白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ34

2023年06月18日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年六月十八日(日)。

 

遅めの朝食(午前八時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)5グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)三十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)三十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

遅めの昼食(午前二時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)5グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)三十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)三十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

時間的に昼寝はたっぷりできているはず。もっとも、見た目だけでは寝ているのかそれとも弱っているのかわかりづらいので、起こさないようにそろそろと近づいて確かめるわけだが。

 

夕食(午後七時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)5グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)三十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)三十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

順調なら体は大きくなる。それに加えて三日前くらいから尻尾も伸びはじめたのがだんだん目にとまるようになってきた。保護されたばかりの時は絵に描いた記号のような尻尾だったが、長くなるにつれて猫独特のしなやかさが出てきたようだ。

 

And,pride,what have I now with thee?

Another brow may even inherit 

The venom thou hast pour’d on me―

Be still,my spirit.

 

「そして誇りよ、今はお前と何のかかわりがある?

お前が私にそそぎ込んだあの毒は、

また別な額ひいでた若者が引きうけてくれもしようーーー

おちつくがいい、わが魂よ」 (ポオ「もっとも幸せな日、もっとも幸せな時に」『詩と詩論・P.42』創元推理文庫 一九七九年)


Blog21・身体的カテゴリーを遥かに超えるフェティシズムのトランス(横断的)性

2023年06月18日 | 日記・エッセイ・コラム

アルベルチーヌが愛した同性愛者たちは上流社交界ばかりでなく、これまでアルベルチーヌが暮らしたことのある地帯全域に存在するに違いないという<私>の思考の進行方向はまったく正しい。アルベルチーヌの死の衝撃は時間を追うごとに<私>にもっと思考を押し進めるよう働きかける。

 

エメが<私>に届けた手紙にあった「あなた、すごくいいわ」という言葉。シャワー設備の中でアルベルチーヌが洗濯屋の娘に向けて漏らした言葉である。<私>は洗濯屋の娘たちが住んでいる界隈がかつてアルベルチーヌが暮らしていた界隈と同一であることから、その界隈に住んでいる女性たちと性愛を堪能すればアルベルチーヌが知っていて<私>が知らない快楽の構成要素に部分的にでも触れることができるのではと考える。そこで「私はひとりの女工を抱いたとき、束の間とはいえ、アルベルチーヌの暮らしをはじめ、作業場の雰囲気やカウンターでの会話、さらにはみすぼらしい住まいの精髄にまで親しく触れる想いがした」。

 

ほんのわずかなひとときに過ぎないとはいえ、「ひとりの女工=アルベルチーヌ」という等価性が成立している。<私>はこの事情について「つぎつぎと取り替えられてしだいに色褪せてゆく快楽の代用」でしかないと否定的な身振りを演じつつ、にもかかわらず「そのおかげでわれわれは、バルベックへの旅やアルベルチーヌへの愛など、もはや実現できない快楽がなくても痛痒を感じない」ようにできていると、無限に延長可能な<快楽の代用可能性>を認めている。たとえば「ヴェエツィアへ行けないことの慰めに、往時はヴェネツィアにあったティツィアーノの画をルーヴル美術館へ見に行くという快楽などのように」と。

 

「かつて私は、パリで私に会いに来たアルベルチーヌを腕に抱きしめたとき、あらためてバルベックを所有したような錯覚をいだいた。それと同じく私はひとりの女工を抱いたとき、束の間とはいえ、アルベルチーヌの暮らしをはじめ、作業場の雰囲気やカウンターでの会話、さらにはみすぼらしい住まいの精髄にまで親しく触れる想いがした。アンドレといい、こうしたほかの女たちといい、すべてはアルベルチーヌと比べるとーーーバルベックと比べるとアルベルチーヌ自身がそうであったようにーーーつぎつぎと取り替えられてしだいに色褪せてゆく快楽の代用であり、そのおかげでわれわれは、バルベックへの旅やアルベルチーヌへの愛など、もはや実現できない快楽がなくても痛痒を感じないのだ。こうしたさまさまな代用の快楽は(ヴェエツィアへ行けないことの慰めに、往時はヴェネツィアにあったティツィアーノの画をルーヴル美術館へ見に行くという快楽などのように)、見わけがつかないほどの微妙な違いによってたがいに隔てられているが、われわれの人生を、その基調をなす根源的欲望に隣接しつつ同心円状に広がり調和を保ちながらしだいに色褪せてゆく一連の地帯たらしめていて、根源的欲望がそれと溶け合わぬものを排除し、支配的な色合いだけを広げているのだった(これはたとえばゲルマント公爵夫人やジルベルトを相手にした私に生じたことでもある)。アンドレやさきに挙げたほかの女たちは、アルベルチーヌを自分のそばに置きたいというもはや充たすことのできない欲望にとって、私がまだアルベルチーヌとは顔見知りにすぎずそのアルベルチーヌをそばに置きたいという欲望はけっして叶えられないものだと想いこんでいたある夕方、日の光を浴びてくねるみずみずしいブドウのひと房がそうであったものに相当する」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.297~299」岩波文庫 二〇一七年)

 

後半部分で「日の光を浴びてくねるみずみずしいブドウのひと房」とあるのは何のことだろう。アルベルチーヌを含むアンドレやロズモンドやジゼルたち「一団の少女」である。<私>の欲望はいっときアルベルチーヌへ固着した。今度は逆にアルベルチーヌからアンドレやロズモンドやジゼルへ次々と広がる欲望対象の置き換え可能性を示す。

 

「娘たちのあいだに寝そべっていると、私の覚える充実感が、ことばの貧しく乏しいのをものともせずに立ちまさり、じっと動かず押し黙っている私から幸福の波となってあふれ出し、この若々しいバラの花たちの足元にひたひたと押し寄せては消えてゆく。快復期の病人が終日(ひねもす)花園や果樹園で休んでいると、無為安楽を織りなす無数の些事にまで花や果実の匂いが浸みとおるように、私のまなざしが娘たちに探し求める甘く心地よい色彩や芳香はいつしか私のなかに溶けこんでしまう。そんなふうにブドウの実は陽光をあびて甘くなるのだ」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.571~572」岩波文庫 二〇一二年)

 

さらに今ではその中にゲルマント公爵夫人やジルベルトも入っている。もっと大量に詰め込まれていることが次第に明かされるが、そもそもプルーストはもっと身近なところへ気を配ってもいる。

 

「私はひとりの女工を抱いたとき、束の間とはいえ、アルベルチーヌの暮らしをはじめ、作業場の雰囲気やカウンターでの会話、さらにはみすぼらしい住まいの精髄にまで親しく触れる想いがした」。

 

<私>が「ひとりの女工を抱いたとき」、<私>の欲望の広がる射程は何も「女工の身体」だけに留まるものではまるでないという事情である。「女工」のいる「作業場の雰囲気、カウンターでの会話、みすぼらしい住まいの精髄」へも一気に浸透して愛するばかりか、愛することと所有することとをごちゃ混ぜにしてしまう。

 

性愛の形はアルベルチーヌやモレルやゲルマント大公のようなトランス(横断的)性愛ばかりが特別なのでは決してない。もっと広大だ。プルーストが「ブドウのひと房」という言葉へ変換しているように、その中にはありとあらゆるフェティシズムも当然含まれていると言わねばならない。

 

「女工」の場合は「作業場の雰囲気、カウンターでの会話、みすぼらしい住まいの精髄」と、プルーストにしてはつつましい書き方をしているけれども、フェティシズムという性的志向を指していることがわかればアルベルチーヌやモレルやゲルマント大公のようなトランス(横断的)性愛という形態はかえって<つつまし過ぎる>ほどに思えるだろう。ラカンはいう。

 

「私が主体の分割あるいは疎外の機能と呼んでいるものをもっとも確かな形で打ち立ててくれるのは、欲動の再認です。では欲動は、どのようにして再認されたのでしょうか。それはこういうことからです。すなわち、主体の無意識において生起している弁証法は、何も快感の領野に、つまりめでたく、やさしく、好ましいイメージに準拠しているとはかぎらないということからです。それどころか、結局は何の役にも立たないようなものが立派に対象になっているということが見出されたではありませんか。これらの対象は対象『a』、つまり乳房、糞、眼差し、そして声です」(ラカン「精神分析の四基本概念・18・P.327」岩波書店 二〇〇〇年)

 

これらの性的対象にしても、代表的なものとして差し当たり列挙されているに過ぎず、個々人レベルでいえばもっと別の、そしてもっと多くのフェティシズムの対象を見出すことはさして困難でもなんでもない。とりわけ「声」に興奮するという男性は世界中にうようよいるわけだが、それはもう性愛の相手の<身体を越え出て>、何か「音あるいは音声」といった物質的振動に対するトランス(横断的)性愛を抑えることができないという信仰告白にも似ている。


Blog21・謎めいた<音>としての快楽

2023年06月18日 | 日記・エッセイ・コラム

<私>にとってアルベルチーヌは<未知の女>である。知ろうとすればするほど、取り得る手段を用いれば用いるほど、得られる情報は確かに増えてくる。しかし情報は情報に過ぎないという同義反復ばかりがもたらされる。というのも<私>は<私>が本当に知りたいと思っている事柄について、アルベルチーヌだけが知っている<快楽>について、<私>は何一つ知ることができないからである。

 

ある時<私>はアルベルチーヌと同じ女性同性愛者だという点でアンドレの中にアルベルチーヌのみが知っているに違いない同性愛者の快楽を見た気がした。しかし知ることなど始めからできない。わかりきっている。しかし別のあり方なら知ることが可能なのではという気もした。

 

目で見て見抜くのではなく、「その快楽を聞いたような気がした」と、別の価値体系からのアプローチがあったことに気づいた。

 

そこで<私>は「アルベルチーヌがよく出かけていた界隈の洗濯屋の娘をふたり、とある売春宿へ来させたことがあった。そのひとりに愛撫されていたもうひとりが、突然なにやら声を立てはじめたが、私には最初それが何なのか聞きわけられなかった」。もっともなことに「その意味をけっして正確には把握できない」にせよ、しかし「音」だということははっきりしている。長いあいだ<私>が犯していた過ちの一つが露呈する。<私>は何事にしても知るということについて何か確かな「意味」の側から追求していたということだ。あらかじめ学んできた「意味」の側から追求しようとしている限り、もしこの箇所のように「音」だけが与えられた場合、それがどんな「快楽」なのか、けっして知ることはできない。

 

「アルベルチーヌの快楽をあれほど何度も想い描こうと腐心したあと、アンドレを見つめたとき、私は一瞬それを目の当たりにしたような気がしたが、べつのときにはその快楽の現存を目ではない手段で捉えたように思った。つまりその快楽を聞いたような気がしたのである。私はアルベルチーヌがよく出かけていた界隈の洗濯屋の娘をふたり、とある売春宿へ来させたことがあった。そのひとりに愛撫されていたもうひとりが、突然なにやら声を立てはじめたが、私には最初それが何なのか聞きわけられなかった。というのもわれわれは自分の感じていない感覚を表現する独特の音を聞いても、その意味をけっして正確には把握できないからだ」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.293」岩波文庫 二〇一七年)

 

決して知り得ない「音」の意味。しばらく時間が経つうち、<私>はそれの「音」がある種の「快楽と呼ぶものだと理解する」。そう教えたのはただ単なる「音」であってそれ以上のものではない。<私>は越えるに越えられない仕切りの存在を実感するとともに、その「音」について<私>自身の身体で知ることは永遠にできないと断念するしかない。

 

「こんどの娘の声にしても、それが表現しているものが、かなり違いはあってもやはり私自身の感じていたものとの類推から、私が快楽と呼ぶものだと理解するのに時間を必要としたのだ。この快楽は、それを感じている者をこれほどまでに取り乱させ、このような聞いたことのないことばを吐かせるのだから、よほど強烈なものにちがいない。この聞いたことのないことばは、小娘が体験している悦楽のドラマのすべての段階を示し説明しているように思われるが、下ろされた幕によって私の目には隠されていた。この幕は、ひとりひとりの人間の内面の神秘のなかでおきていることのうえに下ろされ、本人以外の者に永久の目隠しをするのだ」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.294」岩波文庫 二〇一七年)

 

だがしかし、それを別のものへ変換することはできる。例えば芸術作品への変換がそうだ。エルスチールやヴァントゥイユはそれをやって見せた人々だ。

 

しかしここで明確になっている事態は、<他者>としてのアルベルチーヌの快楽と<私>との間に存在する仕切りについて<私>は「この幕」と呼ぶことしかできないという事情である。「この幕は、ひとりひとりの人間の内面の神秘のなかでおきていることのうえに下ろされ、本人以外の者に永久の目隠しをする」。

 

<他者>にしかわからないものがある。<私>はそんな<他者>としてのアルベルチーヌの快楽の前で、嫉妬と苦痛とに耐えられず、とうとうアルベルチーヌを死地へ赴かせてしまうことになった。

 

ヴァレリーならこう言うだろう。

 

「このことを証明するためには、あらゆる領域においてわれわれが真に知ることが、もしくは知ると信じることができるのは、われわれ自身で《観察》しうるものか、もしくは《制作》しうるものにほかならず、作品を産む精神の観察と、その作品の或る価値を産む精神の観察とを、同一の意識状態、同一の注意のなかに集めることは不可能であることを注意するだけで十分であります。この二つの機能を同時に観察することのできる眼は存在しません。生産者と消費者は本質的に分離された二つの組織であります。作品は生産者にとっては《終結》であり、消費者にとっては、人の望みうる限り相互に無関係たりうるさまざまの発展の《始原》であります」(ヴァレリー「詩学序説」『世界の名著66・アラン/ヴァレリー・P.476~477』中公バックス 一九八〇年)

 

アルベルチーヌの知っている快楽は<生産者>が送り届けようとする快楽である。一方<私>は、<消費者>として<生産者>から与えられるものを読み解こうとして何らかの<始原>を開始することができる。両者の間の仕切りは活字と読者の間にある謎めいた空間のようなものだ。埋めようにも埋められない部分が必ず残る。

 

<私>にとってアルベルチーヌは永遠の<他者>であり続けると思い知らされるばかりなのだ。とはいえ、まったく何一つ収穫がなかったわけではない。目で<見る>ことだけが知ることを意味するわけではまるでない。耳で<聞く/聞こえる>ということも<しるし>の一つである。その<しるし>がどれほど底知れぬものであったとしても。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて453

2023年06月18日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

昨日のように午前五時のキッチンに母はいません。すでに書いた通り六月十四日午後、大津日赤に緊急入院しました。

 

したがって朝のリハビリはまた姿を変えます。当面のあいだ本を開いて、いつ飛び込んでくるかわからない母からか病院からの連絡を待ちつつ、さらに妻の病状に目を配りつつ(特に睡眠が十分に取れているか)、二代目タマの世話をして時間を過ごすことになります。

 

ここまでは昨日とほぼ同じです。

 

今日は自分のコロナワクチン接種の予定日です。準備をしなければ。

 

猫の世話も忘れずに。

 

帰宅したらしたでさらに色々と立て込んでいる日曜日になりそうです。

 

それはそうと、

 

これまでシップ薬で抑えていた背中と首筋の痛みが、

 

今年三月頃からさらに痛みを増してきました。

 

この変化は一体どこから来ているのか?

 

主治医と相談してみたのですが、

 

以前からの鬱症状の変化と打ち重なってもいて、

 

いまのところは何とも判断困難な面がありそうな雰囲気ではあります。

 

参考になれば幸いです。