岩波文庫 二〇一七年)
後半部分で「日の光を浴びてくねるみずみずしいブドウのひと房」とあるのは何のことだろう。アルベルチーヌを含むアンドレやロズモンドやジゼルたち「一団の少女」である。<私>の欲望はいっときアルベルチーヌへ固着した。今度は逆にアルベルチーヌからアンドレやロズモンドやジゼルへ次々と広がる欲望対象の置き換え可能性を示す。
「娘たちのあいだに寝そべっていると、私の覚える充実感が、ことばの貧しく乏しいのをものともせずに立ちまさり、じっと動かず押し黙っている私から幸福の波となってあふれ出し、この若々しいバラの花たちの足元にひたひたと押し寄せては消えてゆく。快復期の病人が終日(ひねもす)花園や果樹園で休んでいると、無為安楽を織りなす無数の些事にまで花や果実の匂いが浸みとおるように、私のまなざしが娘たちに探し求める甘く心地よい色彩や芳香はいつしか私のなかに溶けこんでしまう。そんなふうにブドウの実は陽光をあびて甘くなるのだ」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.571~572」岩波文庫 二〇一二年)
さらに今ではその中にゲルマント公爵夫人やジルベルトも入っている。もっと大量に詰め込まれていることが次第に明かされるが、そもそもプルーストはもっと身近なところへ気を配ってもいる。
「私はひとりの女工を抱いたとき、束の間とはいえ、アルベルチーヌの暮らしをはじめ、作業場の雰囲気やカウンターでの会話、さらにはみすぼらしい住まいの精髄にまで親しく触れる想いがした」。
<私>が「ひとりの女工を抱いたとき」、<私>の欲望の広がる射程は何も「女工の身体」だけに留まるものではまるでないという事情である。「女工」のいる「作業場の雰囲気、カウンターでの会話、みすぼらしい住まいの精髄」へも一気に浸透して愛するばかりか、愛することと所有することとをごちゃ混ぜにしてしまう。
性愛の形はアルベルチーヌやモレルやゲルマント大公のようなトランス(横断的)性愛ばかりが特別なのでは決してない。もっと広大だ。プルーストが「ブドウのひと房」という言葉へ変換しているように、その中にはありとあらゆるフェティシズムも当然含まれていると言わねばならない。
「女工」の場合は「作業場の雰囲気、カウンターでの会話、みすぼらしい住まいの精髄」と、プルーストにしてはつつましい書き方をしているけれども、フェティシズムという性的志向を指していることがわかればアルベルチーヌやモレルやゲルマント大公のようなトランス(横断的)性愛という形態はかえって<つつまし過ぎる>ほどに思えるだろう。ラカンはいう。
「私が主体の分割あるいは疎外の機能と呼んでいるものをもっとも確かな形で打ち立ててくれるのは、欲動の再認です。では欲動は、どのようにして再認されたのでしょうか。それはこういうことからです。すなわち、主体の無意識において生起している弁証法は、何も快感の領野に、つまりめでたく、やさしく、好ましいイメージに準拠しているとはかぎらないということからです。それどころか、結局は何の役にも立たないようなものが立派に対象になっているということが見出されたではありませんか。これらの対象は対象『a』、つまり乳房、糞、眼差し、そして声です」(ラカン「精神分析の四基本概念・18・P.327」岩波書店 二〇〇〇年)
これらの性的対象にしても、代表的なものとして差し当たり列挙されているに過ぎず、個々人レベルでいえばもっと別の、そしてもっと多くのフェティシズムの対象を見出すことはさして困難でもなんでもない。とりわけ「声」に興奮するという男性は世界中にうようよいるわけだが、それはもう性愛の相手の<身体を越え出て>、何か「音あるいは音声」といった物質的振動に対するトランス(横断的)性愛を抑えることができないという信仰告白にも似ている。